第百三十話 凍える街の中で
ドナンという暗がりの空間の中で僕はぼんやりと徘徊していた。
既にスレッガーには鉱山でのあらましは伝えてある。
彼の睨んだ通り、あの場所が帝国の暗部であることに疑いの余地は無いだろう。
未だにあの鮮烈な死の光景が瞼の裏に焼き付いて離れてくれない。
僕は思考を振り払い、努めて考えまいとしていた。
スレッガーは帝国の暗部の一部を掴んだ事を大いに喜んでいたが、あの惨状を目の当たりにした僕としては何一つとして喜ばしい事など無い。
あの場所で苦しむ人を助けたいとは思うが、僕個人ではどうする事も出来ない規模だ。
闇雲に動いてもどうなるものでもない。
それにあの時は、鉱山から逃げるだけで精一杯だった。
ひとまずの報告を終えた僕とイゾルデは現状とりわけ何かやるべきことが有る訳でもない。
定まらぬ思考のままに薄汚れた床の上を歩いていると、幾人かの人間の視線が向けられた。
好奇の視線、嫌悪の視線、恐怖の視線。
ロスト・タウンではおなじみの瞳だ。
それらを意に介す事無く、僕が一人で暗闇の中に目を凝らすと、ふと叫び声のようなものが聞こえた。
女性……いや、少女の声だろうか。
次いで男の怒鳴り声も聞こえてくる。
「……」
その声色に不穏な気配を感じ取った僕は、声の出所に向かって歩き始めた。
幾ばくも歩く事は無い。
すぐに声の正体は分かった。
体躯に優れ、顎髭をだらしなく伸ばした醜い顔の大男が、さも楽しそうに首輪を付けられた少女の身体を振りまわしていたのだ。
時折、少女の顔を舐めまわしつつ、首が締め付けられる苦しみに歪んだ少女の顔を愉悦の表情で見つめている。
男の顔には喜悦が満ちており、下卑た笑い声は不快感しか誘わなかった。
「いやっ、やめっ……!」
少女は薄衣一枚とて身に纏ってはいない。
その大男の周囲には振りまわされている少女の他にも2人の少女が居た。
一様に顔は青ざめ、恐怖と絶望に彩られた表情。
彼女達はまるで奴隷のように大男の手に握られている鎖に繋がれた首輪を嵌められており、当然の如く裸だった。
いや、奴隷のように、ではない。
事実として、少女達はこの醜い大男の奴隷なのだろう。
ロスト・タウンでは決して珍しい光景ではない。
少女に限らず、少年が彼女達のような扱いを受けている事もあれば、容姿に優れた青年が熟年の女の奴隷になっているような場合とてある。
共通しているのはただ一点。
強者が弱者を支配している。
そんな単純明快な事実だけだった。
「……!」
そして。
僕は少女の中に見知った顔を見つけた。
いや、見知った、という程彼女の事を知っている訳ではない。
それは以前にイゾルデの根城で3人の男達に誘拐されていた少女だった。
あの後、やはり彼女はロスト・タウンで食い物になったのだ。
結局のところ、僕があの場で彼女を助けても邪な欲望を抱く別の男にこうして良い様に扱われている。
この街のルールに照らし合わせれば、弱者たる少女には何の権利も自由も無い。
こうして、犯され、嬲られるだけの人生。
半ば予想していた筈の少女の将来像。
しかし目の前にいざ突きつけられると、得も言えぬ苛立ちが僕を襲った。
「……」
知らず知らずの内に僕は硬く握り拳を固めていた。
醜い顔で少女を振りまわしている大男に向けて僕は声を掛けた。
「おい」
自分でも驚くほどに冷たい声だ。
あらかじめ僕の気配には気付いていたのだろう。
声掛けに大男は素早く反応した。
「なんだ、がき?」
その男は嘲笑するような表情で僕を見下ろしたが、それでも警戒心を捨てている訳では無さそうだった。
見定める様に目を細め、油断無いその全身は緊張感に満ちている。恐らくいつでも即座に臨戦態勢に入る事が出来るのだろう。
なるほど、その心根はともかくとして、弱者でない事だけは確かだ。
彼もまたロスト・タウンで生き、スレッガー達にドナンに出入りする事が認められた者なのだろう。
「なんだ、お前……? 俺に何か用か?」
「そうだ」
「ははは、俺の奴隷になりたいってか? お前は綺麗な顔をしているし、別に構わんぞ」
その声が。
その表情が。
僕の心を更に苛立たせる。
「今ここで」
嗤う男に対して変わらぬ表情で、僕は言った。
「彼女達を解放するか、それとも――」
一際鋭い視線で睨みつける。
「――今すぐ死ぬか。どちらかを選べ」
気付けば、僕達の剣呑な雰囲気を感じ取ったのか。
幾人もの気配が周囲に在った。
彼らは皆一様に興味深そうに僕に視線を向けている。
だが、何も構う事など無い。
「おい。俺の聞き間違いか? 俺を殺す、だと?」
「なんだ? 悪いのは顔だけじゃなくて耳もか?」
あぁ……あれだけ外の世界で立派な教育を受けたというのに、このような汚い言葉使いをしてしまうなんて。
パメラ女史が聞いたら、どれほど嘆く事だろう。
そんな葛藤が僅かに生じたけれど……この街では丁寧な敬語を話す事の方が滑稽な気がしたのだ。
その時少女の一人の視線が真っ直ぐに僕に向けられ、彼女は真ん丸な瞳を大きく見開いた。
僕の存在に気付いたのだろう。
やがて絶望に彩られていた彼女の瞳の中に……雫が僅かに覗いた。
「お前は俺を誰だと思ってる?」
「醜い顔をした男でしょう。付け加えるならば、一際不愉快な人格な上に性根が腐っている」
「……」
手に持っていた鎖を手放し、大男の瞳が据わったものに変化した。
無造作に床に投げ捨てられた少女は短い悲鳴を上げたが、誰も頓着しない。
ぎょろり、と大男の瞳が蠢き、同時に全身が撓み、その体躯からは想像も出来ない程の速度で床を蹴り、宙を走った。
「ぶらああああああああ!!」
遠吠えと共に、男の右腕が僕の眼前に迫る。
☆ ☆ ☆
ドナンに戻って来たスレッガーは、地下に入るなり、奇妙な違和感を感じた。
入り口周囲に誰も人がいなかったが、それはさして珍しくもない。
妙なのは人の気配を探ると、どうやら全員がドナンの最奥付近に集まっていた事だ。
そして。
(……戦場の気配)
戦場特有の緊張感があった。
嗅ぎ慣れた血の香りが鼻腔を擽る。
自然と足早に歩を進めると、すぐさま原因に突き当たった。
「が、がは……っ」
「……」
小柄な少年が自身の3倍以上はありそうな程の体躯を誇る大男の首を無造作に掴み、持ち上げていた。
男の全身からは四肢が捩じ切れている。不思議な事に両肘、両膝より先の部位が無くなっているにも拘らず、その鮮烈に千切れた箇所からは一滴の血も流れていなかった。
少年の瞳に色は無い。
体格差だけを見れば大人と子供以上に差がある。
だが少年の方が遥かに巨大な存在感を放っていた。
放たれる強大な魔力、場を支配する少年の研ぎ澄まされた気配が周囲を呑みこんでいる。
誰もが静まり返る中、スレッガーは駆け寄る様にして、声を掛けた。
「おいおい。これは一体どういうこった?」
周囲の緊張感を和らげるように、なるべく軽い口調で言う。
「……」
「一応、ドナンの中での私闘は禁止しているんだがな?」
特に明確な取り決めが在る訳ではないが、それでも暗黙の了解だ。
考えなしにロスト・タウンの人間を集めているだけでは、争いが生じるだけ。
しかしスレッガーの問いに応えるのは、少年の冷めた瞳だった。
「……私闘が禁止?」
奴隷として弱者を公衆の面前で辱め、苦しめることは許可されているのに?
「馬鹿馬鹿しい」と吐き捨てる様にルークは言った。
「何?」
「目の前に僕の苛立ちを助長させる屑がいた。だから殺したいな、と思った。何か問題ある?」
「それじゃあ」
「何か文句があるならば――」
鋭い瞳がスレッガーを射抜く。
「――実力行使に出ればいいでしょう?」
スレッガー程の男であっても、目の前の少年の迫力に思わずたじろいだ。
「……」
「この街は弱肉強食……それが唯一のルールなんでしょう?」
ルークは一瞬だけ茫然とした表情で少年を見上げる少女達に視線を向けた。
強い感情の迸りか、僅かにルークの身体は震えたが、すぐに落ち着いた表情に戻る。
「弱かったから……彼女達はこの屑に弄ばれた。そしてこの屑は……弱かったから僕に弄ばれた。それだけじゃないですか。そもそも屑しか居ないロスト・タウンで私闘が禁止だなんて」
嘲笑するように。
自嘲するように。
「私闘が禁止だなんて……寝ぼけた事は言わないでくださいよ」
その声はどういう訳か――哀しみに満ちていた。
未だに幼さを残す少年の言葉には不思議な重みが在る。
強者だけが用いる圧倒的な存在感。
それでいて、彼が身に纏う力強くも温かい迫力が周囲の人間達から言葉を奪った。
何故か……何故かはスレッガーにも不明であるが、目の前の少年は恐ろしい力を持っている筈なのに……それでも闇雲な恐怖心は感じない。
端正な顔立ちの少年の放つ、優しい表情とは裏腹の力のアンバランスさがそう思わせるのだろうか。
瞳を合わせていると、無視出来なくなってしまうような、それでいて惹きつけられるような……言葉にし難い魅力がルークには在った。
「……」
少年はスレッガーの返事を待たずに振り返ると、手に持っていた男の息も切れ切れの上半身を無造作に放り投げた。
目の前に落ちてきた憎き男の死に体。
少女達は不思議そうな顔で男を見下ろしていた。
「……好きにするといい」
ルークは少女達に優しい声音で続ける。
「必要ならこれも使うといいよ」
彼は土魔術で瞬時に3本の剣を生み出すと、少女達の近くにそっと下ろした。
少年は言っている。
『復讐を果たす機会を与える』、と。
彼自身、幼い頃に少女達と同じような立ち場に置かれ、長い間苦しんできた過去がある。
そしてルークが初めて解放の心持ちを得たのは、復讐を果たした時、あの憎き男を殺した瞬間だ。
外の世界の基準で照らし合わせれば異常な事なのだろう。
人を殺して解放される。
だが、この気持ちは同じ境遇にならなければ絶対に理解出来ない。
理不尽な暴力に晒された少女達。
それこそ彼女達は思い出すのも苦痛に思える扱いを、地獄の時間を、耐えがたい屈辱を、この醜い男から受けたに違いないのだ。
そんな心を僅かにでも癒す事が出来るとすれば、復讐が最も簡単で効果がある方法だろう。
おずおず、と。
3人の少女達は恐る恐る剣を手にすると、互いに顔を見合わせた。
そして目の前で今にも命の尽きそうな男の歪んだ顔が少女達を見上げている。
憎き憎き男の無様な姿。
一人の少女が嗚咽を漏らす様に声を出した。
「……ぁ」
強く強く。
少女は剣の柄を握り締めると両腕を精一杯に振りかぶり、力の限りに振り下ろした。
「うわぁああああああああっ!!」
剣腹が男の顔面に突き刺さり、鮮血が迸る。
その横で残りの二人の少女も剣を持ち上げ、男に向かって突きたてた。
何度も何度も。
狂気の声を上げながら、一心不乱に男に剣を突き刺していた。
既に事切れた男にも構う事無く、少女達は今まで自分達を理不尽に虐げ、弄び、苦しみの底に落として来た男にこれまでの鬱憤と憤怒と悲哀を叩きつける。
やがて体力が尽きたのか、血塗れで倒れ伏す男を見下ろしながら、少女達は剣の柄を離した。
そして。
「う、うぅ……」
震える手の平で顔を覆う。
「う、あぁぁぁ……」
少女達は堰を切ったかのように……さめざめと泣き始めた。
それは人を殺したという事実。
憎き男から解放されたという事実。
突然変わった世界に対する戸惑い。
そして――蓄積されていた少女達の感情の迸りだった。