第百二十八話 狂気
部屋を抜け出した僕とイゾルデは静まり返る廊下の中を歩いていた。
幸いにも入り組んだ廊下の構造は見通しが悪く、僕達が帝国軍人に見つからない様に歩く分には都合が良い。
元が鉱山内部ということもあり、手間が掛かるからだろうか。
どうやらあまり整地されていないらしい。
時折、反響する道の先から人の気配を感じても即座に身を顰めることが可能だった。
「イゾルデ……?」
「……こっちね」
意外な事に先陣を切って前を行くのはイゾルデだった。
彼女の足取りに迷いは無く、まるで何かに誘われているかの如く、すいすいと先へと進んでいく。
僕としても何か当てがある訳でもなかったので、素直にイゾルデの導きに従った。
そして。
いくらも歩く事無く、その場所は在った。
「……ここ、は?」
重々しく閉ざされた重厚な扉。
遮音結界に包まれたあの扉の先。
見張りの様な人間は居なかったが、そこは明らかに……異質な禍々しさを放っていた。
周囲に漂う名状しがたい歪な気配と……邪気。
(あの奥はいったい……)
何故か心臓の鼓動がどんどんと速さを増していき、自然と顔が強張り、息が苦しくなる。
僕とイゾルデは扉の先から誰かがやって来る気配を感じて、咄嗟に身を隠した。
室内から出てきたのは白衣の男。
研究者の一人だろう。
彼は気だるげな所作で部屋を出て行き、廊下の先を曲がって行った。
その時。
扉が開かれた瞬間に、部屋の内部の一部が見えていた。
すかさず転移を発動。
次の瞬間、僕とイゾルデは室内への侵入を果たしていた。
そして。
僕達は目にした。
――この世の地獄の光景を。
☆ ☆ ☆
結界は無い。罠の類も存在しない。
忍び込んだ室内のコンテナの木陰に身を隠しながら僕は部屋の奥へと目を走らせた。
「……」
とてつもなく広い空間だ。
天井は高く、壁はどこまでも続いているかのよう。
照明が少なく暗い室内に端から目を走らせてゆく。
そんな室内の右手側の壁沿いに真っ先に視界に入って来るものが在った。
巨大な魔法陣と幾人もの研究者……そして大勢の捕虜。
捕虜の人間達は誰もが眠りこけており、一人として目覚める気配は無い。
そして彼らは一様に……身体を固定されていた。
奇妙な棺桶のような箱に入れられているのだ。
彼ら捕虜たちは両手首を縛られたまま瞳を閉じている。
横一列に百人ほどの生きた人間が入った棺桶が並んでいた。
不気味な光景を見つめていると、一番手前に居た研究者が何やら奥へと合図を送りつつ呪文を唱え始めた。
すると……棺桶が一斉に光を放ち始める。
色合いとしては美しい青紫がかった光が室内を満たして行く。
しかし不気味な気配漂う、この室内においては不吉な予感しか覚えなかった。
「あああああああああああああああっっ!!!」
突然の絶叫が室内に響いた。
同時に室内に木霊するのは苦しげな呻き声だ。
棺桶の中から顔だけを突き出した人間達が一様に苦悶の表情を浮かべ、涙を流しながら嗚咽を撒き散らし始めた。
突然の事態に恐慌状態に陥りながらも、棺桶に入れられた彼らは自分達の置かれた立場を理解する間も無く、肉体を襲う苦しみに絶叫の声を上げる。
「がはぁ……ぁぁぁあああああっ!!」
一際大きい声を上げた一人の男性が真っ赤に充血させた瞳を見開いて、叫んだ。
「なぜ……っ!? こんなことを……っ!!」
恐らくあの場にいる捕虜たち全員の心の内を代弁するだろう一言だった。
「俺達は……何もしていないじゃないか!!」
天にも届けとばかりに彼は声を張り上げる。
てっきり鉱山夫としての労働を強いられるのだろうと予測していた彼らにとって、今受けている拷問のような仕打ちは予想外であった。
そもそも意味が分からない。
無知であることが、更なる恐怖を生み出しているのだろう。
「俺達はただ、普通に生活をしていただけなのに!!」
その言葉を聞いた一人の男が、ゆらりと身体を揺らしながら棺桶に近寄り、楽しげに口角を吊り上げた。
(あの男……!)
以前も鉱山内で見た男だ。
帝国の重鎮と思われる怪しい青年。
あの時と同じように帝国の紋章が刻まれた足元まで覆うほどの長いコートを身に纏っている。
今日は隣に傷跡の男を連れてはいなかった。
「余りお近づきになるのは危険では……レオナルド様」
白衣を身に纏った一人の研究者が青年を諌める様な声を掛けたが、青年は返事を返さなかった。
どうやらあの男の名はレオナルドというらしい。
レオナルドは棺桶の一つに近付き、男を見下ろす。
「ほぉほぉ。つまりお前はこう言いたい訳か?」
彼は充血した男の瞳をじっと見つめながら、苦悶の声を上げる男の頭を足蹴にした。
「自分達はただ平和に暮らしていただけだ。戦争なんてしていない。誰も傷つけていない。誰にも迷惑を掛けていない、と?」
問いかける様な口調。
「何も悪い事はしていないじゃないか、と?」
「そ、そうだ……!」
歯軋りをしつつ、男が頷くと青年はひどく楽しそうに微笑んだ。
「ははっ! あはははぁっ!! あはははははっ!!」
不気味に、怪しく。
それは心の奥底まで響いてくるような不快で、恐ろしい笑い声だった。
レオナルドの大笑は止まらない。
「本当に馬鹿だな、お前達は!!」
目元に涙まで浮かべるほどに笑いこけるレオナルド。
やはりどこか壊れているのだろうか。
抗議の声を上げた男もレオナルドを見上げ、何か恐ろしい物を見たかのように顔を蒼褪めさせている。
そして唐突に。
レオナルドはひとしきり笑い終えると大喝するように吠えた。
「俺はなぁ!? お前達みたいに、『毎日を平穏に暮らしているだけの人間』がこの世で一番嫌いなんだよ!!」
言葉と同時に足蹴にしていた男の顔を横合いから思い切り、蹴り上げた。
青年はかなりの魔力を足に込めていたのだろう。
鈍い音が鳴り響く。恐らく彼の首の骨はいとも容易く破壊されたに違いない。
男は為す術も無く、顔面を殴打され、そのまま意識を失った。
「あぁん? 死んだか?」
動かなくなった男の頭を踏みつぶしながら青年は溜息を零す。
「ちっ! まぁいいさ。代わりなどいくらでもいる」
そう言って隣の棺桶から顔を出している少女を見下ろした。
「なぁ? 君も俺に言いたい事……ある?」
「ひっ……ぁ……」
しかし恐怖に駆られた少女はまともな返答をする事も出来ずに、ひたすらに震えていた。
苦悶の声と名状しがたい恐怖。
少女の感情を表現し得るのは、頬を伝い続ける涙だけだった。
「くふふ、そうだ……お前たちは黙って俺の言う事を聞いていろ。そして俺の役に立ってくれればいいさ。ここでそうしている限り……俺はお前達を愛してやるよ、生きてる間はな」
呟きながらレオナルドは、今しがた殺した男の入っていた棺桶をこじ開けると、死後硬直も始まっていない男の身体を軽々と持ち上げ、その後頭部を掴みながら、全身を使って投擲した。
まるで人形のように死んだ男の身体は空中を滑って行き、やがて室内最奥の床に開けられていた巨大な謎の穴に吸い込まれていった。
「感染症が流行らない様にな。また今日中にでも一度『掃除』をしておけ」
「はっ。レオナルド様」
それはまるで汚物を片付けるような仕草だ。
「……ぇ?」
視線を飛んで行った男へと向けていた僕は思わず言葉を失った。
「……な、なんだ……これ?」
今まで気付かなかった。
「い、いったい何人の――」
壁沿いだけではない。
視界の中には見渡す限り――視界を覆い尽くす程の無数の人間の入った棺桶が並んでいた。
☆ ☆ ☆
思わず息を呑んだ僕の本能が警鐘を鳴らした。
(っ!!)
いつの間にか――背後に一人の男が立っていた。
「っ!!?」
「ふん……っ!」
顔に傷跡の走った男の拳が僕の前髪を攫っていく。
咄嗟に身を反り、男から距離を取った。
続けざまに追撃の一手が迫る。僕は結界を前面に展開し、傷跡男の拳の威力を減衰。
逆に相手の懐に入り込む形で全身を滑らせる。
しかし男は見事に脇を締め、僕の攻撃を防御すると、鮮烈な魔力を纏った蹴り足を振りかぶった。
既に隠密をしている時間は終わりを告げている。
すかさずイゾルデが全身から暗黒の魔力を沸き上がらせ、傷跡男に向かって魔術で生み出した黒腕を突き出した。
同調するように僕も男の背後に回り、拳を叩きつける。
「ちっ」
舌打ちと同時に傷跡男は僕の拳を回避し、イゾルデの黒腕を弾き飛ばした。
今の一連の動きを見ていただけでもやはり、目の前の男が優れた戦士であることは一目瞭然だ。
一瞬の攻防であったが、彼は見事に僕とイゾルデの攻撃を捌いて見せた。
そうして彼が距離を取った頃、レオナルドがこちらの異変に気付き、幾人もの部下を連れてやって来た。
「なんだぁ? どうした、ジョナサン」
「……侵入者だ」
短く一言呟いた傷跡男……ジョナサンは油断なく僕達を睨み、決してその視線を外す事は無かった。
「……強い」
「ほぉ。ジョナサンが褒めるなんて珍しいな」
僕達二人の姿を見下ろしながら、尚余裕の表情を崩す事無く、楽しげにレオナルドは嗤っていた。
「はははっ! どうやって入って来た? 凄いな、君達。いやぁ優秀だよ、うん」
「デロニアの切り札かもしれない」
「へぇ~? 敗残の国にも優れた人間ってのは居るもんだねぇ~」
レオナルドやジョナサンを前にしながらも、一瞬だけ室内全体に目を向ける。
(百人? 千人? いや、一体どれだけの――)
無数の人間棺桶。
この場所は何もかもが狂っていた。
息苦しく、悪意に満ちている。
人々の苦しむ嘆きと苦悶ばかりが充溢していた。
この空間の影響か、自然と自分の息が荒くなっているのを感じる。
「はははっ! そっちの少年は顔色悪いけど大丈夫? いやぁ~、それにしても二人は何、本当にデロニアの刺客なの?」
レオナルドは疑わしそうな声音だった。
「それってでもおかしいなぁ?」
平然とレオナルドは言ってのける。
「デロニアの上層部とはもう話が済んでいるだけど。侵略を止めてミルグラフトの採掘権利を一部譲ってやる代わりに、捕虜を寄越せ、っていったらあんたらの国のトップは喜んで話に乗ってくれたんだけどなぁ?」
嫌らしい笑みを浮かべながらレオナルドは続けた。
彼が話をしてくれると言うのであれば、情報の欲しい僕とイゾルデとしても悪いことではない。
ただ……話をしている間も、意外な事に彼に隙は無かった。
ジョナサンにばかり完全に自衛を任せている訳でもなさそうだ。
少なくともレオナルド自身も腕は立つのだろう。
とはいえ、見たところ、恐らくこの場で僕とイゾルデの二人にまともに対抗できるのは、目の前のジョナサン唯一人だ。他の軍人達に関しては、はっきり言って物の数で無いだろう。
そういった余裕が僕の心の中には確かに在った。
「……ジョナサン、勝てる?」
「俺一人だけでは厳しいかもしれんな」
「そう、そいつは凄いな」
ジョナサンの独白を聞きながらもレオナルドの表情は変わらない。
「いやぁ……キャシーも連れてくるべきだったかなぁ?」
そして――レオナルドは言った。
「まぁ居ないものはしょうがない……じゃあ――可愛い可愛い子供達においで願おうかな?」
直後、レオナルドが指を鳴らすと同時に、どこからともなく6人の少年少女達が現れる。
それは本当に突然の出現だった。
音も無く現れた彼らはレオナルドの傍で、付き従う従者の如く、そっと待機した。
似通った顔立ちの少年少女達だ、歳の頃は僕と同じくらいだろう。
帝国軍人の軍服に身を包んだ少年達は、どこか無感情そうな表情で僕とイゾルデを見つめていた。
「さぁさぁ。可愛い俺の子供達」
レオナルドが歌うように告げる。
「久しぶりの強敵だ。俺にその力を見せておくれ」
狂気に満ちた表情で高らかに述べたレオナルドの言葉に続き、少年少女達は僕とイゾルデに向かって突進を開始した。