第九十話 メフィルとユリシア
鏡台と向かい合う私の口から無意識の内に……溜息が漏れた。
「はぁ……」
僅かばかり……心が沈んでいることを自覚している。
何故こんな気持ちになってしまっているのか?
その理由も理解している。
(あの二人……)
ルノワール=サザーランドとカナリア=グリモワール=ミストリア。
(どうして)
あんなに仲が良いのだろう。
まだ出会って数日しか経過していないというのに、私の従者と第3王女様はひどく仲良しだった。
既に旧来からの付き合いであるかのように、私の目の前で相槌を打ち合い、呼吸を合わせて見せる。
些細なことで微笑み合うばかりか、時折何か眩しい者を見るような慈しみの表情でカナリアを見つめるルノワールの眼差し。
あれは何なのか。
もちろん、二人の人柄の良さ、というのもあるだろう。
ルノワールにしろ、カナリア様にしろ、誰とでもすぐに打ち解けることが出来る人間だ。
共に明るく、どこか人を惹き付ける魅力に満ち溢れている。
だけど。
それでも。
「それだけ……なのかしら」
ただの人柄だけでは説明の付かない程に二人は親密であった。
そう――例えばこんなこともあった。
☆ ☆ ☆
私が屋敷でルノワールのことを探していると、庭の隅で談笑する二人の姿を見つけた。
カナリア様が何かおちょくるようにしてルノワールの頬を突いている。
ルノワールも別段嫌がっている訳ではないようで苦笑しながらも、どこか楽しげな様子だった。
何故か得も言えない焦燥感を感じた私は足早に二人の元へ向かい、声をかけた。
「ルノワール」
私が呼ぶと、彼女はまるで太陽のような温かい微笑みを浮かべて、振り返ってくれた。
「お嬢様っ!」
嬉しそうに私の元へとやって来るルノワール。
私の事を思うその彼女の仕草や振る舞いにどこか安堵を募らせていると、不意に物欲しげな表情を私に向けているカナリア様の顔が目に入った。
よもやそんな訳もあるまいが……傍からルノワールが去ってしまったことが寂しくてしょうがない、といった、そんな表情に私には見えた。
ルノワールの背中を見つめる眼差しの、なんと切ないことか。
「? お嬢様?」
沈黙する私を見下ろしながら首を傾げるルノワールに、私は努めて冷静を装い、言った。
「い、いえ。その……」
どうしてルノワールに声をかけたのか。
明確な理由があったわけではない私は言い訳をするように口早に告げた。
「喉が乾いてしまって……紅茶でも淹れてもらえないかしら?」
「はい、畏まりました」
嬉しそうに微笑み低頭するルノワール。
いつもの彼女の姿にどこか温かな気持ちになっていると、カナリア姫様が何かを口にするよりも素早く、私の従者は言った。
「あ、そうだ。カナリア様もどうですか?」
その提案を聞いて。
「っ!! い、いくわ!」
ルノワールに誘いの言葉を掛けられた事が嬉しくてしょうがない。
カナリア姫様の顔には、そう書いてあった。今度は間違いない。
私とて、二人の会話の邪魔をしてまで、お茶を入れるように頼みに来た立場だ。
カナリア様を断る理由などある筈もない。
彼女自身にも好意を抱いている。
だけど。
(な、なによ……)
言葉に出来ない不思議なモヤモヤとした気持ちが心の片隅に転がっていることを私は自覚していた。
☆ ☆ ☆
こんなこともあった。
天気の良いとある休日。
私が室内で学院での勉強をしていると、窓の外から気合の声が聞こえてきた。
一体なんだろうか。
私が部屋から庭へと顔を出すと、裂帛の気合と共に腰を捻り、右拳を突き出す勇ましい姫殿下の姿があった。額から飛び散る汗の雫が太陽の光を浴びてキラキラと輝いている。
続いて流れるような動作で滑らかに身体を滑らし、左拳を振るい直後、鋭い蹴り足が風を切った。
それはミストリア王国の姫君とは思えぬ程に様になった動きであり、彼女の武術が一朝一夕で身に付けたものでは無いことを窺わせる。
そんなカナリア様のすぐ傍には、またもやルノワールの姿があった。
彼女は至極真面目な顔でカナリア様の様子を窺っている。
やがてカナリア様の動きが止まった。
振り返った彼女の前には、嬉しそうに手を叩くルノワールがいる。
ここからでは上手く声は聞こえないが、どうやらルノワールがカナリア様を褒めているらしい。
「……」
なんとも楽しげである。
両腕を広げながら、まるで幼子のようにはしゃぐカナリア様の姿。
「……なによ」
拗ねるように呟き、私は無言で窓を閉めた。
☆ ☆ ☆
そして。
ルノワールがカナリア様と共にルーディットに向かった翌日。
私はなんとなく眠りにつけずに、食堂へと足を運んだ。
普段であればルノワールのお酌で酒や夜食を楽しむものであるが、今日ばかりは彼女はいない。
「うん……何か」
ないかな、と。
厨房に足を運ぼうとした私を呼ぶ声が聞こえた。
「あらあら?」
楽しそうな笑い声。
私がその声を聞き間違える訳もない。
「お母様……?」
「ふふっ。メフィルも夜食が目当てかしら?」
慈愛に満ちた表情で私を見下ろしていたのは屋敷の主人……いや私の母親たるユリシア=ファウグストスだった。
「え、ええっと……」
私が言い淀むとお母様は仰った。
「ねぇメフィル?」
「な、なんでしょう?」
「たまにはわたしに付き合わない?」
彼女はそう言ってまるで少女のような笑みを浮かべた。
☆ ☆ ☆
「なに? 緊張してるの?」
「へっ!?」
「ふふっ、ほらこれ。あの子が造ったリキュールよ」
「あの子、って……」
「ルノワールに決まってるじゃない」
お母様はそう言って笑いながら私のグラスに琥珀色の液体を注いだ。
「あっ、私が……」
お母様に酌をさせるなんて。
そう思い慌てた私であったが、彼女は終始楽しそうであった。
「ふふ、いいのいいの。お酒の席はいつだって無礼講よ!」
自分のグラスにも同じ液体を注ぎ、お母様はグラスを持った手を私の正面に持ってきた。
天真爛漫な幼女のような晴れやかな笑顔。
「かんぱ~いっ」
「か、かんぱい」
豪快にグラスを傾けたお母様は一息でグラスの中身を空にした。
「ふぅ。美味しいわねぇこれ。あんまり強くないけど」
私も誘われるように早速一口。
「あ……美味しい」
透き通るような喉越しの柔らかさ。
お母様の言うようにあまりアルコール度数は高くなく、それほどお酒に強くない私でも非常に飲みやすい。
私の好きな柑橘系の爽やかな香りと、ほんのりとした甘み。
舌の上を滑る琥珀色の液体は、まさしく私好みのお酒だった。
「へぇほぉ。つまりこれがメフィルの好みの味なのね」
「えっ……えっと、まぁ」
「お味はどうなのかしら?」
「美味しいです」
「あはは、流石のルノワールよねぇ」
「……ふふ、そうですね」
もう一杯もらうわ、と言いつつ瓶を手にしようとするお母様。
私はすかさずお酒の瓶を手にすると、お母様のグラスに向けて傾けた。
「私がやります」
「おっ? 悪いわねぇ」
楽しそうに笑うお母様のグラスにトクトクと液体を注ぐ。
「おっとっと?」
「あっ、と」
(ちょっと入れすぎちゃったかも)
「いいのよ、これぐらい朝飯前よ!」
言葉がおかしい。
良く分からないが、お母様は至極嬉しそうに豪快にグラスを傾けた。
「ふぅ」
「お、お母様はお酒強いんですね」
「ん~? 強い、って言っても、マリンダとかルノワール程ではないけどね。あの二人は本当にあれよ、おかしいからね。一緒にお酒飲んでいて勝った事なんて一度も無いわ」
「そ、そうなんですか」
「そうよ~。あ、でも貴女もそろそろお酒の飲み方、ってやつを覚えた方がいいかもねぇ」
「飲み方、ですか?」
「そうそう。碌に慣れていない子だと、例えば社交界なんかで飲み過ぎちゃって……そのまま送り狼に襲われちゃったり、ね」
からかうようにお母様は言った。
可愛らしく両手を掲げ、「がおー」と声を上げている。
「お、送り狼、ですかっ?」
「そうよ~。メフィルはわたしから見ても可愛いし。ファウグストス家の跡取りなんだから、ね。そろそろ年齢的に色々危険な頃だわ」
「で、でも……私は」
男性が近づいてくると得も言えない恐怖心がせり上がって来てしまい、どうしたって男性と、その、そういう関係になることが今は想像出来ない。
「うん。まぁ貴女の事は分かってるわよ」
そう言ってお母様は優しく微笑んだ。
「まぁ、お酒の飲み方についても、折角スペシャリストが傍に居るんだから。あの子に全部聞けばいいわ」
お母様の言い回しが面白くて私は思わず笑ってしまった。
「ふふ、スペシャリスト、ですか」
従者の顔を思い浮かべつつ、なるほど、確かにルノワールはお酒のスペシャリスト、と言って差し支えないだろう。そんなことを考える。
しばらく無言でグラスを傾けていると、お母様の呟くような囁きが聞こえてきた。
「何か……悩み事?」
「えっ?」
「いや、メフィルがなんだか悩んでいそうだったからね」
「そ、そんな風に見えますか?」
「えぇ、見えますとも。ふふふ、お母さんが当てて見せましょう。ズバリ、ルノワールのことでしょう?」
得意げに微笑むお母様。
私はぎこちなく頷き返すことしか出来なかった。
だが続くお母様の言葉には流石に大きく動揺してしまう。
「カナリア様に取られてしまったみたいで寂しい?」
「へっ!?」
ななな、何を言い出すのか!?
「きゅ、急に何を……っ」
「別に急じゃないでしょう。傍から見ていても貴女とルノワールはとても仲が良いし、理想的な主従だと思うわ」
そ、そうなのでしょうか。
「……」
「それが最近はカナリア様に付き添ってばかりで、自分が二の次になっているような気がしている、と」
「そ、そんなことは無いんですっ」
私は大きく首を振ってお母様の言葉を否定した。
ルノワールはきちんと私の身の回りの世話をしてくれている。
護衛にしたって依然と変わりない。
休日は一緒に絵を描いたりしている。
そうだ、別に彼女が何か特別変わったりは……。
「でも、それでも。貴女はなんだかちょっと寂しい、と」
まるで私の心の中を見透かしたような母の口調。
だけど、否定は出来なかった。
お母様にとっては私の考えている事など、下手をすれば私以上に簡単に分かってしまうのかもしれない。
「ふふふっ。あの子はモテるわよ~っ」
「なな、何を……」
「それも男女問わず、ね。昔っからそうなんだから」
それはそうだろう。
あの性格。
あの容姿。
あの雰囲気。
ルノワールがモテるのはある意味必然だ。
しばらく無言で俯いているとお母様は、静かに微笑んだ。
「ふふっ」
彼女は目を細め、私を見つめている。
「ねぇ、メフィル」
「な、なんですか?」
「頭を撫でてもいいかしら?」
そう言ってお母様は私の傍までやって来た。
「べ、別に構いませんけど……」
私はお母様に触れられることが嫌いでは無い。
むしろ、この美しい手で優しく触れられるのは、なんとも言えず心地よいものであった。
「ありがとう」
何故か私に礼を述べつつ、彼女の手の平が私の頭の上を優しく滑って行く。
「……大いに悩みなさい」
だけど母が口にした言葉は優しいものではなかった。
「えっ?」
「若い内は、なんでも悩むものよ。そしてその時に感じた思いが。考えた思考が。挑んだ行動が。積み重なって将来の大きな糧になる」
「……お母様?」
「……ふふっ。わたしなんかが説教なんて生意気かしら」
そんなことは無い。
「そんなことはありません!」
ある筈がない。
私にとってお母様の言葉は他の人間の言葉全てに勝るほどに大きな意味がある。
彼女程の偉大な人物の言葉を生意気だなんて思う筈が無い。
「そう? ありがとう……って、あら?」
楽しそうに笑う彼女の手の平が空を切った。
「あらら、なんだか酔っぱらってきちゃったかも」
「凄いペースで飲んでいたからでは……」
「ふふ、そうね。メフィルと飲むなんて楽しくて」
おっとっと、と言いながらお母様の足がよろめいた。
「いやぁ、お酒の飲み方どうの、なんて言っといてわたしがこの有様じゃあ、格好付かないわねぇ~」
「あ、ほらお母様。私が支えます」
「ふふっ、ありがとう」
少しばかり足取りの覚束ないお母様を支えながら、彼女の部屋へと二人で向かった。
扉を開き、お母様のベッドまで運ぶと、彼女は小さく呟いた。
「ねぇ、メフィル」
「なんですか?」
「今日は……一緒に寝ましょうか」
「えっ?」
突然の申し出に目を丸くしていると、お母様は寂しげに言う。
「あはは、その歳になって……流石に嫌かしら。ごめんね、変な事を言って……」
「い、いえ。別に嫌な訳では……」
お母様の瞳を真っ直ぐに見つめ返すことが出来ずに、狼狽していると。
「あははっ。そ~れっ!」
私の了承の返事が嬉しかったのか。
「わぷっ! ちょちょ、お母様?」
「うふふっ」
いきなり抱きすくめられベッドの中に引きずり込まれた。
「お、お母様……っ」
慌てつつ声を掛けるも。
「……すぅ…………すぅ……ふふふっ……」
耳元からは既に安らかな寝息が聞こえてくるではないか。
もう眠ってしまっている。
「……」
しばしの間、私は茫然と口を開いていた。
でも。
「……たまにはいっか」
お母様もきっと。
日頃のストレスが溜まっているのだろう。
一人、日夜忙しく走り回る彼女の気苦労は、私などには想像すら出来ない程だ。
「……」
無言のまま、私はお母様を抱きしめ返した。
私とてお母様の事は大好きなのだ。
だから。
たまにはこうやって。
「お休みなさい、お母様」
母の腕に抱かれて眠る夜があったっていいだろう。
私はその日、とても安らかな気持ちのまま瞼を閉じた。