第百五話 愛の在り処
大急ぎで王宮の中を駆け抜けながら私は隣で並走する少女に声を掛けた。
「この先ですっ!」
お母様の部屋はもうすぐそこだ。
だが。
「っ! 姫様お待ち下さい……っ!!」
突如私の前に躍り出たクレアさんは、睨むようにして前方に視線を向けた。
私は彼女が何かを感じ取っていると判断し、口を噤み、いつでも動き出せるように身構える。
シン、と静まり返っている廊下の角。
しばらく待っていると、やがて人影が歩み出てきた。
「ほぉ……よくぞ分かったものだ」
現れたのは一人の男。
その物腰。
油断無く構える雰囲気。
私に全く気配を感じさせなかった隠密技術。
(只者ではない)
「……姫様、王妃様のお部屋は?」
「あの角の先です」
小声で私が答えると、クレアさんは言った。
「手強そうな相手です。私が囮になりますので、一気に部屋まで向かって下さい」
「えっ!?」
「……行きます!!」
私の返事を待つまでもなく、彼女は目の前の男に突進していく。
その全身から放たれる魔力は、ルノワールほどではないにしろ、唯の少女では有り得ない。
「なんと!」
敵の男もクレアさんの迫力に驚きの表情を作った。
そして。
「らぁぁあっ!!」
気迫の篭った拳が傭兵に向かって突き出され、二人の人影が廊下をぶち破り、消えて行った。
☆ ☆ ☆
「お母様っ!!」
息咳切らしつつ私は部屋に飛び込んだ。
室内のベッドに目を向けると、瞳を閉じている母の姿を見つけた。
「……よかった」
心底から安堵して膝から力が抜けてしまった。
部屋には荒らされているような形跡は無く、傷一つ無い美しい母が静かに眠っているのみだ。
私がベッドの傍に身を寄せると、お母様は目を覚ました。
「……」
彼女は何も言わない。
ぼんやりと虚ろな瞳で私を見上げているだけだった。
構わず私は口早に告げる。
「お母様……王宮に賊共が侵入しました。このままでは危険ですので退避しようかと――」
そこまで口にし――。
「っ!?」
背後から物音が聞こえ、咄嗟に振り返った。
「へへへっ! なんだぁ、女が居るぞ!」
「マジだ! しかも上玉だなぁ、随分と」
ニヤニヤと嫌らしい笑みを浮かべつつ、5人の男が室内に入り込んでくる。
薄汚い靴底がお母様の部屋を汚し、男の一人はあまつさえ床に向かって唾まで吐いた。
「っ!! 勝手に部屋に入るな!!」
気付けば私は憤りを隠せずに怒鳴り声を上げていた。
ここを誰の部屋だと思っているのか。
しかし私の言葉に構うこともある訳無く、無礼者共が母の室内に足を踏み入れる。
「お前……なんだぁ、その格好?」
私に目を留めた一人の男が訝しそうに眉を顰めた。
珍しい衣服だからだろう。
私は現在、祈りの儀式で王族が着用する神官服を身に纏っている。
「その服……見た事あるぞ。確か儀式の……」
そこで思い至ったのか。
「ははぁ。お前さん、王族だな?」
王族を敬う気持ちなど欠片もないのだろう。
その表情からは軽薄かつ侮蔑するような嘲りの感情が見え隠れしていた。
「それが何?」
「いやぁ……いい見つけ物したな、と」
楽しげに口元を歪める男達。
彼らの愉悦混じりの顔が癇に障った。
心がざわめく。
下卑た笑い声と表情が、私とお母様を愚弄しているように感じられた。
「なんなのよ……」
王宮では誰も彼もが私を腫れ者扱いし、隠れた所では私に対して、彼の様に笑っているのだろう。
街中に出れば人攫いに襲われ、王宮では除け者にされ、挙句の果てには王宮でも襲われた。
お母様と私の大切な住まいは、今や滅茶苦茶だ。
「あ?」
誰も彼も。
どうして私に嫌な事をするの?
どうして私にひどいことを言うの?
どうして私の傍にいてくれないの?
いきなり襲ってきて。
好き放題に言いたい事を言って。
私が何をしたというの?
「……っ」
私が――。
「な、なんだこいつ?」
いつの間にか私の瞳から涙が流れ落ちていた。
突然泣き出した私を見て狼狽する男達を無視して、爆発しそうな感情を抑えきれずに声を荒げた。
「なんなのよ……っ!!」
今までずっと。
ずっとずっと……小さく胸の内にこびりつき、積み重なって来た不安と不満が、私の心の防波堤を破壊した。
お父様は私を見てくれない。
王宮の皆は私を疎ましがる。
テオも、信じていた彼女ですら私を裏切っていた。
唯一私を理解し、信頼出来る相手であるルークも……ルークだって――。
(私の傍には――)
「私、は……っ!!」
何もかも。
私の思い通りにならない。
どれだけ気丈に振舞っても、誰も私を認めてくれない。
誰かの愛情が欲しいと望んでも、誰も私を見てくれない。
誰も私の傍にずっと一緒に居てくれないではないか。
誰も私を――愛してくれないではないか!
「うっ……」
止めどない感情。
行き場の無い想い。
定まらぬ思考を抑えきれずに嗚咽を洩らす、惨めな自分。
周囲にわめき散らすように感情を暴発させている自分が嫌いでしょうがない。
昔から成長しない――愚かな私。
「私は……っ!!」
そんな私を――温かな手の平がゆっくりと包み込んだ。
☆ ☆ ☆
何が起きたのか、分からなかった。
「……」
子供のように泣きじゃくる私の頭が柔らかい両腕に包まれている。
「……お母、様……?」
見上げれば先程までベッドで横になっていた筈のお母様が起き上がっていた。
いや、それだけではない。
「……カナ、リア」
最近は碌に口を開く事も無くなったお母様が私の名前を呼んだ。
そうしてゆっくりと。
優しく私の頭を撫でながら。
「泣か、ない、で」
お母様が、そう、私に、言った。
「……お、おか……」
「……泣か……ない、で」
彼女は繰り返した。
『泣かないで』、と。
感情を。
表情を。
動かす事が無くなったお母様が確かに――、
「私の……大事な……宝物」
――微笑んだ。
まるで私を安心させるように。
私を慰めるように。
最後にお母様にこんな風に抱きしめられたのはいつの頃だっただろうか。
なんだか懐かしくて。
なんだか胸が締め付けられて。
母の温もりがとっても……とっても温かくて。
このままずっとずっと抱きしめていて欲しくて。
「お母様……」
とっても嬉しくて。
「うっ……」
私の瞳から、先程までとは違う感情を伴った熱い雫が零れ落ちた。
☆ ☆ ☆
「ねぇねぇ、お母様っ」
私が声を掛けると、母が満面の笑顔を作り、首を傾げた。
背の低い私に視線を合わせるために膝を折り、美しい翡翠色の瞳が私の姿を映し出す。
「なぁに? どうしたの、カナリア?」
そう、母はいつもこんな風に笑って、私に応えてくれた。
「今日はお庭で鳥を見たの!」
「まぁっ! 王宮まで入って来れるなんて、運の良い鳥さんね」
「運がいいの?」
「ええ、もちろん。この王宮はミストリアで一番綺麗な場所なのだから。そんな光景を見る事が出来る鳥さんなんて早々いないわ」
「へぇ~」
「どんな鳥だったの?」
「なんだか小さくて、尻尾が長くて、可愛い……あっ! それと綺麗な桃色をしていたわ!」
「まぁっ、すごい! それはきっと『オナガヒメドリ』ね」
「『オナガヒメドリ』?」
「ええ。この辺りで見る事はほとんどない珍しい鳥なの」
「そうなの?」
「そうよ~。それに『オナガヒメドリ』は見た人を幸せにする、っていう伝承もあるんだから」
「そうなんだっ」
「だから王宮に入って来られた鳥さんよりも……きっとカナリアの方が運が良いのね」
「えへへっ」
「カナリアは今幸せ?」
「うんっ!」
何もしがらみを感じることが無かった幼き頃。
私は確かに幸せだった。
ルークは居ないし、恋も知らなかったけれど、確かに。
私は幸せだった。
だって。
「お母様が居るもの!」
私がそう言うとお母様は決まって照れたような顔で、微笑むのだ。
「……そっか」
母は色んな事を私に教えてくれた。
私はお母様が大好きで。
お母様も私を愛してくれている、と。
何も疑う事無く信じる事が出来た。
夜寝る時は、一緒にベッドに入って母の話を聞きながら眠りにつくのだ。
「カナリアは」
「なぁに?」
「お稽古は好きじゃない?」
「だって……パメラはすぐ怒るんだもの」
「ふふふっ。それも貴女を思ってのことなのよ?」
「……そうなのかしら?」
「ええ。貴女が外の世界に憧れている事は知っているけれど……ちゃんとお勉強しないと、私だって貴女の将来が心配だわ」
「将来?」
「ええ。素敵な人と結婚するには、王族としてそれなりに教養を身につけなくちゃ。楽しそうにしてるだけじゃ、誰ももらってくれないわよ?」
お母様は私の頭を優しく撫でながらそう言った。
「……結婚なんてしなくてもいいわ」
お母様の言葉がなんだか少しだけ寂しくて、私は母の顔を見上げながら呟いた。
「あら?」
別に結婚なんてしなくても、いい。
「お母様とずっと一緒に暮らすの!」
「……あらあら」
困ったような顔をしつつも、優しく微笑みながらお母様はゆっくりと私を抱きしめた。
「全くもう」
「お母様……ちょっと苦しい」
「うふふ、我儘言う悪い子へのおしおきよ。そ~れ、こちょこちょこちょ~」
「わっ、きゃっ、あっあはははっ! お母様止めて、くすぐったいわっ!」
「あはははっ」
「やぁっ、や~め~て~っ! あはははっ」
馬鹿みたいに、はしゃいで、笑って。
そうして決まって――お母様は最後に私を抱きしめながら耳元でそっと囁くのだ。
「おやすみなさい、カナリア」
「おやすみなさい、お母様」
私の耳元の髪を掻き上げながら。
優しい声で。
愛情の籠った声で。
「私の――大事な宝物」
☆ ☆ ☆
抱きすくめる母の確かな温かさを感じながら、私はゆっくりと目を開いた。
(誰も私を見てくれない?)
突然泣き出した私を馬鹿にするような男共に鋭い視線を向ける。
(誰も私の傍にいてくれない? 誰も私を愛してくれない?)
そんなことない。
そんな訳が無かった。
お母様は昔、まだ元気であった当時。
事ある毎に、遊び回る私が心配だ、と言っていた。
病気の後も、私が悪い事をした時だけ、お母様がなんとか感情を表していたのは、もしかして……私の事が『心配』だったから、ではないだろうか。
私はお母様が感情を表に出さなくなってから、努めてお母様の前では明るく振舞うようにしていた。
だけど、もしかして。
今みたいに私が『泣いて』いたとしたら、こんな風に――抱きしめてくれたのではないだろうか。
自分に都合の良いように解釈した妄想かもしれない。
でも私は、なんだかそれが真実なような気がした。
今は――ちょっとだけ元気を無くしてしまっているけれど。
一人。
私の傍にずっと一緒に居てくれたのだ。
なかなか感情を表に出すことは無くなったかもしれない。
でも感情そのものが無くなった訳ではない。
お母様は今でも確かに――私の事を愛してくれている。
優しい声が、私を抱きしめる温もりが、それを教えてくれた。
いや違う――思い出させてくれた。
お母様は次いで、私を囲んでいる男達の前に覚束ない足取りで歩み出ると、まるで私を守る様にして両手を広げた。
どこか虚ろな眼差しは変わりない。
しかしそこには確かに『意志』があった。
私を守ろうとしてくれている母の『愛』。
私はそんなお母様の背中をゆっくりと抱きしめながら呟いた。
「ありがとう、お母様」
「……」
「……大丈夫、大丈夫なの」
安心させる様に。
「お母様の言いつけを守らずにいた代わりに――」
そう、ルークは私の傍にずっと居てくれることは無い。
それでも。
彼が残してくれた物がある。
彼が私にくれたのは思い出だけではない。
「なあっ!?」
お母様に向かって凶刃を振り下ろそうとした男の前面に結界を張った。
当然無詠唱。
驚きに目を見開く眼前の男達程度の技量では到底破ることは出来ないだろう。
「――お母様を守ることが出来るの」
そうだ。
もう、私は守られてばかりではいけないのだ。
彼が教えてくれたこの魔術は――自分と大切な人を守ることが出来る。
「どうか、御安心ください、お母様」
強い視線で男達を睨みつけ、私は魔術を行使した。
そして。
私の力強い声が響いたのか。
振り返り、私の顔を見つめるお母様が。
安心したように微笑んだような――そんな気がした。




