第五〇話 『群竜吶喊』
前回までのあらすじ:
新宿区北部で発生した大規模な百鬼夜行。
未曽有に危機を前に、奮戦する衛介たち。死臭につられて現れた牛鬼や野守虫の群れを相手に防戦一方の苦境であったが、そこに千歳の参戦もあり彼はどうにか危機を脱した。
ここに東北支部の面々、鹿ヶ谷支局長も合流して混成チームが成立。いざ次の作戦へ臨むに際して、莉央はとある策があると語る。さてその妙案とは……?
一
PIROの車はひた走る。討伐すべき敵を追って、この四輪を唸らせる。乱飛乱外きわまる街の、目を縫うように北上す。
まだ妖怪はわんさかと居た。
しかし、もたくさしてもいられず、小粒のものは無視して進む。虱潰しはもう切りがない。行く手を阻む巨怪のみ、最低限に撃破すべしと……当局、目下の方針である。
「レーダーに感あり。二時の方向、距離一〇〇、大型移動体無数」
鹿ヶ谷支局長の声が飛び、果たして大きな妖異の気配が前方角に現れる。「多過ぎる……そのうえ真っ向衝突コース、ね」
我ら総員きっと身構え、そして総意を臨戦せしめた。
車は速度を依然落とさず、びゅごおといって宵闇を搔く。
「始めますよ、と」
弦巻嬢が天井窓から顔を出し、抱えた三味に念を込めるとそれは即座に弩となる。雫与絃と号せしは、鎧袖一触これに嘘無き機巧変化の逸物である。
二つ向こうの交差点からその連中は傾出た。
地鳴りとともに駆け来たる、種々雑多なる獣の一団。
鍬や槌やら担ぐ鬼ども、四肢の生えたる布袋、肉団子にしか見えぬ生き物――ひゅうどろどろと騒ぎたち、苦しいのだか勇んでいるのか分からぬ面で迫り寄る。
「鹿ヶ谷さん、発砲許可を」
「ええ。掃射して!」
「マシンガンではないんですけど」
自信満ちたる弦巻嬢の、引目鉤鼻がほころぶ。既に敵影、車窓眼前。もう何度目か分からぬ戦の火蓋は切って落とされり。
このごとく地道な攻防が断続して居った。
時に、耳慣れぬ遠音のありしは、我らが稲荷神社を発ってしばらくして後であった。方位はおよそ東北東、打上花火と似て非なる、ただ恐ろしき爆鳴が都市の彼方を震わせたのだ。
うすぼんやりと明るい夜道に不吉の微風が吹いていた。
蓋し、あれは砲声だったろう。
もっとも吾人は本物の大砲を見たことがないし、いわんやそれを放つ音なぞ聴いたためしがあっても困る。武力の物云う国と時代に生まれたわけではないはずだった。
されど残念無念のことに、国土でこれが聴かれる時局はとうに我らを呑み込んでいた。留まることなき世の流れにて、人は凶魚の胃に落ちた。
何の訝るべきことか、まことにあれは砲声であろう。
先、陸自のヘリコプターはその方角に飛び行った。あちらで何が起こっているのか想像するに難くはない。
ことは百鬼夜行なり。あらゆる怪的事象のうちでもとりわけ滅多な部類のものだ。大東京の俗境に、銃火と炸裂音が交う。人と物ノ怪、命と命――生ける者らが明日を得んとて相争うが今宵といえた。
莉央はいささか臍を曲げ、後部座席でむすっとしていた。別段、誰が彼女をいじめてこうなったとかいうことはない。単に、この子はその提言を無下に云われて悄気ているのだ。
ただ無謀との判定である。莉央曰くの妙法なる策は、なるほどあっと驚く案だが、上手く果せる見込みにおいてやや不確かのものだった。この戦局にそんな読めない作戦なんど画餅に同じと、鹿ヶ谷指令は云い捨てた。
吾人個人はその立案をまんざら悪くも思わなかったが、今や場合が場合ゆえ、博打を嫌う指令の態度は当然のものと評せよう。良くも悪くも子供の発想……おいそれとは採択出来まい。
普段姉より大人びたるも、やはり十五の少女に過ぎぬ。かの拗ね方は莉央の内なる乳臭さを物語るに似たり。姉君は莉央を諌めつつ、場を険悪にせぬよう肝を煎るようであった。
「――ちいっ。走行中の車上からだと、やっぱりどうしても打ち漏らし出ちゃってます。いかんせん手振れ、手振れが」
弦巻嬢の冴えある射撃はかなりの敵を討ち殺したが、むろん掃討しきるに及ばず。しばしば弩は騎射に不向きとされるように、どこまでも歩兵用の武装である。これでも彼女は、こなしたほうだ。
そうこうしている間にも、怪異の群れとは接触間近。
「ありがとう! このくらいならかわせる……はずよ。総員、備えてっ。揺れるから!」
「何じゃと」
「どゆこと?」皆が口々。
いやはや諸君、呆くまいぞ。彼女を誰とや心得ん。鹿ヶ谷佐織支局長とは、ことに及べば躊躇を知らぬ、大胆不敵の運転手である。
我らが上司は運転技倆の一点張りに物を云わせて、この難局を糊塗せんと。つまりそういう話であろう。
「姉御ォ、はやぐ中さ入れ!」
「は。……ああそういう」
嬢は素早く武器をたたむや、たまげた穴子のごとく引っ込む。それを確認してかせいでか、支局長の機敏な腕は握れる輪っかをぐるり捻った。
お笑い草の種か紛える軌道で敵を避ける車、その内側の我らが身には箆棒なる負荷をば強いる。対向車無きを良いことに、我らを包んだ鋼の猪は鼠花火よろしく円転。小回りとなど云ってはぬるい、出鱈目至極の利きようであった。
「うぉあああ!」
「バッ…………ったま、おかしいからあ!」
「何かあるたびそれ云わない、のッ」
無茶と必死がぶつかる車中だ。
ひいひい云った卜部の凜氏に半べそをしてしがみ付かれて、俺は達磨の面壁気分でこれを擬いて頑と座す。
たいそう鈍げの音が鳴っては魔魅のたぐいを撥ねとばし、血糊は窓にべっとり被った。
百鬼争鳴、エンジン全開――いよいよ狂瀾怒濤というべし。
妖気と奇獣の奔流である。曲り、かわして、時に轢破し、まさしく竜になんなんとする鯉も斯くやと遡上してゆく。
さりとて車体がいつまで保つか。もう限界は迫っていよう。
「お言葉ですが支局長っ」
思わず俺は音を荒らげた。「これをとっとと脱せんことにゃ、我らも車もあとが無え」
「間もなく抜けれるとは思うけど、車がもつかは保障しない! でも目的地までの人員生存率的に見て、これは最善なはずなの」
「目標“A”がこの先に?」
「だからこんだけ、やってるのよう!」
「ははァなるほど……や、なるほどか?」
すると錦によく似た羽の、怪鳥がべしゃっと前窓に。あわれなるかな鳥兜、わずかにこちらの視野を害すも、ワイパーにより振り落とされる。
しかるにこれが禍だった。
わっと我らを威かす分には充分以上の刹那であったし、そもそも斯かる運転なれば、一弾指さえ命取り。鳥の悪意が有無は知らぬが、迷惑なること百掛けである。
がうん、と地面の突き上げ一つ、我らを尻の下から揺さぶる。
土竜の怪の仕業であるか。否、左様の兆しもあらじ。およそ尖った道路の破片が、車体の腹を搔いたのだろう。
して力学は我が身をば、十センチも宙に浮かせた。頭蓋を天井に打ちつけ、俺はすこぶる間抜けにわめく。首が変になるかと思った。星や雛が脳裡に旋回、皆の悲鳴もこれを彩る。
阿鼻叫喚とは斯かるを云わん。
「はあああっ?! えっちょっ、ブレーキ、ブレーキ!」
千歳がひときわ甲高く鳴く。南無阿弥陀仏、後の祭りだ。
衝突音と大震撼が身の内外に炸裂し、車は何かに閊えたままに慣性をして滑走す。強打、摩擦、破損の響きが間髪入れずに三つ連なり断末魔として呈された。
そして、ごりごりと止まった。
絶叫系の遊園施設にこうむるそれを一笑すべき動悸があった。しかし辺りは静謐である。実は然程でないかもしれぬが、相対的にはそう思われた。憔悴せし一同による、頻りの呼吸ばかりが聞こえる。
割れた窓より外を覗けば、そこは瓦礫と人畜たちが累々として転がる街路。
死臭と焦げた車輪のにおいが、赤紫の夜景に漂う。
妖怪どもの一団は、幸いにして過ぎ去っていた。翩々と飛ぶ雀の群れが少し遅れて追っていく。
幸か不幸か斯様のごとし。最悪中の最善と見付くべきか。
我らは一人も欠くることなく、まずは一波越えたのだった。
二
気が付けば吾人も随分と殺生を重ねてしまった身の上であるし、今に落命するとあってはろくな後生を望めない。
明日のことはてんでわからぬ。もっとも、五分の先だに然り。いつ死したとて不思議はなくて、それが平穏無事なる天寿のもとにあるかも定かならねど、生老病死を避くべからずば、慎み、謹み、日々過ごしたい。
悪趣の心象風景は、あろうことか眼前に広がっていた。
血やら屎やら分別しがたき流体物がとろとろしている。蝿の羽音はうるさきものだが、彼らは各自ひたむきだ。余念の無き生命である。人や獣の腐肉を食って、子へ孫へとて命を繋ぐ。流転する天と地の自然なる営みである。
四衢八街の新宿区、なかでも大久保という雑踏。そこを悪鬼羅刹が襲えば、斯様の沙汰になるも道理か。
散らばっている肉塊も、もとの姿は美男美女、君子才媛であったやもしれぬ。されど今ではただひたすらに、赤く、臭く、穢れた物だ。孔雀も小町も楊貴妃も、皮一枚めくれば肉である。身の何と不浄なることか。生気のこれを粉飾せしも、死してはまさに気枯れあるのみ。
俺はただ、そんな景色を眺めていた。
血みどろ趣味は毛頭ないが、どこを見遣れど似たり寄ったり。手で目を覆う思慮も失すべき、あまりに深き呆気があった。
我々の車は、大きくえぐれた路面の破片に躓き壊れて停止していた。もはや御釈迦と云うほか無かろう。この車はよく頑張った。これまでとても相当に、無理な旅路を来たのであるから。
建屋や街路樹はもちろん、道まで砕く怪獣が、この場を通りし痕跡である。かの牛鬼や大坊主、あるいはなお強大なる何か――それが西から東にかけて、ここを匍匐したと見るべきだ。
しかし、それが“目標A”なのか?
かつて秋田で交戦したのは精々我らの背丈より、少し大きな程度に留まる。しかるに今見るその規模の差は、比べ甲斐なく歴然である。
俺はあの怪物にとどめを刺せなかった。あれしき、黒又山に火を放って捨て置いたに過ぎぬ。状況と力量を思えばあれは已む無き結果であったが、もしもあそこで討ち得ていれば、斯くなる惨禍は招かれざるか。
我が責任ではあるまいか。
仮にそうなのだとすると、もはや詫びつくせる嵩ではない。眠れる神の塒を侵し、ちっぽけなる人間がこれに喧嘩すら売った。あまつさえ、その祟りが首都を呪ったのだと云われては。
ろくな後生がどうのこうのと論ずるまでも無さそうである。
俺には口をぽっかり開けて、唖然と立つほか案が無かった。仲間各位も、そのようだ。米内兄弟は吐き気と戦うに必死という顔をしているし、弦巻嬢や支局長も、その面相には摩耗の色がある。
そして千歳がただ一人、東の空を見上げて居った。
「酣なるは、これからじゃ。時刻はいよいよ子も迫る」
何を思ったか卜部氏が、戦々として言葉を切り出す。
密やかに嗚咽する妹をその袖で庇い、伏し目がちになっていた視線は、ややあってこちらに向き直った。蛆虫すだく骸からさえ、震えながらも眼を逃がさずに。
「ぬしが父上……高砂先生は、夏至の日の出の時なるを、よく念頭に置いておられた。『かむなび』の動きを見るからにも、あらかじめ荒覇吐はあの折に目覚めるよう定まっておったのじゃろうな」
「……親父や俺が何もせずとも、ですか?」
「細かなる理屈は妾にもわからぬが。いま申せるは、ただ一つ」
彼女は、くっと顎を引き、重い声音でこう述べた。「――かの神は荒魂として完全に覚醒した、と」
なるほどまことに、化け物である。
成長か。いや変態か。その実、化けたというほかに無い。
竜蛇は禍つ神となって、大東京に牙を剥く。百鬼夜行の総大将とこれを呼ばずにいかんせん。
はるか千歳の望む方、荒覇吐の進撃した方角。飛鳥もきっと、そちらに居よう。
我々のいる交差点から、一本線にて東へ伸びるは塵と瓦礫の獣道である。あらゆるものの薙ぎ倒されし、冥々たる不気味の風景だ。先程からの砲声も、その彼方より鳴り渡っていた。
「向きでいうとあっちは『戸山公園』とか……駅なら西早稲田、ってとこ」
千歳は携帯電話の地図を指でなぞって神妙に云う。「見た感じこっから五〇〇メーターちょい。行ったことないから、ぶっちゃけあれだけど」
「なるほど皆中稲荷から見て、ほぼ艮の方か。換言すらく、鬼門じゃな」
「ばかにでっかな公園だ。大都会にこんなもんが」
「都内においては知る人ぞ知る、心霊現象の名所じゃ」
「……そいつは初耳。やはりいかにも良からぬことが、起こっていそうなもんですか」
「よもや偶然ではあるまい。我らの赴かんとするは、もとより霊的磁場も悪く、怪談に事欠かぬところ。今に迎える子の刻に、はたして事がどう転ぶやら卜定するだにままならんのう」
「ねの……つまりは二十三時から、よけい具合の悪りいことでも?」
「本来、百鬼夜行の日とは、その忌むべきを子の刻として夙に語り継がれしことじゃ。すなわちまことの禍を、我らは未だ見てさえおらぬ」
「あたかも今日が決まり切ったる厄日だとでも云いたげですな」
「然り。妾も不覚じゃったが、まさに今宵は暦の定むる『百鬼夜行日』にあたっておった」
氏は早口に語り始めた。
有職故実にまつわる書物の今に伝えるところによれば、妖怪たちが特に元気に群れを成す日があるそうな。正月ならびに二月の子日、三月四月は午日で、五六月では巳日に当たる。それから七八月は戌日、九十月の未日、残り二つは辰日と……しつこきほどに決められている。
けれども氏の前述せしとおり、より厳密なる話をすれば時間帯まで関わってくる。
『(前略)――夜行を忌む、てへれば百鬼夜行日と名く。但し、時を忌みて日を忌まず。今案するに子時はこれを忌む。これ子は陰陽の始終、故に此時出行すべからず。遠近皆必ず死するなり。』
以上は「暦林問荅集」なる室町期の書の一節である。この記述が意味することは、ひとえに百鬼の夜行といえども、恐るべきは子を過ぎての後と。
ただいま十時三〇分。もっとも斯かる時刻の区切りは電子時計のそれではないから、日や星々の運びに同じく、じりじりとして移ろうものだ。危難はいまだ上り坂、漸々悪化の一途にぞある。彼女はそう云いたいのであろう。
今日はまさしく辛巳の日、と。辛というのは金行の陰、巳は火行の陰をあらわす。これらが相剋関係にあり、物事順調ならざる日という。
「――陰々陽々かぶさる重日、そしてなおかつ十死日も。卦体の悪い暦注が、これでもかと連なっておる」
事がひとたび凶に傾げばますます凶なる重日と、十死日なるも、げに恐るべき暦中二位の大悪日。「ゆえに起これる、夜行かな」
冷汗三斗の面持ちで、氏は由々しげに言葉を結ぶ。
悪しき冗談なれかしと、俺は術無く歯噛みした。
「やァでも馬鹿云っちゃいけねえ。今日は七月四日ですぜ。ミだのヘビだの、構いますもんか」
「たわけ、話は陰暦じゃ。新暦平成二七年七月四日、これすなわち旧五月十九日! ああ……認めようぞ。妾も恥ずべき未熟じゃったと。これづれ前以て気付けずに、何が陰陽師か」
四神の稜威は手薄になって都の龍脈もずたぼろの今、斯くなる惨事は生ずべくして起こった因果の顕れだった。尤もそれは人知の埒外、神秘と怪奇の骨頂である。
我らはこの矮小なる肉体を些細の脳で動かして、荒ぶる鬼気と霊威の雨を生きてくぐって来たのであったか。かえりみるだに、おぞましや。快挙というほか無いやもしれぬ。支局長の無茶あってこそ、確かに我らは死にもせず居る。
過去をつらつら思い返すに、彼女の機転が我が身を救った機会は蓋し数多い。かつて仲間を弔ったがゆえの、職員生存への固執は頑固なはずである。またその拘りあるがゆえ、無理の多少は技にて通す精神性にも頷けよう。
支局長は煙草をふかし、自らの気力を保全せんと懸命であった。尋常ならざるペースであった。本部に対する情況報告、以降の作戦の立案、その重荷は苛烈に違いない。
本部との連絡が終わると、彼女はすっくと立ち上がり、調子を正して号令をした。
「まずは歓奈と合流しましょう。あの子は単身この先で、目標“B”を追跡中よ。
残念だけど今の飛鳥ちゃんはうちの隊員じゃない。絶対保護対象という、れっきとした作戦目標」と。
「……」
「如何なもんかと思ってましたが、その、目標って呼び方は。改めて確認さして下さい。作戦の方針は“A”の討伐。および東海林、いや、“B”の保護……異存はございませんか」
「言葉通りよ。二度は云わない」
「ンなら信じて仕事をします。場合がまずいってのは、もう嘆いても遅せえ。休憩は止めです。次なるご指示を」
俺は皆を見回し述べた。
千歳が黙ってこれに頷く。
敵は戸山公園にあり。そうと決まれば目指すは東か。徒歩で行くにも無理はない。覚悟すべきはいつまた来るやら、百鬼夜行の波であろう。
心当たりは明快である。討ち漏らせし妖怪どもが逆襲に来ぬ道理もあるまい。
勝つか負くるか、生か死か。衆寡敵せずとはいうけれども、成らぬは人の為さぬなりけり。来し方見れば奈落の絵、行く方望めばこれ修羅の道。後戻りとは、とうに辞書にて墨塗りされし箇条であったか。
都の命運を賭けて、その一刻は今まさに始まらんとしていた。
三
住む人々は逃げ延びたろうか。
ただそれを祈るのみであった。動く影なき蛻の殻は、滅びて後を思わせている。怪獣の暴虐は電線を寸断し、街は常闇の鍋底にある。我らはそこに仮本陣を敷いた。
一階部分を店舗とし、二階以上を居住区とする複合用途集合住宅――いわゆる下駄履きマンションである。支局長が指令を出すにても、場の安全を確保したまま事を為すには難儀の況だ。損壊のない建屋に結界を張り、当座の司令部としたのであった。
「急がにゃならん。時間が無いや」
卜部氏が屋内で九字護身の咒を行うなか、我らは総員手分けして、建物周りに塩を盛る。本格的な術具も無いうえ時の猶予も乏しい今では、一応張れる結界として精一杯のものと云えた。
一階がコンビニエンスであったのは幸いである。水を補給し、小腹を満たし、陣の強度も最低限ある。
「子の刻まではあと十分、いつ次が来てもおかしかねえぞ」
小さからぬ建物である。俺は北側の角を目指して押っ取り刀で駆けていた。店棚より拝借の食卓塩を、紙皿に乗せて敷設するのだ。
「ご懸念ですか衛介さん。お察しします。私どもも、同じですから」
姉のもとからゆらり離れて、ついて来たるは莉央であった。「ましてや野守虫など、あれでも彼らは山神ですね。かの群れは遠からず祟りに現れましょう」
正視に堪えぬ光景に、怯えと悔しさを交えて。彼女は声無く泣いて居ったが、久方ぶりに物を云う。
その眼は今なお赤い。けれども気丈な口元を見せる。
「莉央ちゃん、怖がらんで良いからな。いざって時ァ俺がついてる」
無性に、この娘が健気に見えた。「支局長こそああ仰ったが。俺は現場の人間として、お前の策は嫌いじゃないぜ」
「先刻の出過ぎた真似には反省千万ですけれども」
「や、莉央ちゃんは強え子だ。あの姉ちゃんに負けねえくらい」
「止して下さいまし。……なにも、こんな折に」
娘が軽く首を振り、二つ結いの髪がなびいている。彼女は久方ぶりに笑った。
紙コップに塩を詰め、皿をかぶせてひっくり返す。コップを外せば円錐形に盛られた塩の山が立つ。俺は努めて恭しげに、これを外壁の角に設置した。
「――トホカミエミタメ、トホカミエミタメ……トホカミエミタメ。祓いたまい、清めたまう」
莉央の唱える神呪の声が、夜鳴き鶯よろしく響く。邪の気を退けて、護りをもたらす言葉であった。
残すところ後一ヶ所か。南は米内兄弟が、東は弦巻嬢が向かった。千歳は結界が成るまで、出入り口を守っている。ついては我らが西側を、同じくすれば完遂である。
首尾よくいけば良いのであるが――。
遠雷めいた声が聞こえた。燕の低く飛ぶのは見えぬが、風雨に電火いずれの降るとも驚くまじき空模様。だがあの音は生きている。げに神鳴りと呼ばるべき、大怪獣の咆哮である。
「ねえ衛介さん。嫌な予感が」
「今のは遠い。また別か」
「巨大な気配に己を忍ばせ、近づいてくる殺気の群れです」
なお驚くべきにもあらざるか。
触らぬ神に祟り無ければ、逆もまた然りと知れよう。思うにこれは皺寄せである。坊主や牛を食わせて逃れ、ほったらかしの凶縁であった。
妖怪、野守虫の残党が、ああも彼らの仲間を殺めし吾人をどうして只で帰そう。
因果は必ずや、何らかの決着を呈す。
善因善果、悪因悪果、相あざなえる縄のごとし。禍転じて福と為そうか、はたまた元の木阿弥か。
幾度あっても、これは慣れない。内なる鬼胎は動悸と化して左胸にて暴れて居った。俺はのけ反り、深呼吸して、嚔に似たる調子で叫ぶ。
「おいでなすったか、蜥蜴どもめが!」
我が罵りは薬玉の紐。
垣根、植え木、車の陰より脚ある蛇が次々飛び出す。その数、十五……間違いない。先の野守虫たちであった。餌に満ち足りて元気になりしか、首をもたげて尾をも振り上げ盛んに威嚇の音色を立てる。
今の彼らを動かすものは、当然ながら食欲でない。
自然の力の発露というべきものの落ちたる物ノ怪である。降伏すべき魔でありつつも、荒ぶる祟り神でもある。怨みを行動原理に持った、雑然きわまる衆である。
「……だから貴方に、お供しました」
莉央は我が身に寄り添い云った。そして右手をすっと突きだし、鞭でも振るかのごとく躍らす。
「臨兵闘者皆陣裂在前っ、えいや!」
その指先が力を噴いた。
不可視の礫が群れを撃ったか、それらはギャッと嘆じて怯む。
「でかした」
今こそ逸すまいとて、莉央の胴囲に手を回す。「――ちょいと荒れえが、堪忍しとくれ?」
俺は彼女を小脇に抱えて背後の塀に跳び乗った。しかしてそのまま隣の建屋、さてまた壁面室外機へと蝗の心地で飛び退いていく。
「ふあああ?! あっア、これは、さすがに!」
「どっこい、任せろってんだ。君の姉貴はもっと重いっ」
「後で言っと……て、そういう問題じゃ――なはぁ!?」
意表を突かれて怒った蜥蜴が眼下で散々わめいていたが、此方においては細い娘が別の趣にて騒ぐ。
楽しむ余裕がある筈もない。蛇や家守のそうする風に、敵も我らを追って来だした。
四階建てのビルだった。
擬神器から得る妖力あるとて、いくら何でもへとへとになる。やっとの思いで屋上に、我らふたりは身を乗せた。時間稼ぎは知りぬ多少ぞ。
「莉央ちゃん、やるなら今しかねえぞ。支局長がどう云おうが知らん。これが現場の判断だ」
「やるって……なるほど、今ここで」
「おめえの妙案、俺は信じる!」
莉央は一切覚悟せりとて、横目で見上げて頷いた。
彼女は我が脇腹から降りると、携えていた袋の中から紙皿類を手前にばら撒く。さっと呪文が唱えられるとこれらに赤く光が灯り、見る見るうちに大きくなって激しき焚火になった。
懐からは細く小さい木の札板が取りだされるや、奏でられたる真言陀羅尼に合わせて火に投げ込まれていった。これはいわゆる護摩木である。燃料にして、祈りの便だ。
けたたましき声が近づく。野守虫が這い上がってきたか。
俺は遠くへ思いを馳せた。そして、こたびの願いなるべき飛鳥のことにも思いを馳せた。しかして腰のポッケから、三日月状の「爪」を引き抜く。燃え盛る火に迷わず投じ、俺はゆっくり口を開いた。
「かしこみ、願いたてまつる」
切実、満腔なる念よ、雲の彼方にいざ届け。「――ノウマク、サンマンダ・ボダナン・メイギャシャニエイ、ソワカ」
莉央の言葉がこれを追う。
「ウン、タキウン・ジャク、南無離愛金剛。悪業為せし彼の者よ、ここに法味の験を受くべし。罰示を以て汝が道とせん。その身を以ちて威を示せ。
……オン、ジャク・ウン・シッチ、ソワカ。護法、鉤召、急々如律令」
駆けよる蜥蜴の爪が鳴り、気配が我らを取り巻いている。闇に研がれし殺意と牙が、今に我らの肉を裂かんと。「――ご唱和ください、衛介さんッ」
『出でよ、羅補陀飛鳥守!』
圧倒的なる覇気だった。
場を包囲せし野守の輩と、同種なれども異彩は断然――護法の神たる霊格を、与えられての光一と知れ。
まばゆい妖気と呪力が弾け、空の裂け目を這い出るごとく現れしは蜥蜴が一頭。小さき竜が、ひとこえ高く天に向かって啼きたてる。
法螺より通るその音で以て辺りの蜥蜴の動きを制した。
目を皿のように見開いて、群れはもっぱら静止している。そして彼らは立てたる尾をば、ゆっくりとして地に下げた。
式神ラプ太は喉を鳴らして、確かな言葉でこう述べる。
曰く「その念、確かに受けた。恩は返すぞエースケよ」と。
かの群竜が呼応した。
威嚇や地鳴きのてんでに響くはいつしか一絡げとなって、百鬼夜行も尿をちびらす巨大な鬨に変わっていたのだ。
※作中カレンダーは平成27年版準拠です。
※「暦林問荅(答)集」の引用は、原典の漢文を作者独自に書き下したものになっています。




