第九十四話 祈りの儀式
その日、ルーディットには大勢の人々が集まっていた。
カナリアと共に事前調査に赴いた経験のあるルノワールとしては目を丸くする他無い。
あの時とは比べ物にならない程の人だかりが小さな辺境の街に詰めかけているのだ。
人々は皆、敬虔そうな表情で佇んでおり、お祭り騒ぎに興じる者は皆無である。
少なくとも、この場所に集まった人の誰もが儀式の神聖さを心の底から感じているのだろう。
とはいえ若者は少ない。
集った人の多くは、それなりに歳を重ねた人間ばかりであった。
(なるほど……)
ルノワールは未だに自分の認識が低かった事に気付かされた。
荘厳なる静謐な気配、神聖性。
それは何も神殿内部に留まった事ではないのだ。
(それほどまでに)
此度の儀式とは大きな意味を持っている。
通称として『祈りの儀式』と呼ばれているが、正しくは『祖霊の儀』という。
先祖達に繁栄の祈りを捧げる儀式であるため、いつのまにか前者の呼称が世間に定着していったのだ。
カーマインとは大勢の国民達に崇拝されるだけの偉大な人物だったのだろう。
この場所、この儀式は、ミストリア王国の人間にとって、とても重要で価値のあることなのだ。
それを改めてルークは肌で感じ取っていた。
「……」
彼は生まれ故郷については何の感傷も未練も無い。
あの場所は唯の地獄だった。
生き馬の目を抜くようにして過ごす日々が想起されると、むしろ不快感が浮かび上がって来る。
それに比べてミストリア王国の国民の愛国心はどうか。
(共感は……出来ない)
それが素直な感想だった。
自分の生まれた場所を考えればそれも当然だろう。
そもそもあのロスト・タウンは国家ですら無かった。
とはいえ。
(彼らを……否定する気も起きない)
それもまた事実だった。
己の故郷を愛し、その故郷を築いた人間を長い年月を経ても尚、尊敬し続けることが出来るというのは……とても素敵な事だとルノワールには思えたのだ。
「ルノワール?」
自分を呼ぶ声に振り向けば、そこには普段とは趣きの異なる神官服のような白い衣装に身を包んだカナリアの姿があった。
「あぁ、ごめん。何?」
ぼーっとしていた自分を恥じながら、返事をするルノワール。
その言葉にカナリアは驚いたようだった。
彼女はこそこそと、ルノワールの耳元に口を寄せ、矢継ぎ早に囁く。
「ちょっと……っ! 今ここは屋敷じゃないんだからっ」
「……ぁ」
例え公爵家に仕える者であっても、所詮は使用人だ。
先程の返事は余りにも気安い口調である。間違ってもミストリアの王族を相手にした言動では無い。
カナリアの言い分は尤もだった。
「も、申し訳ありませんっ」
己の不甲斐なさを感じつつも、急ぎ頭を下げるルノワール。
そんな彼女の後頭部を複雑な表情で見下ろすカナリア。
「……」
今朝から、どこか心ここにあらず、といった様子でルノワールは佇んでいた。
そしてその理由をある程度は察しているが故に、カナリアはかける言葉がなかなか見つからない。
「……もう少ししたら、ユリシア様の手引きでお父様達の列まで行ってくるわ」
今回の儀式にはカナリアの母親は来ていなかった。
最近の体調の悪化は以前よりも顕著だ。
外出するのも難しい現状では無理も無いが、なんだか自分の母親だけが王族から除け者にされたようでカナリアは悲しみを覚えていた。
「畏まりました」
「貴女は――」
「傍にはオードリー大将軍がいらっしゃるでしょう。何かあればユリシア様も動くでしょう」
「……」
「私は周囲に目を配りつつ、もしもカナリア姫殿下の身に何かがあれば――その時は即座に駆け付けましょう」
朗らかな笑顔を装い、ルノワールは言った。
普段ならば、彼女がこうも口にすれば、カナリアの心には歓喜が満ちて行く筈だ。
だが――この時ばかりはカナリアから浮ついた返事は無かった。
「……そう」
本人はいつも通り笑っているつもりなのであろうが――カナリアからすれば、ひどく拙い笑顔だと感じられてしまったのだ。
無理矢理作った歪な笑顔。
それは決してカナリアの勘違いではない。
そんな作り笑いで優しい言葉を掛けられてもカナリアの心は、むしろ沈んで行ってしまうというものだ。
ルノワールの憂鬱。
それは先日のメフィルとの一件。
恐らく初めて主人に怒鳴られた故のショック――だけではない。
「……」
この日を迎え、この場所に参り、ルノワールは何か不吉な予感を消すことが出来なかった。
具体的な事は何一つ分からないが、今までの人生で幾度となく自分を救ってきた『勘』が警鐘を鳴らしている。
漠然とした不安から生じる微かな苛立ち。
それが自然と彼女から余裕を奪い、笑顔を薄っぺらい物にさせていた。
「……」
「……そろそろ時間だわ」
やがて時間となる。
どこからともなく鐘を鳴らすような音が響き渡り、聖歌隊の声が聞こえてきた。
しかし如何に美しい音色であっても、今の二人の心を晴れやかにすることはない。
カナリアとルノワールは具体的な形を伴うことのない不安と不満を抱えたまま歩き出した。
肌寒さを感じる秋空の下、ミストリア王国最大の儀式が始まる。
☆ ☆ ☆
先日から続く曇天の下で、静かに歩を進める人々の姿があった。
神官達に囲まれながら、行列の先頭を歩くのはミストリアの王族だ。すぐ傍にはオードリー大将軍を始めとする護衛の姿が散見される。
更にその後ろに続くような形で、王族に連なる地位に当たる公爵家の方々がいた。
当然ユリシア様もこの位置だ。
僕とテオさんは、ユリシア様付きの使用人、という立場で、彼女に従うように参列している。
(……雨が降りそうだ)
曇天だから、というだけではない。
空気の含んでいる湿気、雲の動き、風の流れから、僕はそう思った。
相変わらず、この森の中は静かだった。
余りにも動物が少ない。
しかし、それは逆に言えば何か物音が立てば、ひどく目立つということだ。
異常があれば即座に気付く事が出来るだろう。
先頭を歩く王族達は後ろ姿しか見ることは出来ないが、現状では特に何か問題が起きた様子は無い。
僕は無言のままに、ユリシア様に顔を向けた。
「……」
綺麗な横顔であったが、その表情は真剣さを含んでいる。
顎に手を当てながら、ユリシア様は僅かに伏せていた顔を上げた。
(いや……というか)
何かを……悩んでいる?
「……ユリシア様?」
僕が小声でそっと名を呼ぶと、彼女の瞳が僕に向けられる。
強い眼光を覗かせるユリシア様は漠然とした問いかけを僕に発した。
「ねぇ、ルノワール」
「なんでしょうか?」
「一つ、聞きたいことがあるのだけれど。貴女は今……何かを感じている?」
「特別変わった魔力などは感じませんが……」
頭を振りつつ答える僕だったが、ユリシア様は続けた。
「いえ、力ではなく……嫌な予感とか」
彼女は僕とマリンダの知る限り、最もサザーランド親子の『勘』を信頼している人間だ。
無論、理屈、筋が通っていた方が良いが、不透明な状況に陥った時、ユリシア様はよく僕達親子にこのような質問をする。
「しております」
「それはこの場所に来てから強くなった?」
「……ええ」
ぎこちなく、しかし問われるままに正直に僕は答えた。
「…………」
「……ユリシア様?」
彼女が遠くへ目をやるように視線を持ちあげた瞬間――、
「っ!!」
――森が鳴動して唸りを上げる程の地鳴りがルーディット一帯に響いた。
行列が乱れ、人々の悲鳴が木霊する。
「これ、は……っ!」
周囲の人々は突然の状況に倒れ伏し、未だに揺れ続ける大地にしがみつくことに必死だった。
とはいえ僕とユリシア様にとっては、この程度のアクシデントなど物の数ではない。
風魔術で己の身体を浮かせながら、僕達は周囲の様子を探った。
混乱に乗じて無法を働こうとする者がいるかもしれない。
注意深く、『外』にだけではなく、内部の貴族や王族、民衆の様子も確認していく。
直後、ぞわり、と毛が逆立つ程の力の波動を森の向こう側、丘を越えた方向から感じた。
「……数が多い」
それは無数の気配だ。
恐らく人間ではない。
何かの生物の大群の進行のように感じられた。
『……魔獣の大群が現れた』
僕の懐に忍ばせていた小さな魔石から低い声が聞こえてくる。
グエン様からの仮面を通じた通信が届いたのだ。
そして、それは僕の感じた気配を裏付ける報告だった。
『状況は?』
『既に外軍が存在を察知し、防衛態勢を整えている』
『一体どこから現れたのですか?』
『それは不明だ。突然、という他無いな』
前回のリヴァイアサンの時もそうだったが、敵の隠密性は目を見張るものがある。
(ディルさえいれば……)
彼のゲートスキルは索敵に於いて無類の強さを発揮する。
どれだけ気配を隠すことに長けていたとしても、そこに存在している以上はディルの『千里眼』から逃れる事は出来ない。
無論、千里眼とて、一定以上の強度の結界が張り巡らされていれば、その中を探る事は出来ないが――そういった結界が張ってあることを察知することが出来れば、こちらのものなのだ。
この場にいない人のことを考えても仕方が無いとは分かっていても、そう思わずにはいられなかった。
グエン様からの報告を僕の隣で聞いていたユリシア様も質問を投げかける。
『グエン。魔獣の大群以外に変わった事は?』
『今のところは大丈夫そうじゃな』
つまり――スレイプニルは来ていない?
『紅牙騎士団はどう動くつもり?』
『これが陽動の可能性もある。不自然な点も多い。外軍の手に負えないと判断すれば防衛戦に参加する。現状はこれ以上の何かが起きないかの調査を優先する』
無駄を省いた簡潔な報告に迅速な判断。
この辺りは流石にグエン様である。
『それがいいわね。ありがとう、そちらはグエンに任せるわ』
何故丘の向こう側にわざわざ罠を張っていたのだろうか。
神殿の周辺には罠が無かった。
それは紅牙騎士団が入念に調査していたことからも明らか、だと思う。
だからこそ、遠方に魔獣の群れを用意していた?
(いや、だけど……)
魔獣達の気配は遠い。
未だこの場所までやって来るには、それなりに時間が掛かってしまうだろう。
(速攻性が無ければ、罠の意味が無い)
相手の意表を突いてこそ罠というのは真価を発揮する。
これほど距離が空いてしまえば、当然外軍の防衛網も完成してしまう。
それではただ撃退されるだけではないか。
それとも真正面から王国の最高戦力を潰せるだけの戦力を整えたのだろうか。
(いや……もしもそうなら他にいくらでもやりようはある)
それにオードリー大将軍は未だに動いていない。
彼は変わらず王族の傍で待機しており、現状の突然の事態を受けてもまるで動揺せずに、様子を窺っていた。
大将軍さえいれば、王族の安全は半ば保証されているも同然だろう。
(なんだ……何が目的?)
僕が頭を悩ませていると、ユリシア様が突然歩き出す。
彼女はどうやらオードリー大将軍と話したいようだった。
「オードリー将軍!」
ユリシア様の声を聞いてオードリー大将軍の顔がこちらに向けられる。
彼の傍にいたカナリアも僕達の方へと駆け寄って来た。
「状況は?」
「有事の際の備えは万全だ。現在魔獣の大群がこちらへと向かっているが、直に撃退されるだろう」
特に問題は無い、と彼は言う。
「……ならば」
オードリー将軍の言葉を受け、ユリシア様は再び黙考に入った。
瞳を閉じて、長い間、彼女は静かに無言で思案を巡らせる。
「………………」
長い長い思考の末――。
「……っ!!」
僕程度の頭では及びもつかないだろう思考回路の果てに何を思ったのか。
ユリシア様はカッと目を見開くと、頭を上げた。
そして。
美しい瞳が鋭い光を帯び、真っ直ぐに――1人の人間に対して向けられた。
直後。
ユリシア=ファウグストスの全身が美しい桜色の魔力光に包まれ、右腕から蒼光が放たれた。