第百三十二話 小さな変化
交易所ドナンの中にかつてない光景が広がっていた。
「じゃあ、薬品類はこの棚に」
忙しなく動き回る3人の少女が、今日も今日とて雑多に散らかっていた物資を片付けている。
傍らでそれとなく少女達を監視しているスレッガーは、なんとなく彼女達に視線を向けられた気がして曖昧に頷いた。「ここでいいですよね?」という確認だろう。
「ああ」
とはいえ彼の隻眼の顔はひどく無機質で恐ろしい。
少女達は思わず震えたが、スレッガーが構うことは無かった。
しゃがみこみ薄汚れた箱に書かれた文字とにらめっこをしていた少女が小首を傾げて尋ねた。
「あの、ミル……この字はなんて読むの?」
「えーと、それは『果物』って読むの」
この3人の少女達の中で唯一文字を読む事が出来るのがミルだ。
彼女は最近になってロスト・タウンへ家族と共に落ちぶれてきた少女であり、会話だけではなく、文字の読み書きはもちろん、珠算など一般教養も身につけていた。
「果物! じゃあこの箱の中にはリンゴとかが?」
「うん、多分そうだと思う」
この街では果物など、途方も無い程の贅沢品だ。
ミルの言葉に目を丸くした少女――トリスは今にも涎をたらさんばかりである。
「おいおい、勝手に手を出すなよ?」
警告の言葉を放つスレッガーに対してトリスとミルは軽く肩を震わせ、びくついた様子であったが、もう一人の少女――ララは無言のままに黙々と作業を続けていた。
ララは会話こそ不可能ではないが、度重なる虐待、暴力に晒されてきたことによって、喉に障害を患っており、言葉を発するには痛みを生じる。
故に彼女は普段は声を出す事が無い。それは現在も同様であった。
ララが言葉を発する例外があるとすれば――。
「あ……ルーク様っ」
思わず、といった様子でララは喉の痛みも忘れてドナンへと降りてきたルークに掠れた声を掛け、おずおずと頭を下げた。
礼儀作法の観点から見れば落第点ではあったが、それでもララの精一杯の誠意が感じられる振舞いだ。
ルークは自然と相好を崩し、苦笑した。
「様、なんていらないよ。呼び捨てでいいんだ」
微笑みながら少年が姿を現すと、明らかに少女達3人の様子に変化が見られた。
まず雰囲気が明るくなったのだ。
そして突然動きが機敏になった。いや、慌てているのか。
少女達はまるで英雄を見る様な目つきで、上気した頬を隠す事もせずに、少年の目前まで走り寄った。
「わぁ。随分と綺麗になったね」
ルークは楽しそうな表情でドナンの中に眠る物資を見渡した。
未だに乱雑さは残っているものの、それでも端の方から順に作業が進んでいる。
少なくとも手近な荷物は種類別にきっちりと整理整頓されていた。
「ありがとう」
自然な手付きでルークが少女達3人の頭を優しく撫でた。
未だに他人に触れられる事に恐怖を覚える少女達であったが、目の前の少年だけは特別である。
ルークが喜んでくれた事が。
ルークが褒めてくれた事が。
彼女達はとってもとっても嬉しかった。
「で、でもまだまだです!」
「う、うん、そうです。ミルに文字を教えてもらいながらだから、あんまり早く進まないし」
「……頑張る」
ミルとトリスが口早に言い、ララが鼻息荒く頷いたが、優しい顔のままルークは頭を振った。
「あははっ。別に急いでいる訳じゃないから、そんなに気にしなくてもいいんだよ」
そう言えば、と。
ルークは近くに居たスレッガーに尋ねた。
「ふと思ったんだけど……この街に居る人達ってどれくらいの人が、どれくらいの知識を持っているの?」
「あん? 教養の話、ってことか?」
「うん」
「そう、だな……」
一度顎に手をやり、思案顔を作ったスレッガー。
その所作はなんだかユリシアを彷彿とさせるものだった。
思いがけず親友の顔が心中に浮かび上がり、得も言えない痛みが少年を襲ったが、己の心の痛みには努めて彼は気付かない振りをした。
「まぁ、外の世界から逃げてきた大人達はそれなりに学はあるだろう。一般常識程度はな。もちろん完全にイカれちまっている奴もいるが」
彼は隻眼で少女達3人を見下ろした。
「だがガキの頃に街に来て、そのまま育った大人達なんかは……読み書きも出来ないだろうな。まぁ当然の話だ。教えてくれる人間なんていやしない」
肩を竦めつつ彼は葉巻に火を点け、口に咥えると煙を吹かした。
「ふぅ……当たり前だな。この街では教養なんぞ二の次だ。そんなことよりも日々を生きる事に必死にならないと、ってことさ」
「……そっか」
ルークはしばし考える様に黙っていたが、やがてスレッガーにもう一つ尋ねた。
「じゃあ……ドナンの人々は?」
「なに?」
「この交易所に出入りしている人達は言ってしまえば、このロスト・タウン内でも余裕のある人達でしょう?」
ロスト・タウンという場所において『強さ』は絶対だ。
それだけでその人間には様々な権利が発生し、生きてゆくことに余裕が生まれる。
「だったら、知識が欲しい、と思う人はいないのかな?」
「まぁ普通の常識から離れた知識なら欲しいんじゃないか? 上手な死体の処理の仕方、とかな」
冗談めかしてスレッガーは言ったが、ルークは笑みを見せなかった。
「……教育は大事だと思う」
外の世界に出てルークは様々な事を学んだが、その中でも彼は『教育』と『芸術』に強い興味を示した。
後者に至っては彼個人の趣味であるが、前者は違う。
ロスト・タウンと外の世界との狭間に存在する最も大きな違いだと彼は思っている。
「ロスト・タウンを離れている間……僕は色々な事を学んだ。学術的なことだけじゃない。世界の広さや道徳や倫理観も」
その言葉を聞いてスレッガーは小馬鹿にするように吐き捨てた。
「はっ! 道徳? 倫理? そんなもんがこの街にあるかよ」
「それは大人達の言い分でしょう」
その瞬間――ルークの眼光は鋭さを増した。
「子供達には知る機会も権利も無く、ただロスト・タウンという場所に振りまわされている」
何よりも幼き頃の彼自身がそうだった。
脱却できたのは、たまたまルークは運が良かっただけだ。
この街で過ごす多くの子供達とは違い、彼には才能が在り、力があった。
そして――。
(――奇跡が起きた)
マリンダ=サザーランドに……手を差し伸べられた。
ルーク=サザーランドは大陸を旅する事で、己の見聞を広げる事が出来た。
本当の意味で、世界の広さを知る事が出来た。
様々な文字を知った。言葉を知った。
文化を知り、歴史を知り、法を知り、人を知った。
「大人達はこの街に逃げる様にやって来たのかもしれない。でも」
この街で生まれた子供達は?
無理矢理に連れて来られた子供達は?
彼らは力が無く、知識が無く、成長する間もなく、大人達の食い物になる。
「子供達は違うでしょう? この街で子供から道徳や倫理や知識を奪っているのは、この街の大人達だ」
「……」
スレッガーは口を開きかけたが、結局は目の前の少年を納得させられるだけの言葉が思い付かずに、黙した。
「……それで?」
無意味にスレッガーを非難したい訳ではないだろう。
いやむしろルークは街の現状に嘆いてはいても、少しでもロスト・タウンを変えようとしているスレッガーに対しては敬意を持っているくらいだ。
「……この子たちに教育をしたい」
少女達に目を向けてルークは言った。
「出来れば3人だけじゃなくて、もっと多くの、それこそドナン以外の外にも――」
「それは駄目だ」
ルークの言葉を途中で遮り、スレッガーは強い口調で言った。
「交易所が明るみになる恐れがある。それは許可出来ない」
「でも――」
「現実問題として。お前一人で何十人、何百人という人間に対して教育が出来るのか?」
「……それ、は……」
勢いの減じた少年に隻眼の男は畳み掛ける。
「無理だろう? 人間てのは万能じゃあない」
紫煙を吹かすスレッガーの言葉はどこか切なさを帯びていた。
「……」
「教材も無い。場所も碌に無い。人を集めることだけでも難しい。その上、まともな教師はルーク一人。さぁ、どうやって教育する?」
この件に関してはスレッガーの方が正論だ。
そもそも自分に教師が務まるのか、という葛藤もルークの中には在る。
「……」
「まずは手始めにドナン内でやってみればどうだ? そいつに関しては別に俺は何も言わんぞ。お前さんの自由だ」
スレッガーは楽しげに言うと、話は終わり、とばかりに背を向け、軽く右手を振りながら去って行った。
「……」
一人残されたような心持ちのルークが無言で佇んでいると、突き刺さる3対の視線に気付く。
何かを期待するかのように顔を上げる少女達3人の顔を見つめ……ルークは意を決して頷いた。
「……どうかな? 僕で良ければ……君達に色々と教えてあげたいことがあるんだけれど」
どこか自信なさそうに呟く少年の声に。
「「「はいっ!!!」」」
3人の少女は満面の笑みで元気よく返事をした。
そんな少年少女達を遠目に見つめている人影がいくつか存在した。
☆ ☆ ☆
「ねぇねぇ、それってあたし達も参加していいのかい?」
「……え?」
突然背後から声を掛けられたルークは振り返り、声の主に目を向けた。
「そうそう。実は俺達も興味あるんだよね」
二人の男女。
リーファン、ローファン、と名乗る双子の姉弟であった。
リーファンは腰元まで伸びる長い髪を首の後ろで束ねている、口元から覗く八重歯が特徴的な女性だ。
油断ならない鋭い目つきを振りまくリーファンは女性としては平均的な身長であるにも関わらず、男性でも着られる程の大きなコートを身に纏っていた。
違和感を抱く程ではないが、彼女の身のこなしと視線の動かし方を観察し。
(暗器使い、か……)
即座にルークはそう察した。
暗器使いは、騙し騙されが日常茶飯事であるロスト・タウンでは珍しくは無い。
彼女のような身長の女性がゆとりのある服を身に纏っている理由としては、暗器を忍ばせている可能性が最も高いだろう。
あの服の下には一体どれほどの武器が隠されているのだろうか。
短髪のローファンは、姉とは対照的に軽装だった。
大男という訳ではないが、レザーアーマーや小手の隙間から垣間見える筋骨隆々とした体躯には覇気が漲っている。
こちらは姉程挑発的な視線をルークに向けている訳ではないが、軽薄そうな言葉使いの裏側には、ルークを測るような思惑が透けて見えていた。
流石に双子というだけあり、二人の顔立ちは良く似ていた。
絶世の美男美女、という訳ではないが、共によく整った顔立ちをしている。
そして共通しているのは、やはりドナンに出入りしているだけのことはあり、どちらも強者であろうことだ。
紅牙騎士団を悪く言いたくは無いが、目の前の二人は騎士団員よりも強いだろう。
「参加……ですか?」
双子が近付き、恐怖の感情が3人の少女達の中に走る。
目聡くそれに気付いたルークは二人の視線から少女達を守るようにして歩み出た。
「いや……そんなに警戒しないで欲しいんだけどさ」
「この街で、それは無理というものでしょう」
「そりゃそうだ。ははっ! いやいやルークの言う通りだよ、リー」
少年はローファンに訝しげな目を向けた。
「どうして僕の名前を?」
「はぁ? 今やお前さんはこのドナンでは有名人だぜ?」
「え?」
「? なんだ、本人には自覚が無い訳か?」
意外な事を聞いた、という顔のルークにローファンは説明した。
「お前さんがこの前ぶっ殺した男……ダッソという名前だったんだが、あいつはこのドナンの中でもそれなりに一目置かれていた男でな」
ダッソは決して弱い人間では無かった。
むしろロスト・タウンという場所において尚、ダッソは強者であった。
それこそ、この双子が警戒心を抱く程度には。
「ところが、あっという間に殺された。それもまだ子供と言ってもいい年齢の少年に、だ」
もともとスレッガーが新入りを特別視している、という噂があり注目されていたが、まざまざと目の前で少年の力を見せつけられた。
リーファンとローファンは未だにあの瞬間に感じた肌を刺すような力の波動を明確に覚えている。
「しかもあの女王たるイゾルデと一緒に帰って来た、というじゃねぇか」
昔からロスト・タウンに住まう者ほど警戒した。
最近街を離れていた、あの悪魔が帰って来た、と。
「これで注目しない理由は無いだろう?」
「……そうだったんだ」
本当に自覚が無かったルークはぼんやりと呟いた。
「しかも今度はドナンの中で力も碌に持たない子供を相手に何かをやろうとしている」
今までのロスト・タウンでは無かった事だ。
馬鹿にしたり、無関心な人間も大勢いるが、少なくとも双子は興味を惹かれた。
「まぁ、だからあたし達も仲間に入れて欲しいな、と」
リーファンが微笑んだ。
優しい笑み、とは称せないが、それでも敵意を抱いているようにはルークには感じられなかった。
「……この子達に手を出さないと誓えるならば」
「もちろんさ。なぁリー?」
「まぁね。子供達には特に興味も無いしね」
肩を竦めつつリーファンが答え、彼女は妖しい笑みを浮かべながら、少女達に手を振った。
恐怖を感じていない訳では無かったが、少女達はルークが居る事もあり、曖昧に頷いている。
「まぁ……特に困る訳でもない……かな?」
こうしてルークの元に5人の生徒達が集まった。