第百五十六話 少女の気持ち、少年の気持ち
「あれ、ルノワール?」
どうしてもルノワールと話がしたくて、少しばかり夜遅くに自室へと招いた私だったが、やって来た彼女は手に何やら小さなバスケットを持っていた。
「それは?」
「はい。久しぶりにお屋敷に戻って参りましたので。少しばかり料理がしたくなってしまって……」
彼女はそう言ってはにかみ、持って来た包みを開いて見せた。
バスケットの中に入っていたのは透き通るような薄い橙色のゼリーだ。
「ゼリーは夜分に食べても太りにくいですし、ちょうどキッチンにリンゴが余っていましたので。つい作ってしまいました」
「綺麗ね。とても美味しそうだわ」
「では、お一つどうぞ」
「ええ、ありがとう」
考えてみれば、ルノワールの手料理を食べるのは久しぶりだ。
「いただきます」
早速彼女が持って来たスプーンで、一口大に切り分けたゼリーを口に運ぶ。
「……美味しい」
微かな酸味が口内に広がり、その後に優しい甘みが舌の上をなぞってゆく。
ゼリーの中には刻んだリンゴが散りばめられており、ゼリーの柔らかさとリンゴのシャキシャキとした歯応えが、なんとも心地よい。
絶妙な塩梅で作られたデザートであると言って良いだろう。
流石はルノワールだ。
「……美味、しい」
本当に……とっても、美味しい……。
「……お嬢、様?」
「…………あれ……?」
気付けば、折角ルノワールが作ってくれたゼリーの上に雫がポタポタと落ちてしまっている。
「あ……あれ、なんで……」
思わず手を頬に持って行っても、どれだけ瞳を擦ってみても。
頬を伝う涙が止まらない。
「な、何か私の料理が変だったでしょうか!?」
慌てふためくルノワールが両手をワタワタと動かしていた。
でも違う。
そうじゃない。
「ううん、違うわ……本当に……美味しいな、って……」
近頃は何を食べても、味がしなかったような気がする。
いや、味を気にしている暇などが無かったのだ。
そんな余裕が無かったし、興味も無かった。
でも、何故だろうか。
この料理は……とても美味しい。
とてもとても、美味しくて。
なんだか温かくて、優しくて。
心から安心出来るような……そんな味がした。
「……お嬢様」
ずっとずっと。
私はルノワールの作ってくれる料理を食べたかったのだろうか。
いやもしかしたら。
(作るのは彼女で無くてもいいのかもしれない)
ただ――彼女と一緒に――。
☆ ☆ ☆
久しぶりに僕の作ったカクテルを飲みたいとお嬢様が仰ったので、急いで一式をお嬢様のお部屋に運び、僕は再び彼女の対面に腰掛けていた。
考えてみれば、僕はあまりお嬢様のお部屋に足を運んだ事が無い。
少しばかり恐縮する思いであったが、メフィルお嬢様は楽しそうにカクテルを作る僕の手元を見ているばかりだった。
「あぁ……懐かしいな、この音」
グラスを掻き混ぜ、氷と液体が混ざりあい、シャカシャカと音を立ててシェイクする。
そんなどこのバーでも繰り広げられている光景を彼女はとても楽しそうに見ていた。
自然と僕も楽しくなってきて、二人して意味も無く微笑んでいた。
「はい、完成です」
やがて完成したカクテルをグラスの中に流し込む。
それを、そっとメフィルお嬢様の前に差し出した。
「わぁ……綺麗」
月が照らす夜空を彷彿とさせるような淡い紫色。
照明の加減によって、色合いは千変万化し、キラキラと表面が瞬いている。
香りと色合いのアクセントとして、レモンピールをグラスの縁に添えていた。
彼女がまるで強請る様に僕を見上げていたので、苦笑を抑えつつ説明した。
「『ブルー・ムーン』というカクテルになります」
「ブルー・ムーン……」
「はい。ドライ・ジンとレモンジュース。そしてバイオレット・リキュールを混ぜ合わせたカクテルになります」
聞き慣れない言葉があったのだろう。
メフィルお嬢様は小首を軽く傾げている。
「バイオレット・リキュール?」
「バイオレット・リキュールとは、すみれの花弁から、その色と香りをスピリッツに溶かし込んだ美しい紫色のリキュールで、別名『飲む香水』とも呼ばれています」
「へぇ……なるほど、それでこんなに綺麗な色合いをしているのね……」
うっとりとグラスの中のカクテルを揺らすメフィルお嬢様。
「はい。上品な味わいと香り、そして美しい色味が特徴で、女性に人気があるそうですよ」
「うふふ、そうね。これは綺麗で……うん、良い香り。確かに人気が出るのも納得だわ」
言いつつ、彼女はゆっくりとグラスの中身を口に含んだ。
「……美味しい」
今回も実は若い女性でも飲みやすいように本来とは違ってレモンジュースの配分を多めに作っておいた。
夜分も遅い事だし、あまり強いお酒を飲ませる事もないだろう。
「それは大変良かったです」
「貴女は飲まないの?」
「……では一杯だけ」
「ふふ、そうこなくっちゃ」
楽しそうに微笑む彼女と同じくブルー・ムーンを作り、自分の分をグラスに注いだ。
「ほら、乾杯」
「は、はい。乾杯」
メフィルお嬢様に誘われる様にして、グラスを傾け、アルコールを喉に流し込む。
刺激はそれほどでもないが、それでも僕はとても美味しく感じられた。
しばし無言でグラスを傾けていると、メフィルお嬢様が唐突に言った。
「ねぇ……ルノワールは、さ」
「はい」
「どこに、行っていたの?」
「……ロスト・タウンに行っておりました」
彼女の瞳が僕に向けられる。
僕はメフィルお嬢様の望むままに、ロスト・タウンでの日々を語った。
残酷な部分を可能な限り省いた大雑把な説明であったが、彼女は真剣に僕の話を聞いていた。
話し終えた後、彼女の瞳の中には紛れも無く、寂しさのようなものがあった。
「じゃあ、また……」
「はい。イゾルデはやって来ると思います」
僕の言葉に顔を下げ掛けたお嬢様に、矢継ぎ早に告げる。
「ですがもう――逃げたりはしません」
「え?」
もしかしたら信じてはもらえないかもしれない。
一度逃げ出した僕の言葉にどれだけの価値が在るだろう。
それでも黙っている訳にはいかなかった。
現状を踏まえた上で、それでも本当にメフィルお嬢様は僕のような人間を傍に置いて下さるのか。
「もしも……もしもメフィルお嬢様が……イゾルデのような恐ろしい魔女が襲って来ると分かっていても……それでも私をお傍に置いて下さると言うのならば」
後悔は数え切れない程した。
悩んで悩んで悩み抜いた。
(もう嫌なんだ)
あんな気持ちで、逃げ出した惨めさを抱えて日々を過ごす事は。
メフィルお嬢様の居ない場所で生きる事は。
目の届かぬ地から主人の安否を思うばかりの毎日は。
「私はもう二度と――貴女の傍から逃げたりはしません」
そう――逃げない。
命を護る為だから、と。
そんな言い訳を自分に科して、彼女の傍を離れたりしない。
「メフィルお嬢様が……私のような人間を必要だ、と仰って下さるのならば……」
主人が望む限り、主人の願いを叶える為に努力しよう。
自分の力だけでは及ばないのならば、助けてもらおう。
僕には頼りになる仲間が大勢いるのだから。
「ルノワールは……」
「え?」
「ルノワール自身はどう思っているの?」
僕の気持ち。
それはもう決まっている。
「私は――」
彼女の命を護るのは仕事でも何でもない。
彼女の傍に仕えるのは命じられたからでも無い。
僕は――僕自身が――。
「貴女が許して下さる限りは――貴女の傍にお仕えし続けていたいと。貴女のお傍に在りたいと。そう望んでいます」
これが僕の願い。
僕の我儘。
(僕が――彼女の傍に居たいんだ)
そんな今の僕にとっては今更な事を――この時再度確認するように心の中で呟いた。
☆ ☆ ☆
ルノワールの言葉が嬉しくて。
そのまま、私は酔った勢いに任せて、部屋を去ろうとするルノワールの身体を自分のベッドにまで押し込んだ。
「おおお、おおっ、お嬢様っ!?」
「うふふっ」
ルノワールは顔を真っ赤にして、ひどく慌てている。
それでも私は彼女の腕を掴んで離さなかった。
そう、これはお母様の真似事だ。
でも今日はそうしたいと思ったから。
目覚めた時に彼女の姿が居なくなってしまう様な事がないように。
もうあんな悪夢は見なくてもいいように。
私は必死にルノワールの腕を掴んでいた。
「今日は一緒に寝ましょう」
強引にルノワールに毛布を被せて、その首筋に手を回し、耳元で囁く。
そうすると彼女の優しい香りが鼻腔を擽って来る。
久しぶりに嗅いだルノワールの匂いだ。
(う……今の私、ちょっと変態っぽいかも……)
まぁ……いい。
今は酔っているので。
細かい事は気にしないのだ。
「これは主人命令です。逃げたら駄目よ」
「うぇっ……あ、あの、あうあう……」
いつもの凛々しさはどこへやら。
今のルノワールはまるで幼い少年少女の様に、縮こまっている。
そんな風に恥ずかしがる彼女がまた可愛くて仕方が無い。
「うふふふっ」
「あ、あの……やや、やっぱり私その……っ!」
「……私と寝るのは嫌?」
なんだか本当にルノワールはベッドから出たがっているらしい。
少しばかり寂しい気持ちになって、私が呟くと、ルノワールの混乱に拍車がかかった。
「え、あぅ。そのい、嫌とかではなくて、ですねっ」
「じゃあいいの?」
「そ、そそ、そのぉ……」
「嫌かどうかを教えて」
しばしの間目をぐるぐると回しながら、考え込んでいた彼女が未だに熱い頬をそのままに、小さく呟いた。
それはそれはか細い声で。
「……ぅぅ。い、嫌では……無いですぅ……」
消え入りそうな声で言うルノワールがあんまりにも可愛いものだから、つい――。
「ふふっ。お休みなさい、ルノワール」
私は――彼女の美しい頬にお休みのキスをした。
☆ ☆ ☆
(えぇぇぇえぇぇっ……!!?)
い、いま今、おお、お嬢様の唇がその、僕の頬に……っ!?
顔は熱く、心臓はバクバク。
お嬢様は心地よさそうに寝息を立て始めているが、とてもではないが、僕は眠れるような心境ではない。
むしろ驚く程に頭は冴えわたっている。
(わぁわぁ~っ! い、一体何が起きたの!)
やばい。
物凄い胸がドキドキしている。
「すぅ……すぅ……」
しかし隣で眠るお嬢様は僕の心など露知らず、安らかな眠りの中だ。
長い睫毛に囲まれた瞳は閉じられ、小さな吐息が、柔らかそうな唇から漏れている。
艶やかな唇はこの距離から眺めていると、なんだかとっても淫靡な雰囲気を伴っていた。
その口元に僕の視線は思わず吸い寄せられ――。
(はっ!? ぼぼ、ぼくは何を……っ!?)
だ、駄目駄目、何を考えているの!
こうして男の僕が同じベッドで横になっているだけでも罪深いのに、お嬢様の寝顔を盗み見て、邪な気持ちを抱くなんて!
(あぁうぅ……今の僕の状況って、最低だよぅ……)
心の中で「あーうー」と叫びながら僕は必死に目を閉じた。
(うぅ……今日は一睡も出来ないかもなぁ……)
寝入っているお嬢様を起こす訳にもいかない僕は声を出す事も身じろぎする事も出来ぬままに、お嬢様の大変可愛らしい寝顔を見ながら悶々とした夜を過ごすのだった。