第百五十話 蘇る日々
その日、僕は最近のいつもの日常に身を任せていた。
外の世界で学んだ知識を子供達に伝え、武術の鍛錬を仕込み、料理をして子供達と一緒に食べる。
そして数日に一度の地下空間ドナンへの顔出しに行き、子供達に物資の整理をお願いしていた。
「ねぇ、ミル。これは何?」
トリスが手元の箱の中を覗きながら首を傾げている。
「ん~っと。これは画材道具だね」
「画材道具?」
「絵を描く為の道具よ」
そんな会話が聞こえてきて僕は思わず彼女達に近寄っていた。
「ちょっと見せてもらってもいい?」
箱の中には薄汚れた筆と8色の絵の具が入っている。鉛筆もあった。
どれもこれも保存状態は悪く、上等品とは言い難いが、それでも描けない訳ではないだろう。
「わ……本当に画材道具だ」
たったの4枚であるが、画用紙まで揃っている。
「でも、なんで?」
ロスト・タウンでは大凡需要など無い様に思われる物資に目を丸くしていると、背後からやって来た双子が僕の問いに答えた。
「あれでしょ? ルークって絵を描くのが好きなんでしょう?」
「前にそう聞いたぞ」
振り返ると何故か自慢げにリーファンとローファンが言った。
「え、ええ。確かに話しましたけれど……」
「それをそれとなく、ね。スレッガーに言っておいたのよ」
「で、奴がそれを覚えていたんだろうよ」
「……え? じゃあ、これは僕の為にスレッガーが手に入れた、ってこと?」
「そうなんじゃない?」
と。
その時、丁度良いタイミングで件のスレッガーがドナンへと降りて来た。
「ん、そうか……今日はルーク達が来る日だったか」
そう言いつつ彼は近寄って来るなり、ルークの手元へと視線を向けて楽しげに口角を吊り上げる。
「なんだぁ? 早速か、お前さん?」
僕の様子をニヤニヤと見る反応から察するに。
「あ……じゃあ、これ本当に僕の為に?」
尋ねるとスレッガーは目を丸くして言った。
「あぁ? 当たり前だろ、そんなもんはお前さんしか興味が無い」
何故か呆れたように言うスレッガー。
「くくく。まぁ今後も俺に協力して働いてくれや、という意思表示だよ」
ぶっきら棒な口調であるが、それも今日ばかりは彼の照れ隠しだろうと思い、素直に感謝の言葉を述べた。
「……ありがとう」
まさかロスト・タウンでこんな風にプレゼントを贈られる事があるなんて、夢にも思っていなかった。
「ほら、じゃあ早速……」
「へっ?」
「何かを描いて見せてくれ」
双子は目を輝かせながら僕に催促をした。
「え、っと。いきなり?」
戸惑い気味に言うと、リーファンは「当たり前だろう」という顔で言う。
「そのためにスレッガーに教えてあげたんだから」
「そうだ。俺達はお前の描いた絵を見てみたい」
なんでこんなに興味津々なの? とは思ったが、別段断る理由も無い。
それにリーファンとローファンの二人のおかげで、こうして画材道具が手に入った事を考えれば、むしろ率先して彼らの要望には答えてあげるべきだ。
「わ、分かりました。じゃあ、そうだなぁ……」
さて、何を描こうかな。
とは思ったものの……。
「……ん? どうしたの?」
天上にゆっくりと目を向ける。
「ちょっとここは暗過ぎるかも」
「ん? じゃあ魔術で火でも起こすか?」
「う、うーん……出来れば外の方がいいかなぁ」
明かりも無い、じめじめとした地下空間。
密閉された室内というのは悪くないが、雑多な品々や薄汚れた床、時折鼻に付く血の匂い。
はっきり言ってここは、絵を描くには全くもって向いていない。
外で描いた方が遥かにマシである。
「……うん、よし。じゃあ明日にしよう」
しばらく考え込み、僕がそう提案すると双子はあからさまに不満げな表情になった。
「咄嗟に言われても何を描こうかも迷っちゃうしね。それまでに何を描くかは考えておくよ」
「まぁ……」
「しょうがないな……」
落ち込み気味の二人には悪く思ったが、僕は子供達の物資の整理の手伝い作業に戻った。
☆ ☆ ☆
そして翌日。
「さて、と」
木材を適当な形に加工し、それを支持体として画用紙を設置。
家の傍の日当たりの良い場所で、僕は早速絵を描く準備をした。
筆の先を指先で軽く撫でてみる。
「う~ん、やっぱり結構痛んでるなぁ」
まぁ所詮はロスト・タウンに流れ込んで来るような物だ。
手配してくれたスレッガーには悪いが、品質を望むなんて酷な事だった。
「まぁ今日は鉛筆画だし……いっか」
水彩画は塗の順番も大事だし時間も掛かる。
描いている最中の絵も素人には分かりにくい。
それではリーファンとローファンも退屈してしまうだろう。
鉛筆画ならば大した時間も要さずに描けるため、この場で披露する分には適していると思う。
ちらりと隣へと視線を向けるとワクワクとした表情で佇むリーファンとローファンが居た。
「そんなに大したものにはならないと思うけど……」
「とりあえず描いてみてくれ」
「というか、何を描くの?」
苦笑しつつ言うも、彼らは聞く耳も持たなかった。
僕達の視線の先には庭の手入れに精を出す子供達の姿が在る。
「今日はあの子達を描きます」
「ん? 子供達?」
「そうです」
「いつも見ているがなぁ……」
「二人が知らない物を描いてもしょうがないですし、僕がこの街で描きたいな、と思える数少ない被写体ですからね」
言いつつ、既に僕は腕を走らせていた。
(久しぶりに絵を描くなぁ……)
そんな風に思いながら、視線の先の子供達の姿を画用紙の上に描いてゆく。
太陽の光に照らされ、緑の植物に水をやり、土をいじりながらも微笑み合っている子供達だ。
目の前の光景だけを見れば、とてもではないがロスト・タウンの一部とは思えない様な平和な姿だった。
だけど本来、彼女達のような子供は、ああいう風に生きるべきなんだ。
あれこそが正しい姿なんだ。
穏やかな心持ちのまま、しばらく無言のままに僕は腕を動かした。
そうして出来あがった絵を見て、リーファンとローファンは目を丸くした。
「……すっごい上手」
「あ、あぁ……すごいな、そっくりだ」
素直に驚愕の表情に浮かべている双子に思わず苦笑を返す。
いつの間にか傍にやって来ていた子供達も僕の描いた絵を見て俄かに騒ぎ出した。
「すごいすごい!」
「とても似ている」
「うんうん! 綺麗!」
「これわたし!?」
そんな風にはしゃぐ子供達。
だけど僕の絵はそれほど優れている訳ではない。
アゲハの街へ赴けば僕程度の画家など腐る程いるのだ。
多少の照れ臭さを感じつつ僕は画用紙の中に指先を向け――。
「いや、そんなことは無いんですよ。例えばここなんか描いている最中も迷ったのですが――」
『ほら、ルノワール。この構図。距離感を意識しすぎて絵全体が縮こまってしまっているのよ』
突然頭の中に声が――響いた。
「………………ぁ」
自然と指先の動きが止まる。
「……ルーク?」
リーファンの声は耳から耳へと流れてゆき、僕の脳裏には残らなかった。
茫然とした表情で己の描いた画用紙に目を向ける。
『貴女はとても綺麗な線を描くけれど、綺麗なだけじゃ駄目なの。どうしても迫力の欠ける絵になってしまうわ』
自分が迷った部分、無意識の内に描いていた癖。
それらが画用紙の上に浮かび上がっている。
隅から隅へと己の絵へと視線を滑らせてゆく。
その度に。
優しくて。
懐かしくて。
温かくて。
そして。
愛しい声が頭の中で木霊した。
『水彩画には塗りの順番にセオリーは存在するけれど、時にはそれらを無視する事も重要よ』
『で、でもそれだと、なんだか絵全体が崩れてしまいそうで』
『ふふ、考え過ぎよ、ルノワール。別にその絵を完成させないと死んでしまう訳じゃないのだし……失敗してもいいのよ』
『あ、頭では分かっているのですが……』
『あはは、貴女は真面目ねぇ……それが絵に物足りなさを生んでいるのかもしれないわよ?』
『あ、あぅ……』
『ふふふっ。まだまだ練習が必要ね、ルノワール』
あのアトリエの匂いが。
僕の大好きな『絵の匂い』が鼻の奥に蘇って来る。
『線画で気をつけなくてはいけないことは、位置取りや輪郭だけじゃなくて……絵全体にイメージした通りの姿を浮かび上がらせること』
『絵全体に……』
『そう。まぁこの辺りは貴女も上手だけれど……でね。そこからもう一歩。自分のイメージした姿からはみ出してみると、また別の形が浮かび上がって来ることがある。思い切って腕を動かしてみるの』
『もう一歩……ですか?』
『そう。自分でも考えていなかった部分、イメージ通りでは無い姿。だけど、そちらの方が私の想像を超えた出来栄えになっていることもある』
『そ、そんなに上手くいくのでしょうか?』
『いいえ。そんなのは100枚描いて、1枚くらいじゃないかしら。大抵の場合は構図が崩れちゃうもの』
『ひゃ、ひゃくまいで……』
『ふふっ。でもね、ルノワール。そんな風にいつも、自分のやり方とは少しだけ違う描き方、違うイメージを意識するようにすると、自然と絵の幅が広がってゆくのだと思うわ』
あの御方の美しく白い手の平がキャンバスの上を滑ってゆく姿を幻視した。
彼女はいつだって絵にひたむきで、いつだって向上心を捨てていなくて。
僕が絵について話し出すと僕と同じくらいに楽しそうな表情になってくれて。目を輝かせてくれて。
『結局は技法よりも……まずは先に自分が何を描きたいと思うかを考えるの。いえ、何を表現したいかを考えるの』
『何を表現したいのか……』
『別に貴女が何を表現したいのかを考えていない、と言っている訳じゃないの。ただ目的を見失っては駄目なのよ』
『そ、それはどういう……?』
『例えばそう……あくまでも例だけれど、私が何か迫力のある動物を描きたいと思ったとしましょう。そうして題材として獅子を選んだ』
『はい』
『私は獅子を描き始める訳だけれど……ここで『上手に獅子を描く』事をしてしまうと駄目なのよ』
『え、え? どど、どういうことでしょうか?』
『最初の目的からぶれているのよ。いい? 私は最初は『獅子を描きたい』と思っていた訳じゃない。私は『何か迫力のある動物』を描きたいと思っていたの。では何故迫力のある動物を描きたいと思っていたのか。それは自然の中で育った生命の雄大さ、勇猛さ、迫力、命の輝き……そういった物を描きたいと思ったから。そういった美しさを私なりに表現したいと思ったから』
『……ぁ』
『そう。獅子を描くという『方法』に囚われてしまい、上手な獅子を描こうと躍起になっても……それでは本当の『目的』が果たされない。そうして出来あがった絵は本人にとって、心底納得するような出来には為り得ない。そして、そういう思いは描き手以外の人が見ても、伝わるものなの』
『………………』
『ルノワール?』
『か、感服いたしました……』
『…………ぷっ、はは、ふふふっ』
『お、お嬢様っ?』
『あはははっ。だ、だってルノワールがあんまりにも目を見開いているものだから』
『い、いえ、その。本当に感動して……』
『ふふっ。そう。そこまで感じ入ってくれると私としても嬉しいわね』
無数に無数に、次から次へと。
彼女との思い出が脳内で再生されてゆく。
一緒に絵を描いていた美しき日々、安らぐ幸せな時間。
それに絵だけでは無い。
あの方と共に過ごした日々のなんと輝かしい事か。
『ルノワール』
それら全てが想起されてしまい――。
「……ぁ」
気付けば僕の頬を熱い雫が伝っていた。
ポタポタと零れ出る雫が画用紙の上に落ちてゆき、僕の鉛筆画を歪めてゆく。
「……ルーク!?」
周囲の驚きの声も耳に入って来ない。
ただただ僕は――愛しき主人を想い、己の身勝手さを憂い、止めどなく溢れ出て来る感情を涙と共に吐き出していた。
「ど、どうしたんだ、いきなり?」
「る、ルーク!?」
喧騒の中で僕が無言で画用紙を見つめていると背後から――聞こえる筈の無い声が聞こえた。
「…………ぇ」
懐かしい気配に咄嗟に振り返ると、そこには背の低い……それでもどこか大人びた印象を他人に与えるだろう、クールな面立ちの少女が居た。
何故彼女が?
そうは思いつつ、僕は涙で霞んだ声のまま、少女の名を呼んだ。
「……リィル?」
僕が呟くと、若々しい艶やかさに満ちた金髪を軽く振り、彼女は言った。
「やっと……見つけました」