第百六十一話 紅牙
振り下ろされた宝剣。
しかし不敵な笑顔を浮かべたマリンダが、ユリシアの眼前に振り下ろされた審判の剣を、右腕に装着したガントレットで受け止めていた。
膝を折り、バネのように全身をしならせた彼女は、審判の剣から放たれる膨大な力を跳ね返す。
「ふんっ!!」
「ぐぅっ!?」
一撃を止められたゴーシュが忌々し気な瞳を紅の髪に向けた。
居る筈の無い女。
最も相対したくない魔術師。
戦場でマリンダ=サザーランドと相対してはならない。
それはもはやミストリア貴族にとっての暗黙の不文律だ。
だが今。
その女がこの土壇場で立ち塞がった。
「貴様……何故……っ!」
ゴーシュは吠える。
この状況だけは作りたくなかった。
「何故生きているのか、か?」
小馬鹿にする様にマリンダは不敵な表情を更に歪めて見せる。
それは厚顔不遜を絵に描いたような微笑みであり、敵対する者の心を苛立たせる効果が在った。
「なんだ、知らなかったのか?」
そこで会心の酷薄な笑みを浮かべる。
「私は不死身なんだ」
馬鹿げた事を大真面目な顔で言うマリンダ。
一瞬誰もが呆気に取られたが、ユリシアだけは楽しそうに微笑んでいた。
親友の口上が心地よくてしょうがないのだ。
「しかし今回ばかりは死に掛けたぞ、流石にな」
「馬鹿、な……しくじったというのか……イゾルデが」
茫然とした様子で呟くゴーシュを尻目に肩を竦めるマリンダ。
「ほぉ、その口ぶり。やはり、あの黒尽くめの女をけし掛けたのもお前だな、ゴーシュ?」
「何故……どうやって、あの魔女の目を掻い潜った……?」
イゾルデという化け物の力は常軌を逸していた。
それこそ神獣の類にも匹敵するのではないか。
人ならざる力だ。
少なくともゴーシュはそう見積もっていた。
さしものマリンダ=サザーランドであっても、あの魔女には勝てまい、と。
そう思っていたのだ。
「ふん……まぁ私を殺すには詰めが甘かった、と。そういうことだな」
軽口の様に言うマリンダであったが、実際はそれほど楽な物では無かった。
メフィス帝国からミストリア王国へと帰る道中。
突然マリンダに接敵する影が眼前に飛び込んで来たのだ。
彼女ですら直前まで感じ取る事が出来ない程の洗練された隠密術。
それでいて襲いかかって来る魔力の多寡は、これまで出会って来たどんな敵よりも強大であった。
不意を突かれる形で戦闘が始まった訳だが、初手の一撃が戦闘の趨勢を決していたと言ってもいい。
マリンダとしては、屈辱的ではあったが、それほどに手強い相手だったのだ。
咄嗟に発動しようとしたゲートスキルは何故か上手く効果を及ぼす事が出来ず、襲い来る黒腕、魔女の背後から覗く、爬虫類を思わせるような不気味で巨大な瞳。
マリンダの全身を瞬く間に暗黒の魔力が包み込み、彼女はあっという間に拘束された。
全身に力を込め、全魔力を放出する事で、イゾルデの魔力を討ち払ったが、その直後――眼前に迫った『黒い巨人』がマリンダに対して山の如き巨大な腕を突き出していた。
回避は不可能だと悟った彼女は、可能な限りの防御姿勢を取って、致命打を避け、なんとか一命を取り留めたのだ。
とはいえ身に纏っていた装備は木端微塵に破砕され、マリンダも何故生きているのかが分からない程の瀕死の状況に陥った。
本能の為せる業か。
咄嗟にその場から地中へと退避したことで、幸運な事にイゾルデはマリンダを殺したと思いこんだ。
何故ならばイゾルデの放った一撃の後、その場には何一つとして残っている物は無かったから。
命の灯火が消えかかっていた、というのも大きい。
岩肌は崩れ去り、大地には巨大なクレーターが刻まれ、木々は吹き飛び、雲さえも消え去った。
イゾルデの一撃で戦闘場所となった谷には、今でも巨大な爪痕が刻まれている。
「何故、今頃になって出て来た?」
「敵を騙すには、まず味方から、という奴さ。すぐに姿を見せれば、お前の警戒網に引っ掛かる可能性があるが、私が死んでいると思い込ませていれば、ミストリア王国内で動き易くなる。実際にその通りになった。ユリシアに知らせたのもつい最近だ」
あくまでも余裕の態度で。
自信満々の雰囲気を携えたままマリンダは言った。
「こんな所で騎士団も連れずに孤独な玉座に座っている偽りの国王よ。お前の眼には私が映っていなかっただろう?」
「……ふ、くく」
「何が可笑しい?」
「いや、なに……状況は何も変わっていない、と思ってな」
「何だと?」
「結局は同じだ。この場でお前達二人を倒せば……私の道を塞ぐもの等何も無い」
肩を震わせながらゴーシュが言うと、マリンダは今日一番の会心の笑みを見せた。
それは「遂に一杯食わしてやったぞ」という思いが透けて見える笑みだ。
「先程まで交わされていた会話を……アゲハ中の人間が聞いているとしても、か?」
その言葉を聞いて。
「……なんだと?」
「もしや碌な勝算も無く、私とユリシアがお前の前に現れたとでも思ったか? 楽観が過ぎるぞ、ゴーシュ」
先程までの会話。
明確な証拠こそ示せなかったユリシアであったが、ゴーシュの目論見を人々が知るには十分すぎるだけの内容が含まれていた。
「まさか……っ!」
天井を見上げるゴーシュ。
マリンダが破壊したステンドグラスの向こう側から、更に二人の人間が忍び込んで来た。
それはゴーシュもよく知る顔だ。
「カナリア王女、そして……シズク……」
「シズクお姉様っ!!」
久しぶりの姉との邂逅にコノハの顔が一瞬輝いたが、すぐさまその表情は曇り始める。
何故ならば、この状況。
「そうさ。テオに協力を仰いだのさ。まさに音魔術に関しては天性の才能があるな、彼女は。テオの力を私が増幅し、この玉座の間での会話をアゲハの街中に届けていたのさ」
「しかしこの玉座の間には結界が……」
「あいにくだが、私は一人、天才結界魔術師を知っていてな。そいつに結界については色々と教えてもらっている。確かに強力であったが、掻い潜れぬ程では無かったぞ」
とはいえ先程の審判の剣の力の影響で、既に音魔術は消えてしまっている。
今現在の会話はアゲハには届いていない。
マリンダの言葉を聞き、取り乱したのはコノハだった。
「まさか……お姉様……お父様を裏切ったのですか!?」
弾劾するような視線を向けられてもシズクは――いや、テオ=セントールは寂しげに首を振るのみ。
「コノハ。お父様は間違っている」
「何を……っ! 馬鹿な、恩を仇で返すと言うのですか!!」
激昂するコノハであったが、ゴーシュの乾いた笑いが響き渡り、周囲の者を黙らせた。
「く、はははっ。なるほど、なるほど……私自身の口から刃毀れが生じるとは、な」
しかし肩を揺らして笑いつつも、彼は審判の剣の柄を離さなかった。
未だに剣は強大な力を放っており、常人では近付く事すら敵わない。
「だが、それでも……やはり結局は同じだ」
ゴーシュは再び繰り返す。
「そう、同じだ。ここでお前達二人を倒せば……私の望みは……少なくともその一端は叶う」
狂気に彩られた彼は、白熱する程の輝きを見せる剣を手にして、酷薄な笑みを浮かべた。
「私は傍若無人な暴君なのだろう? ならば……今こそ力を示そう」
審判の剣。
ミストリア王国最強の秘宝が今――真の力を解放する。
☆ ☆ ☆
どこからともなく突風が吹き荒れ、部屋中を埋め尽くす審判の剣の輝きが、人々の視界を奪った。
その余りにも強大な力と比較してしまえば、カナリアがラフテルの街で見かけたワイバーンなど取るに足らない存在であろう。
それほどまでに、その魔法具は凄まじい力を秘めていた。
「くくっ。この力で! 私は!!」
ゴーシュが一足飛びにマリンダに向かって切りかかる。
彼は貴族にしては足腰を鍛えていたが、それでも幾千もの修羅場を潜って来た戦士程では無い。
だが現在のゴーシュの踏み込みの速度、剣を振るう見事な体捌きは、歴戦の戦士以上の身のこなしであった。
審判の剣の齎す加護が、ゴーシュに常には無い力を与えている事は明白であった。
ミストリアの伝説の秘宝。
その力は絶大にして強力無比であり、王国最高の魔法具である。
しかし、それを――。
「くく……何を呆けた顔をしている、ゴーシュ?」
「な、なんだ、と……っ!?」
ガンッ!! という鈍い金属同士がぶつかり合う音が鳴り響き、審判の剣をマリンダがその手に装備したガントレットで見事に受け止めていた。
衝撃破が周囲に及び、二人以外の人間は立っている事もままならなくなったが、マリンダは踏ん張り、しっかりと剣を睨みつけている。
その顔には好戦的な色が浮かんでいた。
「はぁああああああああっっ!!」
裂帛の気合と共にマリンダの全身が一瞬にして紅の光に包まれた。
燃え上がる様な激しい炎にも似た絶大な力を持った魔力光が、室内に広がってゆく。
それは決してゴーシュの放つ審判の剣にも劣ってはいなかった。
彼女の両腕に装備されているガントレットが一層の輝きを放ちながら、紅に色づき、嵌め込まれた魔石が唸りを上げ、表面に魔法陣の紋様が浮かび上がってゆく。
そして。
「うらぁっ!!」
マリンダ=サザーランドは押し返して見せた。
王国最強の魔法具の一撃を。
「な、なん……っ!!」
最も驚愕しているのはゴーシュだ。
自分が現在手にしているのは、伝説の大賢者である建国の始祖カーマインが残した最強の魔法具の筈。
それをまさか……いくら強いとはいえ、一介の魔術師如きに破られるとは思っていなかった。
対するマリンダは挑む様な視線をゴーシュに向けており、一度たりとも視線を外さない。
その間も、彼女の手に装着されたガントレットは絶えず輝き、唸りを上げていた。
この場においては、ユリシアだけが知っている。
あのガントレットこそがマリンダ=サザーランドの切り札。
魔法具の銘は――『暁』
彼女の力を十全に引き出し、極限までの一点火力を突き詰めた、彼女の為だけの魔法具。
「何故決めつけていた?」
そして『暁』は――マリンダの最強の奥義の威力を最大にまで高めるための武装だ。
「大賢者カーマインとて。所詮は私と同じ人間だろう? ならば――」
かつて建国以来、ミストリアの民で、このような不遜な言葉を吐いたものはマリンダをおいて他には居ないだろう。
「この私が!! カーマインに劣っていると!! 何故決めつけた!!?」
言外に己の方が上だと罵り、彼女はガントレットに更なる力を込める。
言葉に合わせて更に膨れ上がる魔力と光。
ガントレットを支点にして、マリンダ=サザーランドの全身に、紅の魔力で形作られた獅子が顕現した。
直視する事も難しい程の光量が吹き荒れる。
そして。
「ふざけるな……っ! ふざけるなよ! ここまで来て……これだけの力を持って……っ! それでも駄目だというのか!!」
再び振りかぶり、可能な限りの審判の剣の力を引きだしつつ、ゴーシュは吠えた。
「マリンダぁぁっ!!!」
眼前に迫る刃。
極限の集中力で研ぎ澄まされた眼光で、その剣閃を見つめつつ、マリンダ=サザーランドは静かに言った。
「――『紅牙』」
騎士団の名前の由来ともなった、マリンダ=サザーランドの奥義。
『暁』を支点にして一点に集中された紅の魔力が何者にも及ばぬ力を放つ。
その力はマリンダ=サザーランドを一つの『顎』に変えた。
そして。
紅の牙が――ゴーシュの手に持った審判の剣を撃ち破った。