第九十二話 気持ちの行き場所
もうじきルーディットの祭壇にて『祈りの儀式』が行われる日がやって来る。
差し迫る脅威の陰を感じ取ったかのように静かな室内に美しい声が広がった。
「ベルモント=ジャファーの封印の石板……」
3者の眼前、テーブルの上に置かれた一つの石板。
表面には様々な魔法陣が張り巡らされている。
ユリシア=ファウグストスの呟きに、深刻な表情でルノワールとグエンの二人は頷いた。
「はい、間違いありません」
形状、文様。
それら全てが一致する。
魔力は既にほとんど失われていたが、リヴァイアサンの一件で洞窟で見つけた石板と同様の物であることに疑いの余地は無かった。
「でも何故麦畑に?」
ユリシアの声にルノワールが自信が無さそうに、答える。
「それは……分かりませんが……隠すために都合が良かったとか、でしょうか」
しかしすぐさまグエンが首を振った。
「そうは思えんな。現にルノワールには見つかっておるし、あの場所にある意味も分からん」
「では……これは?」
「ふぅむ。何かを封印していたような気配は?」
「ありませんでした。しかし既に解き放たれて時間が経過しているのであれば、感じ取れないと思います」
「しばらくの間、あの地に何かを繋ぎとめていた、というところかの」
グエンが顎を撫でた時、ユリシアが独白するように呟く。
「……地下」
「え?」
「何かを繋ぎとめていたとするならば、地中でしょうね。何か空洞のような空間があり、都合が良かったのかもしれない。でなければグエンの言うように、あんな人目につく可能性のある場所に石板を置く意味が分からない」
「既にその『何か』は解き放たれている、と?」
ルノワールの声にグエンが難しい顔で頷いた。
「うむ……聖獣すら封印出来る石板、か。厄介じゃな」
「……」
「……ですね。ベルモントの置き土産、ということでしょうか」
「余計な真似をしてくれたものだ」
言いつつ、グエンは顎ひげを軽く撫でる。
その眉根は寄せられていた。
「それにしても……一度騎士団の人間が探索した時には見つけられなかったのだが……よくぞ見つけたな」
「既に力が失われておりましたし、僕がこの石板に気付けたのは、一度本物を見ているからだと思います」
「……」
「ふむ……まぁ、なるほど、そうか」
微妙に納得しきれていない様子で唸るグエンに対し、ルノワールは続ける。
「しかし黒幕がメフィルお嬢様を狙っている人間と同じである可能性は示唆されました」
「その通りだ。この機会にそこまで一気に手を掛けられるといいが……」
と、そこで。
先程から瞳を閉じ、口を閉ざしているユリシアが気になり、ルノワールは首を傾げた。
「ユリシア様?」
「……」
ルノワールの言葉が耳に入っていないのか、彼女は黙考したまま、やがて一言だけ呟いた。
「…………この、状況……」
ぽつり、と微かな吐息を洩らし、それだけを口にする。
「いえ……妄想が過ぎるわね」
しかし頭を振り、瞳を開けるユリシア。
何か一人で考え事をしていたらしい。
グエンとルノワールには意味が分からなかったが、彼女は何やら一人で納得しているようだった。
「当日は現地に集められる事が可能な騎士団員を配置しましょう。指揮はグエンにお願いするわ」
「心得た」
「何にせよ、祭壇に仕掛けが無いと分かっただけでも収穫だったわ。当日はわたしも儀式には赴くことにする。ルノワールは是非とも同行をお願い」
「分かりました。カナリア様は……?」
「そちらにはわたしが手を回しておくわ。当日は上手い事カナリア様には王族の列に参列してもらえるように手配しておきましょう」
一体どのような方法を取るのかはルノワールには分からなかったが、ユリシアがやる、と言ったら必ずやる女性なのは良く知っているため、少年は黙って頷きを返した。
「結局カナリアが聞いた、王族暗殺の話をしていた貴族達は……」
「マークはしているわ。一応カマを掛けてみたりもしたけれど……引っかからなかったわね」
「多少の怪しい動きはあるが、決定的な物ではないし、何やら大掛かりなことを仕掛けようとしている気配も無かった」
「そう……なんですか?」
ルノワールの呟きに、ユリシアが答えるように口を開く。
「何はともあれ、護りの配置はしっかりと出来ているし、危険が起きる場合の想定も出来た。後は無事に儀式を終わらせればいい」
己に言い聞かせるように彼女は言った。
「この時期に王族暗殺などは認められないわ。そんなことになれば、ミストリアは崩壊する可能性すらある」
ユリシアの重く、そして決して有り得ない話では無い言葉。
「オードリー大将軍とも情報共有は出来ているし、祭壇周辺に罠が無いことも確認済み。ならば後はしっかりと守り切ればいい」
ユリシアの言葉にグエンとルノワールは真剣な表情で頷いた。
「まぁ一応……『保険』だけは掛けておこうかしら」
独白するように、ユリシア様は一言呟き、
「当日は二人ともよろしくね」
その言葉を最後に、今宵の会議は終わりを迎えた。
☆ ☆ ☆
「……」
窓の外から夜空を見上げる。
今宵は残念ながら月は雲に隠れ、その美しい輝きを見ることは出来なかった。
「……冷えるわね」
窓を開け、夜風に当たりながら私は一人呟いた。
「姫様?」
背後からのテオの声。
「どうかなさいましたか?」
「いえ、もうじきだな、と思って」
もうじき、来るべき日がやって来る。
本当に何か事件が起きるのか。
はたまた私が聞いたあの計画は幻聴で、何も起きないのか。
(いや、幻聴なんかではない)
はっきりと耳にした。
それだけは間違いが無い。
4日後の儀式の日。
私はユリシア様の手によって、王族の列に参列することになるらしい。
直前までは安全を考慮して、ルノワールが傍に侍ってくれるそうだ。
(……ルノワール)
実際に王族暗殺というような事件が発生するのかどうかは分からない。
だけどたった一つだけ。
揺ぎ無い事実があるとすれば。
(今回の件が一段落ついたとき)
私の今の生活も終わりを告げるだろう。
すなわちルノワール=サザーランド。
いや、ルーク=サザーランドの傍に居られる貴重な時間が終わってしまう。
私はそんな予感をひしひしと感じていた。
ただそんなことを考えているだけで、胸の奥がざわめき、どうしようもないほどの焦燥感に襲われる。
ずっと望んでいた愛しの少年との再会と共に過ごした日々の輝き。
それらは私の心の中で余りにも大きな存在として彩りを持っている。
「あっ……」
窓の外。
庭の端の実験場から一人の少女が出てきた。
こんな時間に実験場で汗を流す人間など、屋敷には一人しかいない。
「……」
「姫様?」
「少し……一人で散歩してくるわね」
「えっ?」
「大丈夫。屋敷内だもの」
「い、いえその……」
「ごめんなさい、テオ。ちょっとだけ一人になりたい気分なの」
そんな嘘を自分の従者に吐いて。
「か、畏まりました」
(ごめんね)
もう何度目になるかも分からない謝罪の声を心の内でテオに投げかけ、私は秋の夜空の下に身を躍らせた。
☆ ☆ ☆
「今日も頑張ってるわね」
私が声をかけると、ルノワールはいつものように優しい表情で微笑んだ。
「こんな夜更けにどうされましたか?」
丁寧な物腰。
美しい声。
洗練された所作。
パメラをも唸らせた彼の振る舞いは、あの頃よりも更に磨きがかかっていた。
「貴女と話したいな、と思って」
私がそう言うと、ルノワールは庭先の一つの椅子に目を向けた。
「では、座りましょうか」
「ええ」
促されるままに私は腰を下ろした。
隣には大好きな少年の美しい姿。
「……不安ですか?」
先に口火を切ったのはルノワールだった。
彼女は心配そうな表情で私の顔を覗いている。
その瞳の中には私を案じる感情があった。
「ええ。やっぱりその……怖いわね」
私がそう言うと、彼女は真剣な表情を作り、言った。
「大丈夫ですよ」
全く気負った様子も無く、目の前の少女は穏やかな表情で私に言う。
大丈夫だ、と。
「当日はユリシア様やオードリー大将軍が王族の皆様方を護ってくださいます」
「……貴女、は?」
「私ですか?」
そこで可笑しそうに微笑みながら、彼女は言った。
「私も護りますよ、貴女を」
そうして優しい顔で。
「あ、そうだ。昔の約束を果たしましょうか?」
ルノワールはそう言った。
「約束?」
一体なんのことだろうか?
「ええ。覚えていらっしゃいますか? 王宮を去るあの日、『私の絵を描いて』と言った貴女に……私は『楽しみにしてる』と答えました」
「……ぁ」
それは遠い過去。
あの悲しみで身体が引き裂かれそうになった朝焼けの王宮での一幕。
「カナリア様も約束を守って下さいましたしね」
「え、私……が?」
「はい。別れ際の言葉を今でも覚えていますよ。『もっともっと綺麗になって待っているから』と」
「っ!!」
そこで一層楽しそうに彼女は笑った。
「ほら、カナリア様は約束を守って下さいました。あの頃よりもずっとずっと……綺麗になってるじゃないですか」
そんなに楽しそうに。
それでいて真剣に。
そんなに真っ直ぐに。
「……」
そんな言葉を言われてしまえば。
「? 姫、様?」
ずっと、ずっと。
ずっとずっとずっと。
彼と出会い、彼と過ごし、彼と喧嘩し、彼に救われ、彼と共に微笑んでいた、あの頃から。
「私、は……」
ずっと好きだった。
この人と一緒に居たいと思った。
叶うものならば、彼とずっと一生。
私をお嫁さんにして欲しくて。
私の隣で微笑んでいて欲しくて。
そんな妄想をして、その度に現実を直視して。
それでも王族だから、と。
我慢をした。
2年近く。
彼と離れている間もずっと耐えてきた。
だけどもう。
王族だとか。
平民だとか。
そんなことは私の思考の中には無かった。
久しぶりに出会った少年は私が思い描いていた通り、いやそれ以上に素敵な人になっていた。
女装しているだとか、そんなことは関係無い。
ルークの美しい心根はそのままだ。
彼の傍に居られることに勝る幸福など無い。
「姫様?」
訝しげな少年の声が聞こえる。
だけど私の耳は彼の声を拾っていても、意識の中には何も届いていなかった。
「私、は……っ!」
その時。
視界の端で。
2階の窓が開くのが見えた。
開いた窓。
そこから一人の少女が顔を出した。
彼女の名前はメフィル=ファウグストス。
現在のルノワール=サザーランドの主人。
美しく聡明で、芸術の才能に溢れ、目の前の少女と最も近い場所にいる女の子。
彼女の驚いたような瞳が私とルノワールに注がれた。
(このままじゃ……っ)
再び私はルノワールと離れ離れになってしまう。
そして目の前の従者は、あの窓から顔を覗かせている彼女に尽くすだろう。
対する私がルノワールに再び会える日は来るのか。
分からない。
私とて、いつ結婚相手を見繕われてもおかしくない年齢だ。
本当に……今のままで私はいいの?
焦燥と悲しさと寂しさと。
メフィルさんに負けたくない、という対抗心と。
それら全てを上回るだけの愛情。
私の中の感情が膨れ上がり、頭の中は沸騰したように熱くなった。
一瞬の内に覚悟が決まり、そして。
「……っ!」
そして私は――その気持ちを放出した。
「姫、様……?」
只ならぬ様子で沈黙する私に再び心配そうな声を掛ける少年に向かって。
「ルノワール!」
一声掛けた私は意を決して――。
「えっ……へっ? 姫さ……むぐっ!」
「~~っ!」
――少年の唇を、私の唇で塞いだ。
こんな不意を突くような形でファーストキスをするなんて。
なんてはしたない振舞いだろう。
私は相も変わらず最低な女の子だ。
昔から変わらぬ悪い女の子。
メフィルさんが見ている事が分かっていて。
彼女に見せつけるようにして。
(それでも……)
今を逃せば、一生後悔してしまうと思ったのだ。
今でなければ、私の気持ちは一生彼に届かない。
理由は分からないけれど、そんな気がした。
流石のルノワールも驚きに目を見開き、動きが止まってしまっている。
「姫、様……」
私はルノワールの唇から離れると、いつの間にか頬を流れていた涙を気にすることも無く、少年に思いの丈をぶつけた。
「好きです」
飾らず、真っ直ぐに。
不器用な私には洒落た言葉など思いつかなかった。
「……ぇ」
「昔からずっと……ずっとずっと貴女の事が好きでした」
「……カナ、リア?」
茫然とした様子で私を見つめるルークの顔を見つめながら。
「カナリア=グリモワール=ミストリアは」
唇に残る温かな余韻に導かれるままに。
「ルーク=サザーランドの事を」
今私の偽り無き本心を伝えよう。
大好きな人に。
大好きな気持ちを。
「誰よりも……お慕いしております」
大好きな人には笑った顔を見ていて欲しい。
だから。
「………………」
「あはは……言っちゃった」
私は涙を流しながら……それでも懸命に不細工な微笑みを浮かべていた。