第四九話 『大東京百鬼夜行』
前回までのあらすじ:
本隊と合流すべく移動を開始した衛介たち。
二つの怪異が何故いま新宿を目指すのか、その理由が凜の口より語られる。
江戸の歴史がもつ秘密と、『甲府の惨禍』が残したつめあと――示されるもの
は大乱の予兆であった。
一行が新大久保に着くころ、時を同じくして二体の怪物とそれを追う歓奈が
現れる。その出現を皮切りに、とうとう気の均衡は崩壊。常世の門が開け放た
れて、数多の怪異が噴きいでた。
ここに始まる百鬼夜行。持てる力を結集し、さて衛介らはどう挑む。
一
血風すさび、鬼気なお満ちる。
物ノ怪の群吠が辻々に轟いて、人々の泣くこえは痛ましく飛び交っていた。災いに燃えさかるこの街は、合戦のただなかである。うち放たれし百鬼夜行と、ここに集える退魔の力。まさにこれらがぶつかり合って、世にあるまじき狂宴を成す。
招かれざる客どもの大挙に、我がもてなしはきりきり舞いだ。
ぶわり巻き立つ烟塵のなか、太刀を猛らせ駆けずり回る。
右に百足の群れが迫れば横薙ぎにしてこれを退け、左に蜘蛛の大なる有れば、腹まで斬って捨てるのみ。ためらう暇もあらばこそ、ただひたすらに殲滅すべし。
かさむ殺生本意ならざるも、斯くて人里を擾乱されてはさすがに勘弁しかねるところ。
がおうと一つ雄叫びをして、巨人に似たるが現れた。身の丈ゆうに街路樹を超え、獣の皮だか木の葉だか、そこらのもので織ったとおぼしき襤褸をまとって闊歩している。頭はつるり禿茶瓶にて、よく磨かれた墓石のごとくビルの谷間に光って居った。
――その名も知れぬ小鬼の素首をずばっと刎ねし折柄である。
三〇メートルむこうの角より、のし歩き出る大坊主。乗り捨てられし軽自動車を両手に取って擲った。
ぎらめく敵の視線が先へ、鋼の礫は飛びかかる。
蛮気みなぎる双眸の、睨むところは我が身なり。
「んぬ!」
咄嗟の挙動であった。
去る一太刀の残心せしまま、前方視界で大きさを増すその鉄塊を刹那にとらう。屹度構えて右で踏み出し、斬り下げざまに倒れ込む。
大きな桃も斯くやとばかり。
目鼻の先に弾んだ車は、ばっくり割けて転げていった。
「――ッ危えい、死ぬかと思ったぜえ」
蛙よろしく跳ね起きて、今にこちらへ走らんとするその怪物を尻目に遁避。雑然とした街並みを遮二無二にして駆け抜けたるも、敵の歩幅の大きによってかその足音がずんずん迫る。
金鼓のごとき響きともども、信号柱が撥ね飛んだ。坊主の石頭で以て、いともたやすくへし折ったのだ。すると行く手を阻まんばかり、ひしゃげたそれは地に滑る。
どんがらがしゃんと乱離骨灰。俺は引っとび、もんどり打って、ガード下へと転がり込んだ。
ここは新大久保駅前を、東西横切る目抜き通りだ。高架線路と十字に交わる百人町の中心街は、その名も大久保通りと呼ばれてそこそこ賑わうところであった。
金属音が重く響くや頭上に走る劇震一つ。
敵は勢い余り余って高架橋に激突したのである。「大型最徐行」とぞ書かるる、そう高からぬこの橋だ。巨魁が無理矢理くぐり入るなぞ、どだい出来ようはずもない。その脳天で時の鐘でも撞かんばかりの打ちぶりである。いくら大坊主ときても、面食らわずに居れようものか。
「やあい、誰か!」と俺は喚いた。
……まったく生きた心地だにせぬ。この石頭のでかぶつめ、甚く立腹しこそすれども泣いて逃げよう気配もあらず。
怒れるままに地団駄を踏み、牛とも虎ともつかぬ声にて哮けては此方を睨めている。棘や鱗の生えたる顔に、尖った吻から歯がのぞく。げに怪獣の面構え、沙門の名も泣く悪道者ぞ。
「うぉら、ヘルメットおばけ。こっちさ向けよッ」
巨体の背後よりののしり声が飛ぶ。北の友軍、毬栗二人は手にした武器を天に突き上げ、空にまばゆい閃光をしてばちばちとしていわしめていた。
彼らは恭平、徹平からなる双子の米内兄弟である。弦巻という三味線弾きの付き人らしき風情であったが、まさかと云うかやはりと云うか、彼女と同じくPIROに属する歴とした狩人なのだ。
得物は陰陽一対の槍、号して片や「怒雷」と、さてまた片や「猛電」と。まさしく読んで字のごとし。二者の間に生まれし気光が、雷電として放たれる。
神鳴り弾けるに合わせて、肉の焦げつく嫌な臭いと坊主の太き悲鳴が走った。
今度という今度ばかりは、さしもの堅頭怪獣とても周章せざるべからざれ。
ここを先途と構えを直し、よくよく熱れた火の妖力を我が愛剣にふたたび込める。俺は橋下を飛び出した。
一挙一刀、裂破、噴血。
幹にも似たる坊主の脚の、踵の腱をぶった斬り、とうとう偉躯が崩れ落つ。上半身のじたばたするに、潰さるまじく抜け駆けた。
「とどめを刺しちゃやりてえが、あいにく触りに行けもせん。恭平徹平、お二人さん、さっきのビームはもっかい撃てるか」
「ギリ撃でなぐはねえけども、消耗すっからやりたぐねえな」
「んだな、あとはあっちに任すべ……姉御ォ、一発頼むッス。位置は、ええっと」
どっちがどちらか判らぬが、一人が無線機にそう呼びかけた。「――あ、見えるスか。んだば、オナシャスッ」
姉御――なるほどそういう算段か。
吾人が左様に思うが早いか、鋭き妖気の感が迫った。すると光の弾が降り、のたうつ坊主の胴を穿って以てまさしく引導と為す。弦巻氏の射撃であった。遠くのビルやどこかの上から、ごく正確に当てたのである。
皆中稲荷の加護もあるべし。あっぱれ、めでたき験かな。
二
蝙蝠に似た不気味な鳥が、黒き空より舞い降りてくる。一羽来たればまた一羽、二羽、三羽と増えてゆく。皆我らに見向きだにせず、坊主の骸に相群がってその身の肉をつつき始めた。
この妖怪は、陰摩羅鬼。
以前聞いたことがある。伝承に曰く、それは未供養の死体より立ち昇る積屍気が化けたものであると。しかし恐らく斯かるいわれは、彼らが腐肉を啄む生態の投影であろうとも。いわば禿鷲めいたるそれだ。
ああして食を得ているうちは、目下さほどの危険もあるまい。詮ずるところ生態系の一端にすぎぬ。景色の、不吉なだけである。
「事は百鬼夜行といえど……連中を見るに、どうもまとまった徒党を組んでるってんじゃなさそうだぜ」
俺は溜息まじりに云った。
「奴らも此岸さ放り出されて、きっと混乱してんだべ。俺らもかなり狩ったげど、共喰いやって死んでんのもいた」
「ああ。そしたらこいつの死骸につられて、もっとおっかねえのも来うるな」
「ここは一旦退くのが良がべ。俺らもさっきの『雷電砲』で、ちょっこらキャパオーバー気味だ」
「そいじゃ皆中稲荷に戻ろう。卜部さんらが待機してるし、あすこにゃ結界張ってあるから。徹平、弦巻さんにも伝えて、神社で総員合流だ。まず体勢を立て直す」
「俺、恭平な?」
「えっ、あ? すまん。ともかく行くぞ」
そうと決まれば足早に。
米内兄弟の妖力が果ててしまうと後に困ろう。幸い、吾人はまだ戦える。持久力には自信があるが、この機に一息つくべきか。千歳に電話もしそこねていた。これまた良き機会としたい。
大きなヘリコプターが我らの頭上はるか高くを翔る。ばりばりとして数機が北へ飛び行った。空には種々の妖も舞い、実に騒々しき様である。
だが地を云えば、尚のこと。
「嫌ァーな気配がするッスね」
高架橋の向こう側から、動力音と無数の爪が大地を引っ掻く声がする。大久保通りの反対側にも巨大な何かの気配が迫る。
――いや、いやはや案の定。一難去ってまた一難……二難か? もはやどうでもよろしい。
飄忽震蕩、怒号が這った。
駅を砂城の脆きに比せしめ、砕き、突き上げ、そやつは現わる。
大きく横にせり出た脚と、戦車のごときその体躯。首まで覆う兜よろしく堅牢至極の頭には、いびつに曲がった洋槍を思わす角がすこぶる物々しい。ぎざつく嘴は血肉にぞ飢え、しきりに涎繰りしている。
「牛鬼だあ!」と叫ぶは恭平。
怪獣、花びら大回転か。品もしつけもありはせぬ。素直に坊主を食えば良いのに、まず動くものを追うのだろう。斯かる手合いはおおよそよく似た、短気な捕食者根性を持つ。
「二人は先に、行っといてくれっ。こいつァ俺が引き受けた」
「無理っス、あんたは死にてえんすか」
「さっきの借りを、返させろ!」
彼らの骨は、もう折らすまい。足止めできれば御の字だ。
ぎゃりっ、と俺は身をひるがえして牛鬼側に向き直る。米内の双子はオイと嘆じて我が背を顧みんともしたが、俺が走れと一喝するや、渋々として駆け去った。
橋の彼方でますます響く動力音と数多の爪音。あのけたたましき号笛は、いつか、いずこにてか聴いた。しかしてそれを遮るごときは、鱗虫どもの地鳴きであった。
吾人、牛鬼、迫る者ども。卍巴はこれを免ぜず。
武者震いして無二念に、俺は全力疾走をした。
双子の逃れた神社側とは真逆のほうへと一目散だ。大怪獣はその剛脚であらゆるものを踏んづけながら、ちょこまか動く吾人を見すえて憤怒の相で追ってくる。
目指せ、大坊主の屍を。向こうより来る一団と、この牛鬼をそこでぶつける。しっちゃかめっちゃか有るうちに、どうにかずらかる手立てを打とう。
坊主の骸に集まっていた陰摩羅鬼らがいっぺんに発つ。ぴぎゃあぴぎゃあと悲鳴を上げて、来たる巨大な暴れ者には、喰らわるまじく散るや蜘蛛の子。
いよいよ混戦極まれり。転げた骸に牛がまさしく食いかからんとする刹那、反対側から橋をくぐって、かの一群も飛び込んできた。
すわ、開いた口が塞がらぬ。
何を隠そうその集団、おびただしき野守虫ではないか。
鋭利なる歯と恐ろしき爪、加えてしなやかなる痩身、これらの武器をあわせ持つ。彼らは凶悪なる狩人だ。
金切り声を闇に奏でて、まず数頭が牛に飛びつく。その鍵爪を突き立てられるや、巨吼が忿懣を伝えた。ねじれた角が振り回される。前肢は激しく踏み鳴らされる。薙ぎ払われし蜥蜴の衆は、ごく呆気なく潰れてしまった。
されど相手は、なお多過ぎる。混乱に乗じて脱するつもりが、これでは逃れる隙もない。次から次へと迫る野守を死に物狂いで斬り倒す。
後生であるから、一昨日来い。これは不毛な殺戮である。
ありつる謎の駆動音も、焚き火に油の撒かるるごとく喧々として追い付いてきた。しかしてようやく闖入せしは、うわんうわんと鳴った号笛――まだ何人か、現れようか。斯くなる上にますます以て、この乱闘をとっ散らかすか。
その鉄塊は唸りをあげて、群がる大蜥蜴どもを撥ねつつ高架下をば駆け抜けた。
骨の砕ける鈍き響きに彼らの断末魔が混じる。車輪いななく声もして、豆鉄砲を食った吾人のすぐ眼前に急旋回。横っ腹には確と見る、白で書かれし“PIRO”の文字を。
癇癪に沸く野守虫らが火の手をあげて反撃に出た。あわれ詮無く鋼の板に、寄ってたかって牙を剥く。屁の河童とも云いたげに、我らがPIROの作戦車両は突如天井窓を開いた。
「――ややっ、おめえは!」
会いたかったぞ。俺がどれほど待ち焦がれたか、汝は知ってか知らいでか。我が相棒よ、よくぞここまで。
それはさながら竜巻である。
矢庭に飛び出した女の、冷ややかなる刃が躍る。電光石火の太刀筋は敵の目にこそ凶嵐であれ、我が目にとれば時津風。さりとて目にもとまらぬ様とは、げに斯くなるを云うべけん。
湿った夜気すら八裂きの、彼女は――そう、住吉千歳は血祭に舞う巫女である。
我らふたりの奮戦する事ものの二分かそこらにおいて、かなり多くの蜥蜴が死した。陸に上がった権瑞玉かと見紛うような規模であったが、今やその数ざっとかぞえて十四五頭といったところか。
背中合わせの陣であった。我らは包囲されている。残った野守虫どもが、次はどうして攻めたものかと各々手をこまねいている。
これらに統率者は居らぬ。文字どおりに群竜無首だ。この一団は混乱せしまま、空腹感と危機感のもと、ただその爪を振るのみなのだ。
いっぽうその身にまとわる蜥蜴を退けきった牛鬼は、怒髪天を衝かんばかりか二本角をも空に突き立て、ひだるい腹を満たせぬ不服を所かまわず当てつけていた。
銅鑼を思わす足踏みひとつ。大地にひびの入る響きが、場の者すべての注意を集めた。
烏合の竜は吃驚として、空咳じみた威嚇の声を大怪獣に投げかける。これを挑発されたと取っては、奴がいかに動こうものかと一々問答するまでもない。
まず討つべきは、牛鬼である。
振り向く千歳の目配せを、我が網膜で阿と受ける。わずか〇・二秒の疎通。両者同時に吽とうなずき、つづく刹那や遅しと駆け出す。
我らはそれで事足りた。
並み居る蜥蜴を蹴転がし、俺が無理矢理通路を作るや棒高跳の要領で、千歳の肢体は宙に舞う。竿竹めいたその長巻が彼女を運んで描く軌跡は、げに鮮やかなる弧であった。
牛鬼の首がこれを追う。
己の鼻先から上がり、背の後ろまで飛びゆくものを。
「今!」と一声聞くが早いか、真正面から肉薄をして我が剣撃は隙をえぐった。
天を仰いだその喉は、あなや生血を滔々として黒き路面に吹きこぼす。響めく呻きと朱の瀑声が、闇夜に奉られてゆく。
弾道まさに下降へ移らんとする中、ぎゅんと千歳は胴を捻って手にした刃を振りぬき払い――それがまさしく錣の裏を、すなわち延髄を断ったのである。
平山城でも落つるがごとく、牛は血ノ池地獄に没した。己が血の成す池である。
斯かる巨体の今際には、轟沈という語が似合おう。
めでたや邪魔は居なくなった、とばかりに野守の衆は勇んだ。とんと我らは眼中に無く、今この場にて死んだばかりの大牛鬼に齧りつく。いざおこぼれに肖らんとて、ずっと辺りを群飛していた陰魔羅鬼らも降りてきた。
斯くなる上に手出しは無用か。食物連鎖の理法であろう。
千歳はしゃなりと着地をすると、小走りほどの速さで以て我が手を握り引っ張った。
言葉はない。うんともすんとも、馬鹿ともちょんとも云わないでいる。これには吾人もほとほと困れど、如何にせんやと思案するにはいささか困憊しすぎて居った。ゆえに、されるがままである。はたしてそれは良き思い出か、苦き記憶の瘡蓋か、いつかのことが頭をよぎる。住吉千歳は、斯様の女だ。
ずりずり引っ張られて行く先は、我らがPIROの車である。何ら意外のこともなし。
開いた窓より聴こえてくるのは、焦りと安堵の奇妙に混じる鹿ヶ谷氏の声であった。
「早く、乗って! いったん退きますッ」
またもいつかを思い起こす。人心地のついた気がした。
三
五月に「甲府の惨禍」を経てから、ある問題が世の論壇をたいへん賑わせていた。
自衛隊の怪獣対策に関することである。都市部において出来する動物被害への迅速な対応と、無論これを想定した充分な訓練。今や内憂案件として、害的妖怪の存在は無視すべからざる社会問題となっていたのであった。
日本人の怖がるものは、地震雷火事親父、あとは世間の目と妖怪だ。
もっとも妖怪などというのは本来自然の申し子で、それらが人畜の形として滴り落ちた存在である。予々述べてきたことであるが、我らの目にはそれらが時に不可解だから妖しと云うのだ。
しかるに、何ゆえ左様のものが超自然的力を持つのか。彼らの住まう常世の国とは一体全体何であるのか。……つらつら思えば思うほど、やはり妖しき沙汰でしかない。
毒を以て毒を制すというのがPIROの在り方である。
怪異と対峙するならば、我らも鬼道――すなわち人の道より外れし邪術を佩くと。
擬神器は、荒ぶる神の御霊を宿すいわば呪いの武具である。人の力で敵わぬからこそ符呪の威力を頼るのである。ものを卑屈に云うなれば、虎の威を借る狐に過ぎぬ。けれどもこれが知りうる限り最善ゆえに我らがあるのだ。
「さっきチヌークが飛んで行ったのは見た?」
車は目下の合流地点、皆中稲荷神社へ急ぐ。鹿ヶ谷指令は運転しつつ、吾人にそんなことを訊いた。
「ええと、輸送ヘリですかい。それらしいのは、見たような」
「この辺、新宿北部のエリアは古今未曽有の大混乱で、政府は当然大慌て。今のところ陸自は、私たちとは完全に別個の作戦下に動いてるわ」
「とうとう自衛隊さん方が……しかし、おかしいじゃありませんか。妖怪、とりわけでっかいのには、鉄砲なんざ効きゃしねえのに」
「そうね。彼らの回復力に鉛の弾では敵わないから、妖気で逆の力をかけて打ち消すのが擬神器だけど」
「んじゃアよくある特撮映画の二ノ舞っつうもんですぜ。バカスカ撃っても糠に釘、火でも吐かれりゃ一網打尽て。あまりといえばあんまりだ」
「実際の自衛隊はそこまで無謀じゃない。多少なりとも有効な策を講じて、要点集中の作戦を展開しているはず」
「そしたら我らが出る幕は」
「愚問ね、あなたも知ってるでしょうに。いい? ……飛鳥ちゃんを助けられるのは私たちだけよ」
右隣の千歳は黙然としていた。
もう長いことこの調子である。直近、こやつと会話したのは牛鬼相手に切りこむときの「今!」という合図くらいだ。我々ふたりに蟠りはない。しかし、こやつは親友の身に良からぬことがあってしまうと酷く調子を崩すのである。
前にもこんなことはあったから、千歳の気持ちはよく解る。これは彼女の胸に秘めたる情の厚さが発露であった。痘痕も靨と云わば云え。
「なあ住吉、思い出すよな。俺たちゃ一番始めの始め、あぶねえ蜥蜴野郎から逃れてこの車に飛び乗ったんだ。良いか悪りいかはともかくとして……だから、今もここにいる」
吾人語るも返事来たらず。女は車窓を眺めていたが、ようやく目だけをこちらに向けた。「青木ヶ原の敵のアジトに東海林のやつを助けに行くのも、そん時ゃおっかなかったもんよな」
宿す生気の五分ノ一程、どっと吐き出す溜息一つ。そうしていては幸が逃げるぞ、と俺は隣にやや身を乗り出す。
居たたまれずしてか千歳は、しばらくぶりに口を開いた。
「あんたは、怖くないわけ」と。
「云ったろ、おっかなびっくりだったと」
「そうじゃない……くて、あたしは怖い。またあたしが情けないから、飛鳥は怪異に侵されて。今度こそ駄目かも知んない、って」
「住吉のせい? んなふざけたこと、どこの誰が抜かしやがった。ぶん殴っといてやる」
「誰って。誰とかでは、ないけどさ」
「ほら見ろちきしょう。今回おめえが住吉じゃなけりゃ、この場で拳骨喰らわしてたぜ」
俺は努めて啖呵を切った。
「……何キレてんの。あんた馬鹿?」
「おうよ、念の入ったる馬鹿だい。だから大目玉も覚悟して、ここまですっ飛んで来てんだ」
「本当だったら命令違反でいろいろ罰則付けちゃうけどね」と、支局長は苦笑を挟む。
千歳は釣られて笑みかけるのを堪えるような素振りを見せた。何の意地があるやら知れぬが、にわかに視線を逸らしてその唇を縛って居った。
「お前がどうのこうのと云いたくなる気はなるほど大いに解るが。何だかんだで酸いも甘いも、一緒にやってきたじゃねえか」
「うん……で?」
「今度も同じだってんだ。しかも俺にもお前にも、せにゃあならない事があるだろ」
「人手は多いに……越したこたないってゆうか」
女は座席に突っ立つ我が手に、さりげもなく掌を重ねた。その目はなおも、外を見ている。
同様にして窓を見やると、程良き反射角で合った。暗くてあまり判らぬけれども、瞳は赤く潤んでいよう。そう思うのが、気味も良い。
まもなく稲荷神社に着くと、卜部姉妹と東北一味が揃って我らを出迎えてきた。
「凜ちゃん、おひさ。さっきは電話ありがとうね、おかげで衛介も回収できたわ」
「うむ、妾はここにて為しうることを、考え次第にやっておるのみ。鹿ヶ谷殿もよくぞご無事で」
「東北支局の人たちも、今回はごめんなさいね。……正真正銘、総力戦よ。人手があんまり足りてないから、どこまでやれるかわからないけど」
弦巻氏と米内兄弟らも、簡単に挨拶を済ます。まさに大合流だった。
「ところで人手に関してですが、私一つ考えがありましてね。姉様、具申のお許しを」
莉央はこちらを見ながら云うと、卜部の凛氏は諾とうなずく。「衛介さん、ラプ太とやらの爪を先程お持ちでしたね?」
なかなか意外の言葉であった。
「それ、どうすんだ」
「……お任せください。おもてで暴れる蜥蜴の衆を、一手に束ねる妙法です」
はたして何を始めることやら。ここまできたらば躊躇はすまい。為うる手段は片っ端から、やってみようではあるまいか。
皆が耳をば傾くる中、小さな二つ結いの娘は緊張気味に語り始めた。




