間話 魔女の足音
その日、メフィルとルノワールは二人揃ってアゲハの広場へと出掛けて行った。
なんでも今日は種々様々な大道芸人達が、広場から市場にかけて個々人のスペースを借りて、出し物をするお祭りのような余興があるらしい。
それは物々しい政争や戦争など関係が無い平穏な時間だ。
仲良く屋敷を後にする少女達の背中を見送り、ユリシア=ファウグストスの顔には自然と慈母の如き微笑みが浮かんでいた。
「ふふっ、まるでデートね~」
執務室の窓から晴れ渡る快晴の青空を見上げながら、彼女は温かな気持ちになった。
混沌としていく王国の気配を感じつつも、ユリシアは「己の娘だけはどうか……」と、利己的な願いを抱く。
誰になんと言われようが、彼女の信念は変わらない。
最大の望みは唯一つ。
メフィルの安寧。最愛の娘の幸せだ。
そのためのルーク=サザーランド、そのための……『ルノワール』。
彼女は先の一件でも戦鬼ドヴァンを撃ち破り、見事にメフィルを救ってみせた。
直接目にした訳では無かったが、彼女の放った奥義はもの凄まじい魔術であったらしい。
戦場での彼女の活躍を報告に来たディルの興奮した口調。
それがルノワールの実力を如実に物語っていた。
流石に我が親友たるルノワールは信頼に値する。
彼女がメフィルの傍に居てくれている限り、大丈夫だろう、とユリシアは思っていた。
「はぁ~。わたしも誰かとデートしたいわねぇ~」
苦笑しつつ彼女はぼんやりと空を眺める。
独り身になってから随分と経つが、なんだか娘が成長するにつれて、一層寂しさを感じるようになっている気がした。
「そろそろかしらね~」
心の中に親友の顔を思い浮かべる。
瞼の裏に映し出されるのは、真紅の髪を靡かせた、力強い背中だった。
事前の報告では、今日か明日の内には帰って来ると聞いている。
――紅牙騎士団の団長マリンダ=サザーランドが。
王宮や貴族達の中に混乱が走り、暗雲が立ち込めている王国。
その目的は未だに掴めないが、テオ=セントールの背後にいる黒幕が動き出すとすれば、今だろう。
しかし。
マリンダさえ帰って来てくれれば状況は変わる。あらゆる障害を乗り越える事が出来る。
そう信じる事が出来た。
誰よりも頼りになり、誰よりも強い。
ルークもディルもグエンも健在、その上に彼女がミストリア王国に帰ってくれば、もはや百人力だ。
紅牙騎士団が揃い踏めば、恐れる物など何一つとして存在しない。
そう。
この時確かに――ユリシアは、そんな風に思っていた。
直後。
ズンッ……という鈍い音と共に激しく屋敷の結界が鳴動した。
「!? なに……っ!?」
(誰かが屋敷に攻撃を仕掛けてきた!?)
咄嗟にそう考えたユリシアの部屋の扉が平時よりも乱暴に叩かれた。
ドンドンッ、と扉をノックする音がユリシアの耳に聞こえてくる。
「失礼します」
やって来たのはエトナだった。
いつもは落ち着いた雰囲気を身に纏う彼女であるが、今日だけは焦りの表情を浮かべていた。
一家の長たる者が動揺していては、その混乱は伝播していくことだろう。
屋敷の使用人の慌て方を見て、逆にユリシアは落ち着きを取り戻していた。
「何事かしら? というかさっきの音は何?」
「あっ! さっきの音は紅牙騎士団の方が屋敷の結界にぶつかった衝撃です」
つまり敵の襲撃ではないのか。
「ぶつかった、って……」
「何やらひどく慌てた様子でしたので……結界の存在を忘れて門を潜ろうとしたみたいです」
「はぁ……?」
それは一体どういうことだろうか。
というか、そんな間抜けな団員が紅牙騎士団に居ただろうか?
「誰?」
「ディル様です」
エトナの報告に、ユリシアは小さくない驚きを覚えた。
(あのディルが?)
ディル=ポーターは平時から軽い態度を崩さない軽薄そうな男ではあるが、その実、中身は冷静沈着な頼れる紅牙騎士団の参謀である。
「そのディル様が至急の報告がある、と」
「一体何が――」
あったのか、と。
ユリシアが質問を投げ掛ける前に、荒々しい足音が廊下を木霊した。
視線を向けると、そこに居たのはディル=ポーターである。
「ディル?」
ユリシアは訝しげな表情になった。
ディルの様子が明らかにおかしい。
碌に手入れをしていないだろう、くすんだ金髪はいつも通りだが、あの眉間に寄った皺は何事か。
真剣な眼差しは、戦場での彼の姿を彷彿とさせるほどに険しかった。
普段の彼は常に飄々としており、余裕の態度を崩さない。
だが今のディルから平時の様子は微塵も感じられなかった。
「ユリシア様っ!!」
声を荒げる様な大音声。
彼は一目散にユリシアの前まで走り寄って来た。
「何が――あったの?」
間髪入れずにユリシアは尋ねた。
とてもではないが良い報告が舞い込んできたとは思えない。
ディル=ポーターがこれ程までに動揺しているのだ。
覚悟を決めたユリシアの眼前で、ディルは頭を下げる事も忘れて、嘆く様にして言葉を吐いた。
「団長が……っ!」
団長……マリンダのことだろう。
その時、ユリシアの鼓動が確かに跳ねた。
「マリンダ、が?」
努めて冷静であろうとしたユリシアの抵抗虚しく――続く言葉が耳朶を打った。
「団長が……討たれました……っ!!」
まるで時が止まってしまったかのように――ユリシアの思考が停止した。
☆ ☆ ☆
大勢の人々が行き交う盛況なる街並み。
その活気の中に二人の少女の姿が在った。
「すすす、すごいですねっ!」
「あ、こら、ルノワール? 全くもう。少しは落ち着きなさい」
興奮気味に目を輝かせたルノワールは鼻息荒く言う。
「だ、だってあの人火を食べましたよっ?」
今目の前で見せられた大道芸のおじいさん。
彼は手元に用意した棒の先端を燃やし、そのまま火球を口の中に放り込んで見せたのだ。
「全くこの子は……」と、内心で微笑ましく苦笑しつつ、メフィルはじーっと大道芸と己の従者を見比べて言った。
「うーん、でもあれって貴女にも出来そうよね」
割と本気の口調で楽しそうにメフィルは囁いた。
「へっ?」
突然の主人の呟きに慌てふためき、
「そ、そのような怖い事を仰らないでくださいっ」
懇願するようにルノワールは情けない表情を作った。
「ふふ、冗談よ」
そんな彼女が可愛くて。
メフィルは心からの微笑みを浮かべた。
今日の青空はどこまでも澄み渡っており、見上げれば満天に美しい青色が広がっている。
冬の到来を告げる風はほんの少しだけ身に染みるけれど、それ以上に心は満たされていた。
天気に比例するかのように活気づいた街並み。
街をより美しく彩る人々の笑顔。
それはメフィルの心を否が応にも、明るいものにさせた。
これほど良い日和に恵まれたのは彼ら大道芸人達の日頃の行い、頑張りの成果が実ったと言うべきだろう。
街中には大道芸人達だけではなく、それに伴い、出張店舗という形で小物売りや食事用の屋台が並び、道によっては、長蛇の列で中々進む事が出来ない、というような場所もあったぐらいだ。
「あっ! お嬢様、あれはなんでしょうか!?」
「もう。ルノワール、はしゃぎすぎよ?」
「あ、あぅ……申し訳ありません」
「まぁいいけれどね」
口元に手を当てつつ、ふと何かに思い至ったかのようにメフィルはルノワールに尋ねた。
「あなたって大陸を見て回っていたのだから、こういう祭りもたくさん見て来たんじゃないの?」
「えーっと、そうですね……」
可愛らしく小首を傾げ、思案顔を作るルノワール。
「いえ、でもここまで盛況なお祭りはアゲハが初めてです」
「そうなの?」
「そうです!」
二人は様々な芸を見ながら、時に目を丸くし、時に心を弾ませ、時に互いに微笑み合っていた。
――『この時』までは。
☆ ☆ ☆
「ふふっ……あははは……」
それは決して野卑ではないが、どこか恐ろしい感情の籠った笑い声だった。
目を見張るほどの美しい声色であるにも関わらず、どこか恐怖を誘発するような嬌声だ。
「くふ、ふふふふふっ」
『彼女』は今最高に良い気分であった。
長年の恨み積もった憎き『女』を討ち倒し、彼女の心は本日の天気の様に晴れ渡っている。
未だにこの手に掛けた時の感触が彼女の中には残っており、それを思い出すだけで、気分が自然と高揚してくるのだ。
「あはははっ」
更に。
今日ついに――もう一つの願いが叶ったのだ。
彼女の視線の先。
それは遥か遠くの風景の一部ではあるが確かに感じる。
愛しい愛しい最愛の少年の存在を感じるのだ。
遠目から見ても、昔から決して変わらぬ美しい『魂』の煌めきが彼女の心の深奥を震わせる。
まるで甘酸っぱい恋のように胸が高鳴ると同時に狂おしい程の情熱が沸き上がって来るのだ。
『彼女』の瞳の中には二人の少女が映っていた。
しかし『彼女』の意識の中には眩いばかりに光り輝いているように見える長身の黒髪の少女しか無かった。
「み~つけたぁ」
会心の微笑みを浮かべた女性。
「やっと……やっとやっとやっと!!」
漆黒の衣に身を包んだ妖しき魔女――イゾルデは興奮を抑えきれず高らかに大声で叫び、そして。
「貴方をこの手に取り戻せる!!」
言葉と同時に血走った眼を滾らせ、一心不乱に彼女は駆け出した。
漆黒の風と化したイゾルデがアゲハの街を駆け抜けていく。
そして。
彼女の軌跡に呼応するかのように――青々と輝く天空に照らされたアゲハの街並みが不可思議な暗黒に包まれていった。
第3章 王宮の陰 ―完―
※例によって第4章開始まで少しだけ時間を頂きたいと思います。第4章以降の詳しい投稿日程は活動報告に載せておきますので、よろしければ御一読下さい。