第百二十二話 居場所
一体ここには元々は何があったのだろうか。
(広いな)
円形の大きな建造物。
既に天井は落ち、壁は剥がれ、吹き抜ける冷たい隙間風が絶え間なく流れ込んでくる。
それでも他の家屋に比べると少しばかり頑丈そうな印象を受けた。
室内前方にはまるでステージのような雛壇が設えてあり、そこかしこには椅子が転がっている。
色は落ち、暗く薄汚れた様からは、その面影は微塵もないが、この場所はかつて劇場か何かだったのではないだろうか。
適当な椅子に腰掛けようと試みるも、手を掛けた途端にバキリ、という虚しい快音を響かせながら、椅子の足が曲がり、壊れてしまった。
しかたなしに手近な壁にもたれ掛かるようにして床に腰を下ろし、ぼんやりと空を見上げる。
今や吹き抜けとなった天井の先に見える空はどこか精彩を欠いた青色だった。
街の中央に位置する目立つドーム状の古びた廃墟。
この場所こそロスト・タウンにおけるイゾルデの根城だった。
「少し出てくるわ」
しかし彼女は己の住処に帰ってくるなり、そう言って出て行く。
僕としてもイゾルデを引き止める理由は無い。
ぼんやりとした表情のまま彼女の背中を見送った。
「……」
視線を周囲に向ける。
やがて僕の瞳はとある一点で止まり……動かなくなった。
「……」
そこにはボロボロの薄汚れた額縁があった。
アゲハでは珍しくもない、どこにでもあるような風景画。
たいして優れているわけでもない、その絵画に僕の瞳は釘付けになった。
一体どれだけの時間――その名も無き風景画を眺めていただろうか。
「……ぅ」
こうして一人でいると。
絵画を見ると。
どうしたって考えたくは無かった思考が釜首をもたげる。
胸の内がさざ波、燃え上がるような熱が再び戻ってくるようだった。
なるべく考えまいとしていた。
無関心になれるように閉ざしていた感情が、あっけなく噴き出してきてしまう。
「メフィル、お嬢様……」
震えた声で愛しい主人の名を呼んだ。
いつも傍に居た彼女の姿は無い。在る筈がない。愚かな僕が自ら手放してしまった。
返事の無い僕の虚しい小さな叫びは暗闇に吸い込まれ消えていった。
彼女は今何をしているのだろうか。
ちゃんとご飯を食べているのだろうか。
相変わらずアトリエで絵を描いているのだろうか。
彼女はアトリエに篭ると食事を蔑ろにしてしまう傾向があるから注意が必要だ。
夜遅くまで勉強をしている時には御自愛なさって欲しい。
最近は冬が到来しており、夜は冷える。
向上心が高い事は尊敬に値するが、どうか風邪を引かないように健やかに過ごして欲しい。
学院ではどう過ごしているのだろうか。
突然居なくなった僕のせいで迷惑を被っていないだろうか。
「……」
無数の思い出が次から次へと蘇り、胸の苦しみが重さを増して行く。
本当に正しい選択だったのか。
彼女の傍を離れたのは――。
いやしかし、あの場で僕が引かなければ、間違いなくイゾルデはお嬢様を手に掛けただろう。
彼女が容赦するとは思えない。
主人を護りながら、あのイゾルデと戦う?
(……無理だ)
そんなことは不可能だ。
「情けないなぁ……」
掠れた呟きが漏れた。
本当に……情けない。
あれだけ護ると啖呵を切っておいて、あっけなく僕はイゾルデに降る決断をした。
唯一の救いはイゾルデが約束を守ってくれた事だ。
彼女の雇い主を直接に見た訳ではないが、イゾルデは本当にメフィルお嬢様に刺客を刺し向ける事を止めさせたらしい。
明確な言葉は濁した彼女であったが、どうやら脅迫めいた事をしたそうだ。
確かめる術は無いがイゾルデに嘘を言っている様子は無い。
実際にイゾルデと共に在った人間ならば、彼女に逆らう事の恐ろしさを良く知っているのだろう。
「僕は――何を――」
何度も何度も自問した。
結局の所、僕は何をすべきだったのか。
もっとあがけたんじゃないのか。
もっともっと活路を見出すために努力をするべきだったのではないのか。
決死の覚悟でメフィルお嬢様の傍に居るべきだったのでは――。
(その結果、最悪の事になったら?)
「くそ……」
そう考えると、結論はいつも同じ。
幼少期に覚えた鮮烈な恐怖心が僕の気を挫く。
イゾルデの恐ろしさに心を凍てつかせ、母親を殺したかもしれない女の言い成りになっている自分。
それでも『メフィルお嬢様を護る為だった』、と。
そんな言い訳を――。
「……」
寒空の下。
荒れ狂う感情に押し流されぬように必死に心を殺し、僕は瞳を閉じた。
☆ ☆ ☆
一人取り残された僕は長い間……静かに黙し、一人佇んでいた。
どれぐらいの時間が経過したのかは分からない。
ふと、幾人かの人間の気配を感じた。
(イゾルデじゃない)
それぐらいは分かろうと言うもの。
どこか慎重な足付きで極力気配を殺しながら3人組の男達が劇場跡にやって来た。
まるで隠れる様にしてステージ裏に入って行く。
どうやらここがイゾルデの根城であると知らないようだ。
無知とは恐ろしい。
いや、もしかしたら彼女がこの街を離れている間に、イゾルデに対する恐怖心が薄れたのかもしれない。
もしくは既に消えたと信じられているか……。
まぁどちらでもいい。
彼らはコソコソと呟きながら、何やら口汚く罵り合っている。
「ふざけるなよ、お前……っ」
「何がだ? 俺が手にした獲物だろうが」
男達は何やら大きな麻袋を引きづっていた。
(あの大きさ……中身は人間か)
軽く目を向けただけであったが、間違いないだろう。
「はぁ? それで何でお前の物になる? 俺達にも分けろ」
「折角久しぶりに捉えた上玉だ、冗談じゃねぇ!」
「ふざけるなよ! 両親を殺してる間にてめぇがかっさらっただけだろうが!」
次第に熱くなっていく3人の男達。
その口ぶりからして、女性を捉えでもしたのだろう。
(この街で徒党を組むと碌な事にならない)
元来まともな人間がいないので、あのような争い事が生じるのは自明の事であった。
そう考えると、ロスト・タウンという場所において、『ドナン』を取りまとめていると思われるスレッガーの力量というのは、もの凄まじい。
カリスマだけでは説明がつかない。
よほど上手にドナンの人間達が利益を感受できるように調整しているのだろう。
その時、微かな呻き声が袋の中から聞こえてきた。
「誰か、助けっ」
しかし言葉の途中で素早く麻袋を一人の男が蹴り上げる。
容赦ない一撃が深々と袋に突き刺さり、大した強度もなかった袋がいとも容易く破れた。
苦しげな嗚咽を洩らしながら、零れ出る様に姿を現したのは、未だ10代と思しき少女だ。12歳程度だろうか。
よほど当たり所が悪かったのか、彼女は呼吸することすら辛いのか、蒼白な顔で胸を抑えていた。
「喚くんじゃねぇよ」
ドスの利いた低い声音で男が言うと、恐怖に顔を引き攣らせた少女は涙を流しながら小さく顎を動かした。
少女はこれから自分を襲うだろう将来を想像でもしたのか、瞳の中から光がやがて消えていく。
この街では日夜行われている有り触れた光景だった。
珍しくもない。
あの男達の方が、あの少女よりも強かった。
この後、あの少女は男に嬲られるだろう。
それだけだ。
この街では当たり前。
当たり前の出来事。
当たり前の日常、その筈だ。
その筈――なのに。
「……」
気付けば僕は立ち上がっていた。
気配を殺すこともしない。
ただ静かに僕は男達に目を向けていた。
今の今まで僕の存在に気付いていなかったのだろう、男達が一斉に振り返り、臨戦態勢を取った。
その動きは機敏で素早い。
伊達にこの街で生きてはいない。
その時、少女の瞳が僅かに起き上がり、僕の視線と交差した。
絶望の淵に落とされ、色を失くした瞳だ。
不意に――反射的に僕は微笑みを浮かべていた。
「……」
何故だろうか。
彼女を安心させてあげたかったのか。
敵ではない、と教えてあげたかったのか。
いや、理由など無いのかもしれない。
何も考えずとも年下の少女相手に友好的に接するのは当然だ。
そうだ。
僕は少なくともそう思っている。
そんな風に僕を教育してくれた人達が居た。
「なんだ、ガキ?」
「――失せろ」
間髪入れず、出来るだけ冷徹に聞こえるように低い声を出した。
すると一人の男がすぐさま動く。
話し合いをするぐらいならば、その間に敵を殺してしまえばいい。
そう考えたのだろう。
なるほど、無駄口を叩く事が無いだけ、彼は少なくとも優秀な戦闘魔術師であった。
でも。
「聞こえませんでしたか?」
不意打ち気味に僕へ攻撃を仕掛けた男の右腕に持ったナイフが制止している。
ついで、僕の背後に回っていたもう一人の男も。
少女の傍で魔術を用意していた男も。
全員が動きを止めていた。
否。
僕が強引にその足を大地に縫い付けていた。
彼らの周囲には結界が発生しており、男達を閉じ込めている。
目を見開く男達も今の一瞬だけで己との力量の違いを悟ったのだろう。
「くそがっ!」
なんとか全力で魔力を迸らせ、僕の張った結界を破壊し、その後一目散に逃げ出した。
この引き際の良さも、ロスト・タウンで長生きをするためには必要な事だ。
僕は追うこともせずに、一瞥しただけで男達の背から視線を外した。
少女に目を向ける。
俄かに光を取り戻した少女の瞳。
そしてロスト・タウンでは見ることは滅多に無いだろう程に美しく整えられた衣服。
(外から来たばかりの人間、か)
故にカモにされたのだろう。
どうしてこの街にやって来たのか。
そんな事情は分からないし、興味もない。
重要な事は唯一つ。
(この子には……)
この街で生きていく為の……力が無い。
「立てますか?」
僕がなるべく優しく声を掛けると少女は意外な事に素直に頷いた。
その顔には先程までの様な恐怖の色は無い。
年齢が比較的近い事も関係しているのか、警戒心を抱いてはいないようだった。
しかしそんな彼女の様子を見ていた僕は決して安堵は出来なかった。
(これでは……生きていけない)
力が無く、この街の常識も知らず、これだけ無警戒の少女。
どうして彼女が一人でこの街で生きていけるのか。
不可能だ。
このまま放っておけば、明日にでも彼女は屍と化すだろう。
運が良かったとして、欲に塗れた男共に捕まり、奴隷として嬲られる日々が続くだけだ。
「……」
一歩、彼女に近付いた。
少女の肩は反射的に震えたが、逃げる素振りは無い。
僕は丁寧に膝を折り、視線を合わせた。
「……僕の名前はルーク」
そうして手を差し伸べる。
例え自分がどのような境遇にいようとも。
例えメフィルお嬢様と離れようとも。
例え己の望み通りに生きることが叶わなくとも。
力無き少女を見捨てていい理由になど……決してならない。
『貴女の名前を教えてもらえませんか?』、と。
尋ねようとしたルークの背後から、冷え切った声が響いてきた。
☆ ☆ ☆
「――なに、その小娘?」
惜しげもなく他者を威圧する殺気を振り乱しながらイゾルデは視線を少女に向けている。
鋭く細められた瞳に覗きこまれた少女の顔は男達に囚われていた時以上に蒼く染まっていた。
その迫力はあらゆる生命に本能的な恐怖を与えるのだろう。
「ひっ!」
恐れ慄き、少女は震えた。
白馬の王子様に救われたと思った矢先に死神が現れたのだ。
その死神は少女に向かって突然右腕を振りかざし、あの黒腕で殴りつけようとした。
「何を!?」
ルークが慌てて立ち上がり、イゾルデの攻撃から少女を守る。
しかし彼女は忌々しそうに顔を顰め、底冷えのする声で短く告げた。
「失せろ……」
間違いなく少女に向けられただろう言葉。
そして本気の殺意。
再びイゾルデの黒腕が生み出された時には少女は一目散にこの場から逃げ去って行った。
「……ぁ」
ルークは去って行く少女の背中を見つめ、彼女がこの先、この街で生きていけるのかどうかについて思案を巡らせた。
しかしすぐに彼は気付いた。
自分の傍に居る方が危険なのだ、と。
イゾルデに敵意を向けられる。
それ以上の恐怖、死の訪れが果たしてあるのだろうか。
そんなものは無い。
自分もそう考えたからメフィルの手の平を離したのではなかったか。
「……」
去って行く少女の背中。
ルークには、それが何故だか敬愛する主人の背中に重なって見えた。




