第百五十七話 戻って来た風景
「あれ、ひょっとして今日の夕食って……」
食堂に並んでいるのは、明らかに並の料理人とは一線を画した出来栄えを誇る豪華絢爛な献立の数々。
輝かんばかりに色とりどりの食材やソース達が踊り、食欲をこれでもか、とそそる程の芳しい香りが沸き立っている。
「今日のご飯はルノワールさんが作ったんです!」
とっても嬉しそうな顔で言ったのはイリーだった。
「私も手伝ったんですよ!」
えへん、と胸を張るイリーに微笑みを返しつつ、私は料理に目を向ける。
食べずとも分かるルノワールの技量に、なんだか懐かしさが込み上げて来た。
「ふふっ。お口に合うと良いのですが……」
エプロン姿で料理場から顔を出したルノワールがイリーのはしゃぎように苦笑を洩らしつつ、水で濡れた手を火の魔術で乾かしている。
「絶対に美味しいですよ! だって私確かめました!」
「ふふ、イリーさんは素直ですので、良い味見役ですね」
「ルノワールさんが料理する時はお任せ下さい!」
「あら、それだとこれから毎日になってしまうかもしれませんね」
何気なくルノワールが口にした『毎日』、という言葉。
それが余程嬉しかったのか、イリーの頬は見る見るうちに上気していった。
「は、はい! 頑張ります!」
(うふふ……何を頑張るのやら)
久しぶりの賑やかな屋敷内の空気が心地よい。
「そう言えば……ルノワールさん、ちょっとだけ目の下にクマがありませんか?」
「うぃぇっ!? い、いえまさかそんな! 私は元気いっぱいですよ! たくさん寝ました、本当ですっ」
「そ、そうですか?」
「そうなんですっ」
穏やかな気持ちで席に着くと、僅かも待つ事無く、屋敷の全員が集まって来た。
「では、いただきましょう」
お母様の合図と共に私は料理を口に運んだ。
料理を口にするなり、全員が目を丸くし、一瞬だけ腕を止めた。
あぁ……本当に美味しい。
私以外の面々も自然と笑顔を浮かべ、次々にルノワールの料理に対しての絶賛の声を上げ、食堂内は俄かに騒がしくなった。
この喧騒がまた懐かしい。
近頃はお母様にも余裕がなく、明らかに活気が欠けていたファウグストス邸の中に、私の大好きな雰囲気が戻りつつあるのを感じた。
彼女一人が戻って来ただけで、ここまでの変化があるとは、と私自身驚いている。
「おかわりもありますので、欲しい人は仰って下さいね」
そう言って微笑むルノワールに目を向けて、何度目になるかも分からぬ感嘆のため息を心の中で漏らす。
流石はルノワールだ。
☆ ☆ ☆
その日、学院に向かうと教室までの途上でリィルが待っていた。
「おはよう、リィル」
朝の挨拶を交わしつつ、彼女は低頭し私達二人に並んだ。
「……」
「? どうしたの、リィル?」
どういうわけか、私の顔をじっと覗きこんでいるリィル。
「いえ……」
私が尋ねると嬉しそうに目を細めた。
「今朝は良い顔をしていらっしゃるな、と。そう思いました」
「……リィル」
ルノワールが居なくなってから、常に私を傍で支えてくれたのは、間違いなくリィルだ。
もちろん、家族やカミィ達も私を支えてくれた。
それでも、中でも彼女は一番私の為に尽くしてくれたと思う。
(それに……)
話を聞いたところによると、リィルがルノワールの元まで駆けつけた。
その一件が私の従者が帰って来てくれた、きっかけになったらしい。
「本当に……ありがとう」
感謝の念は尽きない。
私が気持ちを述べるとリィルは僅かに頬を染めて微笑んだ。
「……いえ。私自身が好きでやった事ですから」
そう言って彼女は一層顔を赤くしつつルノワールを見上げた。
「貴女達二人は私にとって、掛け替えのない、その、と、友達……ですから」
恥ずかしそうに、すぐに顔を逸らしてしまった彼女。
私とルノワールは自然と顔を見合わせ、二人して温かな気持ちで笑い合った。
☆ ☆ ☆
教室に足を踏み込む瞬間。
最近の私の心の中に巣食っていた嫌な不安感はどこにも存在していない事に気が付いた。
俯きがちでは無く、自然と顔は上がり、視線を真っ直ぐに伸ばす。
そして――。
「おはようございます、メフィルさんっ」
私が何かを口にするよりも素早く。
まるで私が教室に入って来るのを待っていたかのように、クラスメイト達が口々に声を掛けてくれる。
教室内を覆っていた、余所余所しい、険悪な空気は微塵も残っていない。
「……おはよう、みんな」
懸命に声が震えないようにするには、強い意志が必要だった。
「皆さま、おはようございます」
ルノワールが遠慮がちに、しかしどこまでも透き通るソプラノの声で微笑みかけると、更に教室内の空気が明るくなる。
友人達の笑顔とは、なんと心強いのだろう。
なんと救われる事だろう。
「ほら、朝礼を始めるぞ。みんな席に着きなさい」
担任の先生の顔もどことなく喜んでいる様な――そんな気がした。
☆ ☆ ☆
昼休みの時間になり、私達は最近の常であった食堂へと向かった。
廊下でも私を蔑む様な視線に出くわす事は無く、あんまりにも急激なその変化は、いっそ不気味なくらいだ。
カミィ、マルク、そしてクレアさんと合流し、食堂で顔を突き合わせる。
「ふんっ! 全く世話を掛ける従者ね!」
皮肉ではあったが、決して嫌悪感を感じる事の無い語調でクレアさんはルノワールに言った。
「……はい。大変ご迷惑をおかけいたしました」
「勝手に休む不良生徒は風紀委員の処罰対象なんだからね! 今度から気を付けなさい!」
「肝に銘じておきます。それから……私が学院を休んでいる間にメフィルお嬢様を守ってくださったとお聞きしました。本当に……ありがとうございました」
「う……そ、それはいいのよ!」
素直にルノワールが頭を下げると、クレアさんは多少のばつの悪さを滲ませ、顔をそむけてしまう。
初めて会った時には随分と敵意を向けられていた私とルノワールだったが、こんな風に会話をするまでに至るとは正直思っていなかった。
「なんだか今日は周囲の視線が逆におかしいのよね」
「ああ。確かにカミィの言う通りだな」
首を傾げつつ、カミィがルノワールの弁当の中から、唐揚げを奪ってゆく。
「もぐもぐ。うん、やっぱりルノワールの料理よねぇ……」
顔を綻ばせているのはいいが、その行動は貴族、というか淑女としてどうなのか。
「俺が言うのもなんだが……やっぱりお前の作法は貴族失格だよなぁ」
「あによ」
頬を(唐揚げで)膨らませつつ、カミィがマルクを睨むと、慌ててルノワールが割って入った。
「い、いえっ。私は一向に構いませんから」
「ほら。ルノワールはこう言ってるわ」
「……ルノワール。うちの主人をあんまり甘やかさないでくれ」
「え、ええと……すいません?」
一方的に被害者である筈のルノワールが何故か謝っている。
とはいえルノワールにも嫌がっている様子はない。
むしろ久しぶりの友人たちとの語らいを楽しんでいる風であった。
「なんだか、あたし達をむしろ避けている、というか。なーんか嫌な感じでは無くなったんだけど、変な感じなのよねぇ」
「それは恐らくシルヴィアさんが学院を休んでいるからだと思われます」
不思議そうな顔で呟いていたカミィに答えるようにリィルが言った。
「あれ? そうなの?」
「ええ。シルヴィアさんと懇意にしていた人達の多くも彼女同様に学院を休んでいます。なんでも話に聞く限りだと、シルヴィアさんは現在、部屋から一歩も出ようとしないそうです」
リィルもルノワールに差し出されたサンドウィッチを咀嚼し、飲み込んだ後に続ける。
「まぁ無理もないでしょう。何しろ、目の前で本気のルノワールさんの『敵意』を向けられた訳ですから」
私はあの時、本気で怒りの表情を浮かべるルノワールの姿を思い出していた。
私の従者は聖獣すら凌駕する最強クラスの魔術師だ。
迸る魔力、そして戦場で鍛え上げられた戦士としての気迫や覇気、といったものが常人とは比べ物にならない程に洗練されている。
「あれは歴戦の戦士であっても震え上がりますよ。少なくとも私でも、恐らくシルヴィアさんと同じように、しばらくは平静を保つ事など出来ないと思います」
「……やりすぎてしまったのでしょうか」
あの時ルノワールは実際に脅す為に、力も発揮した。
無数の人々の自由を奪い、その気になれば、いとも容易く暴力を行使するのだ、という姿勢を見せつけている。
少しばかり声のトーンを落としたルノワールに対してクレアがあっけらかんと言った。
「何言ってんの。良い薬よ」
大きな緑色のリボンを揺らしながらクレアさんは続ける。
「調子に乗り過ぎたのよ。それにシルヴィアは今までに何人もの人達を傷付けている。権力を笠に着て、それこそ時には暴力だってして来た筈だわ。別に実際に貴女が直接手を下した訳でもないのだし、自分よりも遥かに大きな力があることを理解させたことは、むしろ良い事だったんじゃないの? 教育よ、教育」
その言い草が余りにも、堂々としたものだっただけに、ルノワールも思わず頷いてしまっていた。
「そう……なんでしょうか」
「そんなもんよ。貴族なんてのは痛い目みないと分かんないんだから」
「なんだかクレアさんが言うと、とても簡単に聞こえますね」
「実際に簡単なんだもの。ルノワールは考えすぎね」
別にクレアさんは場を和ませようとして言っている訳ではない。
恐らく本心からの言葉だろうから、それだけに不思議な説得力が在った。
「ま。これで私達に手を出そう、なんて馬鹿な事を考える奴もいなくなるんじゃないかしら。ボスのシルヴィアも居ない訳だし、どうせ一人一人は根性なんて無いんだから」
丁寧に口元をハンカチで拭き取り、彼女は食後のお茶を汲みながら言う。
「普段通りに過ごせばいいのよ、普段通りに」
本当に……クレアさんはぶれない。
学生らしからぬ芯の強さがある。
ひょっとするとこれもオードリー大将軍譲りなのかしら。
「でも、そうですね」
ルノワールは目を細めて、まるで遠くの誰かに思いを馳せるかのように呟いた。
「折角の学院生活なのですから。目一杯楽しまないと……自分達の事を思ってくれている人達に対しても失礼なんですよね」
彼女の視線は窓の外。
風に揺れる木々の隙間から空の向こう側を見つめていた。