第四八話 『戦雲泳ぐ盲魚』
前回までのあらすじ:
南下する竜蛇を追う関東PIRO本隊。
しかし作戦に参加した飛鳥は、またもや持病――深刻な片頭痛――の発作に見舞われていた。いっぽう鹿ヶ谷はこの頭痛を単なる病とは見做さず、一連の事件に関わる怪異と結びついたものと結論付けて作戦を続行。
歓奈の陽動は功を奏したかに見えたが、思わぬ反撃から敵の足止めは失敗という結果に。そして気を失った飛鳥は、とうとう体内の憑依霊が暴走。鹿ヶ谷の読み通り、怪異と化して出奔してしまう。
謎の竜蛇と、黒き憑神。二つの怪異が新宿めがけて進行を開始した。
さて、そのころ衛介たちは……?
一
新宿に立ってしばし後、ぢくぢくと大腿に刺さるものを認めた。
何ぞこれまで散々駆けて、この違和感をどうともせざるや。いかに吾人が迂鈍とはいえこれを知らずにいたのではない。その実、気にせぬつもりでいたのだ。波状に迫る危機を渡らば、些事に捉われてなどもいられぬ。
しかしてやっと心を静め、身を取り巻いたる諸般のことに存慮を配せる頃合いである。
ポッケに指を突っ込むに、またもやその切っ先がちくりと。しかめつらにて引っぱり出すと、それはようやく抜き身を表わす。
……鍵爪であった。
鋸鎌に似ておどろしく、有明月のごとく利し。それぞ紛れもなき天然の暗器。野守虫の後脚より欠け落ちたものであった。
何ゆえこれを持ちたるか、俺ははてなと追思する。
蓋し、おもむろに拾ったのである。
我を忘れて騒ぐラプ太が、床を引っ掻き、折れし爪。持つまま口喧嘩をおこし、呼ばれて飛び出てここまで至る。――否、今回は勝手に飛び出してきたというほうが厳密か。
ともあれ、斯くて有する品だ。
飛鳥のことが頭をよぎった。あの娘らの出撃時、最後に見せしは物憂げに垂れ伏せる眉であった。あやつの気性はあれでいて、まだあどけなさを多分に残す童というべきものである。その儚さは朝露に似て、細く小さきものである。
本日起こった大抵のことには、それぞれ反省点があろう。飛鳥を罵り倒せしことは、実に恥ずべき意地悪であった。
裕也からの報告には心より滅入った。まことに胸が痛いとは、斯くなる沙汰を云うべきことか。己が何ら出来ぬ間に、運びは最悪の相を呈していたなどて。
暮れる途方も朧なり。以て人づての敗報は、絶望や諦念のたぐいを醸さぬ。これは幸いのことであった。
我が命あるかぎり、当座を投げやるつもりはない。
この不退転の志を見くびってもらっては困る。――と、誰に向くるでもなく吐いた。
「……ぬし、いやに落ち着き払っておるではないか」
のどけからずそう云ったのは卜部氏である。彼女の垂らす愛嬌毛は、我が面を覗きこむにともなって微かに揺れている。
これに答えて吾人云えらく、
「この期に慌ててどうします」と。云わずもがな、色濃き痩我慢をはらめる返事であった。
続いて問いを寄越すは莉央だ。
「ところで、その尖っているのは?」
怪訝の眼光が、我が手中に静かな好奇心を投げているのであった。
「爪だよ、野守虫というやつの」
「姉様の云ってらしたあれですか。信濃に伝わる、怪蛇ですね」
「脚生えてっから蛇かは知らんが……まあま、その手のやつだわな。卜部さんのご協力もあり、とっ捕まえて世話してんのさ」
「ようは『罰示式神』ですよね?」
「んな大層なもんではねんだ。餌やって、鳥籠のでけえのにぶち込んでるだけ」
「ありゃま。爪をお持ちでらっしゃるから、てっきりそれが『形代』かとばかり」
「ははア、期待はずれですまんな」
首をすくめてそう答うれば、その趣はどこか自嘲をするふうになっていた。
さて、この辺りにて状況を整理しておこう。
我々は新宿西口を後にし、いわゆる「ションベン横丁」付近を足早に歩んでいる。
早いところ、俺は本隊と落ち合わねばならなかった。報告によれば、怪異の進路はまさに新宿をめがけているらしい。仲間らも、これを追い全速で南下してきている。一刻も早き合流を期すべくは、まず我々も北上するが宜しかろう。また連携次第では目標を挟撃しうるかもしれぬ。べそを掻くよりほかに出来るのは歩くことであった。
しかしひたすら懸念さるるは、“目標B”の行方である。
本隊は、神憑って出奔せし東海林飛鳥を作戦上そのように称呼した。鹿ヶ谷指令の判定である。つまり極めて業務的に、追跡すべき怪異としてこれを認識せよと――隊員たる彼女の身分は、少なくとも一時的に無みされることが決まったのであった。
内なる仁恕に嘘をつかぬのならば、遺憾この上無しとて吠えたい。斯かる不人情は我が性分の憎んで已まぬところだ。さぞや千歳も怒っていようし、且つは嘆いているであろう。想見される悲憤慷慨の形相に、俺はひりひりと思いを馳せる。
新たに“B”が定まるにともない、本来の目標怪異は便宜的に“A”と呼び改められた。
竜蛇の類であるとのことだが、我が対すべき荒覇吐神と同定可能のものかはわからぬ。……否、案ずるだに詮無きことかな。今におのずから判然となりなん。一度肌身で味わったあの強烈な陰の気は、未だに以て忘れもしない。相まみゆれば、すなわち知れよう。
何せ両者の行先は、いずれも新宿を指しているというではあるまいか。
それにつけても、何故よりによってこの街へと赴くか。目下これだけが、抜きがたく残る根本的な不思議であった。
「一つ解せんのです。確かにここいらは何でもありますわな、飯も酒も、スケベも。しかしね、相手は荒ぶる神さんですぜ。んなもん、あえて目当てにしますかい」
裕也の報告においてしきりに新宿と曰くは、もっぱら桧取沢嬢の受け売りである。何の根拠か問うてはみたが、ひとえに彼女の読みであり、また鹿ヶ谷氏の異存もない旨を返してきた。
この手のことの釈然たるは、凡そ求めざるが吉とぞ相場の決まったものである。
なるほど複雑怪奇とは古来斯くなるを云うべけれども、こたび上記の確信を、嬢がどこより得たるものかはてんで覚束無きが現況。いささか以てもやくやと、我が心には安からぬ叢雲が立ちこめて居った。
「ほう。つまり歓奈の見積りが、何ら根の無き当てずっぽうじゃと?」
「そこまで云いたかありゃしませんが……敵が南進したっつっても、決めつけちゃったらいかんでしょうが。怪異の進路なんざ、どうとだって変わんだから」
俺は一仕事人という、なけなしの矜持を逆立てて述べた。ゆえにこそ、次のようなる友の言葉に決まりの悪さを覚えたものだ。
「この半可通めが。新宿と聞いてなおぴんと来ぬとは」
やや慳貪な口吻である。「よいかえ、仮にもあの歓奈じゃぞ。さもや無思慮のはずがなかろう」
「何です、俺が悪りいみてえに。解るんですか卜部さんにゃあ、本隊の人らの云うことが」
「先程から黙って聞いておれば、ぬしもつくづく勉強不足よ。何のためにぞ梶原が、ぬしを新宿で降りさせたと心得る?」
「きっと交通の便なんかが宜しいからでさ。今や、いかんせん一文無しだが」
「断じて否。まずそこからして、歓奈や鹿ヶ谷殿の指示じゃろう。実に正しき采配なるべし」
「おっしゃる意味がよく解んねえ。いくら何でも説明不足だ。俺の勉強うんぬん以前に、もうちょい教えておくんなさいよ」
「都合の良い時ばかり頼ってきおる。全く以て仕様がないのう! ……やはりまだまだ衛介は、妾がおらぬとままならぬようじゃから。伏して頼まるれば、あながち講じてやらぬでもない」
「なッ。また居丈高な。卜部さんってお方は、すぐにこれだもんだから」
思わず我らは「ぬぬぬ」と云って、額を打ち付けあわんばかりに睨競を相交わす。闘気旺盛、牡牛のごとし。俺とて焦れ込んでいるから、ついつい眉間を皺寄せていた。
見るに見かねて莉央が一言、
「ああもう、いい加減になさいまし。二人共よくよくお狼狽えですのに、乙に澄ましてしまわれて。何なんですね、さっきから。格好つけてる場合ですかね? も少し、素直になられては」と。
はっとするのは双方遅く、遂にごちんとぶつかった。我に返って恥じ入ったるは、真っ赤なカチカチ玉にも似たり。
南無三、俺としたことが。ゆめゆめ見失ってはならぬ。今ぞまことに心を静め、我が捌くべき諸般のことに存慮を配するときではないか。
動揺している暇などあらず。足踏み、地団駄、時宜ならず。己の無知は認むべし。知らずば教えを乞うが良し。
「……うむ莉央ちゃんよ、君が正しい。
改めまして卜部さん、いざ神妙に伺います。一体全体この街にゃ、何の曰があるってんです?」
「そっ……いや、そうさな。コホン、どこから話したものか――」
手にした扇子が忙しそうだ。
我々は、まっしぐらにて北へ伸びたる山手線の脇路を行く。気付けばそこは閑静であった。街路樹の、まばらに並ぶ佇まい。壁の落描き、放置自転車。一つ裏手に入るだけでも、ずいぶん活気は遠のくものかな。
卜部姉妹の下駄の歩みが、からりころりと際立っている。横を電車が走り抜けるや、大気の団子がこれを追う。撫でるようにか殴るようにか、結われし髪を棚引かす。
風に促さるるごとくして、姉君は滔々と語り始めた。
二
徳川の入府以前、江戸一帯は果たして葎鬱蒼たる寒村であったか。
長らくの定説にそうした疑義の挙がりしは、昭和も終いごろになってからのことである。太田道灌や上杉朝良など、当地の歴代治者にまつわる文書より研究が進むと、関八州一円の中枢にふさわしき礎はあらかじめ存していたことが判ってきたという。
では都城の発展を必然たらしむるからには、如何なるものが潜在したのか。尤も、いざ家康公が江戸を拠点に卜せる際は、それをよく心得て選択の要因としたはずであろう。
幕末期の易学者、平沢白翁は著書「宅方明鑒」にて下記のとおり説く。
『地形に四神相應といふことあり。(中略)所謂東ハ靑龍とて水の流あるを好とす。西ハ白虎とて道路あるを好む、あるひハ竹木の植ごみあるも可なり。南ハ朱雀とて地低きを好ミ、汙池あるも妨げず。北ハ玄武とて地髙きを好む。』
北に座するは本郷台地、東を走る隅田川、西に通ずる甲州街道。さらに、遥か南へと広がっている港湾。
これら山川道澤を以て四神相応になぞらえ、風水上理想的なる吉相を成すが江戸であった。地より生ぜし陰陽の気を、調和がもとに循環せしめてその健やけきを保つのである。
斯様の四神相応思想が、都市全体の風通しなり水捌けなりを期したることは、元より疑うべくもない。
しかしながらも糅てて加えて、そこには一つ肝要極まる大目的が孕まれている。何を隠そう妖どもの、跳梁跋扈を防ぐにこそあれ。気の均衡を保全するとは、第二義的にはそういうことだ。
時は下って幾星霜、江戸を称して東京と為す。
爾来は大震災に遭えども大空襲をこうむろうとも、へこたれまいとの根性をしてこの都は歩みを遂げてきた。
けれども長き年月のうち、東京湾の埋め立てだとか、巨大な地下鉄工事であるとか、気の循環を妨ぐるものは不可避的にて増えてゆく。既にして、陰陽五行の張り巡らせしその結界は漸う揺らぐ。
このほど乱れの報ぜられたる、首都圏各所における気場。それらは決して理の気まぐれでも、偶因の悪戯でもないのだ。
揺れに揺れにし風水秩序に、追打ちをかける何かがあった。
より厳密に云うなれば、気の供給を決定的に破綻せしむることが起こった。それも昔話にあらず、ごく近来の件である。さかのぼること二ヶ月足らず。
巷に曰く『甲府の惨禍』。
酸鼻を極めし事件であった。白昼の甲府市街に漆黒の大怪獣が飛来、破壊の限りを尽くした。我々PIROの活躍がえんやらやっとでこれを討ったが、被害のほどは計り知れぬ。あまりに多くの人が喰らわれ、数多の建屋が焼き払われた。
白虎すなわち甲州街道、その行く先の気場が崩壊。甲斐を襲いし厄は、それを意味しているのであった。
「富士より流れし龍脈は、白虎を媒介して江戸に気を注いできた。甲州街道第一の宿駅、その名もまさに『新宿』が、いわば漏斗の役目を果たす」
龍脈とは、地中に走る気の通い路である。「――詳らかには未だ知れねど、脈の根元近くにてああいうことが起きたのじゃ。その受皿たる新宿や、ひいては首都の全域に、良からぬ兆しも現れよう」
「まさかこんな、日本最大の俗境って趣の街が。まるで思いもよりませなんだ」
「新宿が持つ左様の性質も、詮ずるところ道理なるべし。何せここは大東京の、二つの眼が一つじゃからな」
「するってえと……こりゃまたどういう?」
「都内の気場には、二つの特異点というべき所がある。すなわち陰と陽の魚、それぞれの眼じゃ。太極図を思い浮かべてみよ。
ああした勾玉巴の図案は、循環律というて、陰極まれば陽に変ずる気の転化を表わしておる。黒き魚と白き魚は、尾から口へとのぼるにかけて気の盛んとなりゆく象徴じゃ。そしてこれらは互いを喰わんと、相手の尻を永久に追いあう」
「はっはあ、云われりゃ魚っぽいや」
「業界ではよく知られたことじゃが、この魚らが相備わって都内の気場を成しておる。山手線の路線図に、太極図をそっくり嵌め込めば解しやすかろう」
氏はくるりんと指を回して、虚空に円を描いて見せた。そうかと思うとその右側に、印するごとく打点する。
「――さてな衛介。ひとつ、作麼生」
「おうよ、説破。何です一体」
「妾の指はいずこを指せしか?」
「そこはおおよそ、皇居でしょかな」
「なればこちらを指しては、どうじゃ?」次は反対側の一点。
「そっちはきっと…………新宿か」
彼女は「然り」と言葉を接いで、再び説明を始めた。
新宿、池袋、巣鴨、上野――首都の“陰”的領域において、唯一“陽”の気場たる所。陰中の陽というべきそれは、かの「新宿御苑」を核としてあるそうな。
この街が甲州街道第一の宿であることは先に述べたが、本来ここは信州高遠藩主、内藤氏の屋敷を有する地であった。内藤清成は家康公の入府に先立って、江戸警備の鉄砲隊を当地に配備した大名である。
彼が率いる鉄砲隊は、「百人組」と改められて幕府の機構に取り入れられた。今なお百人町との地名が、区内に残る所以はこれだ。万一江戸城の落とされた際、将軍は彼らを護衛にして街道から逃げ延びるという備えだったのであろう。なるほど甲府の舞鶴城も、代々徳川の所領とされてきたわけか。
概ね合点はいった気がする。
酷い栄養不足が祟って盲となりし黒き魚。ごくごく端的に云って、おおよそ我々はその目にいるのだ。
「もうすぐ新大久保ですぜ。ざっと一駅歩いちまった。話にのぼった百人町は、ちょうどこの辺りなわけで」
「うむ、そういうことになるが……話しながらに歩いたからのう。妾はちと疲れ申した」
「ですねえ、私もそれなりに。衛介さん、あそこに神社があるようですね。ちょっぴり休憩願えませんか」
「ぼちぼち本隊にも連絡してえんで。ついでに休んどきましょっか」
我らは新大久保駅横の、ひっそりとした社に至った。「皆中稲荷神社」の文字が、入り口脇に記されている。
「噂に聞いたことがあるのう。『皆中る』とぞ訓じる社名は、百人隊の射撃に始まり、賭けや予測の類においてもその霊験を示すとな」
境内の木にもたれかかって、氏は更なる薀蓄をば垂れる。
仄かに暗きこの場所は、静けさ沁みる情緒であった。何だかんだで語りたがりの、拝み屋を見て心を和ます。どこからともなき三味の音が、ものの微かに鳴っている。
「へえ、そいつは良いもんだ。嫌な予想もあたるようだと、当座はちょいと困りますがな」
今日も湿度は高きかな。汗は自ずと乾くけれども、肌より発ったその水分は湿気に溶けるのみである。妹君が手ぬぐいで、大汗まみれの姉のうなじを一生懸命拭いている。
夜風も止むころであったろうか。
ふと三味の音色がいつしか足音に変わったことを悟る。大小三つの人影が、鳥居をくぐり現れた。
「聴いてくれでました? どうスか姉御の音は!」
「って、あンれ。さっき、むこうでもいた人らでねえすか」
何ぞ図らん、現れたのは先程新宿駅前にて路上ライブを打っていたご一行ではないか。
舎弟とおぼしき坊主の双子がぺちゃくちゃ云いつつ寄ってくる。その背後からゆっくりと、柳のごとき引目の女がにこにこしながら追い付いた。
「オヤ、じょんがらの方々。今夜はよくお会いしますな。ゲリラってのは止したんですかい」
我が挨拶に答えて曰く、
「少うし、気配が不吉ですので」と首を横に振る女。
しかめ面にも見えぬけれども、どこか事しも有り顔だった。
「えっ。凄えや、お分かりだとは。なるほどちょいと不味いんですよ、この新宿区っつう所は。気だの風水だのの話を、無理に信じろたあ云いませんがね」
「お連れは陰陽師さんでしょ。当のお兄さんは……不良?」
「オヤヤ、何です失礼な。こちとら治安の味方ですぜ」
どうも噛み合いにくさがあった。この婦人は何を考えているやら。察しの良さげなところはあるが、いささか頓珍漢にも過ぎる。
付き合いきるのも億劫であった。当座の仕事の便宜が為にも、どうかお帰り願いたし。
「ともかくここらは剣呑なんです。早めの帰宅を、お勧めしやす」
俺はさっぱりそう告げて、電話片手に踵を反す。
こちらとしてもいい加減、本隊との合流を成さねば。両目標を追いかけて、もうすぐそこまで来ているやもしれぬ。失敬な女にからかわれている場合ではない。
祐也経由で連絡するのも、最早まだるっこいことだ。
千歳に直接かけてしまうが、さぞや最も素早かろう。善は急げと心得て、直ぐにあやつへダイヤルを――。
などと、まさに思いし刹那。
群れなす土鳩の一挙にて飛び立てるは、寸陰違わずその時であった。
場にいる我らと三味線組は、おののき辺りを見回した。
遠つ方から人の叫びと、どよめく声が近づいてくる。勿論この百人町は、夜とて灯りは煌々にして人出も多き市街地である。何か大きなことが起これば、騒ぎの規模は相応となる。
ふためく群衆が迫ってきているのか……否、人々の騒然たるが、津波のごとく伝播してきているのだ。
しかして真に迫り来たるは、全く別のものである。第六感、ぞわと感ずる妖気の感が、その到来を告げていた。
速い、疾い、あまりに迅い。
たちまち気配は巨大になって、痺れんばかりにこの身を撃った。
「備えよ衛介、何か来るぞえ!」
氏の敏捷な警告が、遅く思えるほどの矢庭に。
禍々しき鬼気を放ちて、夜の街をば駆けるものあり。暗き神社の境内からは、一瞬ながらもその姿をはっきりと観ることが出来た。
一つは長き体をくねらせ、地を割り、狂ったように驀進するもの。二つはこれを追って飛ぶ、黒き水気をまといし「何か」。少し遅れて姿を見せるは、赤々とした鶏に跨る長黒髪の乙女であった。
「ややっ、歓奈と火鶏彦じゃ」
嘆ずる隙さえなき通過。見送る急行列車のごとく、景色の中を過ぎ去った。
「……それもそうだが、前のは何です。身に覚えある気配でしたが、あんなバケモン見たこたねえ」
「あの小っさくて黒いのは。人型みたいに見えましたね」
「議論の暇は、無さそうかのう……!?」
刹那、夜景の歪まんばかりに広がる。途方もなき“陰”の気である。
まさに陰中の陽の、完全なる崩壊が瞬間であった。
そこに開くは幽界の門。我らのアッと云うより早く、頤あんぐりするより早し。稲荷の鳥居は先んじて、しだらなき大口を虚空に開け放っているではないか。
「一体全体何だよこりゃア!」
奇天烈至極の光景である。
反吐をげろげろ瀉き出すごとく、その口からは有形無形の怪異が噴出した。
土砂に泥水、草木とその根、極め付けには蠢く者たち。この世ならざる万のものが、瘴気と共に放たれていく。躊躇悛巡あらばこそ、それらが往来に降りかかる。
しかして我らは、激流に紛れて禽獣の吠うるをだに聴き逃さなかった。鬼、鵺、狐に狸。その他無数の妖怪変化。
「桑原桑原……よもや妾の生あるうちに斯様のことが巻き起ころうとは」
卜部氏わななきながらに曰く「妖どもめの一大一揆、これぞすなわち百鬼夜行」と。
恐るべき災いの幕開けにほかならぬ。
群衆は、出でし脅威の滂沱たるにひたすら瞠目した。何人たりともこれを禁ぜず、ひいては恐れを脳裡に強いた。それはまさしく今この瞬間、人という生き物に甦った尋常一様の本能である。
急迫の鬼気、生命の危機。
吾人は実に知悉している。――斯かる条件下において、被食動物が如何なる行動をとるかを。
深けゆく新大久保駅前は、幾百の叫喚、および幾千の跫音を以て突沸した。
甲府の件にて見しに似たるが、まざまざとして眼前にある。人は必死に逃げてゆくのだ。揃いも揃って同じ方へと、水牛よろしく駆け出しゆくのだ。
警官など役にも立たぬ。慌てて誘導灯を振れども、万事が裏目の火に油。
この狂乱の有り様が、俺を大いに戦慄せしめた。
「やっ、三味線の人! ぼさっとしてちゃあオッ死にますよ、さあ速やかに逃げて下せえ」
「堅石や……行瀬に厨に、溜める酒」
糸目の女は聞く耳持たず、意味のわからぬ歌を詠む。「――手酔い、足酔い、われ癈いにけり」
舎弟の二人も冷静に、アキレス腱を伸ばしている。酷い椿事と恐怖のあまり、いよいよ彼らも気を違えたか。
ところがどうやらハッとして、卜部の姉はこう問うた。
「御許……今唱えたるその咒、果たしてどこで覚えしか」
「やだなあこんなのたまたまです。わたしの普段の職業柄ね」
言下になおかつ早口に、左様の返事をする女。
すると彼女の体がにわかに、強い妖気を醸しだす。すかさず、背負った長鞄よりかの三味線が飛び出してくる。それは主の指に触れるや、ぎらり煌めき変化を始めた。
いかなる沙汰か、もう知れぬ。どうぞ勝手に振舞い給え。
「開け、零式霊弩」
雨傘ほどくに似たる速さで、三味はみるみる組み換わりゆく。「――雫与絃!」
それは擬神器の名であった。真の姿を現せし、その弩の名であったのだ。黒光りする機巧の、貫禄たるや竜頭のごとし。
「ちなみにわたしはこういう者で」
彼女の懐から出た手帳は、くるりと舞って我が手に収まる。しかし吾人の見る間も無くして、瞬発的なる妖気の波が爆然として五感を打った。
否、まさしく“射った”のである。
ぱあん、と炸裂音一つ。光の弾に当たった小鬼がたちまち血煙と化して散った。
何者ならんと手中を見るに、情報はこの上なく端的だ。
見覚えある裏表紙には、『職員証 PIRO東北支局捜査員 弦巻美苑』の文字が。
莉央は「やはり」とだけ云った。
※引用文中に「汙池」との表記がありますが、本来「汙」の音読みは「オ」です。白翁本人が「汗」の字と混同したことによる誤記と考えられています。




