第百十五話 災厄を呼ぶ者
蒼く澄み渡っていた空が突如として暗黒に包まれていく。
天空を閉ざし太陽の光を呑みこんでいく黒い黒い邪悪な光。
そのどこか歪んだ黒色が周囲を染め上げる。
まるで霧の如く、しかし霧よりも確かな存在感を持った正体不明の黒い光。
それが露店を、家々を、花々を、そして人々に影を落として行く様は異様な光景である。
余りにも突然の出来事故に誰もが不可思議な表情のままに首を傾げていた。
たった一人。
ルノワール=サザーランドを除いて。
「これ……っ……て」
茫然とした声で少女は呟いた。
空を見上げ周囲の変化の様子に目を傾けたルノワール。
普段は覇気に満ちているその顔に次第に絶望の色が広がっていく。
肌を刺す強烈なプレッシャー。
ルノワールはこの魔力を知っている。
この気配に身に覚えがあった。
「嘘……でしょ……?」
幼き少年時代に誰よりも恐れた力。
全てを壊し、全てを殺し、全てをひれ伏せさせた――彼女にとっては忌むべき過去を想起させる暴力の象徴だ。
薄汚れた地獄が、ルノワールを手招きしている光景を彼女は幻視した。
同時にルノワールは静かな足音を聞いた。
これだけ大勢の人がいるにも関わらずルノワールは唯一人――その女の足音だけを確かに聞き分けていた。
「……そん、な…………っ」
ゆっくりと。
徐々にその気配はルノワール達の方へと近付いてきている。
視線を気配の先へと向けると――ルノワールの視界に一人の女の姿が在った。
「あ……ぁ……」
自分を見つめる視線を受け止め、彼女の膝に震えが走る。
額から大粒の汗を垂れ流すルノワールの唇は蒼白であった。
戦鬼ドヴァンを前にしても決して怯えず、果敢に立ち向かった少女の顔にその時――確かに恐怖の色が広がったのだ。
「ルノワール?」
明らかにルノワールの様子がおかしい。
よろめく己の従者にメフィル=ファウグストスは声を掛けた。
「ちょっと……どうしたの、貴女? 顔色が……」
彼女にとっては周囲の暗黒よりもルノワールの変調の方が気がかりだ。
しかし蒼い顔色のまま佇むルノワールは主人の言葉が耳に入っていない。
今この瞬間、彼女の意識は唯一人に向けられていた。
どうしようもない程の恐るべき魔力を撒き散らす破壊の魔女。
悪魔の微笑む声が聞こえてきた。
吊りあがった口角は妖艶な美しさに満ちている。
「あっははぁ……」
禍々しい魔力の色を象徴するかのような黒ずくめの衣装だった。
背中まで露出した薄地の黒いドレスは丁寧に縫い込まれた極上品だ。
肩口からは緩やかに帯が流れており、その線がまるで翼のようにはためいていた。
全体的にどこか淫靡な印象を醸し出す漆黒の出で立ち。
それは然るべき場所であれば、身に纏っている本人の美しさも相まって、さぞや異性の目を惹くに違いない。
「…………なん、で……?」
声は掠れ、喉がからからに乾き、ルノワールは小さく呻いた。
信じたくはない。
夢であって欲しい。
しかし認めたくない現実が目の前に降りかかる。
末恐ろしい程の強者の覇気に中てられたかのように彼女は身動き一つ出来なかった。
ルノワール程の戦士であっても。いやルノワール程の戦士だからこそ。
眼前に迫る脅威の異常さを鮮明に感じ取っていた。
「ちょっと……ルノワール?」
メフィルが、黒ずくめの女を茫然自失の表情で見つめるルノワールの手を引こうとした時。
「会いたかったわ、ゾフィー」
群衆のざわめきの中にあって尚、その声は明瞭に響き渡った。
慈愛に満ちた温かな声音。
まるで高名なオペラ歌手の如き、美しい声だ。
端麗な容姿と合わさり、何も知らない第3者が彼女を見たならば、役者と見紛う事だろう。
「本当に……ずっとずっと……会いたかった」
熱を帯びた視線をルノワールに向ける黒ずくめの女。
彼女はその瞳に涙まで浮かべ、一心不乱にルノワールに語りかけていた。
「ずっと探していたの」
「あの日、貴女が憎き女に連れ去られてから、ずっと」
「一生懸命に探したのよ? 本当に長い間」
「だって貴女がいないと寂しくてしょうがないもの」
「貴方がいないとこの世は醜くて醜くて耐えられない」
「心が壊れてしまいそうだった」
矢継ぎ早に言葉を重ねる女は茫然としたルノワールの様子に気を配る事も無く、ただひたすらに己の気持ちを吐き出した。
「ねぇ、だから――」
そこで一際大きく微笑んだ。
それは優しい微笑みではない。
ただ己の欲望のためだけの――。
「また私のものに――なってくれるわよね?」
そう言って彼女は暗黒の魔力を更に広げていく。
世界が暗闇に包まれ、誰もが不安げな表情で戸惑う中……イゾルデの表情だけは歓喜の感情で満ちていた。
☆ ☆ ☆
手足が自分でも驚くほどに震えていた。
喉の渇きは決して収まらず、上手く言葉を発する事が出来ない。
思考は定まらず僕はただただ立ちつくしていた。
僕は今――目の前の存在に恐怖している。
忘れたくとも忘れる事など出来ないロスト・タウンでの日々。
薄汚く醜い己の血に塗れた姿が自然と想起された。
「また私のものに――なってくれるわよね?」
「……っ!」
身体と心臓がびくりと跳ねた。
あの笑顔だ。
得体の知れない不可思議な瞳が僕の心の奥底まで見通す様に細められている。
匂いだけは昔と違い、払拭されていた。
あの鼻を刺すような刺激的な血の匂いは今のイゾルデからは感じない。
しかしそれでも彼女の血に塗れた心に変化があるようには思えなかった。
それが一際僕に異常さを感じさせている。
逃げねばならない。
逃げなければ。
そうは思っても焦るばかりで、一向に肉体は動かない。
まるで蛇に睨まれた蛙のように僕の足は地に縫い付けられていた。
「ねぇ、ゾフィー?」
古の伝説の悪魔の名前を呼びながら僕に迫るイゾルデ。
「……ぁ」
彼女が一歩近付いて来る度に、僕は思わず尻込み、一歩後退した。
反射的に思ったのだ。
彼女から離れたい、と。
その時、明らかに動揺している僕の隣から強い声が聞こえた。
「どちら様でしょうか?」
メフィルお嬢様が毅然とした態度でイゾルデの前に立ち塞がった。
目の前の黒ずくめの女の異常性には気付いているだろうが、それでも尚、彼女は歩み出る。
その気高い背中は僕を守ろうとしていた。
「はぁ?」
一瞬にして魔女の表情が歪んだ。
僕の前で両手を広げてイゾルデを見つめるお嬢様の姿を確認すると、恐ろしい魔女は美しい声で苛立ちの言葉を放った。
いや苛立ちどころでは無い。
「殺すぞ」
いきなりの脅迫。
それはひどく無機質で無感情な響きを伴っていた。
そして僕は知っている。
イゾルデは冗談を軽々しく言う様な女ではないことを。
「えっ」
流石にこのような反応は予想外だったのだろう。
余りにも話の通じないイゾルデの対応に戸惑いの声を洩らすお嬢様。
しかし魔女は意に介す事無く、鋭く叱咤するように言った。
「邪魔をするな……」
その眼光の鋭さたるや。
かの戦鬼ドヴァンを遥かに凌駕するだけの迫力があった。
この短いやり取りの間だけでもメフィルお嬢様は大凡理解した筈だ。
イゾルデには真っ当な話し合いなど到底通じない事を。
据わった目つきで、イゾルデはお嬢様を一瞥し、すぐさま視線を僕に戻した。
「さぁ、行きましょう?」
僕に向かって優しく手を差し伸べるイゾルデ。
これだけは変わりない。
彼女は昔から何故か僕にだけは優しかった。
どういう訳かは分からないが、イゾルデは僕を気に入っており、いつだって自分の物にしたいと望んでいた。
そして、それは、今も。
「もう離さないわ」
にっこりと。
聖母のように微笑む彼女の笑顔の裏側に蔓延る黒い黒い感情。
得も言えない恐怖が心の奥底で沸き上がる。
「ちょ、ちょっと……っ!?」
勝手な事を捲し立てるイゾルデの言い様に眉を顰めたメフィルお嬢様が抗議するように強い口調で言った。
「さっきから何を勝手な事ばかり!」
「あぁ?」
「ルノワールは私の従者です。それをまるで――」
メフィルお嬢様が「私の」と言った直後に、イゾルデの様子が変貌した。
「私の?」
魔女の瞳が妖しく輝き、美しい眉根は厳しく歪められていく。
抑えきれぬ感情の発露だろうが、その全身からは更なる黒い魔力が滲み出始めていた。
「私、の?」
彼女は指先を弄ばせながら、言葉を繰り返す。
「ふふふ、あはっ。あはははぁ……」
ひとしきり暗い暗い笑みを洩らし。
やがて。
「お前のじゃあ……ねぇだろうがぁっ!!」
突然の怒声。
狂気の入り混じった大音声が周囲一体に響き渡る。
まるで声そのものが力を持っているかの如く、人々は震える身体を押さえつけ蹲った。
先程までは辛うじて、異常さの中にも淑女らしさを残していたイゾルデだったが、今の彼女は――。
「ひっ」
思わず小さく悲鳴を上げるメフィルお嬢様。
イゾルデの恐怖をよく知っている僕の心臓も寒く凍えてしまいそうだった。
長い髪を振り乱しながらイゾルデが叫んだ。
「「私の」だとぉ? 違う違う違う!!」
目を血走らせた魔女の雄たけびが風に乗って木霊していく。
「ゾフィーは私のもの!!! 私から可愛いゾフィーを奪った忌々しいあの女といい、お前といい、ふざけたことばっかり抜かしやがって!!」
「邪魔すんじゃねぇよ小娘がうっとおしい!!」
「お前もあの女みたいにしてやろうか!!?」
矢継ぎ早に怒声を迸らせたイゾルデが悠然とメフィルお嬢様に向かって、にじり寄った。
「っ!!」
「……あら、ゾフィー。どうしたの?」
僕がお嬢様の前に出て、主人を庇おうと両手を広げるとイゾルデは不可思議そうな顔で首を傾げた。
その表情からは怒気はすっかり消え去っている。
奇妙なほどの態度の変化だ。
(怖い)
それが正直な感想だった。
僕は昔から、誰よりも、イゾルデという女の凶暴性、そして強さを知っている。
同じ強者であっても、戦鬼ドヴァンとは質の違う異常性。
説得が通じる筈も無く、ドヴァンのように誇りを持っている訳でもない。
彼女がその気になれば一瞬にしてアゲハの街並みは灰燼と化すだろう。
(イゾルデを止められるだろうか?)
恐怖を押し殺し、冷静に自問する。
あれから僕だって随分と成長した。
5年前は手も足も出ない程の絶望的な差があったけれど……ひょっとすると今ならば。
そんな思いを持ってイゾルデと相対していると、無意識の内に僕の魔力が少しずつ溢れだしていた。
暗黒の魔力に包まれた周囲一体に僕の白い魔力光が少しずつ浸透していく。
「まぁっ」
強い瞳でイゾルデを見つめていると彼女は楽しそうに破顔した。
今僕は臨戦態勢を整えている、つまりイゾルデに敵対しようとしているというのに……何故彼女は嬉しそうに微笑んでいるのだろうか。
(考えても分かる訳無い、か)
昔からそうだ。
イゾルデの思考など、彼女本人にしか分からない。
異常極まる女の思考回路など僕には想像すら出来なかった。
「まぁまぁ! うふふっ」
「何が……おかしいのですか?」
ここにきてようやく。
僕はイゾルデに真っ当な言葉を投げ掛けた。
するとやはり彼女は一層歓喜の表情を作り、微笑んだ。
「だって……『綺麗』だな、と思って」
そしてあの、まるで他者の心の深淵を覗き込むかの如き恐ろしい瞳でもって僕を真っ直ぐに見つめた。
「訳が……分かりません」
「あはっ……あははぁ……」
不気味に微笑む彼女の手の平が僕に向けられる。
「あぁ……やっぱり……」
次の瞬間。
「私は……貴女が欲しい」
渇望の呟きを洩らしたイゾルデの全身から一層どす黒い魔力光が放たれた。