第九十三話 揺れる感情
収まらぬ動揺、焦燥。
逃げるようにして窓を閉めた私の口からは意図せず掠れた呟きが漏れ出でた。
「なん、で……」
え、え……?
だ、だって二人は女の子同士でしょう。
それなのに。
「キス……してた?」
そう、見えた。
少なくともあの位置からでは、そうとしか見えなかった。
夜の秋空の下で、カナリア姫殿下とルノワールの影は確かに重なっていた。
二人分の小さな影が瞼の裏側に焼き付いて離れない。
「…………なに、それ」
不純。
不潔だ。
だって同性同士で、あんな事。
それに今はそんなことしてる場合じゃない筈だ。
王族の一大事になってしまうかもしれないのに。
なんで、あんな。
他人の家の従者に対して。
「カナリア様、は……」
その、なんというか、ルノワールの事が……す、好き、なのだろうか?
「……ルノワール、は?」
彼女は何を考えているのだろうか。
どうするつもりなのだろうか。
だめだ、思考がまとまらない。
(あの二人はとても仲が良い)
たった数日で既に気心の知れた親友同士のように心が通じ合っているように見えた。
そしてカナリア姫様の状況を考えれば、優秀な護衛が傍に居る事はこの上無く、重要なことだろう。
微笑み合う二人。
折り重なる二人。
「……」
嫌な思考が頭の中を埋め尽くして行く。
心の中に暗雲が立ち込め、一向に晴れて行く事が無かった。
(もしかしたら)
もしかしたら――ルノワールはこの先私の護衛を止めて――。
「い、いや、そんなこと……」
ある訳無い。
あって欲しく無い。
そうだ、彼女とは約束がある。
ルノワールは私と約束してくれたではないか。
私を護る、と。
月明かりの下で。
湖の畔では、この世の全てから護ってくれるとまで言ってくれた。
あの子の誠実さは良く知っている。
彼女が約束を違えるなんて、そんな事――。
「…………」
俯き、自室の床をじっと見つめる。
(本当に――そうなのだろうか?)
ルノワールとて年頃の少女だ。
平時は落ち着いており、大人びた印象を周囲に与える彼女ではある。
しかし一時の感情で、心が移りゆくことだって有り得るのではないか。
それに私自身は経験が無いが、貴族達の中では同性同士で恋人のような関係になる人間だって、少なくはない。
あの二人がそうでないと、何故言いきれる?
私は碌に恋なんて知らないのに……。
「最低……」
それは誰に対しての言葉だったのか。
誰よりも信頼する従者を疑っている自分に嫌気が差してくるが、私の葛藤と無駄な思考は決して消え去ることが無かった。
☆ ☆ ☆
翌日の朝。
私が食堂へと足を運ぶと、給仕をするルノワールの姿を見かけた。
彼女は平時と変わらず、溌剌とした笑顔を見せながら、配膳をしている。
その姿からは昨日の夜についての経緯を感じさせるものは無い。
そこで再び私の思考の中に邪な物が浮かび上がってくる。
もしかしたら、私が気付いていなかっただけで、昨日のような事は今までにもあったのではないか。
以前からも夜二人で密会していたりしたのではないか。
そんな益体も無い最低な考えを持った時、ルノワールの視線がようよう私に向けられた。
「おはようございます、お嬢様」
普段通りの挨拶。
普段通りの笑顔。
普段通りの彼女の姿が今日だけは……どうしてか、疎ましかった。
「……おは、よう」
視線を上手く合わせる事が出来ない。
私の小さく、どこか覇気の無い挨拶に続くようにして――、
「おはようございます」
――背後から艶やかな声が聞こえてきた。
どこか芯を感じさせる強い声音。
声の主は最近になって客人としてやってきた少女――カナリア王女殿下のものだった。
よく通るその声は、その場にいる屋敷の全員に向けての挨拶だろう。
だけど捻くれた私には、まるでルノワール一人に向けた挨拶であるかのように聞こえてしまった。
事実、カナリア姫様の姿を見つけ、
「ぁ……おはよう、ございます」
どこか慌てた様子で返事を返すルノワール。
心なしか頬を染め、彼女は視線を逸らした。
そんな彼女の姿を認めた瞬間、私の胸の中に蹲っていた薄く小さな波紋が、どんどんと広がっていくのを感じた。
「おはよう、ルノワール」
落ち着いた声でもう一度、カナリア姫殿下はルノワールに微笑んだ。
☆ ☆ ☆
「最終選考の通過おめでとうございます」
そう言ったルノワールの声に弾むような気配は無い。
「……ありがとう」
彼女の歓喜に満ちた声を夢想していた私の心は自分でも驚くほどにショックを受けていた。
「それと……大変申し訳ありません」
当惑するルノワールの声を聞いて、私の心の中に失望の色が渦巻いた。
「……何の事?」
分かってはいても、私は彼女に問い返した。
「儀式の行われる日に、メフィルお嬢様方が、その、王宮に赴くと伺いました」
理由はもちろん、最終選考を通過した私の作品を確認するためだ。
指定された日時は『祈りの儀式』当日。
嘘か本当かは分からないが。
外部から王宮に参加者、すなわち最終選考通過者を招く場であるために、王宮になるべく貴族・王族が居ない間の方が都合が良いらしい。故に、こういった日程になっているのだとか。
「そうね」
「その、当日、私は」
「……」
その続きの言葉は――。
「カナリア姫殿下の護衛のために、ルーディットに行かねばなりません」
出来る事ならば――聞きたくなかった。
彼女の言葉の中には隠しきれない悲壮感が漂っている。
ルノワールだって本当は私と一緒に、私の描いた作品が展示会に飾られる場面を見たかったのだろう。
私の願望かも知れないが、そう感じた。
それでも今回ばかりは止むを得ない。
「申し訳ありません」
ルノワールは再び頭を下げた。
しかし仕方の無いことじゃないか。
状況が重なっただけだ。
彼女には何も罪など無い筈。
それなのに。
「……っ」
貴女は私の護衛でしょう!
そんな言葉が喉から出かかったが、なんとか自制した。
「……そう」
私の声には一体どんな感情が込められていたのだろうか。
悲哀? 嫉妬? 混乱? 動揺? 恐怖?
分からない。
自分のことなのに。
今の私には――分からなかった。
しかし。
「別にいいわ」
続いて私の口から出た言葉。
「貴女が居なくたって問題無いわ」
それは驚くほどの冷たい響きを伴っていた。
「カミィやリィルが一緒だし、マルクもいるわ。別に貴女が気にする必要は無いわ」
「ですが」
ですが?
ですが……なんだというのか。
「その、お嬢様の身に何か――」
私の身を案じるような言葉をどれだけ重ねたとしても。
貴女は――カナリア姫殿下の元へ行ってしまうのでしょう?
「……別にいいって!!」
私は――。
「私は貴女が居ないと何も出来ない訳じゃない!」
自分でも驚く程の大音声が私の室内に響き渡った。
こんな風に怒鳴るなんて、幼少期以来だろう。
突然の怒声にルノワールは驚き身を小さくしていたけれど、私自身、これほどまで心情が揺れ動くとは思っていなかった。
彼女と話しているだけで、普段は穏やかな気持ちになれるのに、今日ばかりは駄目だった。
「お嬢……様……」
目を丸くし、狼狽する彼女に私は言った。
まるで追い打ちをかけるように。
「最初の襲撃者だって私が倒したんだし、別に貴女が居なくたって……私はそんなに弱く無い」
心にも無い事を。
普段ならば決して口にしないような強がりを吐いて。
「も、もちろんお嬢様の実力は承知しておりますが」
ルノワールの言いたい事は分かっている。
いくら同年代で優れていると言っても、ルノワールや紅牙騎士団クラスの人間と相対すればひとたまりもない。私の戦闘能力など児戯に等しい。
それでも。
分かっているけれど、でも。
心を落ち着かせるように。
私は静かな口調で言った。
「お母様の命令なのでしょう?」
「は、はい」
「カナリア姫殿下の御命にかかわることなのでしょう?」
「……はい」
だったら。
「貴女は……カナリア姫殿下の元に行けばいい……」
もしかしたら。
もしかしたら私がここで、私の傍に居て欲しいと懇願すれば――彼女は傍に残ってくれるのではないか。
そんな思考が頭を一瞬掠めたが――素直になれない私はぶっきらぼうな口調で告げた。
「当日はシリーに同行をお願いするから」
「……」
「それで、いいでしょう?」
突き放すように私が言うと、ルノワールは一度口を開きかけ――、
「……」
しかし何も言わずに黙した。
「……分かり、ました。シリーさん、ならば」
信頼に足る、と彼女は思ったのだろう。
それでもどこか未練がましく私に目を向けるルノワール。
その瞳を受け止める事が今はひどく怖い。
「話はそれだけかしら?」
「はい……」
ルノワールは悪くない。
何一つとして悪くない。
私が勝手に癇癪を起こしているだけだ。
冷静に自分を見つめ直せば、簡単に理解出来ること。
今まで通りじゃないか。
何か用があるから。王国にとって必要な作戦だから。
一時的に護衛を離れて作戦に赴く。
それだけだ。
だけど、理解出来ていても、私の気持ちは思い通りにならなかった。
どうしても昨夜の光景が瞼の裏側から離れて行かなくて。
熱く、震える、名状しがたい感情を抑える事が出来なくて。
「それでは……失礼いたします」
かつてこれほどまで肩を落として私の部屋を去っていくルノワールの姿を見た事があっただろうか。
「……ええ」
(最低、ね)
己の言動。
己の態度。
そして己の……醜い感情。
それらを省みると、とてもではないが、誇りあるファウグストス家の淑女に相応しいものではない。
自己嫌悪に陥りつつ、私は倒れるようにしてベッドに身体を預けた。
「本当……最低」
心の内でルノワールに『ごめんなさい』と口にしながらも、私は胸の中に巣くう靄を振り払う事が出来なかった。
素直になれない自分が……心底嫌いだった。