第百二話 戦士
何も見えない。
何も聞こえない。
何の気配も感じない。
「こいつは……」
ディルの放った魔術の力だろう。
あのナイフ……より正確には、あの魔石から力が放たれた瞬間――ドヴァンの視界は光を失い、突如暗闇に包まれた。
周囲一帯は一寸先すら見通せぬ暗黒。
物音一つ存在せず、何の気配も感じることが出来ない。
鼻も利かず、どこか触覚にも異常をきたしているような気がする。
歩けど歩けども外には出れない。
恐らく一種の結界のようなものに封じ込められているのだろう。
(さて……どうする)
肉体に多少の違和感を感じる。やたらと身体が重いのだ。
敵の攻撃の予兆すら感じることが出来ない世界であっても、腕を動かした時の感覚、足の動きの鈍さ、それらがドヴァンに肉体の不調を教えてくれた。
「っ!」
突如、脇腹に突き刺さる魔力の刃。
「ちっ!」
舌打ちを一つ零しながらドヴァンは黙考した。
先程から気配を全く感じないにも関わらず、時折、痛みだけがドヴァンを襲っている。
(あの男の攻撃か……)
間違いなくディルの攻撃だろう。
何度か肉体を切り裂くような衝撃が走り、その度に強引に腕を振るうも全ては空振りに終わっていた。
かなりの遠距離に向けて攻撃を放っても、何の手応えも無い。
どころか肉体から僅かにでも離れた魔力は、もはやその気配を追う事が出来なかった。
(なるほど、これが奴の奥の手、か)
原理など分からない。
見たことも聞いたことも無い魔術だ。
あの男のオリジナルの魔術なのだろう。
こちらの視覚、聴覚、嗅覚を奪い、静かに嬲り殺しにする。
敵の存在は微塵も感じることが出来ぬままに、閉鎖空間において抵抗の余地無く、やがて力尽きる。
そういった算段なのだろう。
しかし。
「はははっ。中々面白いな」
ディルの術中にありながら、戦鬼の表情から余裕の笑みが消える事は無かった。
☆ ☆ ☆
暗闇に包まれた世界の中で唯一人彷徨うドヴァンという化け物を、ディル=ポーターは油断無く観察していた。
彼の放った奥の手『不明世界』は、空間内に存在する人間の触覚、味覚以外の五感を奪う能力だ。
『不明世界』はディルが編み出した彼の奥の手、奥義とも呼べる技だった。
あのナイフ、そしてナイフの柄に嵌め込まれている魔石は『不明世界』発動のためだけに用意していたディルとっておきの魔法具だ。
魔法具とディルの血液を媒介にしなければ、『不明世界』は瞬時に構築することが出来ない。
ゲートスキルを習得出来る程まで鍛えられた魔術師、その中でも特に戦闘面に特化した魔術師達は大なり小なり、このような奥の手を秘めている。
ゲートスキルというのは、魔術を極めて行く過程で『偶然』手に入る副次的な能力だ。故にそのような不確かな力を頼りにして技量を磨く者など居ない。
魔力を高め、魔術の真髄を極めて行く最中で、彼らは己の究極の技法とでも呼ぶべき魔術を完成させる。
その末に彼らは己の可能性の門を開きゲートスキルという特殊能力を授かるのだ。
『不明世界』は相手を封じ込め、その中で敵の五感を奪い、外側から一方的に攻撃を仕掛ける、といった魔術だった。
出口の類は存在せず、ディルによる攻撃が絶え間なく襲う暗闇。
封じ込められた敵は、碌な抵抗をする事も出来ぬままに、地に伏せることになる。
(しぶとい)
『不明世界』内では著しく身体能力が減退する。
にも拘らず、戦鬼はディルの放つ無数の攻撃に晒されながらも、決して倒れ伏すことが無い。
身体に傷を負わせている。確実にダメージは与えている筈。
しかし倒れない。
(まさか……ぎりぎりで致命傷を避けている?)
馬鹿な、有り得ない。
そういった思いがディルの心中に巻き起こる。
(だが……そうとしか考えられない)
戦鬼は感じ取れない筈のディルの攻撃を、それこそ第六感とでもいうべき、超感覚で察知し、間一髪で回避しているようだった。
(……ここは負担が大きいが、最大火力で)
そうディルが思った時――凄まじい哄笑が『不明世界』内に響き渡った。
奴自身は聞こえていないだろう、笑い声。
だがディルにはしっかりと聞こえている。
戦鬼の歓喜にも満ちた雄々しい雄たけびが。
直後。
「っ!!」
(やばい……っ!?)
背筋がぞっとするような気配を感じたディルの予感を裏付けるようにして、暗黒に包まれし『不明世界』内で、もはやディルの手には負えない程の超常的な魔力が膨れ上がっていく。
突如彼は焦り顔で振り返り、広場の隅で固まっていた少女達に向かって叫んだ。
「伏せろ……っ!!」
その言葉を合図にするかのようにして――『不明世界』がひび割れ、砕け、結界の内側から想像を絶する威力を伴った光の渦が飛び出してきた。
「ぐぅっ!?」
ディルのやや上方に向けて放たれた戦鬼の攻撃は、触れる物全てを破壊しながら王宮に大穴を穿ち、そのまま天空に広がっていた雲を吹き飛ばした。
とてつもない威力。
もしもディルに直撃していたならば、彼の肉体は跡形も残らず消し飛んでいただろう。
曇天だった空が俄かに晴れて行き、現れた太陽の光を一身に浴びるようにして、一人の大男が悠然とディルの前で立っていた。
「はははっ! 残念だったな!!」
会心の笑みでディルを見下ろす戦鬼。
「なるほど、お前は確かに強いが……少しばかり足りていないな」
「……」
歯軋りしたい思いを堪えつつディルは目の前の怪物を睨みつけた。
「今の攻撃は面白かったが……俺と戦うには少しばかり修業が足りないな」
誰よりもそれを理解していたディルは憎々しげに呟く。
「……そうかい」
「あぁ、でも中々に楽しい時間ではあった」
一歩。
戦鬼がたった一歩進むだけで、まるで大地が鳴動しているかの如く、世界が揺れているとディルは錯覚した。
(……呑まれて、いる)
目の前のドヴァンの迫力に。
その圧倒的な魔力に。
身を震わす死の予感に。
喉がカラカラに乾き、ディル程の戦士であっても、思わず尻込みしてしまう。
ディルの奥の手である『不明世界』は破られた。
地力が違う。魔力量も違う。
(……それ、でも)
だがそれでも退けない。
背中に妹の存在を感じればこそ。
震える足を懸命に押さえつけ、尚も気丈にディルは大男を見上げた。
魔剣を生み出し、最速の一撃をドヴァンに向けて放つ。
「ふん」
しかし今や全力で力を振りまく戦鬼にその攻撃が通用する筈も無かった。
ドヴァンは変幻自在に蠢くディルの魔剣を軽々と回避すると、カウンターとして鋭い右拳を放つ。
視認すら難しい速度で唸る剛腕がディルの脇腹に深々と突き刺さり、彼は口から血を噴き出しながら、空中を舞った。魔力障壁など何の役にも立たなかった。
「ぐ……はっ!!」
王宮の瓦礫に強かに全身を打ちつけたディルに向かってゆっくりと歩を進めるドヴァン。
ディルは仰向けに倒れ伏し、晴れ渡った空をぼんやりと見上げた。
「げほっ……えほっ!」
たった一撃。
だが聖獣すら打ち貫くドヴァンの拳をまともに受けてしまった。
身体が言う事を聞かない。
もはや勝負の決着は着いていた。
だが、それでも。
なんとか気を張り、顔を上げたディルの眼前。
「――何のつもりだ?」
そこにはディルを守るようにして両手を広げるメフィル=ファウグストスの背中があった。
☆ ☆ ☆
私はなんでこんな事をしているのだろうか。
分からない。考えても理由はすぐには出てこなかった。
咄嗟に身体が動いた。そうとしか言いようが無い。
誰もがドヴァンの迫力を前にして動けなくなっている中、何故か私の両足は自然と動いたのだ。
足が震え、手も震えている。
全身が竦んでいた。
誰も私の行動を予測すら出来ていなかったのか、友人達はもちろん、ドヴァンですら驚いたような表情をしていた。
それはそうだろう。
私自身だって驚いているのだから。
「……」
私を見下ろす戦鬼ドヴァン。
その恐ろしい形相を見ているだけで自然と恐怖心が沸き上がり、泣き出したいくらいに心が掻き乱されそうだった。
しかも目の前に居るのは若い男性だ。
私の最も恐ろしい対象、その象徴のようなドヴァンを前にして恐れ慄かぬ程、私は豪胆ではなかった。
だけどそれでも。
私たちを救いに来てくれたディル=ポーターがみすみす敵の手にかかるのを見ていることは出来なかったのだ。
別に私はそれほど彼の事を知っている訳ではない。
でも、これ以上、自分達の目の前で知人が傷付いて欲しくは無い。
「……邪魔だ小娘、どけ」
短く一言。
故に誤解のしようの無い言葉。
「俺は戦士以外に手を上げるつもりはない」
ドヴァンは低く響くような声で静かに言った。
「……こ、この人を殺す、の?」
震える声でなんとかそれだけ絞り出した。
「当然だ。それが戦士の礼儀だ」
背後で自分を見上げているだろう青年の視線。
遠目に驚愕の表情でこちらを見つめる友人達の視線。
そして己を見下ろす戦鬼の視線。
私は必死に己を奮い立たせ、瞳を逸らさずに大男を見上げた。
「戦士の戦いに水を差すな」
「……この、人は……っ!」
掠れた声で。
「私の……友達のっ、お兄さん……だから……っ」
リィルにはいつも助けられている。
まだ付き合いは1年にも満たないが、それでも私にとっては大切な友達だ。
ディルはその彼女の兄。
目の前で無残に殺されるのを黙って見ている訳にはいかないじゃないか。
そして。
「私の……大事な人のっ! 友人、だから……っ!」
途切れ途切れに、気付けば私はそう口にしていた。
「……」
そう、この人は仲が良かった。
ルノワールと。
いつだって私を救ってくれた、良き従者と。
私は己を奮い立たせ、毅然とした態度で声を張った。
「私の大切に思う人達が……っ! 大切に思っている人だから!!」
何故かルノワールに先日告げた言葉が蘇る。
『私は貴女が居ないと何も出来ない訳じゃない!』
私はその言葉を証明したがっているのだろうか。
守られるばかりじゃない、と。
何も出来ない……碌な力も持っていない私が?
(……滑稽だ)
『貴女は……カナリア姫殿下の元に行けばいい……』
心にも無い事を言った。
最低な自分。
本当はずっと……ずっと傍に居て欲しいと願っているのに。
だからこそ最低な自分のままで終わりたくないと思ったのだろうか。
ルノワールの友人を見殺しにしたくなかったのだろうか。
「だから、私は……っ!!」
分からない。
理由なんて考えるだけ無駄だ。
こうなってしまった以上、後戻りなど出来ない。
でも……後悔はしない。
この行動を今省みても……間違っていない、と。
そう信じられる。
彼女の主人として恥ずかしくない振舞いだと。
そう思えるから。
全身の震えを必死に押さえつけ、私は真っ直ぐにドヴァンの瞳を覗いた。
しばらくの間対峙していると、やがて彼の顔色が変化した。
「……前言を撤回しよう」
先程までの邪魔な小娘を見下ろす蔑んだような瞳ではない。
「えっ?」
まるで対等な戦士であることを認めたかのような真剣な表情だった。
「お前は……戦士だ」
そう言って戦鬼の腕が静かに持ち上がる。
私は決死の表情で大男を見上げた。
「名はなんという?」
戦鬼の問いかけ。
自分の、この名前を口にする事には一片の躊躇も無い。
「メフィル。メフィル=ファウグストス」
誇り高き名だ。
ならば……その誇り高き家名に相応しい振る舞いをしたい。
勇気と蛮勇を履き違えたような現在の行いが誇り高いとは思えないけれど。
それでも。
「そうか……お前が……」
感慨深そうにドヴァンが一言優しい表情で呟いた。
「なればこそ……戦士の礼儀でもって、メフィルの勇気ある行動に応えよう」
「……」
確実なる死を目前にしているにも関わらず、私の心は不思議と落ち着いていた。
「メフィル!!」
「メフィル様……っ!!」
咄嗟にこちらに駆け寄る友人達の声が聞こえる。
(申し訳ありません……お母様……)
私はゆっくりと静かに心の中で親不孝な己を詫びた。
「さらばだ、メフィル=ファウグストス」
そして。
(ごめんね……ルノワール)
戦鬼の拳が無慈悲に振り下ろされた。
☆ ☆ ☆
私は瞳を閉じ、その時が来るのを待っていた。
しかしいつまで経っても痛みはやって来ない。
訝しく思った私の鼻腔を甘く優しい香りが擽った。
(……ぇ)
自然と鼓動が跳ねる。
瞼を開けると、そこには太陽の光を反射し、煌めく美しい黒髪があった。
その後ろ姿は何よりも力強く、不動なる大樹を思わせる。
全身には覇気が満ち満ちており、圧倒的なまでの生命力を放っていた。
誰よりも安心出来る背中。
誰よりも信頼出来る背中。
誰よりも……愛しい背中。
「……ルノワール」
誰よりも……恋しい名前。
涙で掠れる声が私の口内で小さく反響した。
そして。
「お嬢様に……っ!!」
怒号と共に迸る眩い白光。
「――触れるなっ!!」
走る衝撃、唸る細腕。
「ぐ……っ!?」
光に包まれたルノワールの拳が、戦鬼の肉体を遥か彼方へと吹き飛ばした。




