第百五十三話 格の違い
瞳を開けば。
いや……瞳など開けなくとも分かる。
鼻腔を擽る香りが。
英雄だけが持ち得る波動が。
満天の星空を抱く夜空の如き……圧倒的で温かな存在感と包容力が。
彼女が唯一無二の存在であると私に告げる。
ずっとずっと会いたかった。
彼女の居ない生活が寂しくて寂しくて。
心の中に穴が開いてしまった様な喪失感が消える事は無かった。
でも、今――。
「……ルノワール」
突然の彼女の登場によって、一時の静寂が訪れていた。
☆ ☆ ☆
静寂を破ったのは、少女の小さな質問だ。
「これは一体――どういう状況でしょうか?」
威風堂々とした佇まいでルノワールがシルヴィアに尋ねると、半ば茫然とした様子だった彼女は理性を取り戻し吠えた。
「な……っ! 何をしに来たの、貴女!?」
肩を怒らせ、人差し指をルノワールに突きつけるシルヴィア。
彼女の表情には友好の兆しは無く、明確な敵意のみが在った。
他者を見下す上位者としての傲慢は未だに揺らいでいない。
「……」
「いい!? 後で相手をしてあげるから、さっさと今はどこかに逃げてでもいな――」
口角泡を飛ばす勢いで話していたシルヴィア。
しかし突如――。
鋭い地鳴りが鳴り響き、大地を震動が駆け抜けてゆく。
ルノワールが踵を大地に下ろした衝撃は、メフィル達を取り囲んでいた人間達全員の膝を折り、シルヴィアの言葉を途中で遮った。
しかもそれはシルヴィアに与しているだろう人間のみに対して放たれた衝撃である。
茫然とした様子で立ちつくしていたルノワールのクラスメイト達の中には、何故周囲の人間が倒れたのかを理解している者はほとんど居なかった。
「聞こえませんでしたか?」
今や完全に静まり返っている周囲の状況を一顧だにせずにルノワールはもう一度尋ねた。
「今は――どういう状況なのでしょうか? どうして彼らは私のクラスメイト達に石を投げているのでしょうか? 何故貴女達は私のクラスメイト達を取り囲んでいるのでしょうか? 何故貴女は彼らを主導しているのでしょうか?」
有無を言わせぬ詰問口調で彼女は述べる。
大声で喚く訳でも、力任せに暴れ回っている訳でもない。
しかし。
ルノワールは怒っていた。
大きな瞳は鋭くシルヴィアを睨めつけており、声色に優しさは無い。
その痩身から放たれている迫力は見る見るうちにシルヴィアから平静を奪い取ってゆく。
「なっ。なっ……」
衆人環視の中で無様に地に尻を付いている姿に屈辱を感じた彼女は、すぐさま立ち上がり、声を荒げた。
「貴女……っ!! 私に対してこのような真似をして唯で済むと思っているの!?」
「……」
ルノワールは答えなかったが、それでもシルヴィアは彼女が己の過ちから無言になっているのだと勘違いした。
「ふん。理解したのならば、地に頭を付けて謝罪をしなさい」
顎を引きつつシルヴィアは命令し、次いで彼女は脅すように瞳を細めて口角を吊り上げる。
「……今のファウグストス家を潰すことなんて造作もないのよ?」
周囲の人々もシルヴィアの余裕が戻った事によって、勢いを俄かに取り戻した。
立ち上がった衆人は誰もがルノワールに敵意を向け、その顔には嘲笑の色が浮かんでいる。
だが。
「ふふっ。あはははっ」
ルノワールは笑った。
それはもう楽しそうに。
その声には嘲笑の色こそ無かったもの、「なんて馬鹿な事を言っているのでしょうか」、という響きが感じられ、シルヴィアの心を苛立たせた。
「何を笑っているの!!」
「やってみればいいでしょう?」
「はっ?」
ルノワールはシルヴィアの瞳を真っ向から受け止め、平静そのもの、といった表情で告げた。
「ですから。ファウグストス家を潰せるものならば、潰してみろ、と申し上げているのです」
周囲の人々の声が止んだ。
「シルヴィア様。貴女は一体何を勘違いしているのでしょうか?」
その声には気負いが無い。
「ファウグストス家を潰せる? 馬鹿な事は言わないでください。もしも本当に潰せるのでしたら、とっくにファウグストス家は崩壊しているのですよ。現在の王国の貴族勢力のどれだけがファウグストスに敵対していると思っているのですか?」
「なに、を……」
「これだけの多勢に無勢の状況でありながら、どうしてファウグストス家は未だに力を堅持しているのでしょうか? 何故未だに公爵家という強い立場と権力を維持しているのでしょうか?」
「それは私達が本気じゃないから……」
「違いますよ」
ルノワールはシルヴィアの言葉を一言で切って捨てた。
「それは違います。貴女達は必死にファウグストス家を潰そうと躍起になっています。ですが。『出来ない』。『出来ない』んですよ。これだけの圧倒的な勢力の開きがあるにも関わらず、貴女達はユリシア=ファウグストスに止めを刺せない」
確かにファウグストス家は劣勢だ。
ゴーシュ派に対する攻防では防戦一方であると言っていい。
しかし王国の貴族の9割以上がゴーシュに味方している現状でありながら……それでも未だにしぶとく存続している。冷静に考えれば、それだけでも異常な事なのだ。
「そ、そんな訳がないでしょう!」
「いいえ。そうなのですよ。はっきり申し上げましょうか?」
動揺し、視線定まらぬシルヴィアに対して彼女は告げる。
「貴女達では決して……ユリシア=ファウグストスという傑物には勝てないんですよ」
自信漲る口調で言い放った。
ユリシアは敵の隙を伺いつつ、自分達の地盤が揺らがぬように、旧王族の地位が落ち切ってしまわぬように、毎日腐心している。
優秀な部下たちと共に日々戦い続けているのだ。
その結果、ゴーシュ派は目障りなユリシアをどうしても排除出来ずにいる。
下手に攻撃を仕掛け、返り討ちに遭う事を恐れているのだ。
しかしシルヴィアの瞳は尚も力強さを失わなかった。
「つ、強がりを言うんじゃないわよ……。ここまでの無礼な振舞いを許す程私は寛容じゃないわ」
「貴女が寛容じゃない事など見れば分かりますよ」
今日のルノワールは、クラスメイト達が見た事も無いほどに挑発的であった。
事実、学院でメフィルがどのような扱いを受けていたのかを、目の当たりにしたルノワールの心情は普段とは裏腹に平静を保ってなどいられなかったのだ。
「貴女が自信があるのは、あの紅牙騎士団が居るからでしょう? ふん、それならば、紅牙騎士団をまずは潰してやるわよ。今のサーストン家が全戦力を集中すれば、たかだか数十人ぐらい……」
気持ち良さそうに言葉を紡いでいたシルヴィアの言葉はまたしてもルノワールに遮られる。
ルノワールはほとほと呆れ果てた様に頭を振った。
「本気で言っているのですか?」
「当たり前でしょう! 目に物を見せて――」
聞くに堪えないルノワールは軽く指を鳴らした。
直後――周囲を取り囲んでいた衆人全員の肉体が不可思議な力に導かれ、操り人形の如く、宙に浮かんでゆく。
彼らは誰もが必死に己の肉体の制御を取り戻そうとするも、抗う事が出来ない。
圧倒的な力によって、己の身体が何者かに支配されていることを悟った。
唐突に浮かび上がる己の手下達を見ていたシルヴィアの肉体も僅かに浮き上がる。
「な、なによ、これ……っ!!」
「さて。なんでしょうか?」
「あ、貴女の仕業ね……こ、こんな事をして……」
「未だに減らず口を叩けるのは、ある意味尊敬に値しますね」
ルノワールが再び指を鳴らすと、今度は宙に浮いている人々の両腕、両足に魔力で生み出された縄が生み出され、身動きすら取れなくなった。
その余りにも、圧倒的な力にクレアでさえ顔を青くして、茫然と人々を見上げていた。
優に100人は超えるだろう、魔術を嗜む人々を一瞬にして拘束し、抵抗を全く許さない。
先程の地面に伝わった振動にしても、そうだ。
これほどの近距離であるにも関わらず、シルヴィア陣営にのみ、衝撃を伝えた。
並の魔力制御技術ではない。
クレアの父であるダンテ=オードリー大将軍であっても、ここまで鮮やかに魔術を操作する事は出来ないかもしれない。
「紅牙騎士団を潰すなんて……シルヴィア様のお父様であれば、そのような愚かな事は決して言わなかったでしょうね」
静かに、しかしどこまでも響き渡る声でルノワールは続ける。
彼女は身動き一つ取れずに怒りの表情を浮かべているシルヴィアに一歩近づいた。
「……ぇ」
たった一歩。
ルノワールが己に近付いただけで、全身が慄き、底知れぬ恐怖がシルヴィアの中を駆け抜けた。
特別な事をルノワールがした訳ではない。
数多の戦場で培い洗練された本物の戦士の気迫にシルヴィアが呑まれたのだ。
「……ぇ、ぁ…………」
微かに震える唇からは声にならぬ声が漏れるばかり。
ルノワールの指先がシルヴィアに触れる寸前まで近付くと、シルヴィアの表情は蒼褪め、その顔には明確な恐怖の色が在った。
超常的な魔力を振りまくルノワールの圧倒的強者の波動がシルヴィアのみならず周囲を呑みこんでゆく。
この場を完全に支配したルノワールは、白魚の如き艶やかな指先でシルヴィアの顎を撫でた。
「あまり……調子に乗らないことですね」
その声色は穏やかであるにも関わらず、敵対する人間からすれば、恐ろしさしか感じる事が出来ない。
目を逸らす事も出来ず、シルヴィアは間近でルノワールの視線を受け止めざるを得なかった。
「こちらがその気になれば……私一人でサーストン家の全戦力を血の海に沈める事が出来るのですよ?」
怪しく微笑むルノワールの言葉に背筋が凍る程の恐怖を覚えたシルヴィア。
彼女のスカートの下から僅かに滴る水音が聞こえてきたが、それを気にしている余裕も無い。
今や完全に強者と弱者の立場は逆転していた。
そしてシルヴィアは理解した。
目の前に居る人間は――いや、怪物は手を出して良い存在では無いのだ、と。
「……ぁ…………ぁ」
「ねぇ、シルヴィア様? 貴女もこの学院で五体満足で過ごしていたいでしょう?」
彼女の言葉の意味する事を悟ったシルヴィアの眦からは既に大粒の雫が零れ落ち始めていた。
今までの人生でシルヴィアはこれ程までの恐怖を感じた事が無い。
これ程までに追いつめられた事が無い。
初めての本当の意味での挫折、恐怖、屈辱、敗北。
余りにも強すぎる刺激に彼女はパニック状態に陥りかけていた。
「う……ぁ」
「私の言っている意味……分かりますか?」
その時、ルノワールはシルヴィアから視線を外し、周囲に居た彼女の手下達に目を向けた。
「もしも今度……ただの一度でも」
メフィルを守ろうとする勇敢なる友人達を手で示しつつ、ルノワールは言う。
「彼女達に危害を加える様な事があれば……私自らが本気で制裁します」
返事は無い。
メフィルを取り囲んでいた人々は全員口を開く事も出来ずに、ただ怯えの表情を浮かべているのみだ。
誰も彼もが――超越者の本気の敵意に対して心を折られていた。