第百五十八話 怪しい二人
「あっ、こら動いちゃ駄目よ」
主人の優しい叱咤を受けて、身動きを止めた。
「う、うぅ……」
冬空の下ではあっても、天気は快晴。
雲一つない青空が地平線の彼方まで伸びていた。
お日様の日差しが満遍なくファウグストス家にも降り注ぎ、陽光の煌めきが庭を彩っている。
ちなみにメイド服も冬使用の厚手の生地で全身を覆っている上に、ファウグストス邸ではメイドであってもレディースコートの着用が許されている。
清楚さを失う事の無いシンプルかつシックなデザインであり、色合いもメイド服と同じで白と紺色で統一されている。
機能性を最重要視しているのだろう。着心地は良好だった。
僕は今、久しぶりに主人の絵のモデルになっている。
彼女の絵のモデルを務める事は初めてではないが、今はほんのちょっとだけ困っている。
「で、ですが、その……花弁がくすぐったいです」
僕が庭先の椅子に腰掛けている時に、ひらひらと風に舞った花壇の花弁の欠片が、ちょうど僕の鼻先に止まったのだ。
花の蜜が残っていたのか、僅かに湿った花弁は僕の鼻にぴったりと張り付いて離れなかった。
鼻がむずむずして、くすぐったい。
「うふふ。それも含めて描いているのよ」
だけどメフィルお嬢様は楽しそうな視線を僕に向けるばかりで、花弁を取る事を許可してくれなかった。
「そ、そうなのですか?」
で、でも、花弁が飛んできたのは、描き始めてから、結構経ってからのような……。
「あははっ。うんうん、本当よ?」
口元に悪戯っ子のような笑みを浮かべるお嬢様。
怪しい。
「ほ、本当ですか?」
「あら、私の言葉を疑うの、ルノワール?」
「い、いえ、そんな滅相も無いです」
まぁ別にこんな些細な事で騙されていたとしても、全く構わない。
(お嬢様……楽しそうだし)
それが一番大事な事なんだ。
幸せそうな彼女の姿を見ているだけで、僕まで満たされた気持ちになってくる。
僕が屋敷を離れている間、メフィルお嬢様は絵画を楽しんで描く事がなくなり、塞ぎ込みがちな毎日になったと聞いている。
今のお嬢様のお姿を見ていると、ちょっと信じがたい。
自分がそれほどまで主人に影響を与えている、と自惚れる訳ではないが、今現在目の前で瞳を輝かせながら筆を動かしているメフィルお嬢様がいらっしゃるのは事実だ。
僕は絵を描く事も好きだけれど、誰かが絵を描いている姿を見る事も好きだ。
とりわけそれが敬愛する主人であれば尚更である。
「あら? ルノワール、何を嬉しそうな顔をしているの?」
「いえ……メフィルお嬢様が楽しそうだな、と」
僕が正直に言うと、彼女は筆の動きを止めた。
「……」
「お、お嬢様?」
瞳を閉じて黙ってしまったお嬢様。
彼女は一度、大きく深呼吸をすると、静かに言った。
「ええ……楽しいわ」
今日の天気にだって決して負けないくらいの晴れやかな笑顔。
「大好きな家族の下で。大好きな人をモデルにして。大好きな絵を描いているんですもの」
メフィルお嬢様はそう言って、再びキャンバスに目を向けた。
「……」
僕は彼女の微笑みに誘われる様に、主人の瞳から目を逸らす事が出来なくなった。
(綺麗……)
大自然の雄大さよりも。
彼女の描く絵画よりも。
アゲハの街に溢れる無数の芸術作品よりも。
メフィルお嬢様の方が……ずっとずっと、綺麗だと思った。
「? どうしたの、ルノワール?」
「綺麗だと思いました」
馬鹿な僕はついつい先程まで心の中で考えていた事を、そのまま口走っていた。
「え?」
首を傾げるメフィルお嬢様。
「あ……」
やばい。
急に僕は何を言っているのだろう。
綺麗だと思った? メフィルお嬢様が?
あわわ。
(あ、あれ?)
ぼ、僕はお嬢様に対して何を?
考えれば考える程に顔が熱くなって来る。
「あっ! ぃえ、その、え、えーっと……そう! 今日の太陽が! ほら、空も青くて綺麗だなぁ! って!」
慌てていたからか、言い訳するように喚く僕の鼻先から花弁がひらひらと風に舞い、落ちて行ってしまった。
「「ぁ……」」
二人してゆらゆらと風に吹かれてゆく花弁を見送る。
「くすっ、うふふっ。何を急に慌ててるんだか……」
クスクスと声を立てて笑いだすお嬢様。
「う、す、すいません……」
「いいわよ、別に。可愛かったから」
そう言って微笑む彼女の瞳にまたしても心を奪われてしまう。
冷めやらぬ頬の熱をそのままに、僕は狼狽するばかり。
「うぅ……」
余計に縮こまる僕とは対照的に彼女はいつまでも嬉しそうに、楽しそうに、筆を滑らせていた。
☆ ☆ ☆
「じゃあこの辺りにしましょうか?」
私が頷きつつルノワールに尋ねると恐縮しきりの彼女はおどおどした様子を隠さずに言った。
「ほほ、本当によろしいのですか?」
「もちろん」
「で、ですがここはお嬢様の聖域では……?」
「聖域、って……大袈裟な子ね」
思わず苦笑が漏れる。
現在私とルノワールは、屋敷の画廊に居た。
今日は先日彼女が仕上げた絵画を折角だから画廊に飾る事にしたのだ。
別にこの場所は私だけの特別な場所では無い。
私の作品しか飾られていないのは、単純に私以外の屋敷の人達が絵を描かない、というだけだ。
しかしルノワールの画家としての腕前はコンクールで入賞するには至らないものの、アゲハの中でも優れたものであるし、ここ一年の間にも随分と成長していた。
画廊に飾っておくだけの価値は十分にある。
それに。
「今までは私の絵しか無かったけど……」
嬉しくもあった。
この場所に私以外の絵を愛する人間、それもルノワールの絵を飾る、というのはとても良い。
なんというか……言葉にするのは難しいが、とっても心地よい。
もしかしたら最初にお母様が私の画廊を作りましょう、と言った時も、今の私と同じような気持ちだったのかもしれない。
「でもお嬢様程の御方の画廊に、私の絵は相応しくないのでは――」
「ルノワール?」
またしても彼女の悪い癖が出ている。
ルノワールはいつも自分の絵に今一つ自信が無く、常に一歩退いたような立ち位置を取りたがる。
少しばかり諌めるように強い口調で彼女の名を呼ぶと、しかし彼女は冷静な顔で頭を振った。
「いえ、違います。聞いて下さい。これは心の問題では無いのです。冷静に、客観的に、私の絵とメフィルお嬢様の絵を比較した場合、明らかに私の絵は見劣りするでしょう。そうなると画廊全体の調和が乱れてしまうのではないかと思うのです」
「……」
「あぁっ。お嬢様が怖いお顔を……」
むっつりと私が顔を顰めていると、彼女は申し訳なさそうに、手で持った絵で自分の身体を隠そうとした。
ぐいっと、彼女の顔を無理矢理に私の眼前に持って来る。
「お、お嬢様……」
「貴女はそう思うのかもしれないけれど、私の考えは違うの」
「……か、考え、ですか?」
「そう。私にとって、この画廊には、貴女の絵があって初めて完成するの」
ルノワールはこの画廊そのものを一つの芸術作品として見ている。
「私が描いた絵だけでは物足りないわ。もっと違う視点が欲しい」
「で、ですが……」
「貴女がもしも私の画廊に自分の絵が相応しくないと思うのならば」
そう、確かに今の彼女の技量は、私と同じレベルには無いのかもしれない。
それは事実だ。
でも、それなら。
「いつか相応しくなってくれればいい。今ここに飾る貴女の絵はスタートラインなのよ、ルノワール。もしも貴女自身が気に入らないと言うのならば……描いて見せて、貴女が満足するだけの絵を」
「お嬢様……」
「私は好きよ、ルノワールの性格を表す様なしっかりとした、真面目な線が」
「……」
「それに今後も貴女の絵を飾ってゆくとして。どんどんと貴女の絵が上達してゆくとしたらどう? きっと楽しいわ」
そう、私だってまだ途上に居るのだ。
私とて宮廷画家のビルモ様には及ばない。
だから。
「ね? ルノワール。一緒に成長しましょう。その為の記録として……私は貴女の絵を画廊に飾りたいの」
「……はい。そこまで仰って頂けるのならば」
こうして今日、ファウグストス家の画廊にルノワールの描いた絵が新たに一枚飾られる事になった。
『美しき世界』
ルノワールによってそう名付けられた絵には、無邪気にはしゃぎ回る子供達の姿が在る。
周囲は瓦礫の山が積み重なり、荒廃した様子を窺わせる。
しかしそれでも中央で日光を浴びて微笑み合う子供達の姿が例えようも無いほどに美しい。
飾り終えたルノワールは自分の描いた絵を見つめながら、決意に満ちた表情をしていた。
☆ ☆ ☆
「ねぇねぇ?」
アリーとウェンディと共に休憩を取っていたエトナが突然言った。
「? なに、エトナ?」
「最近あの二人……怪しくない?」
どの二人?
などと尋ね返す程にアリーもウェンディも鈍くは無かった。
「確かに。最近ちょっと仲が良すぎる様な……」
アリーの呟きにウェンディもすかさず反応する。
しかし動揺隠せぬ声色だった。
「そ、それって、女の子同士で……?」
「まさか……」とは思う反面、「あの二人なら……」と思っているのも事実。
「だって二人共あれだけ容姿に恵まれている訳じゃない? 性別なんて関係無いのかも」
メフィル=ファウグストスは、身長こそ低いものの、母親譲りの整った顔立ちとスタイルの良さは健在であり、同年代女子の中では間違いなく美人の部類に入るだろう。
ルノワールに関しては言わずもがな、だ。
珍しく今日のエトナは興奮した様子だった。
「この前なんか、二人で顔を突き合わせて笑ってたのよ、楽しそうに! おでこがくっつきそうだった! もう遠目に見てるだけでドキドキしちゃったわ」
胸に手を当ててエトナは語る。
「あの二人の、あの心が通じ合っている様な視線……主人を勘ぐるのは良くないのは分かってるけど……」
しかも饒舌であった。
「よくよく考えてみれば、もしもルノワールが男の子だったら、完全にメフィルお嬢様にとっては騎士、というかもう王子様状態な訳じゃない?」
女の勘とは侮れないものである。
「というか私も時々、ルノワールにはドキドキさせられるし」
「「そ、それは……」」
エトナがそう言うと、ウェンディとアリーも思わず黙ってしまった。
二人にも心当たりが在ったのだ。
ルノワールにはなんというか……同性であっても惹きつけられるような不思議な淫靡さがあるのだ。
不意に垣間見える彼女のうなじや、楚々とした振舞いの中から時折見え隠れするお茶目さ。その他諸々。
そういったものに同じ女性であっても、思わずドキドキさせられてしまうのだ。
「やっぱり二人は禁断の……?」
「もう。エトナはそういう小説本当に好きだよね」
アリーが苦笑すると、ウェンディも肩を竦める。
「いっつも妄想してそう」
「なな、なにっ! いいじゃない、考えるぐらい!」
「まぁ、確かに最近の二人の距離の近さは、アレだけどさ」
「そうでしょう!? あれはもう絶対に恋人の距離ねっ!」
ここまで強硬に言われてしまうとアリーとウェンディにしても心当たりがあるだけに無碍には出来なかった。
「男性恐怖症になった故に、って事なのかな……」
ウェンディの呟きにアリーが返す。
「というか……そもそも奥様はどう思っているのか……」
「確かに。ユリシア様ならば、絶対に気付いているだろうしね」
あの人は本当に他人の心の機微に聡いのだ。
「兎にも角にも私達は陰ながらこっそりと支えてあげるべきなのよ!」
エトナが握り拳を固めて力強く言うと、後ろからやって来た人物に頭を叩かれた。
「あたっ!」
「いつまでも休憩していると思ったら……」
「あ、オウカさん……痛いです」
「全くもう。主人の噂話なんて行儀が悪いわよ?」
「う……ご、ごめんなさい」
「まぁ悪気が無いのは分かってるけどねぇ……」
苦笑しつつオウカが言う。
「兎にも角にもやるべき事はお屋敷の仕事だよ」
「りょ、了解です!」
そそくさと仕事場に戻る3人を見送ったオウカは、窓の外から庭に目を向けた。
そこには花壇の傍でルノワールにじゃれるようにはしゃいでいるイリーが居た。
「あぁ……あの子は純真よねぇ……」
まるでおばあちゃんのようにオウカはしみじみと呟き、目を細めた。