第四三話 『不退転』
前回までのあらすじ:
ただでさえ不安定な情勢下、黒又山の一件が知れて面目まるつぶれの衛介。彼は自身の立場もさることながら、同僚たちが皆少しずつ良からぬことを隠している現状に気づく。そして、これを機に晴らしていかねば職場に未来はないと思い立つのであった。
さて、手はじめに飛鳥や“ラプ太”からの話を聞くため、地下室へと向かう衛介・千歳コンビ。しかし折しも藪から棒に、そこでは予期せぬトラブルが……。
一
百舌のごとくけたたましく且つ、虎豹のごとく猛々し。鬼哭の響くよりも奇しく、耳をつんざくばかりに鋭し。
我々は獣が屡鳴くのを聴いた。
蓋しこの声の背後に知性なぞ毛ほども無い。まさしく野性のそれである。抑圧されし本能が、喉笛という堰を切り、狂えるままに野へと駆け出す。
こうした心象は、吾人をして大いに身震いせしめた。
檻の中で荒くれる小さな竜。
東海林飛鳥のこよなくかしずく、野守虫なる妖怪だ。こやつの名をば“ラプ太”と付けしもまた彼女であった。
飛鳥は俺に馬乗りのまま、あれよあれよと動転している。何の真似だと問うたけれども、知らぬ分からぬ判断ならぬと、実に甲斐無き三拍子。
仰臥の視点は地べたに同じ。目線を若干上にずらせば、ホットパンツの底からは見事な柱が伸びている。二本、まっすぐそびえている。千歳は何やら癪らしく、その小鼻を膨らませて居った。
一体この俺にどうせよというのか。今や何者ぞ吾輩を難ずべけん。
遠吠えは鉄格子に響き、耳に酸っぱい楽器と化す。蝸牛の奥まで苛む音色だ。むこう幾日夢に出るやら、わかったものではない。
我がこめかみには青筋が立つ。瞋恚の毒が血を上らしめ、俺は目当てをとうとう忘れた。
もはや我慢がならぬと云って、首の後ろの床に腕押し。体のばねで跳ねて起きれば、表六玉の小娘は、鞠も斯くやとばかりに吹っとぶ。何のこれしき、案ずまじ。飛鳥は驚声こそ上ぐれども、即座にくるりんぱと着地した。
「危なっ。何すんのもお」
喝と文句の発せられしも、その迫力はさほどでない。――これは相対的意味である。
見えだにしない天蓋に、吠える蜥蜴を俺は睨んだ。
「…………あっ、駄目ぇ! エースケくん!」
遅きに失したその制止。
苛立ちは右腕に委ねられて、手元の機械がひっぱたかれて――――人の耳には届かぬ音が、地下室中に鳴り響く。
無論俺にも聴こえはしない。それゆえむしろ静かとなった。引きも切らずな遠吠えも、幸いにして止んだのだ。
超音波発振器。これは動物の無駄吠えを制せんが為のもので、鹿ヶ谷支局長によりあらかじめ用意されていた品であった。
ぎィ、ぎぎぎィ。
悔しげなる声に合わせて、蜥蜴は床を引っ掻いている。力任せの矢鱈なあまり、三日月にも似たその鍵爪は、ぱきりと欠けて宙にとぶ。そして虚しく弧を描き、我が足元に転がった。
これを摘み上げて曰く、
「てめえはやっぱ猛獣かいッ。この頃ちとばかしお利口になったかと思いきゃ、今度はてんで喋れもせんとは」と。
これはひとえに直情である。案にたがわず、難ぜられよう。悪徳とこそ云わるまじくも、あまりに理性的ではなきゆえ。
「と……止めてエースケくん……。ラプ太、すごい苦しがってる」
その様まさに一生懸命。飛鳥は我が手首を引っ張っている。「お願いだからッ」
吾人はお人よしである。飼主からの苦情に堪えず、咄々として従った。
わずかながらも安堵をしてか、彼女は赤く腫らしたその目をつむった。
片や野守虫の眼をいえば、何の念にか燃えている。さしずめ飢えか喉の渇きか、はたまた人への憤怒の情か。炯々たる琥珀によく似たり。
なおも頻りな獣の息吹が、むしろこちらに気を抜かせない。先よりつづく驚悸は鼓のごとく感ぜられている。
獣の鳴けるが本能なれば、我がおののくもまた本能か。
「ぼちぼち話も聞かにゃならんと、思って降りてきたってんだがな。馬鹿らしいや。なァにが悲しくてこんなもん」
言葉尻はおのずと吐き捨てる風になった。
認めたくなきことだけれども、俺の心地は上記のとおりだ。ゆえに虚勢を張ったに過ぎぬ。あらずもがなの、虚勢に過ぎぬ。
「で、でも! ラプ太は何か伝えようとしてくれてたんだよっ。今……ちょびっとだけ落ち着かないだけなんだよ」
「うるせえ。だいたいお前なア、元はこの蜥蜴が何モンだったと思ってやがんだ」
「元がどーとか関係無いもん……!」
「けっ、無えはずなかろォ」
「エースケくんのおたんちん! わからずや!」
「こんにゃろう、抜かしやがってッ」
「……ねえってば二人とも落ち着いてよ」仲裁に乗り出す千歳。
「こッ、こちとらこんだけ落ち着いてんだぞ。東海林と蜥蜴に云っとくれよ」
「嘘ばっか。あのさあ、あたしも割とパニクってんの。あんただって冷静でいれる場合じゃないから」
「何でえその理屈は」
「はん。文句あんなら云ってみれば?」
業腹であった。まさしく、己の幼稚を見透かされた格好である。知れた互いの気心を逆手にとられた気さえして、大変に気疎い。
我々はそれ以上角を突き合わさなかったが、御免とかの句を口にする者も居はしなかった。
憮然たるまま時のみが経つ。そしてまた、徐々にその息を荒らげる妖獣。悲しきかな、丸くは収まりようがなかろう。
ここへ俄かに、電撃走る。
『臨時館内放送。全職員、至急事務室に』
と、鹿ヶ谷支局長の声だった。幸か不幸かこの沈滞は、強制終了せしめられたのだ。
しかし案ずるに、つつがなさとは無縁の兆しである。
我ら社中は皆知っていた。これの用途は十中八九、仕事運びの碌でもなきを、いと高らかに報ずることだと。斯かる多くの場合において、待つのは苛烈な尻拭いである。
先達って来、不穏という不穏はその程を計り知れぬ。
因果の流れは雲行くごとく、天理と天運に則る。死生命ありと心得べくして、あくまで安きを夢むるならば、それは沙汰の限りとなろうか。
悔いて晴らせる殺伐であれ、太刀にて断てる乱麻であれと。詮無き念を脳裡にまとい、我らは階を上がっていった。迫る波瀾の輪郭を、ちっとも思い描けずに。
二
閲すべき大局はなおも暗憺として、未だ以てこの明くるを期せず。
当面に望むらくは慎重かつ大胆に働くこと。
風の吹きまわしをよく鑑み、その赴くところを辿り、ひいては事の次第を弁ぜん。匹夫の勇では何にもならぬが、百年河清を待ったところで、先行き見ゆる目処は立つまい。
展望おぼつかなきは淀の水底を這うようであった。吉凶の風見鶏だに、いずくにか面向くや知れぬ。手探りで進めば、いつ藻草に身をからめ取られるか。はたまた何魚に、この手足を喰われるか。
とても曖昧模糊である。
それでも往かんとする者あれば、さぞ人は、土仏の水遊びとこれを笑うであろう。
笑わば笑え。蓋し、身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ。
「マジで行くんだな? 衛介」
裕也は神妙に問うた。ただしその面に諦めの色がちらついていたことは、当人にも否めまい。
加えて曰く「……別にもう止めねーよ、兄弟」と。
「臭せえことをぬかすよ。何だいお前」
「いや、フツーに。どうせ止めたってさ、オレのこと殴ってでも行くじゃん」
壁にもたれて腕を組み、彼が苦々しく笑う。
一方俺はにんまり笑う。もしもこやつが裕也でなければ、少しは悶着したかもしれぬと。そう思ったからであった。
「だはは、分かっとるじゃあねえか」
それでこそ莫逆の友。まだるっこい言葉は不要なり。
出立前に用を足さんと、俺は便所の戸を閉めた。この難局に挑むべく、煮えんばかりに括った腹だ。小便漏りやすく抗いがたし、一寸の尿意軽んずべからず。
深く腰かけ気を落ち着けて、きたるべき戦にゆっくりと心を定む。
さて、まず如何にして斯かる運びとなったか――それについてを下記に思い返す。
今から小一時間ほど前に、話はしばしさかのぼる。このとき我らの事務室は、青息吐息で満ち満ちていた。
「北陸支局から連絡あり。正体不明の妖気反応が移動中。もうじき、うちの管轄圏に入るわ」
先ほどの館内放送に続く支局長の言葉が、これであった。
対象は、新潟県南魚沼市付近を南下中。そして進路がこのままならば、間もなく群馬に突入する見込みとのこと。尋常ならざる速度といえる。
現地の部隊で追跡中だったらしいが、山間部に入られた途端撒かれてしまったそうな。
「被害……いえ、目撃情報すら今のところは無しよ。だから、有害か無害かもまだ判断しかねるわね」
招集された我々は、要領も得ずにただ聞くばかり。千歳や飛鳥、なかんずく吾人は、先刻の出来事もあり奇妙な鬼胎を抱いていた。
その一方で桧取沢さんが冷静な進言をする。
「犬が異様に吠えるですとか、鯉や鯰が暴れるとか――災の兆しはあながち迷信でもないかと」
立て板に水であった。地下室のことを喩えたであろう、それも大袈裟ならざる話だ。これをうけては支局長とて、即ち頷きこう述べる。
「この状勢ですもの、常に最悪を想定しないと」
「では……」
「こちらが三〇分後に出動したとして、対象の移動速度を考慮するなら……最短で接触可能なのは埼玉県南部ってところかしら」
その声色が安からず熱れる。令して曰く「歓奈、警戒作戦の指揮を」と。
「ただちに」
「ありがとう。急で悪いわね」
点頭する桧取沢嬢は凛として無言であった。
しこうして、緊急出動の仕度が慌ただしく進められる。各自きびきび装備を整え、緊張感が社中に逆巻く。
ただし例には漏れるもの有り。
吾人高砂衛介のみぞ、如何はせんとて途方に暮れた。
「擬神器も無しに何が出来るというのあなたはッ」これは支局長より浴びせらし物言いである。
からきし反論すべくもない。
我が得物、号して紅世景宗。現在これが手元に在らず、俺は徒手空拳なのだから。烏滸がましきかな、話にならぬ。
事務をせよとの辞令が下った。支局長も車出しのため、この場を離れるとのことだった。
「殺生な。蟄居ですかい」
「留守番よ。せいぜい反省なさい。ああいう物をね、気安く人に預けたりなんかしては駄目。自覚と責任を持つの」
「ッ…………。他は何か」
「勝手な真似はしないこと」
およそ閉口せざるべからず。
千歳や飛鳥をふと見れば、その形相は怯懦にして痩犬に似る。先の不吉に共感するに、げに無理からぬことであろう。隣の千歳はひそやかに、まアすぐ片付けるからなどと云う。
嬢は依然として無言であった。両者比するに沈黙は金、雄弁は銀と知るべし。
かくてを吾人と裕也を残し、ほかは出撃していったのだ。
さて、その後の吾人は彼を伴い、再び地下室へと向かっていた。いくら何でもあれをあのまま、さえずらせておくのは好かぬ。
思えば野守虫とは真摯に対話せんという目的を持ちながら、驚きとおののきから吠え返してしまったのである。事務など何するものぞと思い、今一度かの檻に面と向かう。
「やいっ。とかげ君よう」
案にたがう有様に、俺はいささか拍子抜けした。
そこが至って静かなのである。今や蜥蜴は鳴かずわめかず、さきほどの癇癪を空夢と紛わす。鎌状の脚爪は戛々と床を打っており、時を刻む秒針のごとくすら思われた。
「不貞ていやがるだけか、口もきかれんまでに墜ちたか。裕也、お前こいつをどう見る」
「さーな、パッと見だけだとオレには何とも。
よしラプ太……まあまあ、コレでも食って、ほら。な?」
生肉を与えんとて裕也。腕をめいっぱいに伸ばし、火ばさみの先を格子に入れる。
野守虫は意味もなくその頸をかしげたが、一瞬後には肉の端に噛みついていた。
頭を小さく振り動かせば、咥えた餌は引きちぎられる。ちぎるが早いか喉を反らせて、その一切を丸呑みにした。
そして大いに吐息をつくや、我が耳をして一驚せしむ。
「わからない」
とは、この妖怪の数時間ぶりに発せし言語であった。
「おお! こいつさっきまでは、ものも云わなんだのに」
「よしよし良い子だ。ゆーっくりで良い。さあ、ちょいちょい話してみよう」
裕也の言に促され、蜥蜴は以下のごとく続けた。
「こちらとしては……警告しなくてはならないことが、あった」
なるほど、いやしくも闇雲ではなかったか。とりもなおさず、飛鳥の主張に狂いは無かったという結果か。
本能と理性の相克。それが、こやつ自身を苛んでいるのであろう。
卜部氏は以前云っていた。知られる限り、野守虫は人語を解する類の妖怪ではないと。されどこの個体は尋常と明らかに違う。詳しくは未だ捜査不足だが、可能性的に濃厚なのは「教団」による人工繁殖という出生である。
如何なる調教を施されたかなど知る由もない。けれども自信を持って思うに、その育成にはかなりの無理矢理があったはずなのだ。
裕也は次のごとき仮説を立てた。
妖獣本来が持つ性質は環境の急変――この場合でいえば地域的な妖気の乱れ――に反応をする。超音波を操る獣や磁場を視る鳥は自然界に実在するのであるから、我々より鋭敏な第六感をもつ妖がいたとて今更驚くこともない。
群れをなす動物は、周囲の変化や危険発生を積極的に報ぜんとするものである。すなわちそれらが子々孫々を生存せしむべくの警笛である。
ひとえにこれぞ本能だ。
しかしここに“埋め込まれた理性”が不具合を為す。その血の元来持ち得なかった、人の手による智の投与。果たしてそれより生じた知能が、第六感由来の危機意識を言語化しうるか?
「答えはノーだろ。そんな良くできたモノ、絶対無いに決まってる」
我が友はしたり顔で語る。「どうだ、ラプ太。実際もどかしいんじゃねーの?」
「よく……わからない。はじめは飛鳥に、とても大切なことを伝えたかった。飛鳥も、それを解ってくれていた」
その喉仏を脈にうねらせ、野守虫がつたなく答えた。鸚鵡の一際むくつけきものと、葦原に鳴く蟲をひっくるめたような声である。いつに聴いても妙ちきりんだ。
「ようは、東海林ちゃんの役に立ちたかったんだよな。あいにく混乱しちゃった、ッつーだけでさ」
「ああ。だが、どうしてよいかがわからない。飛鳥を悲しませてしまった。……人間ならば、こうした時に“ゴメンナサイ”と云うのか」
「アハハハ、そりゃな。東海林ちゃんにでも訊いてみ」
磊々と云い含める裕也。
今俺はこの友人を心より尊敬した。彼の話上手なるは知っていたが、こたびはその柔軟な賢さに感銘された。
元より飛鳥は解っていたのだ。片や裕也は明察したのだ。なれば同じく俺とても、推して知り得て然るべし。またここを以て、我が忖度のいたらざるを恥ずべし。
「なア蜥蜴、言葉にならんことまで云えとは頼まねえが」
この肩をやや落とした俺は、改まって口を開く。「この際一つ質問にだけ、答えてくれたらとても助かる」
侮りと恐れを悉皆捨てて、檻の格子に額をつけた。相手がその気ならば噛み殺されかねない距離である。それほど、心を開かなくてはなるまい。
グココッと一鳴きして、竜は顔前に首を伸ばしてきた。そして琥珀の双眼で、我が視野の中心を射る。
「応えよう」
「ありがとうよ。んじゃあ訊くぞ」
且つは最も望まぬことを。且つは最も為さねばならぬことを。吾人はそれが確めたくて、こやつにこれを問うのであった。
東海林飛鳥に危険は迫っているか、と。
しばらくの沈黙が場を呑みこむ。負けじと俺も息を飲む。瞬きだにせずこれを待つ。しかして遂に答えて曰く、
――“蛇”が来る、と。
そばだつ鳥肌は五体を埋めるようであった。
「ヘビ……どういう意味だ?」裕也は素朴な疑問を吐露する。
これが当然の反応であるし、現に蜥蜴の言葉もきっと、思案に余った結果であろう。やはり本能的危機感を、語れば上記が精一杯らしい。
ただし、これをこの高砂衛介の聞けるこそ僥倖なれ。
かねがね惧るることがあった。黒又山にて接触した、かの生命体に関してだ。
父の見解が正しければ、あれは蛇の神である。荒覇吐なるかの存在は、奥羽へと追われし古代蝦夷の祭神である。あろうことか我ら親子の愚行がその荒魂を呼び覚ました。
そして今尚かの神は、どこかに生きながらえている。
「……手前の尻は、手前で拭かにゃなるめえよ」
情けなきかな、声が戦慄く。時局の運びはここに悟れり。今まさに何が起こらんとして、今まさに俺が何をすべきか。
風の吹き回すところを辿り、ひいては事の次第を弁ぜん。乃公出でずんばと勇み、我が戦いの決着をば期す。
「俺ぁ一旦、莉央ちゃんのとこに行くぞ」
「は、何で?」
「刀も無しに戦ができるか、こんちきしょう」
「だあっ。だから何で! 急にどうしたんだよ衛介」
うろたえる裕也であったが、竜が小さく吠えてこれを制す。さて俺は両者の目をしかと見て云った。
「まあ一つ聞け裕也。そんでもって一つ任せろ、“ラプ太”よ。ゆめゆめ東海林の奴に、泣きべそはかかせん」
新鮮味のある武者震い。狩人としてせず、漢としてす。発憤興起を腹に焚き、緊褌一番、いざ往かん。
◇◇◇
斯くして現在に至る。
玄関の外は牛驚くばかりの闇であった。
この時分ならば足元は外燈に照らさるべし――と、何のことなきこの意識は、当に然るべく期待されていた条件をただ言葉としたに過ぎない。
俺は明るみの中から玄関を跨いだのだ。一秒二秒で暗がりに慣れるほどよくできた視覚ではない。自ずと不安が湧いてはきたが、これしきで退くほど生半可な決心ならばせぬほうがましであろう。
須臾の後、背の後ろにて戸が閉じた。枢のきしむ様は耳にとってどこか冷酷であった。
またこれに合わせ、場の何ゆえ暗かるかも知る。ちらと後を一瞥すれば、事実は決して難解でなかった。
どういうわけか、外灯がちょん切られているではないか。
馬鹿力が腕を以て引きはがした風かといえば、明らかに異なる。かなり鋭利な“刃”で以て、すこぶる綺麗に断たれているのだ。
一体全体、何事か。
ところが当座の間抜けな疑問は、阿呆らしいほど仮初めである。重々理解ができていた。怪しき気配が既にある。これを察せぬ愚鈍ではない。
俺は鋭く眉をひそめて、向かって左の植え込みを睨んだ。よくよく繁った紫陽花が、不自然にして揺れている。
間合いは大股四歩から五歩。武器が手に無い今においては、これ以上なき危機といえよう。
……我ながら当たり前の念をよぎらせたものである。
目をじろじろと凝らしつつ、俺は遠巻きに横ぎりかかった。
やり過ごさんとの望みはごく一縷であった。際どいところに甘えが出たのだ。我が無様なる蟹歩きは、“それ”の眼にも滑稽に映ったやも知れぬ。
さっそく己の下策を悔やみ、ひときわ葉と葉の擦るるを聞く。思えらく逃ぐるをば剛の者とぞ。
既にして化け物が躍り出た。




