番外編 風邪っぴきのルノワール
ファウグストス邸の2階。
屋敷の使用人が暮らす、とある一室にて。
「うぅ……」
ずずずっ、と鼻を啜る音が小さく室内に木霊した。
「もうじわけありません……」
普段の美しいソプラノは鳴りを顰め、代わりに苦しそうな鼻声で頬を赤く染めた少女――ルノワール=サザーランドは言った。
「護衛という立場でありながら……こんな、不甲斐ない……」
心苦しげに呻く従者にその主人たる少女――メフィル=ファウグストスは苦笑を洩らしつつも、優しく慈愛に満ちた声で告げる。
「もう。そんなに気にしなくていいの」
普段は例え極寒の最中に裸でいようが(そんなことはしないが)、毒を盛られようが、火に炙られようが、雷に打たれようが、全く動じない頑丈な身体の持ち主のルノワールである。
しかし流石に先日のドヴァンとの戦いが彼女に与えた影響は存外に大きかった。
ルノワールの身体は万全ではなく未だ弱っており、低下した免疫力・抵抗力が祟り、このようなことになってしまった、という訳だ。
「けほっ……えほ……こほん……っ」
彼女は可愛らしく小さな咳を洩らした。
そして心配そうに主人を見上げながら呟く。
「お嬢様……私の傍にいらっしゃると風邪がうつってしまいます」
今この部屋には二人しか居ない。
先程までイリーとアリーがソワソワと落ち着かない様子で病状に伏せるルノワールの看病をしていたのだが、彼女達はルノワールの病人食を作るために厨房へと行ってしまっていた。
「少しぐらい大丈夫よ」
「で、ですが……」
困り顔のルノワールの顔を眺めながら。
「……」
二人きりの室内でメフィルはそっと己の従者に近付いた。
☆ ☆ ☆
主人としてはとっても良くないことだと思うけれど、彼女が風邪を引いたと聞いて、初め私は心配するよりも、なんだか不思議な感情の方が先に立っていた。
(ルノワールでも風邪を引くのね)
率直に言えばそう感じてしまったのだ。
ルノワールは並外れて丈夫な少女であり、私は彼女が病気にかかる事など想像すらしたことがなかった。
「熱はどう?」
「まだ、少しあると思います」
「顔赤いものね」
ルノワールの端正な顔は今日に限っては、ひどく赤みを帯びており、日頃は力強い瞳もどこか弱々しい。
普段の溢れんばかりの生命力も感じなかった。
はにかみながら私を見上げる顔には、むしろなんだか……庇護欲を掻き立てられてしまう。
いつも私を守って尽くしてくれている彼女の弱った姿。
無神経かもしれないけれど、それは私に……「守ってあげたい」と思わせるものだった。
「……」
ルノワールの淡い微笑み。
その綺麗な顔に珠のような汗が浮かんでいた。
普段よりも粗い吐息が、ふっくらとした唇から小さく漏れ出でている。
その不安そうな表情からは、精一杯私に心配を掛けまいと強がっている心が透けて見えていた。
(か……)
いつもと違う態度と雰囲気。
まるで幼い子犬のように私を見上げる彼女の姿は不可思議な淫靡さを伴っている。
端的に言ってしまえば。
(可愛い……)
そう、思った。
「……お嬢様?」
黙ってしまった私を見つめ、可愛らしく小首を傾げ、眉を下げるルノワール。
私は彼女の調子を窺う様に、汗の滲む額にそっと手の平を当てた。
指先から伝わるルノワールの熱い体温。
「ぁ……」
私が触れると、まるで小さな子猫のようにルノワールは気持ちよさそうに目を細めた。
「あぅ……」
「熱いわね」
顔の赤さの通り、彼女の体温は熱い。
「お嬢さまの手は……冷たくて気持ちいいです」
「ふふっ。そう?」
既に秋は過ぎ去り、冬がやって来る季節だ。
外気は冷たく、アゲハの街を走る風には思わず身を振るわせてしまう。
私の手も夏頃と比べれば随分と冷えている筈だ。
なるほど、熱を含んだ彼女の額はさぞや私の手を冷たく感じることだろう。
私は額から手を離し、そしてゆっくりと彼女の髪に触れた。
柔らかく美しい黒髪。
手の平を伝わる撫でた感触が心地よい。
さらさらと撫でていると、彼女は不思議そうな顔で私を見上げた。
「お嬢様……?」
考えてみれば突然頭を触るなんて失礼な行為だ。
ぼんやりと呟く彼女に聞いた。
「髪を触られるのは嫌?」
私が手を止める事無く彼女に尋ねるとルノワールは微笑んだ。
「……いいえ」
嬉しそうに首を振る彼女の黒髪は例え病状に伏していたとしても、艶やかさを失う事がなく、どこまでもきめ細やかで透き通る程に美しい。
「綺麗な髪ね」
「そうでしょうか?」
「ええ、そうよ」
汗ばみ僅かに湿った前髪。
艶やかに光を反射し煌めく黒。
「私は……お嬢様の御髪の方が御綺麗だと思います」
突然ルノワールはそんなことを言った。
「えっ?」
反射的に私は自分の髪に手をやり、髪先をいじってしまった。
ルノワールに髪の毛を褒められ、自然と嬉しい気持ちになっている自分がいる。
にっこりと微笑み、彼女は再び瞳を閉じた。
身じろぎしながらルノワールは胸元の湿ったパジャマに手を当てている。
よくよく見れば彼女の服は随分と汗で濡れていた。
肌に張り付く感触が不愉快なのだろう。
「ねぇ、ルノワール」
「はい……なんでしょうか?」
「汗を拭いてあげましょうか」
うん、そうしよう。
彼女はひどく汗ばんでいるし、タオルで一度身体を拭いて着替えた方がいい。
と、思ったのだけれど。
「へぁっ!? あ、あああ、いやそのわわっ、私は……っ」
ルノワールは突然オロオロと狼狽し始めた。
「?」
「そそ、その私はその、あっ! 魔術で乾かしますので大丈夫ですよ?」
「何言ってるの。今ルノワールは魔術禁止でしょう?」
そもそもが魔力・体力の消耗をし過ぎてしまった事によって今回のような事態になっているのだ。
お母様が「ルノワールはしばらく魔術禁止!」と言っていた。
「えぇ、いやその、でも……」
「やっぱりその、私なんかじゃ嫌?」
確かに私は箱入り娘であることだし、きっとタオルで身体を拭くのは上手ではないだろう。
もしくは従者が主人に世話をさせてしまうことを嫌がっているのかもしれない。彼女ならばそれぐらい考えてしまいそうだ。
でも私としては、この程度の事で遠慮をして欲しくは無い。
彼女は普段言葉では言い尽くせない程に私に尽くしてくれているのだ。
たまには私が恩返しをしたっていいではないか。
少しばかりしょんぼりとした気持ちになって彼女に告げると、ルノワールの動揺は激しくなった。
「なな、なにをっ!? そそそ、そういうわけでは決して……っ!?」
「あっ。もしかして少し身体を持ちあげるのも辛いの? だったら私が支えて――」
「あぁ、いぃえぇ大丈夫ですっ!」
そこで彼女は再び身じろぎをした。
やはり肌にこびりつくパジャマが気持ち悪いのだろう。
「……う、うぅ。ではその……お願いしてもよろしいでしょうか?」
「はい、素直でよろしい」
未だ躊躇う素振りを見せつつもルノワールはゆっくりと身体を起こし、パジャマのボタンを一つずつ外していく。
そのまま全てのボタンを外し終えると、彼女は恥ずかしそうに胸元を押さえつつ、パジャマをベッドの脇にそっと置いた。
私に背を向けながら、彼女は肩越しに私に目を向ける。
「で、ではその……お願いしてもよろしいでしょうか?」
潤んだ瞳に赤い頬。
ルノワールは懇願するように言った。
「……」
「……お、お嬢様?」
しかし私は思わず固まってしまっていた。
「き、綺麗……」
彼女の背中はそれはもう艶めかしかった。
汗に濡れていても、その瑞々しさは一層際立つばかりである。
白くシミ一つ無い肌は惚れ惚れするほどに美しい。
熱がある故に僅かに火照った所々に見える赤みが、尚も扇情さを惹きたてていた。
なんというかこう、見ているだけで……胸がドキドキする。
「あ、あの~」
「はっ!? い、いえ、なんでもないわ、いい、今から拭くわね」
(不味い不味い、不味いわよ、これはっ!!)
何を考えているのか。
私は一体、今何を思っているのか。
なんで私の鼓動は速くなっているのか。
(たっ、ただ女の子同士で、その汗を拭いてあげているだけ……)
そうだ。
やましいことなど何もない。
(落ち着きなさい、メフィル=ファウグストス!)
絞った濡れタオルでそっとルノワールの背中を拭いて行くと、時折彼女は声を上げた。
「あっ……」
「んっ」
「ふぅ」
その声がまた、なんというか、その、えっと、その。
(いやいや! ちょちょ、ちょっと待ってよっ)
へ、変な気持ちになってくる……っ。
どういうわけか、私の脳裏には秋空の下キスをしていたルノワールとカナリアの姿が浮かび上がって来てしまい……尚も私の動揺は激しくなった。
貴族の中には同性同士の恋人も少なくない訳で……。
(はぅっ!? だめだめ! 何を考えてるの!)
駄目だ、なんだか良く分からないけれど、まともな思考回路が形成出来ない。
さっきから頭は火照ったように熱いし!
「せ、背中は終わったから」
震え声で私は言った。
「つ、次は前?」
「ふぇっ!? い、いいええっ! ま、前は流石に自分でやりますよ?」
「あっ、そ、そうよね! 手届くものね!」
「は、はいっ!」
なんだか安心したような残念なような。
(はぁ……全くもう……)
その後イリーとアリーが昼食を持ってくるまでの間、私はルノワールの着替えを手伝い、なんだか微妙に顔を逸らし合う時間が続いた。
ご飯を食べた彼女は、再び眠気が襲ってきたらしく、すぐさま穏やかな寝息を立て始めていた。
ルノワールの落ち着いた顔を見届けた私はそのまま彼女の部屋を後にして、自分のアトリエに向かった。
ちなみに。
(何でかしら……妙に頭が冴えてるわね)
その日のアトリエでの創作活動は、かつて経験が無い程に調子良く、どんどんと素晴らしいアイディアが浮かんだ。