第五五話 『白南風』
前回までのあらすじ:
航空自衛隊による空爆。それは熾烈な威力を以て、二大怪獣へ痛手を見舞う。しかし衛介と千歳も、着弾地点の只中にいた。
青龍権現の股ぐらに隠れてこれを凌ぎつつ、飛鳥の身体になお憑いたまま乱入してくる水神を見る。凄まじい最終決戦となった。千歳が荒覇吐の手に捕られるなど危機は嵐のごとくあったが、衛介やラプ太の活躍は総員の撤退を成功に導く。
凜たちによる総攻撃。莉央の加持祈祷を受けて底力を発揮する飛鳥。
荒ぶる神の断末魔は、早朝の首都にこだました。
一
死臭、焦臭、暑気はいずれも鬱陶として立ちのぼる。
暮らしの音の失せたる街に、蝿飛ぶ声と蝉の鳴く声。夏の朝日がよくよく照って、瓦礫の群集墳はわびしく陽炎を揺らめかせていた。
沸屎地獄の路地をゆく。膿と血反吐にまみれて歩む。我が足取りは鈍重だった。背に負うものは形に反してぐっしょりとした重みがあった。
されどめげすにこの帰路をゆく。仲間らの待つところを目指して、えんやこらさと進むのみ。回想をして気を紛らわせ、痰のからんだ我が息にのみ両耳をそばだてて歩く。
◇◇◇
百鬼夜行は終わっていた。
当然である。時刻は八時。百鬼は夜を行くのであって、朝昼にまであの乱痴気を続けるものでもないわけである。
荒覇吐神も遂に滅びた。飛鳥が擬神器により発した一撃必殺の打突は、荒ぶる神の頭を搗ち割り、あれをとうとう沈黙させた。
そこから幾分時が経ち、今に至っているのであった。
――あの後は少し、認知しかねる。熱暴走する大怪獣に水神の気がぶつかったため、当座はしばらく白き蒸気で濛々としていたのであった。次に視界の晴れたころには、どろりと融けた血肉の山に東海林飛鳥が座って居った。
あの、きょとんという面相は、やたらと印象的に映った。
日頃の無邪気さとも違い、物狂いした神とも異なる。神人合一ここに成ったり、とでも云うべき様子があった。
瓦礫の丘に日が昇り、朝の光はまだ穏やかに、しかしまばゆく我らを照らした。
千歳は、慌ててそこに走った。
胸にて玉がきらめいていた。首にくくった勾玉である。それは彼女に摘ままれてなお、日差しを受けて如来の後光のごときを強く放って居った。神秘なるかな、綺麗なるかな。
霊妙不思議の輝きは、しかして次に飛鳥を照らす。
微動だにせぬ少女の身から黒い気魂が引きずり出され、清水のように薄まりながら碧の玉へと吸われていった。
浜の死魚たるその肌色はみるみるうちに血の気を復す。
ふらりと飛鳥の身が揺らぐ。千歳がそれを抱き止める。
安んじきった娘ふたりが身を寄せ合って泣いていた。ついに呪いは取り払われて、怪異と神威のかかること無き飛鳥の笑顔をそこに見たのだ――。
陸自の衛生科が到着するまでの間、俺は生存者の捜索活動に参加した。自衛官と警備犬らが一足先に辺りを探り始めていた。
勝利に喜ぶところ無し。甚大無量の犠牲あり。
多くの人畜、草木が死した。脅威に挑んだ精鋭たちも、山ほど散華していった。我らも仲間を失った。
百の人には百の生あり。それぞれ百の生があるにはもちろん二百の父母もあり。しかし積み重ねてきたものも、死の因果に則っては儚い。
記憶を頼りに歩いていった。景色はとうに変わり果て、街路もその原型を覚えず。行けども行けども崩れたビルや、屍山血河の道である。
俺は擂鉢状に抉れた瓦礫の窪に辿りつく。
ここは確かな見覚えがある。荒覇吐神の熱光線を、飛鳥が凌いでみせた所だ。神気を雨傘よろしく纏って垂直跳びに打ちかかり、その影響でこうした形に地面が削れているのであろう。事実それの中央部には、不自然ながらも無傷の路面が出臍のごとく残って居った。
「景宗やァい、ここいらかい」
俺はしんみり独言つ。
日の眩しさが異様であった。先ほどまでの穏やかなりし光は豹変したふうで、目を細めねばやっても居れぬくらいに我が身を苛んでいた。
余人の目には、どうだか知らぬ。少なくとも俺にはそうだった。
強く光の差し込む先に馴染みのものの気配はあった。愛刀、紅世景宗の刃は大地を穿って屹立し、かの日照を赤鮮やかに我が目に向けて反射していた。
「すまん、相棒」
それを引き抜く。「迎えが遅くなっちまったよ」
物言わぬ剣を鞘に納めて、俺はふたたび足を進める。ところが周囲に人影はなく、犬の屡鳴く声もせぬ。
どちらへ行ったものかも知れずに、おろおろ歩くばかりであった。
日の暑さより逃ぐるがごとし。廃屋を抜け、焼け野を越えて、どうやら当初に来た道筋へと戻ってしまっていたようである。
朱色の川かと思しきは、神々の這った跡であろう。ただ本能と執念のみが、巨体を地に引きずらしめた。剥けて爛れた血肉は、コンクリートですりおろされて地表にべっとりとしていた。
ここに奇妙の感を覚える。
景宗なるか。俺をこの場へ歩ませたのは我が擬神器の導きなるか、と。
「寄れ、ってえのか」
こぼれる一声。返事をよこす者はない。ただじりじりと陽光が、東の空から追い立ててくる。
巨大な肉塊が積もっていた。無様に焦げた屍である。生ける姿は、もはや分からぬ。身形がおおむね融けてしまって、もう原型をとどめておらぬ。
幾重もつらなる錨のごときは肋骨か何かであろう。
あな忌まわしや腐肉の巌。正気であれば斯様のものに寄って行くなど、きっとすまいに。――しかるを第六感が仕向けた。自由意志の制圧をして、我が身をここに導いたのだ。
妖気と悪臭の織りなす、見えぬ帳をくぐるに似たり。
驚くべきか恐るべきか。
知った気配と知らずの景色が混然として前にそびえる。どくん、どくんと脈を打つ。その赤黒き骸の中に、今なお動く部分があった。
「……誰だ、てめえは」俺は怒った。
この覚えある心地は何か。
姿も知れぬ怪物の、何をか覚えた気分でいよう。
解せぬ、解せぬ。わけが解らぬ。身の震えは止まらなかった。
汁の弾ける音が立つ。
気付けば……ふとして我に帰れば、この右腕は居合い抜きにて屍を斬り飛ばしていた。冷静を欠く躍起の一太刀。ならぬ、と思うも遅すぎた。肉の山はずるりと落ちて、その内側に眠りし者の姿が日なたに現れる。
それは人の形であった。膿に埋もれて蛆にも這われ、悪血に溺るるごとくあっても、彼女の肌は絹を思わせ確かな白さを保全している。
卒倒せぬのが不思議なほどに、俺は乱心しきって居った。
鼻息を止め、吐き気とせめぎ、必死をこいて腐肉を千切る。
「はあッ、アアアアア……!? 誰だ、てめえはア!」
恐怖なるかな。怪奇なるかな。しかし、且つまた神秘なるかな。
立てば芍薬座れば牡丹、歩く姿は百合の花。なおここにて眠れる様は、この世ならざる蛇花。
俺はとうとうその物体をへどろの中から引きずり出した。
これは確かに脈がある。信じがたくもまだ息がある。気の動転と狂喜のはざまでその顔をしかと見る。
――すなわち桧取沢歓奈の、美しかりし肢体であった。
二
「ありゃ。莉央ちゃんは、もう工房へ?」
云いつつ俺は肩を落とした。
「うむ、一昨日の飛行機で。衛介にはよろしく、とのことじゃ」
「いいや、こちらこそです本当。……あの子はすげえ。ンッとに、すげえ。今般きっての功労者だと云っても異論はねえでしょう」
「云わずにおくぞ? 図に乗るからの」
くすりと卜部氏は微笑む。お厳しいなと俺も笑った。
晴れやかなる昼下がりであった。
西横浜の川縁に、生暖かく白南風が吹く。石崎川のむこう岸にて横須賀線はがたごと走り、取り止めもなき時の流れはいと徒然に過ぎてゆく。
あれから一週間になる。飛鳥は日帰り入院を経て今やすっかり元気になった。千歳の怪我も軽くはないが、ひとまず湿布と絆創膏にまみれて大人しくしている。斯く云う俺とて満身創痍の体は未だ癒えずにあった。
ラプ太の爪はあの日のうちに、迷わず飛鳥にくれてやった。吾人に式神など荷が重い。元を正せば、その二者こそがあるべき主従の形であろう。
あれらはうまくやっていく。良いことをした気分になって、俺はにやにやとしていた。
東北支局の面々は、揃って家へと帰っていった。弦巻嬢と米内兄弟の活躍ぶりはもちろんながら、清原君は新宿区民の避難誘導に与したらしい。我らの乱戦している間にも、関係各所は頑張っていた。
また顔合わせの機会があれば、仲良く歓談もしたいものだ。
「アイス食います? 暑ちくてかなわん」
「良きかな。こたびは、ぬしの奢りか」
「ちゃっかり者があ、全くもう。そいじゃあ格好つけちゃいますぜ」
「褒めてつかわす! 妾はのう、ハーゲンダッツが所望なり」
拍子を打って喜ぶ卜部氏。隣を歩く彼女の下駄も欣々然と鳴っている。
出会ったときは女妖と見紛い喧嘩を売りなどしたものだ、と過去をしみじみ思い出す。それが、今や……斯様のごとく。
一体この縁無くしては、俺も今日まで生きておるまい。
可憐きわまる笑顔であった。薄い浅葱の小紋から、乙な香りがほのかに漂う。心に匂うこのゆかしさを或いはときめきとも云えようか。少し悔しい気こそすれ、実に彼女は慕わしかった。
「本来、もうちょいちゃんとした……何かお礼はすべきところで」
俺は財布の小銭を見つついくぶん語気を落として云った。「しっかしながら、金もなく。あんまし良い物あげられんのが俺としたって情けねえです」
「何の礼じゃと?」
「そらあ色々。秋田にお連れしちゃって以来、迷惑おかけのしっぱなし。俺とて良心ぐらいあるから、謝礼とお詫びを兼ねてもろもろ許しを請わにゃあいかんでしょうと」
「ほほーう。ぬしが、左様なことを」
「堪忍、堪忍、今しばし。貯金するんで、お待ちくだせえ」
「たわけ衛介、履き違えるな」
「ヤ、怒らんで!」
「そうではのうて」
氏はぱったりと足を止め、やおら川向こうに目をやった。
電車が横浜駅のほうへと走っていくのが見えている。かの髪切に追われた折に死物狂いで駆けた辺りだ。
「その、な……妾は楽しかったぞ」
南の風が凪いでいた。「もちろん危うかりしことや、正気の沙汰とは思えぬことも振り返るに山ほどあった。なれど妾はぬしに供して東奔西走しておる分に、望みの絶えて無うなることはついぞ覚えにあらなんだ」
何を云い出すのかと思えば。
彼女はこちらに向き直り、大きく一歩踏み込んでくる。近い、近い。ずいぶん近い。懐より鼻先までが、刹那のうちに芳しくなる。
「ぬしはまだまだ、物を知らぬな。しかれば、知恵袋も要ろう?」
氏はまっすぐに俺を見上げて真っ赤な顔で云い放つ。「ゆえに。ゆえにじゃ。よいか衛介。今後も何か……どこへでも、よい。ことを為さんとするならば、旅に出でんとするならば、どこへなりとも連れて行け。後はたまさか……遊びにも。妾はそれで、満足じゃ」
喋り終えるや、氏はうつむいて下唇を噛んでいた。
どうやら気恥ずかしいふうで、目のやり場も知らぬという具合に睫毛が上下を繰り返す。器用な人でないのはわかるが、転ぶところは少しわからぬ。
――そんなところもまた愛嬌で、我が親しむところなのであるが。
「アイス……どんなのお好きですかい」
「はい、と云わぬか!?」
「ええっとですねえ。知ってのとおり俺らが出掛けて行くところってな危険なんです。不肖高砂衛介と、一緒にくたばるやもしれず。んなこと申し訳なくって、承れるわけもねえ」
「これまでよう連れ回しておいて。いくど妾の咒が、ぬしを助けてきたとや思う」
氏の寂しげな返事であった。
くつくつ笑みが込み上げてくる。好いたらしくて仕方ない。
然ればこそ、こう云わねばならぬ。
「我々ゃ良いコンビですとも。不思議の秘術に深ァいお知恵、毎回大助かりでしたとも」
笑うとともに一つ咳して、返す刀で云い張った。「だから、そっちの願いと聞いて、謝恩に代えちゃあ勿体ねえ。こんなにかたじけねえ話なら、せめて俺からお頼みせにゃあ」と。
「……何じゃあ、ぬしは、建前なんぞ。我が沽券でも守ったつもりか」
「や。ぜひ今後もこのとおり。お知恵、お力、貸してください。これが偽らざる心地でさ」
俺はふかぶか頭を垂れた。
「よいわ。もうよい。相わかったわ。衛介たっての頼みなのじゃな?」
ふふっ、と相好崩れる音を、この耳がさりげなく拾う。「なれば妾も、遠慮はすまい。ありがたがって携えよ。退屈させてくれるでないぞっ」
ご心配なく、暇しませんよと俺は大威張りに云った。
果たして良いやら悪いやら、知れぬことだが祝っておいた。
コンビニエンスストアの冷気が恋しく思う頃合である。梅雨は明けたか。いよいよ猛暑が盛りを以て、国を飲みこむ季節となった。
横目に映る浅葱の衣は世界で一番涼しく見える。左隣の彼女が仰ぐ扇の風は先のとおり、その黒髪を吹き流しつつ花の香りを寄越してくれた。
三
千歳のこよなく傅いている怪しき雀の拾い子は、卜部氏により「玄衣」という名をげに有り難くたまわった。玄き羽毛を持つから玄衣。命名由来は安直ながら、いかにも偉い坊主のごとき響きのあるのが感心だ。
彼女の知見によればこの子は夜雀という妖怪らしい。先の百鬼夜行においても相当数が街に放たれ、騒ぎの収束すると同時にどこかへ散っていったと見られる。
宮城や和歌山などに伝わるこの妖鳥の云い伝えでは、夜に出てきて空を飛ぶため蛾の一種とも語られるとか。
なるほど後脚を見るに、いつしか何やら風切羽と思しきものが生えてきていた。先日までは烏骨鶏にも似たる毳と思っていたが、これらを虫の四つ翅と紛えば大きな蛾にも見間違おうか。
ともかく名前を貰ったことで、千歳と俺の間においてもまた愛着が高まった。千歳は「玄ちゃん」などと囃していっそう可愛がっている。
あやつが雀をあやしてにんまりしている景色は実に愛しい。
◇◇◇
神妙にして父が問う。
「お前にゃこれが、何に見えるか?」
ここは横浜大学病院、一般病棟の一角。我が父、高砂史は久しくこの病室に入って居った。
寝台に仮設された卓には一枚の絵が乗っている。どうやら複写されたものらしい。余白の多い構図であるが、下の方には黒い墨にて山の姿が描かれていた。
とんだ愚問もあったもんだ、と俺は眉根を寄せて答えた。画中にそびえる整然とした三角形の稜線は、忘れもしない黒又山の威容をおいてほかにあるまい。
「馬鹿もん! ンなこた解ってる。俺が疑問でならんのはだな、上を飛んでるコイツのほうだ」
父は苛々しつつも右手を痛そうにして動かした。彼の人差指は山より遥か上部を突っついている。
そこには靄によく似たものが、蚯蚓よろしく棚引いていた。山と同じくその流体も、黒い墨にて描かれている。
見覚えはある。かの憑神だ。
飛鳥の体に憑依していた黒き気魂とそっくりである。
彼女をすっかり暗闇色の怪人へと化かした憑神は、訳は何やら不明ながらも荒覇吐に向かって行った。極めて敵対的なる形でかの荒神に食ってかかった。
鹿ヶ谷支局長の曰く、事件は一連の蛇だと。ならば両者の間には、もとより因縁もあるはず。
謎は深まるばかりであるが、これを解くべき方向性も同時に見えてきつつあろうか?
「……未確認憑依霊体。通称、目標Bという。俺らはこないだ百鬼夜行で、こいつとその憑坐を追ってた」
「住吉ちゃんの友達だそうだな? 聞いたぞ、おとつい来た時に」
「ああウン……そいつもPIROでよ。荒覇吐にとどめを刺したのも、その東海林って奴なのよ」
「なるほどつまり、衛介達とは利害の一致もあったってえか」
「よくわかんねえ。複雑怪奇。あれがいったい何の味方で、何の敵なのかも解せんしな」
「まるっと解明たァいくめえが……」
ふむう、と父は息を吐く。
身の痛みに顔をしかめながら、絵を手に取って眺めて居った。
曰くこの絵は鳥谷幡山なる画家の手掛けたものとのことだ。
題して「天象之奇瑞光芒之旗幟」。黒又山の上空に舞う黒き気光が描かれている。明治大正、昭和に渡り活動していたこの画家は、酒井勝軍とともに当地を訪れてその風景を写生した。
表題がよく物語る。彼の目にはこの怪しきものが、吉事の先触れだと見えていた。しかして日の照る天に漂う紫煙のごとき霊体は、さぞ不可説の瑞祥による錦の御旗であったのだろう。
大きな溜息がこぼれた。
あの憑物の正体は、明らかならぬままである。神の心は人知を超えて、理に応じたことを為すもの。いかにも迷惑なと思いきや、我が命を救われもした。
飛鳥の尋常ならざる異能もこの神によるものであろうが、しかし何ゆえその尸童に彼女を選んだのであるか。
俺にはてんで解らなかった。むしろ飛鳥自身でさえも不詳のことと考えられる。
――ぶぶう、と携帯電話の鳴りしはそんな思考の最中であった。俺はちょっくらすまんと述べて、部屋をいそいそ罷り出た。
「エースケくん、いま病院いんの?」
元気な声が耳に飛び入る。
噂をすればと苦笑したのは、照れ隠しであったと認めよう。
飛鳥は日帰り入院以降、一週間を経たらば再度診察するよう医者に云われて、ちょうどこの時この病院を訪れている次第であった。どうも学校帰りに千歳がこちらについて話したらしく、俺が本日見舞いに来ると知っての電話であったと分かる。
一階にある大広間。少女は爺婆だらけの隅に、ひときわ愛くるしく居った。
「ううス、お疲れ」
「よっ、大将っ。あちゃあ痛そう、その左腕。お互い怪我でいっぱいだねえ」
飛鳥は椅子からぴょこんと立って手を振りながら駆け寄って来る。それはさながら雀の子供が小躍りしているふうにも見えた。
「短いスカートから伸びているその健脚が実に宜しい」
「いきなりヘンタイかましてくんだ……!?」
「悪りい今のァ心の声だ」
「そんなんだからエースケくんは」
「ぐはは、褒めても何も出ねえよ」
「ヤーお客さま、困ります! アタマのお医者さんはあっち!」
でし、でし、との擬音と共に飛鳥の手刀が脇腹を打つ。そばを通った看護婦からの、生暖かき視線のほうがよほど痛くて困ったものだ。
俄然、気まずい。そもそもここは児童の遊び場にもあらず。俺と飛鳥は戯れるのをやめ、はっと一瞬目を見合わせて互いにきまりの悪さを知った。
両者そろって我に返ると、急に会話が途切れてしまう。
あの戦いの翌日以来顔を合わせていなかったのも、彼我の間にそこはかとなく気のまずさをもたらしたのか。
すると娘はにわかに眉をハの字にしつつ身を寄せて、息もかからんばかりの間合いで耳打つように語り出す。
「あんね、えっと、エースケくんさ。うちも、色々やらかしちゃったってのはあの後聞いたわけ。なんも覚えちゃないんだけどね。チーちゃんとかとバトったり、カンナちゃんからバチボコ逃げたり……むっちゃ迷惑かけまくったの、記憶なくてもゴメンて思う。
でもさ、うちさ。一個だけ……がっつり覚えてることあって」
うつむき加減の団栗眼。さっき小突いていたふうに、その掌はおもむろのまま我が腹筋をぱたぱた叩く。
「なんか、落っこちてるときさ、エースケくんがすっごいギュってしててくれたのあったじゃん。そんときパッて一瞬醒めて、安心したのは覚えてるんだ」
「あ……ったな。苦しかったろお前、かなり絞め技かけちまったし」
「んーん、違くて。何てゆーかな。とにかくあの時うち的にはね」
飛鳥の手遊びが止まって、徐々に声音は尻すぼみゆく。「――さんきゅ。カッコよかったよ、ちょっと」
羯諦、羯諦、波羅羯諦。波羅僧羯諦、菩提薩婆訶。
……ここに全ては報われたるぞ。
娘はようやく目を上向けて、首は小さく傾げて笑う。甘美に過ぎるその様に、頭の禿げる思いが襲う。
いざ万感の思いに任せ、こやつを撫でてやらねばならぬ。もっと云うならこの両腕で、ひしと抱きしめなければならぬ。何の、もとよりこの懐に入って来たのはどこのどいつか。
我が身落ち着け、逸るな我が手――そう利口に働く細胞など生憎この体にはない。
武者震いする俺を見上げて飛鳥は疑問の顔をしている。
「へっ、え、ナニ、ナニ? 顔こわい」
「怖かねえだろ……あってめ、逃げんな」
「嫌ーン! 手つきがガチっぽい、無理!」
まだ何一つ及ぶ前から、彼女はすばしっこく身を屈めて野猫のごとく手をすり抜けた。
軽やかなる足さばきを以て、颯と三歩も退く飛鳥。
残念無念、仕損じた。なお案の定、一秒後には小恥ずかしさが沸き立ってくる。両の耳から湯気も噴き出る体たらくにて歯ぎしりをする。
にやり、飛鳥は口端を上げた。
何と思うもその甲斐はなく、我が右肩を軽く叩いた後ろの者にぎょっと振り向く。
「なにやってんの真っ昼間から、コーキョーの場でイチャついてえ」
千歳の指の尖った爪が、この右頬に刺さって居った。「あんたらどこのバカップルだか」
買い物袋をたっぷり下げて、茶目に白歯を覗かす千歳。はいこれ重い、半分持ってと流れるように荷物を寄越す。
「痛ェー。何だ、いつからここに」
「今いま、超いま。あんたがうちの可愛い飛鳥にヘンなことしないか心配で」
「馬鹿ァ。するわきゃねーだろンなの」
「ウッソ! さっきの衛介なんか、ぜったいエロ親父のカオしてた」
云い負かせる気もせぬものだから、知らん知らんと逃げの一足。片や飛鳥は文字通り、腹を抱えて大笑い。
この小娘が今また無邪気に笑えているのは尊いことだ。
分からぬ。束の間かもしれぬ。されど確かにこの日、この場に、我が日常の幸はある。
「帰ろ。荷物、お父さんとこ? ほら取っといで、ここ居とくから」
然り。我らは帰ったのである。
ぼろ家に眠る安らぎと、粗飯を腹に満たす喜び。下らぬことにげらげら笑う、我が素晴らしき青春の日に――。
病室から鞄を取って、父にはまた来るからと伝えて、俺は冷たく硬い廊下を呑気な面で緩歩していた。
ふとすれ違う綺麗な女は俺とはまるで対照的に、やや険のある面相をして来し方へと歩いていった。
はてな。どこかで会ったろうかと、その印象は変哲である。
物覚えは悪いほうであった。特にいっぺん会ったほどでは顔も一々記憶せぬ。これで困ったことなどないし、しょせん左様の縁の人とは、互いにその程度であろう。
橙色の西日が刺して、窓の外では濁った声の暮鴉がまばらに鳴いている。
背中の遥かうしろのほうで引き戸の閉まる音がした。
第二章【太古を読み解く男】完。
第三章【盛夏、目覚めし常世の姫君】に続く。




