第三話 『初太刀』
前回までのあらすじ:
トカゲの怪け物に襲われて危機一髪の衛介・千歳。敵の爪が彼らの喉を裂くかと思われた矢先、闖入したのは物々しいワゴン車、およびそこから降りた武装者であった。謎の男は怪物を駆除せんと戦闘を開始する。
しかし惜しくも男は敗北。いっぽう衛介らを車に乗せた運転手は、最終手段として二人に武器と使命を与える。
「生きて帰りたければ闘え」と。
果たして窮鼠は猫を噛むか。
一
諸兄に問う――
己の血を吐いたことはあるか。
また諸兄に問う――それを味わう余裕はあったか。
因みに俺はこの日、中華料理屋の暖簾何軒分染めうるやら見当もつかぬほどぶっ吐いた。
因みに血の味なんど、一寸刻でも早く忘れてしまいたい。
血は鉄の味、と人は云う。しからば、嘘をつけと一笑しよう。
「ぃいッ……い゛や! や……あめでぐれよオ! おわ、俺が何したってンだ……ア……痛ッ」
被食動物はこの闇中に、とんでもなく悲痛な慟哭を奏でる。
「あああっ、化け物おッ、くそ、このクソ化け物っ! どうせ殺んならアタシから殺ったらいいだろォ!?」
少女の腹からは、地を這うような憤声が弾ける。
しかし、いずれも鱗虫の耳に肯んじられることはなく、被食者たる俺は彼岸に居を移す用意を整える羽目となっていた。
疑うべくもなく、無茶の度は過ぎていたのだ。
いくらこの奇刀に戦意を煽られ、天敵を目前にしたからとはいえ、やはり真っ向挑みかかるなど至愚千万であった。
――たった三〇秒前のことである。
我らが駐車場へ躍り出て“元彼君”に抗意の目を投げかけると、彼は無表情のままに跳ね上がり、薄暗みのもとにその身を紛らわし始めた。
そして以後は音でわかる。むしろ他ではわかるまい。
壁・天井をも駆けめぐる栗鼠のごとき所作が、気色の悪い跫音を縦横無尽に聞かしめているのである。
また本能的にか、俺は頸部に忙しい追尾を命じていた。
……しかし丸っきり、追いつきもせぬ。何せ、我が眼球が音を追えども、敵は常にそれを二〇度以上先んじていたのだから。
これでは埒も明くまい。
然らば思わくは、いったん敵を引きつくべく挑発を試みんと。
この空間にはフロントライト以外の灯りは無いはずだったけれども、二人の武器から放たれる青白い陽炎が足元を照らしているお陰で動き回るに不自由は感じない。
加え、鞘を払うと光は一層強くなった。
その刀身の爛々たるや交通整備に見る赤色誘導棒をも遥かに凌駕し、手元の心配を杞憂と為す。
「衛介……く、来るよッ」千歳が刃を中段に構える。その調子に迷いは無い。
すると光に反応してか、敵は遂に此方へ攻め寄ってきたのだ。
瞬く暇あらず。選りにも選って先に俺側を攻めて来るとは、承知の上とておぞましや。
元々間合いも乏しい上、猛迅な速さで埋まりゆく間合い。いざや、決戦の幕開けである。
幻妖の爬虫類が凶器そのものたる鋭爪で空を斬らんとした――その直ぐ先には我が首が控えている。
これが想像以上に素早い。果たして避わせたものか、然らずんば如何。
「チィっ」
驚きおののき我武者羅に、打ち奮わるるは我が刀。
するとどうか。力に任せ爪を下ろした相手の腕先が忽然と消え、足元に何か落ちる音が聞こえたのである。
斬ったのだ――例えまぐれにも、己の一振りが見事敵の手首を切断していたのだ。したり、と俄に気が緩む。
ところが俺も凡人素人にして、詰めも用心も甘いこと甘いこと。
直後怒り狂った敵は怪声を上げ、ちょぎれた右腕で此方の面を打ん殴る。翻せ、と肉体が指令を受くるは遅きに失した。
激烈な腕力が頬を捉え我が頭蓋は一撃の下に震撼し、脳味噌を鍋底の豆腐たるがごとく踊らす。
陳腐ながら只の一言に尽きよう――痛し、と。
こんな馬鹿な。こうまで激痛なるものか、躊躇なく顔を殴られるということは。
揺らぐ、揺らぐ。視界が揺らぐ。
これしきでさえ、既に心は三途に裾を浸すほどであった。
「ンぅぐっ……ハ…………ぐオォ……ド畜生めが」
ところが幸いにも、不思議と地に倒れ伏すことはなかった。
己でも信じ難い話であるが、どうやら武器から流れ入ってくる謎のエネルギーが体にとんでもない活力を与えているらしい。
但し今は隙だらけだ。これが命取りなるか。……南無三、またもや窮地なり。
蜥蜴の跳び退くこと数メートル、そして、そのまま壁を蹴る。
すなわちその距を以て必殺の礫と為す。
――暗夜、空を一直線。これ俯仰の間というべし。
我が土手腹へと迫るそれは、体長七尺の獣がくりだす「跳び蹴り」に他ならなかった。
二
――斯くして現状に至るのである。
腸が潰れてはいまいか。臓が破れてはいまいか。
妖力だの、擬神器だの、そんなものは屁の役にも立たぬ。わけのわからん物は終始わけもわからず終わるのだ。
湧き上がるエネルギーが、活力が体を動かす、と? 浅はかな。
痛くては怯むだろう。悶えるだろう。無理だろう。
水月に突撃を見舞われた俺は、たいそう格好悪く呻くとともに、滝涙を流し命を乞うた。
「はああ゛! 嫌だ、頼むッ、頼むうッ!!」
「衛介ぇっ!」
まさに断末魔の上がらんとする、その時であった。
豈図らんや暗闇に、どこからともなく蒼翠色の光弾が煌めいたのである。
走馬灯か。――否々、然らず。
ならば一体これ何ぞ。俺はさっぱりわからない。
怪しげな輝きを放つそれは、ひいふつと音立てて「矢」のごとく壁に刺さったかと思うと、今度はひとだまのように舞いつつ鱗虫の懐に割って入る。
――しかしてあろうことか、俄かにその場をひっくり返す業を演ずることとなる。
炸裂したのだ。
空が歪まんばかりの妖気を撒いて爆ぜたのである。
「……ッ!? くは、何だァ今のは」
「まだなんか居んの……? うそ、二匹め!?」千歳の言葉は最たる悪境を見据えたものであった。
ところが次瞬、この予測が如何に的外れであるかを我々は悟る。但し良い意味で、だ。
なるほど俺は長らえた。俄かにも状況は好転していたのである。
まさに吾人を屠らんとしていた怪物は、只今の衝撃の吹き飛ばすところとなり、近かりしセダンのボンネットに肩甲を打ち付けていた。
また、これにより俺は三途の岸に再び指を掛けた次第になる。
得難き大恩。ともあれ一つ命拾いか。
「衛介っ、衛介! ねえッ、生きてる!? 生きてる!?」
「ぬゥ。どこのどいつが武蔵坊っ……や、立ったままくたばる奴があるか」俺は前頭に物凄い瘤を作ったままに、無理な笑みを作った。
「ンで……いずれ様のお助けか心得んが、こりゃチャンスかもしれんぜ……?」
みぞおちは痛むが、今立たねば後は無い。斯くも全き勝機、これを逃せば二度とあるまじ。
伸るか反るかに追い込まれた我が戦意はいよいよ骨頂に達し、それに呼応するがごとく刀筋の放てるは真っ赤なる閃光。先程とは比するまでもなき、爛々たる紅蓮の輝きである。
怪しの力で煮えくり返り、焦熱にひしゃぐ空間が滑稽ならぬ冗談を思わす。
これぞ我がおののきの怒りに転じた瞬間であった。
「あんた、武器がすんごい感じに……!」
「おうよ……、妙ちきりんな爆発でイイ刺激を貰ったみてえだ」そして安堵の面持ちの千歳を正面に見据え、俺は云う。
「――さあ住吉、シッペ返しの準備はできたかッ!」
「あは……さっきまで情けなかったかと思ったら、やたら勇ましいね」
ホウと深めに息をつき、娘は屹度して曰く「いいじゃん、男子はそうこなくちゃ!」と。
云ってくれるではないか。しかしそれもまた良きかな。
今に敵は体を起こし、桂馬跳びにて迫りくる。
さあ、いざ給え。げに恐ろしき我が恨み、死を以て晴らさしめよ。
俺はこれを討つべく、滾らんばかりの妖気を斬り放とうと無手勝流の諸手構えをとった。
剣の腕に覚えは無い。但し、狩は必ずしも武者道に同じからずと見つけたり。
歯を食い縛り、捻じれんばかりに柄を握り、不倶戴天の意を込める。
赦すまじ赦すまじ、何が何でも生かすまじ、と。
そして遂に我が擬神器はその刃筋より火炎を思わす熱波を放ち、踊りかかる獲物の硬鱗を黒く焦がしたのだ。
じゅあッ、という快音と香ばしい空気が肌に触れた。
「今だ住吉っ、ぶっ殺せ!」
さてまた反撃いまだ止め処無し。
さらに、敵の後ろには長き刃が半月のごとき弧を描く。
ひいては一秒たりとも置かず、冷たく青黒きその月輪が鱗虫目掛けて襲い掛かった。
回り込んだ千歳が長巻で以て追撃を見舞ったのである。その刃部から相手の肉に妖気が切り込まれたようで、敵がすこぶるよろめいた。
「わかんないけど、今ので向こうも相当弱ってる!」
「あの距離駈けて来た挙句、尾ッポに手首もモゲてんじゃあ当たり前だいな」
「いける、コレいけるッて……! 後は何かしら止めを刺せさえすれば、きっとどうにか……」
「普通、首でも落としゃそれで終わりなんだろう。それでも死なねってんなら本格的にお手上げだわい。
ようはどうやってその隙を作るか、だ」
今とて相手は相当深手を負って倒れかけた筈だが、意外なまでに立ち直りが早くて厄介だ。
ここに欲するは決定打それのみ。
「そ、そっか! ンならあたしがコレで壁――……って、来たァァ危ッぶい!」何と。
「ゥおッ?!」体のどこにそんな力が残っていたというのか、あの深手からは考えられぬまでに猛烈なる突進。
真面に喰らえば一溜まりも無かろう。
二人共々間一髪、飛び退きこれを何とか避わす。
今更気付いたことであるが刀を握って以降、心成しか反射神経なども常より機敏になっているらしかった。
「おっかねェったらないッ、次も避けられっかはわからんぞ」
怪物はその勢い余し、コンクリート壁に激突。そしてこれに罅が入り、鱗虫の金切り声が鼓膜を劈く。
続け間髪入れず、千歳はこう叫んだ。
「あたしが武器で壁にッ、壁に串刺して封じるからッ! したら頭を!!」
「……!」
なるほど実に機転の利く転婆娘である。否、始めからこの心算であったのか。
何れにせよ失敗は許されぬ。
これぞ真に、最後の勝機と見たり。
女が力強く地を蹴る。翔るように、飛ぶように。
「本当でさよなら、元・彼・君!」
そう吐き捨てると彼女は時を移さず、壁際にのめった獣に対し背から一思いに薙刀を打ち込んだのだ。
こだませるは不快な慟哭。黒光が滲み、生温い血汐が返り散る。
そして刃は見事なまでに、肉と壁をもろとも穿ち貫いた。
「斬 っ て ッ」
掛かった、高らかなる号令が。ここに以て我々の勝利とす。
主が血戯えの甚だしきに鼻息を荒らげる一方、朱に輝く刀はその本職を為し遂ぐべく、介錯の執行命令を直に待つ。
いつしか聞いた話で、日本刀というのは斜め四十五度に振り降ろすが最も斬りやすいものという。
今宵こそがそれを実験するにうってつけの、そして自今二度と無かろう機会、などと思ったものであった。
否、寧ろ無きに越したことなど金輪際あったものか。
重ねて記す。我々は勝ったのである。




