第六話 『椿説戯童女』
前回までのあらすじ:
千歳が転がり込んでくることで、俄かに華の色を帯びることとなった高砂家。
「年頃の男女が一ツ屋根の下」とて意馬猿心の衛介だが、彼の失言からさっそく剣呑な雰囲気に。胃を痛めつつも更なる喧々の果て、どうにか幕を開けた共同生活なのであったが、さてこの行方や如何に。
一
如何したことであろうか、閉めて寝た筈の雨戸が勝手に開け放たれている。
俺は強烈な日光に殴られて目を覚ました。
常の休日ならば未だ起きる時間などでは到底なく、時刻にして午前八時半。尚早も甚だしい。
どこの誰ぞや、こんな意地悪をする輩は。許し難きことなり。
「あー、おはよ。ホラ、ぱっぱと起きて配膳手伝ってったら」
――そうであった。昨晩から高砂家には居候が寝泊まりしており、彼女は一足先に起きて朝飯の仕度をしていたらしい。結構、結構。
「いやはや、休みだってのに早えのなァ。それよりどうだ、一晩寝たらちっとは落ち着いたかい」
俺はのたのたと陸亀のごとく布団を這い出ると、畳まれた卓袱台の脚を立てた。
「うん…………まあ。お陰様で。そいで、お箸はこれでいいんだっけ、ってか全部あんたの?」
「や、お袋のも混じっとるから適当に使いな。こちとら最近は割り箸しか使ってなくて、普通のやつが懐かしく感じらあ」
笑い話の様なのだが実話である。割り箸こそ我が生活の不摂生、不健康さを象徴する代物だ。
たったの一人が増えただけで、今朝の高砂家は何時に無く活気を醸していた。
温かい飯にありつける喜びと云うのは、とんでもなく大きい。それに、三食を誰かと喰うことに優る幸なんど一体どこにあろう。これだけで既に何を食っても美味い気さえするではないか。
「ハイこれで全部ね。んじゃ、頂きます」
卓袱台の上には白飯と味噌汁の湯気がもくもくと揚がり、実に良い雰囲気を醸している。魚肉ソーセイジもフライパンでサッと焼いてあって、何とも食欲そそる色合いであった。
「うス、い、頂きます」
イタダキマス、とや。かれこれ何ヶ月振りに云ったであろうものか。事実、一人きりで飯を食っていてはまず吐かぬ台詞である。いざ箸を取り、手始めに味噌汁を一口すする。
「おっほぉ……」
また、これが旨い。俺は無類の感動に震えていた。
「な、なぁに」
「旨っ、家のあれっぽっちな材料だけで良くぞここまで作ったもんだわ。やぁ恐れいった」
「そっかそっか、良かったね。お粗末さまでーす、なんちゃって」
そう云うと千歳の顔も綻んだ。昨日までとは打って変わって和やかな時間に、我々は大変機嫌が良い。矢張り人生というものは落ち着いているに如くは無しと確信する。
「今日中には間違いなく親父からの仕送りも来るから、とりあえず夕飯の材料も賄っちゃって良いぜ」
「ありがと、そうする……てか仕送りってさ、お父さん何所で何の仕事してるわけ?」
南無三、これはいささかまずい。
突然そういった話題を振るのはやめて頂きたいのだ。こればっかりは弱ってしまう。
いよいよ他人から訊ねられる日が来てしまったか。我が愚父の仕事の内容など、人に語れたものでは到底ないのである。
家庭の事情というのは人それぞれゆえ成る丈触れぬよう教わらなかったか、この女は。
「ンーム。ええと、何だったっけかなァ。ああ……じゅ、塾の講師だわ。多分」
「やばっ。塾で単身赴任って、めっちゃすごい予備校の人の的な感じじゃん。てか多分とかウケんだけど」
「そ、そうかい? まあ云われてみりゃ」
……さて。俺が法螺を吹いている風に見える者もいるやも分からないが、実はこれ、根も葉もあらざる全くのでっち上げというような物ではない。
然れば、この機に諸兄には家庭事情を打ち明けておく。
本来、我が父高砂史はとある大学の考古学者であった。専ら日本古代史を事とし、かつては何冊か本も出し、学会ではそこそこ名の知れた男たりぬるやに聞く。
ところがある時期から彼は、ややオカルト染みた珍説や根拠薄弱な“陰謀論”に傾倒するようになる。元より家を空けがちな男だったけれども、これに拍車が掛けられたのもこの頃であった。
その詳らかな内容は我が知るところにはない。常より「俺はきっとこの正当性を知らしめてみせる」といきり立っていたものだが、あまりに型破りな話を大真面目に発表し続けた結果、遂に一昨々年、学会を追われたのであった。
夭折せし我が母も、幼き日の育て親たる我が祖父も、草葉の陰できっと慨嘆していよう。
真に遺憾なことである。
現在は島根で小中学生向け学習塾に勤める傍ら、物好きな少数の仲間と独自に研究を続けているのだという。
しかし、何ゆえ島根なのか? ――俺はそれだに存じない。
全くどこまで懲りぬ男なることか。あまつさえ、月の仕送りも徐々に減りつつあるが現状である。
上記のごとく、親父は如何ともし難き阿呆の盆暗と云えた。せめてばかり尊敬に足る父もがな。そう、幾度ともなく思ったものである。
果てにそのお陰で、俺は学問としての日本史、特に古代を好かなくなってしまった。理由はどうあれ、下手に歴史を学べば人に嫌われる。愚父は存分に反面教師とせねばならぬ。
――と、上述を以て怠勉の弁明ともする。
「どうかした? ボーっとしちゃって」
「ン、いや。ば……晩飯のおかずは何かなと考えてた」
「……馬っ鹿じゃないの、朝ご飯も食べ終わってないのに」
俺が大食の阿呆であるとは既に語った話である。
「喜べ、喜べ。俺はお前さんの飯が気に入ったのだぜ」
「そう、それはどうも。で、あたしが出てった後はどうするわけ」
はて、こやつは何故褒めてやった折に限ってかくも微妙な反応をするのであろうか。理解に苦しむところであった。
「また買い飯暮らしに逆戻りだね、残念ながら」
「うわ呆れた。まぁ……せいぜい長生きしなさいな」
「ぬ……あ、案ずるなよ、今に良い嫁が来るってもんだ」
苦し紛れに嘯いた。吐いて後思う。空しきかなこの童貞奴には彼女が出来ぬ。いわんや如何にして嫁など娶らるるものぞ、と。割れ鍋に綴じ蓋を期待しようも、現状では矢張り難儀か。とほほ、日々精進せねば如何ともなるまい。
きまり悪いままに、俺は飯を食い終えた。
本日は昼よりカラオケボックスにて悪友供と日頃の鬱憤を糞の如く掃き捨てるという痛快無比なイベントを控えているのだ。この所どたばたしていた為、久々に肩の力の抜ける道楽日となりそうである。
「ごちそうさん。俺は今日この後ちょっくら遊びに出てるから、好きにくつろいでてくれ。ホレ、合鍵も貸しといてやるから出掛けんなら戸締りをな。来やしないだろうが、もし宅配でも来たら受けといて」
いそいそと服を着替えつつ云う。
「夕ご飯は? 食いしんぼさん的にゃ何かしらご所望あんでしょ?」
「任した。お前の食いてえもんで良いや。ほんじゃ、夕方には戻る」
「あ、そ。ハーイ行ってらっしゃい」
既に集合時間は近い。尤も集まる愉快な仲間達は揃いも揃って日頃平然と十分や二〇分は遅れて来るような輩ばかりなるゆえ、わざわざ俺が焦って向かうまでの話でもないのだが。
何、野郎など、何所へ行けどもそんなものであろう。
二
多く巷のカラオケボックスに於いて、「フリー・タイム」なる制度が効力を発揮し得るのは平日に限られる。これは、予め一定料金を支払うことで何時間でも入り浸り放題になるという非常に得なプランである。
しかるに、この制度は恐らく我々を始めとした学生や宴の二次会を催さんとする社会人等に甘い汁を吸わすためにあらず、空きがちな平日に足を運んでくれる老人達に媚を売った物ではあるまいか、と邪推する。
故に我らが休日のこのこと赴いたとて、所詮それより遥かに高額な出費を余儀無くさるるが落ちなのだ。
「マジやべ、月の始めにこんな金使っちまった」
「クーポンとか貰ったはいーけど、期限糞短かくねコレ? また直ぐ来いったって無理、無理。流石にそんな暇じゃねえ」
「確かしー」
一頻り歌い尽くして後に黄昏の繁華街に歩み出るや否や、男らはやいのやいのと、飽くまで面白げに文句を垂れ流し始めた。俺とて喜んでその片棒を担ぐ。
「だァからドリバーは止しとけっつったんだい。あんなん奴等の思う壺だ。家からペットボトルに水汲んできゃ済むんだからよ。便所の手洗いで汲み放題さ」
「出ったあ、エーチャンの守銭奴語録ひとつ追加な」
「第一そりゃねーよー。そもそもワンドリンク制っつーのが有ってだな」
「実際オレ的にそれじゃ喉キツいわー。ガチ高いの出なくなるわー」
「渉は一人で湘南乃風ばっか歌ってっからだよ」
裕也が的確な突っ込みを打ち込んだ。仲間らは大笑いである。
確かに銭は幾分飛んだが、こうして友と娯楽に興ずるは実に面白い。
冷静になれば今我らが笑った壺がどこにあったのかは今一つ不可解なものであろうが、これぞ場の乗りの為せる業と言えよう。ああ愉快、これ愉快。
「まぁ、連休はまだあっから、どっか暇な日あったら連絡しろよ」仕切り屋の一人がそう言うと我々四人は同意し、形として解散した。
俺は電車に乗るべく駅へ向かう。学校の最寄はこの一帯では割かし大き目の駅であり、件のカラオケボックスもその駅前繁華街の一角に属する。裕也の家は駅から程近く便利な場所のマンション住まいだが、帰りがてら駅まで同行した。
なお他の二人はそれぞれ少し遠くへバスで帰るため、我らとは反対方向のバスセンターへと去っていった。
以下はこの道中の出来事である。
「そうだ。ちょっとコンビニ寄ってこ。こないだからゴムを切らしてんだったわ」
「おいおい。ンな物は今買わんでも良かろう……程々にしとけよ猿め」
「良いじゃん、良いじゃん。思った時買っとかなきゃまた忘れんだよ。どうせ衛介も晩飯買って帰るついでだべ」
「所がどっこい、そんなら当面は心配要らんぞ」
迄は云ったものの、別に親しいとも見做し難き女を我が家に泊めている、この複雑怪奇な状態を、如何して上手く説明など出来ようか。ここは一つ黙りおくに限るやも知れぬ。
「へえっ? どしたの、お前ともあろう奴が料理でも覚えたのか」
「……アッハッハ、まぁー大体そんなところよ。家で作る飯というやつはしみじみと旨いもんだ」
考え無しに大見栄を切った。我ながら愚かしき限り。斯くなる上は尚更努めて隠し通すが吉、という感じになってきてしまった。
「っしゃ! 近々お前ん家遊び行ったら食わしてくれ。酒くらい買ってってやるからよ、面子集めて麻雀でもしながら飯食うべ」
それだけは言語道断である。未成年の飲酒云々を論っている訳ではない。寧ろ麻雀は大変宜しい。
「いッ、いやイヤ、そいつぁ駄目だ。とっても人様に出せた味じゃねえ」
「へ……何だ、さっきは旨いって云ってたじゃんか」
「ウーム。ええと、そりゃアレだぜ。前に俺がレポートに書いた汚ねえ字が、俺自身に読めて担任に読めなかったのと同じさ」
「なるへそ、上手い事云うのなァ。じゃあ字も飯ももっとウマくならなきゃだ」
「期待はすな。料理なんぞそんなにすぐ上達せんから。ローマは一日にして成らずとは云ったもんよ」
裕也は笑う。こちらは九死に一生を得た気分だ。何、どの道千歳が居るのも数日であろう。通すのは容易い。後日料理の本なり何なり見て、適当に繕ってくれるとせん。然れば友よ、今宵は見逃して頂くとするが、許せ。
「や、やあ! 電車がもう来ちまう。んじゃァ又メールする」
とて、俺は笑顔で逃亡を極めこんだ。
胸を撫で下ろしつつ帰路に就く。相も変わらず来ていた車両に駆け込んだものである。
電車で揺られる時間は嫌いではない。乗っては降り行く多様な人々を観察するのは中々面白い暇つぶしである。よれた縦縞スーツに身を包んだ会社員風の男が社会の窓を開けたまま神妙な面で電話に耽っていたのが、本日のハイライトだ。
詳しい会話の内容はえ知らねど、間抜けな様と深刻らしき話題の酷いミスマッチが大層滑稽であった。彼は俺と同じ駅で降りると一丁前にタクシーを捕まえいそいそと帰ってゆく。
ここら辺の者であるというからまた可笑しい。
駅を出れば、我が家も歩いてさして遠からぬ。
夜道に漂う各家庭の飯の匂いも、今に至れば妬ましからず。斯くも素晴しい話があろうか。さて今晩のおかずは何なりや。良い具合の空腹である。
足早に歩き、更に腹を空かしてありつく飯も、是また一興といったものなのではなかろうか。
三
襤褸アパートの二階に居を構うる高砂家へ帰り着くには、金属の階段を上がる必要がある。この青く錆び果てた階段は、体の重い我々のような者が昇り降りするといつもぎしぎしと不安を煽る音を立てたものだ。
猫でも乗っているのであろうか、今日に至っては上がったところの軒屋根からもぎしぎしと嫌な音が鳴っている。
全く呆れたもの。これでは屋根屋が補修に来て上に登った途端に崩落してしまいそうではないか。加えて今日は近くで未処理の犬糞が酷臭を漂わせており、最悪の様相を醸していた。
さて、漸く以て帰宅となる。
近頃一人暮らしに慣れきってしまった俺は、最早自宅のインターホンを押すという習慣を持ち合わせていない。それ故今回も変わる事なく、無意識のうちに鍵を取り出し中に入らんとさえした。
「た、ダイマ」
この台詞を口にしたのも何時振りなものやら、既に見当が付かぬ。
ところがである。せっかく嬉々として家へ戻ったにも関わらず、意に反して反応が無い。部屋の明かりは煌々とついているのだが、一体どうしたことやら。何であれ、凶事の前触れでだけはないことが祈られて已まなかった。
「おうい。戻ったぞ」
俺は再度、宛ら仕事帰りの亭主が如くに声を上げていた。
而して一瞬だけ間をおいて後の事である。俄かに女の声が聞こえてきた。しかし、これには明白な違和感を覚える。
それもその筈、あろうことか家主の帰りを出迎えたのは、然るべき居候の声ではなかったのだ。
「アー、帰ってきたね!」
「……っ!?」
驚き桃ノ木、山椒ノ木――。
居間からひょっこりと顔を見せたのは子供であった。子供と云っても中学生くらいか、それにしては少し幼い様にも見えながらも、ませた雰囲気の女の子である。
その肢体は細っこく、日焼した茶髪は比較的落ち着いた御河童、否、当世風に云うならボブヘヤのような趣に整えてある。何より昨今は小中学生でも随分と洒落ついた服を着ているので驚かされた。
一寸見るならその風采は小動物的で、至って可愛げであると云うことが出来よう。
「だ、誰でえオマエ、どっから来たんだ。……迷子なんならお家に電話してやんぞ」
動もすれば隣部屋の住人である長久保さんの所の孫娘の類が、誤って入り込んだのやもしれぬ。
ならば、導いてやろうではないか。俺は子供のお守りなんど大嫌いであるが、ことさら蛇蝎として即刻追い払うような真似こそしない。
「へ? う、うち迷子じゃないしっ」
正体不明の童は何故か声を荒げ答えた。遺憾なるかな。明らかに迷子であろうに、強がった所で何も為らないではないか。
「坊や………じゃねえ、オジョーチャン。知らん人ん家に勝手に上がり込んじゃア駄目だろう。や、当たり前過ぎて学校では教わらんか。まぁどうしたのかは知んないが、とっととオウチへ帰んな。ホレ」
「……はぁ?」
「百年ここに居たってよ、小遣い出たりはせんからな。そりゃ鐚一文出さんとも。よい子なら解るね?」
「…………ハァ???」
呆気に取られたが如き顔にてこちらを見上げ睨む小娘。甚だ以て生意気な、これだから子童は好かぬ。いよいよ我慢の限界だ。
「ハァじゃねえやこのくそ餓鬼っ。夜道にでもほっぽり出されたいかッ!」
斯くして、大人気無くも恫喝に至る吾人であった。
「貴方、エースケ君って人なんだよねえ?」
「あぁ? ぃや……おス、如何にも」
「ふぅ~ん」
相手は益々訝しげにして、我が頭頂から爪先までを、もう一通り見調べる。
「フウンて、第一何故それを知っとるんだ。わざわざ俺に用だってえか? 何れにせよ勝手に上がり込むもんじゃアなかろう」
すると尺取虫よろしく、彼女の唇が不満を呈す。終いに童は溜息をつき、俺を心より見下した風で以下のようにほざき倒したのであった。
「うーぁ、チイちゃん可哀想! こんなオトコの家にイソーローだなんてッ」
はてな、チイちゃん、居候。果たしてそれは住吉千歳の事であろうか。妙な。こやつはあれの知り合いか。
「……さてはお前、住吉の後輩か何かか」
「こーはい? しっ、し、失礼ぇな! うちは――」
とて小娘が云い返しかけた所で、突如水流音と共に便所の扉が開く。
今宵の戦犯、住吉千歳である。
「あっ、お帰りー」
さてさて、事情徴収と御説教の始まりだ。
四
童と思しき少女の実は千歳の学友、即ち寒植野学園の者であった。全体として小ぶりの身なりから無闇勝手に小中学生と見做せるは浅はかであったかも知れない。それにつけても随分と子供染みた同級生が居たものである。
「東海林飛鳥、十六歳です……いや、でも四月一日には十七んなるから! 学年一緒だから!!」
「わァかった分かった、さっきは失礼したよ。……にしても住吉め。お前仮にも人ん家へ勝手に客を呼び込むなんざ一体何の真似だ、オイ」
「あ、あっはは……」流石の千歳も多少申し訳無さげに首をすくめ、「何かゴメンねえ……。買い物してたらばったり飛鳥に会っちゃって、ちょっと色々あって、ツイ」などと、やや素直に謝した。
然りとて飽くまで、形式的に。これいかに。
我が言に韻を踏んで調子を合わせたつもりか、この女。もう少し悪びれても罰は当たるまいぞ。笑って舌を出して許しを請うようでは困る。何せこちらは必死に居候の存在を隠して戻ったという中、当の本人が云い触らして客まで呼んでいる有様。全く以て不条理も過ぎよう。
「ばったり遭うって? この辺のコなのかい、お前さんは」
「そう。『出戸山中学』出身だよ」
飛鳥と名乗るこの矮小な女は、我々の通っていた中学校の隣の学区の出であった。高校では今年から千歳とクラスメイトになり、この娘らが好きな男芸能人の話題から意気投合したとのことだ。
「そうだっ、折角だから飛鳥もご飯食べてきなよ。お味噌汁ちょっと作り過ぎちゃったしさ。二人分ってイマイチどんくらいか判んなくってー」
「ま、待ちやがれ。お前という奴はまた、そうやって勝手に」
「わァいやった、チイちゃんの作ったご飯だって! もう衛介君とやら、幸せもんだね君ィ」
「お……おう」
俺は勢いに丸め込まれる感じを覚えざるを得ない。喧しき小娘が食卓にまで居座るとは何と図々しや。
千歳も千歳だ。好き放題にこんな真似をして許容されると思っているのならばそれは大変な誤謬である。全く居候風情が、馬鹿に良いご身分ではないか。こうまでなると戸主の立場は如何ん。
しかし俺は愈々空腹に耐えられそうにもないものだから、已むを得ず三人でちゃぶ台を囲むこととする。心より受け入れた訳ではない。食い次第早々に帰ってもらわねばならぬ。
いざ始まってみるや、身慣れぬ賑やかさが食卓を支配した。
「ああーもう、これ美味しい! ポテサラとかもう最高じゃん、ね、エースケ君もそう思うよねぇ」
「んん。まぁ、確かに旨めえが」
小娘は芋サラダを頬張り、大変嬉しげな面持である。物的事実として、真に夕飯は美味なりと、これは認めざるべからざるか。
只、この慣れ慣れしき餓鬼の山猿染みたハイ・テンションだけは如何にかならぬものであろうか。飯くらい少し落ち着いて食ったとて、罰は当らじと小一時間問い詰めたく思う。俺はこういった気質の人種とはとことん馬が合わぬに違いない。
恐らく、学校の教室ではそうして適当に騒ぐだけで自ずと人が集って来るのであろう。何かと斯かる女子は男供からも人気が高いのだから。学校という場はなかんずく単純なものだ。
「でさでさ、そもそも何でチイちゃんはこんな所に泊まってるわけ」
「……何で、って?」
「いや、まさかだけどさ、“こんな”衛介君と付き合ってたりでもすんの!? てか、こないだ云ってた彼氏さんはどーしたの??」
滅多なことを抜かしたものではない。一体誰が、“こんな”常識外れな阿呆女と。どこぞの大蜥蜴の趣味と一緒にされては困る。
「またまたぁ、ンな訳ないでしょ。大体あたしコイツ男子としてなんか見てないから全然大丈夫。今回はちょっと面倒臭い事情があっただけだから。ねぇ、衛介」
因みにに千歳は故人たる彼氏さんに関し噯にも出さなかったが、当方これに与し、とやかく述ぶるは控えることとする。
一方、当方とて斯くも面と向かって笑い飛ばされてしまうと流石に良い心地はしなかった。一介の雄として、良しやら悪しやら。
しかし思うにこの撞着した妄念、如何にも俺が青二才たる所以にも他なるまい。本来この女に何と云われようが構わぬ、はずなのであろうに。
「ん……まぁそんな感じだ」
「にしたって、おかしくない? だって、もう少し良い所どこにでもあんじゃん。てーかマジで、エースケくんはチィちゃんの何なんだよー」
全く執拗なる女かな。素直に納得して黙っていれば良いものを。
加え、我が家が良からぬ所とは何事か。たとい事実とは雖も、全てを云うが善きではない。
「え? ええと……じ、実は従兄妹、的なソレ」
「そうとも、そうとも。住吉は俺の従兄妹だよ。だからちょいと泊める程度丸きり問題ねえのだ。世間的にも何にもな」
我らながら只今の呼吸は阿吽であったと思われる。気の利いた方便にすかさず便乗す。顔なぞ露も似ていなくとも、従兄妹程度の話ならば問題あるまい。
――否、縦しや有るとて構うまいが。
「……従兄妹のこと苗字で呼ぶとかヘンなの」
「そ、そうそう。こいつ変人だから。うん、めっちゃ変人なの! ね、きもいでしょー」
千歳はけらけら笑って答えた。畢竟していささか不本意な結論へは至ったものの、最早如何でも良く思えてきてしまった。嗚呼、この童の口を塞ぎ得るのならば此れしき安きかな、とて。
何時になく賑やかなこの晩餐が終る頃、刻は既に九時半を回っていた。