第百四十二話 揺るがぬ正義
この学院で最も恐れられている風紀委員は怒気に満ちた眦で周囲を睥睨した。
メフィルの傍に居た男子生徒に対してとりわけ強い視線を向け彼女は……即座に行動を開始する。
男勝りの怒声が響いた。
「らぁっ!!」
全身から父親譲りの翡翠色の魔力光が迸り、手近の一人の男子生徒の鳩尾に拳を叩き込んだ。
呻く少年には目もくれずに、続けざまに一人の頭の横合いから肘打ちを放ち、流れるような動きで、その奥に居たもう一人の腹を蹴り上げた。
並の学生には到底防げるレベルの攻撃では無い。
嵐のような暴れ方でありながら、洗練された体捌きである。瞬く間の内に3人の男子生徒が倒れ伏した。
この場でクレアの動きを把握出来たのはリィルだけだった。
「ま、待てっ!」
リーダー格の男子生徒が慌てたように声を上げ、クレアの動きが停止する。
「……」
「あんたも『花ノ宮』の一員だろう!?」
「だから何?」
「だったら分かる筈だろ!? こんなことをすれば――」
シルヴィア=サーストンの不興を買う事になる。
言葉にはせずとも彼の瞳がそう物語っていた。
今の学院内でシルヴィアに逆らう事など許される筈が無い。
それは彼にとっては常識であった。
だが。
「こんなことをすれば――何だって言うの?」
クレア=オードリーという少女は些かも動じる事が無かった。
「何だ、って……」
「私は風紀委員よ。学院の風紀を乱す人間を正すのが仕事」
鋭い眼差しは揺るがず、彼女は威嚇するように唸る。
今お前達が風紀を乱しているのが分からないのか?
クレアは言外にそう言っていた。
「……」
そうして今一度彼女が周囲に目を向ければ、暴力を受けたと思しきマルクと縛られたカミーラの姿が在る。
この場にクレアが現れなければ、どのような目に遭わされていたか分からぬメフィルの姿が在る。
シルヴィアの命令だから、と。
そんな『言葉』に逃げ、己の罪を正当化しようとする悪漢共の姿が在る。
「私は差別をしないのよ。皆平等に……私は裁く」
冷徹な眼差しで男子生徒を見下ろすクレアに慈悲の心は無い。
悪と定めた相手に対して寛容である必要が無い。
「む、無茶苦茶だ……っ! こんなことをして唯で済むと思ってるのかよ!」
リーダー格の少年はいきり立つ様に声を荒げ、吠えた。
「シルヴィア様の言葉こそが正義で――」
彼が『正義』という言葉を放った瞬間――クレアの目の色が唐突に変化した。
憤りを表現するかのように魔力光が一層の輝きを増し、少女は右腕を振るい、倉庫の壁に思い切り叩きつける。
頑丈な筈の倉庫の壁はいとも容易く破壊され、砂塵が舞う。
衝撃と轟音が今や吹き抜けとなった倉庫内に響き渡った。
「私の正義は……私が決める……っ!!」
クレアの迫力に、学生の身である少年達は呑まれ始めていた。
彼女はダンテ=オードリーという、愚直な正義を貫き通し圧倒的な力で立ち向かう者達全てを打ち倒して来た父親の背中をずっと見て来た。
王国最強の戦士の血が色濃く受け継がれている少女の中に迷いは無い。
「サーストン家を敵に回す事の恐ろしさが分かってねぇのか!」
喚く声を耳にしても、やはり――クレア=オードリーは動じなかった。
「その言葉をそっくりそのまま返してあげる」
彼女は言う。
誇る様に。
挑む様に。
「何が歯向かってこようが構わない。貴族としての地位などどうでもよい。私の邪魔立てをするというのならば――オードリー家を敵に回す事の恐ろしさを教えてあげましょう」
即座に彼女はメフィル達一向以外の人間を打ち倒し、この場に居た全員を強制連行した。
☆ ☆ ☆
「ありがとう、クレアさん」
風紀委員達が平時集まっている教室で、メフィルはクレアに感謝の言葉を投げ掛けた。
「……」
今現在、この部屋にはメフィルとカミィ、マルク、リィル、そしてクレア=オードリーの姿が在る。
クレアが露払いをしたのか、他に人は一人も居なかった。
「……」
対面の椅子に腰掛けているクレアはメフィルの言葉に返事をしない。
彼女は終始苛々とした様子で、眉間に皺を寄せていた。
何か無作法を働いただろうか、とメフィル達が思案を巡らせていると、唐突に彼女は言う。
「あの子はどうしたの?」
「……え?」
クレアの言葉の意味が分からずにメフィルが首を傾げると、今度は少しばかり強い口調で言った。
「……っ! ルノワールよ!」
それは今ここに居ないメフィルの従者を責める様な声色だった。
「あの子がいれば今日みたいな事にはならないでしょうに!」
メフィルには理由が分からなかったが、クレアはひどく怒っていた。
この場にルノワールが居ない事に。
メフィルの危機に駆け付けなかった事に。
そこで一度息を吐き、クレアはリィルに横目を向けた。
「まぁ私が居なくとも、リィルさんがなんとかしただろうけどね」
この言葉は事実だった。
実際問題、様子を見てリィルはカミーラ達を救出し、メフィルを護る準備をしていたのだ。
ルノワール程の技量は無いが、それでも現役の紅牙騎士団員。
王国最高の戦闘集団の一員たるリィルが、数人の学生に後れを取る事など無い。
とはいえ、クレアがその機を作り出してくれた事にも間違いは無かった。
「いえ。貴女のおかげで隙が出来たので本当に助かりました」
リィルが低頭するも、相変わらずクレアはふくれていた。
「なんであの子は居ないのよ……気に入らないわね、本当に!」
学院内において自分よりも強いルノワールという少女に悔しさのような感情は抱いていたとしても。
不明確な苛立ちを覚えていたとしても。
別にクレアはルノワールの事が本気で嫌いだった訳ではない。
いやむしろ。
最近は王宮の一件で彼女の中のルノワールの評価は激変していた。
クレアであっても到底足元にも及ばぬ戦鬼ドヴァンという怪物を真っ向から撃ち破り、ミストリア王宮を救ってみせた。
その時クレアが感じ、見た、ルノワールの力は彼女の父親たるダンテ=オードリーと同格の力だ。
とても同年代とは信じられないが、それでもあの日、クレアの瞳に焼き付けられたルノワールの美しい戦姿は鮮烈な印象となっていた。
ある種、憧憬のような感情が沸き起こったと言っても良い。
同じ戦士であるだけに、クレアの感じた衝撃は甚大であった。
また、それはルノワールに対してだけではなく、メフィルに対しても同様だ。
『花ノ宮』の実態を知った今となってはメフィルに対して共感の念を覚えたし、何よりも王宮で実際に目にした彼女の絵は素晴らしかった。
クレアは王宮の展覧会で最終選考に残ったメフィルの絵画をその眼で見たのだ。
クレアは別に芸術の造詣が深い訳では決してないが、それでもメフィルの描いた絵が優れている事は一目で分かった。
そんなファウグストス家主従に対して見方を改めたクレアであったが、王国で巻き起こった激動の事件がメフィル達に不幸を齎した。
今こそ彼女を傍で支えなければならないルノワールは学院を去り、一部の上級貴族達による横柄な振る舞いは領地内だけではなく、学院にも持ち込まれている。
学びの園には鬱屈とした嫌な空気が蔓延していた。
風紀委員として真っ当に活動しているのも、今やクレア一人だった。
元々そういった風潮はあったが、今のシルヴィアには逆らったが最後、即座に一族郎党が路頭に迷う事になりかねない。
それこそクレアのような特別な家柄でも無ければ、従う以外に道は無いのだ。
「……クレアさん」
「ルノワールに何があったかは知らないけどね。ほんと……今の学院は本当に最悪だわ」
愚痴を零すようにクレアは言う。
「でも良かったのですか、本当に?」
リィルがクレアに気遣うような視線を向けた。
「何が?」
「彼らはシルヴィア=サーストンの命令で動いていた筈です。それを真っ向から叩き潰すなど」
「構わないわよ、別に。私は何にも屈しないわ」
彼女は本当に気にしていないのだろう。
強靭な揺るがぬ意志がクレアの芯となっているように感じられた。
「でも……どうして分かったの?」
カミーラがポツリと呟く。
「そういやそうだな。なんで俺達の場所が分かったんだ?」
都合良く駆けつけてくれたクレアに疑問を呈すと、彼女は肩を竦めて言った。
「あぁ。教えてくれた子達が居たのよ」
「え?」
クレアの言葉にメフィルが反応した。
「貴女達が連れて行かれるのを見ていた学院生達が居てね。でも、かといって自分達から表立って助けに行く事は難しいでしょう。暴力は怖いし、何よりシルヴィアに目を付けられてしまえば家族にも迷惑がかかってしまう」
「……それで、クレアさんに?」
「そういうこと。最近の私がシルヴィアと対立しているのは、学院ではそれなりに有名だしね」
家柄や家格という意味合いではサーストン公爵家の方がオードリー伯爵家よりも遥かに強力だ。
しかしオードリーは王国最強の存在であり、外軍の最高指揮官である。
可能な限り、どんな貴族であっても敵に回したくはないと考えているのだ。
それは如何に現在のサーストン家であっても変わりは無い。
「まぁ……メフィルさんのクラスメイト、ってことだけは教えておいてあげるわ」
「……ぁ」
クレアの言葉は優しくメフィルの内側に入り込んできた。
「他にも今のシルヴィアに反抗的な意志を持っている人は大勢いる。そして、メフィルさんのことを慕っている人も大勢いるのよ。貴女達の今までの振舞いが、そういった人達を生んでいる」
まさかクレアからこのような言葉を聞けるとは思っていなかった。
貴族だけでは無い。
多くの平民の学生達にも、公私公平を貫くメフィルは人知れず人気があるのだ。
メフィルは気付けば感極まった様な表情で俯いていた。
「……ねぇ、メフィルさん」
「何ですか?」
「明日……いや、今日からなるべく一緒に行動しましょうか」
「……ぇ?」
思いがけない提案にメフィルは目を丸くした。
「まぁそうした方が何かと貴女も安全でしょうし、それに……そうすればシルヴィアの嫌がらせが他者にいくことも早々なさそうだわ」
クレアは教室の窓から夕暮れの学院内を見下ろしながら呟いた。
「シルヴィアに嫌われている私とクレアさんが一緒に行動しているから?」
「そういうこと。あいつの注意をいっそ私達で集めちゃいましょう」
肩を竦めつつ気楽な様子でクレアは語る。
しかし瞳の色は真剣だ。
彼女は本気で他の学院生たちの事を考えているのだろう。
「まぁメフィルさんには気の毒だけれど、他の学院生がもしもシルヴィアの標的になってしまえば、ひとたまりも無いでしょうし……考えようによっては、狙われているのが私とメフィルさんで良かった、とも言えるわね」
「……確かに」
王国内でも特別な地位にあるということ。
現状の王国の立場を思えば心もとないが、それでもサーストン家に負けないぐらいの特殊な家柄だ。
また、戦力的な面でもクレアは当然のこととして、メフィルにしたってリィルという心強い護衛がいる。
シルヴィアの標的が下級貴族や平民に及べば、反抗の余地無く潰されて終わりだろう。
「なんだか変な感じですね」
苦笑しつつメフィルが言うと、周囲の面々も奇妙なおかしさを感じたのか、小さく笑みを零した。
「まぁはみ出し者同士の共同戦線、ってところね」
「ふふ、そうですね。では……よろしくお願いします」
「ええ、よろしく」
そうして、メフィル達はクレア=オードリーと一歩、心の距離を縮め、同時に心強い味方を得た。