第四五話 『刃には刃を』
前回までのあらすじ:
荒覇吐を討伐せんとして、太刀もなく駆け出した衛介。その矢先、闇に紛れて襲ってきたのは髪切なる妖怪だった。
秋田で一度まみえたことからその手強さはよく知れており、徒手空拳では戦えまいと、彼は逃走を開始する。
全速逃走劇の果てに卜部姉妹と合流し、どうにか愛刀・紅世景宗をその手に戻した衛介。三度まみえたこの宿敵といざ決着を着けるべく、横浜駅の屋上において対峙するのであった。
さあ、決闘の行方やいかに。
化物の、正体見たり枯尾花。
誰の句だかはもう忘れたが、何と云い得て妙な言葉か。蓋し妖怪は、その得体を知れずしてこそ妖しいのである。
考えてもみるに、妖怪などという分類学上のくくりは元より存在せぬ。不可解なる場所から現れて、不可思議なる力を使い、何処へともなく消えてゆく、云わばまさしく神出鬼没。
――斯かる怪しき存在を、人が妖怪と称してきたのだ。
もしくはこれが好みでなくば、モンスターとでもUMAとでも好きに呼ぶと良かろう。
訳の分からなさがすなわち畏れを生む。大切なのはここなのであり、厳密なる本質など無い。かの者どもとて生き物である。然るべき手だてを都合できれば、御しうる相手と云えるであろう。
目下、手だては我が剣にあり。敵の得体も詳かに知る。今やこやつを斬り伏せるのに、悪条件は無いはずだった。
しかるにこの現状がある。
靉靆たる曇天のもと、花と排気と潮の匂いが、風下に交じる横浜の宵。決闘はまさにその一挙動めを待ち、静かに膠着していた。
髪切の瞳は瞬きもせず、我が構えの像を結んでいる。
その漠然かつ鋭利な視線は、武道に云う遠山の目付なるものであろう。獣を逸した眼差しにして、隈なき集中力である。
これは呼吸の読み合いであった。
浅きに失せしめてはならぬ。深きに失せしめてもならぬ。しかし、なおさら止めてはならぬ。こちらが居着いたらば最後、きっと鋏は飛び込んでくる。
敵の出端をくじかんがため、見極むべきはただ一瞬だ。奴の挙動の“起こり”の刹那……ここに乗ずるほかは無し。
聞きかじった術理である。何ら誇ることではなくして、幾度も云うのは憚られるが、吾人は剣客などではない。むろん左様の素養も無ければ、この身はこれを心得ず。
口惜しきかな。たかが頭で解した程度で、体得せらるる武がどこにあろう?
豈図らんや、斯くのごときを獣相手に考える日が来ようとは。
唄声めいた卜部姉妹の、呪の詞がたゆたっている。
地に打たれしは金剛の杭。ここを以てこの戦場を、外界と分かつ端境と為す。形而上学的なる障壁、それぞすなわち結界である。
人間相手としても気休めにはなりうる術だ。もののしばらくでこそあれ、警官らを遠ざけておけよう。
尤も、それで足るのであった。長くかかる用事はあるまい。今に戦は動へ転じて、ただいずれかの倒るるのみだ。
今か、今か、さあ今か。
汝が痺れはさぞ切れたらん。吾の痺れも切れにけり。いざたまえ、誘いの一つも掛かば乗れ。
――と、正に思ったその時であった。望み通りに戦は動いた。ただし不利なる戦局として。
おどろかされしは聴覚である。
耳朶の微動はいたずらにして、目玉は一瞬下を向く。片や獣が嘴の付け根を、わずかに上げて不埒に笑んだ。止水の心地は石を投げられ、不覚という名の波紋に乱る。
それは常日頃も聞く響き、携帯電話の着信音。
ぴりり奏でるその呼鈴や、斯くも恨めしかるべきか。
南無三! ――もっぱら俺は、そう黙唱した。
裕也よりいつ連絡が入るやも知れず、また、これに気付かぬようではいけない。先程そんな思慮にかられて、マナー・モードを解いていたのだ。
己の利口が裏目に出たり。
胆の芯から動転すれば、髪膚は脂汗をみなぎらす。瞬時における心の乱れが、立居の全てを虚に変えていた。
とうに敵影、剣先に無し。
「ぎっ、アアアァ……」
その様まさしく向かい風に似て、こちらの首根へ突撃している。我が血が車軸を流すにさえも、認知は遅れを取っていた。
またも命は間一髪。硝子の掻かるるごとき音が、鋏と刀のはざまに鳴った。ただ反射的なその凌ぎには、斬り返すまでの目論見だに無い。何一つとして、間に合っておらぬ。
敵の刃は両手にあるから、そもそも片刃を防ぎしも愚か。鎖骨の端から背中にかけては、右手羽の爪に貫かれていた。
獣はたいそう嬉しげに、ケケケと鳴いてこれを引き抜く。赤の飛沫が滔々として、まさに血で血を洗わしめている。
その景色は塁々たる負け筋の山である。
更には、
「……え、衛介ッ! 痴れ者、痴れ者、しっかりせえ!」
「なりませぬ姉様、結界術に集中を!」と。
我が情けなきを水際立たすか、卜部氏らの悲鳴までもがこれを彩っていた。
勝ちに不思議の勝ちありと云い、負けに不思議の負けなしと云う。俺はここへ至って初めて、なるほど至言なりとぞ思う。
ただし例によって願わく、供養はこれを早まるなかれと。
今さら何ぞ潔からん。目指す前途は半ばも半ば、何すれぞ、以て冥すべけん。
「ハァ……ハァ……ばけもんめ、勝ったと思っていやがるか」
憤気とともに力がたぎり、かがやき燃ゆる擬神器の刃は、紅蓮をことさら著しくした。
そして鍔から光炎が立ち、弾けるような熱をばらまく。「――なんのこれしき、討ちてし止まんッ」
音は焔にともなって、痛快無比にじゅっと鳴る。
我が血にしとど塗れし敵の、羽毛をたちまち焦がしつくした。ひどい臭いを発しつつ、さしもの魔縁も稚児さながらに、転げまわってわめいて居った。
爆発すること花火のごとし。それに乗じて後ろへ引っ飛び、数メートルの距離を取る。すかさず一気に跳躍すると、俺は宙にて下段に構えた。
予てより、練りに練ったる「秘技」がある。
そのひらめきは甲府において、八咫鴉を討ちたおす折り……偶発せし現象だった。これを独自に研究し、編み出したのがこの術である。
今ぞ披露目と致すべき。とくと見よ、我が必殺技を。
ものの道理も知らぬ物ノ化、焼鳥にして進ぜよう。
「オンっ! サンネイ・サンネイ・キレイギャレイ、ソワカ……!」
身にみなぎった火の妖力を、腕の先よりしこたま放つ。火気は得物の刃を伝い、熱線として撃ち出されるのだ。「くたばれ、急々如律令ッ」
――光の帯が敵影を穿ち、草木もろとも巻き上げた。
轟音をまとう火柱は、たちまちボガッと燃えさかる。焦熱地獄に絶叫しつつ、髪切の逃げ惑うが見ゆ。
これを追撃せんがため、地に降りるなりもう一発。着弾地点が炸裂し、遊歩道ごと吹き飛んだ。
「しゃらくせえや」
奴も満身創痍であろう。次手にて引導渡さばやとて、今度は太刀を脇に構える。敵の背後に瞬発すべく、深く呼吸し身を沈める。
そこを甲高く呼び止めたのは、卜部の姉君、凜氏であった。
「衛介、もはや潮時ぞ! 如何に結界ありといえども、こうなっては人払いが保たぬ」
「――何ですと?」
「そりゃそうですよ衛介さん。さすがに目立ちすぎてますしね、誰をか遠ざけられましょう」
「火消し来たれば警官も来る。我らは放火魔としてお縄じゃ!」
「んんんッ……こりゃあ、したり」
げに衝撃の事実なり。吾人は少々図に乗りすぎたか。
なけなしの思慮より出でし天秤が、いま脳裡にある。なるほど、この狩りの損ずまじきは、公共への全然たる無神経を免ずるには足らぬ。さいわい深くは考えずとも、こう判ずる心はあった。
俺は胸を撫で下ろす。
あやうく戦意が過熱して、我を忘るるところであった。何を以てかものの道理ぞ。敵と何ちも何ちにこそあれ。
沸くような鼻息を吹いて、俺は刀を構え直した。
「この期に及んでまだやる気かえ?」
「……やらいでか。卜部さんらはお逃げ下され。もっとも、火は放たんようします」
「左様な問題ではなかろうっ。ぬしはもっと上手くやると踏んでおったに、この様相は何なんじゃ!」
「いかにも危険です。だから、とっととお逃げ下され」
「妾は潮時とぞ言っておる。しからば、ぬしも退けかし」
「そいつは出来ねえ相談にござる。俺はこの火事をどうにかし次第、何てったって髪切を討たにゃ」
「いッ、命も惜しまざるかや痴れ者!」
氏は、行かせじと我が腕を掴んだ。刀を抜いた男に掴みかかるとは何と肝の据わった拝み屋か。
いわけなき駄々のこね合いである。
「やい出合え、天狗の風麻呂っ。てめえの主人を安全なとこにお連れしろ」
「つまらぬ意地を張るでない!」
「ちきしょう、やってられん。こんな茶番の間ッつっても――」
戦の幕は、上がったままだ。
火影の奥から殺気が迫る。確と姿を捉える間も無く、仇なる刃は跳び出してきた。
「危ぇ!」と言葉にならず吠えつつ、卜部氏もろとも身を放り出す。その華奢な躯に覆い被さり、我が背の肉で敵刃を受く。
「は……え……衛介ぇ? おぬし!」
「づッ、次ゃそっちだぞ、莉央ちゃんよォい!」
莉央は落ち着き払ってうなずき、式神の名を鋭く呼んだ。時同じくしてかの凶刃が、身を翻して彼女に迫る。
「――タカマっ」
声が速いか、鋏が速いか。
びうん、と大蛇が尾をうち振るい、跳んできた影を弾き返した。ところがその起き上がるを見れば、もはや鳥目を血走らせ、怒りの限りに燃えている。武の眼差しや今いずこ、興奮しきった獣の殺気がめらめらとして立ちのぼる。
やはり妖怪髪切め、これ隙と見て、一矢報いにかかってきたか。形勢立て直さんとの余力は、まだ辛うじてあったらしい。
「どだい、夫婦漫才やってる暇なんてございませんからねえ」
莉央は高らかにそう云った。
返す言葉もあらばこそ、我が生兵法をば悔やむ。一か八かの戦はすまじ。どうにか敵の刃を凌ぎつ、卜部姉妹を退かせねば。さすれば一騎打ちを期せよう。
姉君の揚がった息は、焦げた空気にぜえぜえと喘いでいた。あんまりにも時間が惜しい。面目次第は捨てる所存で、俺は低頭して頼みこむ。
「すまん莉央ちゃん、君の姉ちゃん連れてっとくれッ……」
「ものには、順序がございますのに?」
「こんなのに巻き込んで悪りいとは、本気で思ってるとも! だからなおさら云ってんだ、すたこら逃げてくれってな」
ところがここにて莉央はといえば、芝居がかった苦笑を以てこちらによこしたではないか。
腰に手をあて肘を張り、得意気にして屹立している。その傍らにはキトラとタカマ、玄武に擬する式神たちがどっしりとして控えて居った。
改めてこれを眺めるに、百人力の頼もしきを知る。
己一人でことを為さんとするのは傲慢至極であったか。俺はまた一つ、ものを学んだ。
一言「頼む」とだけ吐くと、刀を屹度構え直す。ぎろり睨んだ気配の奥から突如、敵刃が迫り来た。ぐっと踏み込みこれを凌げば、白刃がこすれてぎりりぃと鳴る。「よろしく頼む!」と追言すると、莉央は神妙にうべなった。
――しこうして、高く響ける号令の声。
「この式神らにお任せをっ。さあさ急々如律令、良きに計らえお前たち!」と。
彼らの唸りがこれに答える。
弛緩していたタカマはすぐさま、大縄のごときその身を巻いた。またたく間にはキトラの甲に、整然たる渦を作っていた。
そして矢庭に妖気を醸すと、突発してこの渦を解く。そこには新たな“渦”が生まれる。この光景に一体誰が、仰天せずに居られよう。
何を隠そうこれはさながら、巨大な貝独楽ではないか。
竜巻起こらんばかりに回り、地のすれすれをかっ飛んでゆく。飄をその甲羅に帯びて、焼け木を薙ぎ倒したかと思えば、にわかに高度を弾ませる。
もしもし亀よ、何のつもりか。
キトラはぎゅんと昇るがはやいか、柵の向こうに突っ込んだ。
激しく響く破裂の音と、放流せらるる波涛のとどろき。厳の亀は丸鋸よろしく、屋上貯水槽を打ち壊したのだ。
そこより吹き零れしものが、不思議の力でキトラにまとわる。しかして亀は舞い上がり、撒水しつつ辺りを巡った。
火災はみるみるうちに衰え、鎮火の次第は捗が行ったり。
「姉様、私たちは退きましょね。あとは衛介さんの戦でありますれば」
「気でもふれたか、妹よ! あやつを置いて、いずこにゆける」
「何の。この玄武の能が、火消しのみだとでも?」
「い、いや……むう」
已む無しとて口元を歪めつつ、姉君は風麻呂を召した。煙の中から天狗が出ると、姉妹を両の脚にかかえて颯と夜空に飛び立った。
事がこの期に及んでしまえば、その撤退は好都合である。
「……ありがとよ、あァありがとよ、莉央ちゃんよ」
焦げた煙の向こうへと烏天狗が消えるのを、ちらと見送りつつ切り結ぶ。「したらばこちとらこの先は、毫の気兼ねも要らねえんだい。なア、鶏野郎!」
空をも切り裂く我が熱剣を、ごく真っ直ぐに降りおろす。全体重と全霊は、余すことなく威力に転じてその獰猛を奮いに奮った。
踊る刀はひょうと鳴き、かち合う音が合いの手となる。
敵の双爪を鍔で受くとも、ひらり見交わし肉薄すれども、すわ斬らるるか否討ち取るか、三途の渡しと舟戦である。
気が付けば、消防車の号笛は近くにまで迫っていた。
すでに脱出の機は逸してしまったろうか。吾人の履歴書にも大傷の生ずる折がやってきてしまったであろうか。たとい戦を制したとても、逃ぐる手立てはこれを弁ぜず。
もはや悔ゆまい、今は勝つのみ。
赤く焼けたる刀が掠めて、敵の片刃を打ち欠いた。ピギッと髪切は啼いたけれども、いま攻めずして勝ち筋は無し。引き付け足の勢いを、据え置くままに蹴り上げた。円匙によく似たその嘴を、下顎から破砕したのである。
「――今度っこそ、ぶった斬ってゃらッ!」
俺は高々と殺意を振り上げた。我が怒髪のそうするより早く、剣は天を突いていた。
妙な、妖気の感を覚える。追い込まれたこの妖怪が、小便よろしく漏らしているのか。あるいはもっと遠くで何かが、怪波を発しているのであろうか。ところが弥増す武者震いにより、こうした疑念は振り捨てられた。
髪切の喉が甲声をしぼり出す。どこか鏑矢のごときかな。それは鋭利に響き渡ったが、はいやいいえの返事も無い。獣は下品に舌を垂らして、その場でくずおれてしまった。嫌にぎらぎらした目玉だけが、こちらを睨みつけている。
……畜類が脳裡にも、諦念にあたるものが存したとは。
ならばよろしい。吾人も鬼ではないのであるから、一思いにて楽にしてやる。
首をめがけた一太刀だった。
袈裟懸けに、これをすとんと振り下ろす。勢い余った刃先は軽く地を穿った。敵の上体が平たく倒れる。まだその眼は光っているのに、呆気も無き最期であったか。
まだその首さえ、繋がっている。あたかも死せじ勇むがごとし。嫌にぎらぎらしたその視線は、あたかも、生きているがごとし。
「首が……あ?」
負けに不思議の負け無しと知れ。悟りし時には遅きに失せり。
俺は吹き飛ばされていた。
何かぼうっと輝くものが、吾人を撃って炸裂したのだ。
恐らくあれは鬼火であろう。
愛刀景宗の襲いかかる刹那、敵は瞬時に五体を投地、我が介錯を見かわした。その背後から飛んできたのである。――敵方の援護射撃など、一体全体、何者が?
端の金網をも倒し、我が身はまさに転げ落ちんとしていた。
忘るまじきこととして、ここは巨大な駅舎の屋上である。落下をすれば命はまず無い。もはや考えるでもなく、俺は擬神器を突き刺した。
「ぎゃあ……! あが……ア、ア!」
縁である。これぞまさしく屋上の、崖っぷちというところである。
ゆめゆめ下を見てはならぬ。ただひたすらに、恐ろしい。せめて小便くらい死んでから漏らしたく願うのだ。上を見よ、濃紺の空には陰雲が巻いている。一雨来そうで美しからん。何とも泣けてくるではないか。
ところがすかさず視界に跳びこむ、憎き敵たるその姿。
だんッと縁まで迫ってくるや、鋏をちょきちょきさせている。そしてまじまじ、我が手首を見た。縁と吾人を唯一繋ぐ、刀を握った右手首である。
これを切り落とさるれば最後、とうとう真っ逆さまとなる。
もう知らぬ。その気とあらば早く切れ。このうえ焦らすは、いかにもくどい。
鋏の先が肌に触れた。ああ我が腕よ、いざさらば。
しかしこの音は何であろう。濤々として水が轟き、巨大なものが迫り来ている。闇夜に舞うその円盤は、宇宙人らの襲来か。いまわの際に至るまで、驚きづくめの顛末か。まことに、勘弁してたもれ。
それは猛然と現れた。
さきごろ鎮火を終えて間も無き莉央の式神、キトラであった。
何とおののくべきことか。亀は回転鋸めいて煙を掻き分け飛ぶままに、我らに突っ込んできたのだ。
隕石のごとき衝撃である。
土と瓦礫と髪切もろとも、俺は夜空に放り出された。瞬刻と待たず落下が始まる。命運ここに尽きにけり。
もっともあのまま何も無く、手首を切りおとされていたとて――物故の結果は変わるまい。
キトラが何を期したかは知れぬ。所詮は獣の為せること。高等なる意義など無かろう。が、刀を握って死ねるのならば、兵の誉まれというべきである。
されど悔しきことではあった。千歳や飛鳥や桧取沢さんも、いま戦っているであろうか。これに助太刀せんとの心は、なお道半ばにして絶たる。身の程知らずの武勇を胸に、仇ともども果つるなり。
「――キトラ……あやつめ、器用でないな」
我が耳元にて鳥がささやく。この期に及んで新手が来たか。もはや吾人は助からないのに、今さら何をか追い撃ちとせん。
返事をしてやる気も起こらない。
「衛介、落ち着け。我をよく見よ」何ぞ、この名を知ったるか。
「……やっ、おめえは!」
俺はふと見てすわと嘆じた。それもそのはず隣にて、共に落ちるは髪切ならず、天狗の風麻呂ではないか。かの髪切は絶叫しながら奈落の底にまっしぐら。天狗が上から降るように、その高下駄で蹴墜としたのだ。
「おいこら、卜部さんたちゃご無事か」
「云えば更なり。その我が主の令にて参りぬ」
ごく冷静に答える天狗。「高砂衛介の赴援にゆけ、とぞ」
善きかな、善きかな、叶ったるかな。しからばそれで重畳である。おのずと頬がほころぶ心地で、俺は大きく一息ついた。なおも体は落ちゆくに。
すると風麻呂は迷いなく、下駄を脱ぎ捨ててのけた。その趾をくわっと開き、我が両肩を鷲掴みと為す。
「きんじを助くる義理なぞ無いが、死なせてしまえば大目玉! 我は已む無くこう致すのみ、勘違いだけはしてくれたもうな」
「恩に着たって着足りねえ! お天狗様よう、俺ゃ感激だ!」
「舌を噛みたくあらずば黙れッ」
星の重力と風圧を、斯くも感じたことは無かった。
耳の聴こえが遠くなりゆく。急降下したる天狗の疾きは、爆撃機も斯くやとばかり。
眼下に駅の歩廊が広がる。改めて見ると大きなものだ。さすがは、天下の横浜駅だ。
折しも列車が停まって居った。天狗は吾人を掴んだままに、その歩廊へと滑り入る。突如の異形の舞い込みに、他の乗客らは騒然である。
ぽろんぽろんと愉快に流るる、音楽の実に小気味良きこと。
何やら声も聴こえていた。
声曰く『一〇番線、ドアが閉まります。ご注意下さい』と。
「きんじを、あそこに放ってくれよう。怪我の多少は悪しからず」
しれ、と天狗はそう云った。
「おい待て、やっぱし殺す気なのか」
「かの“お二人”がお待ちなのだ」
俺は驚き、眼を見開いた。
「衛介、いそげ。はよう乗れえ」
卜部姉妹が俺を呼ぶ。あの電車の戸際からである。逃げて帰ったはずではないのか。いやはやしかしこんな所で、取り残されるわけにもいかぬ。
「ままよ、放れッ。死んだら死んだで叱られちまえ!」
これをば盲滅法という。叫ぶが早いか我が身は飛んだ。文字の通りに、投げられたのだ。転がり込んだその車内には、すこぶる鈍い音が立つ。
いま折れたのは、どの骨か。




