第二話 『戸の陰から蜥蜴の影』
前回までのあらすじ:
謎の猟奇殺人事件に騒ぎたつ横浜。
学校帰りに衛介が遭遇したのは、かつての級友・住吉千歳がその彼氏と喧嘩別れをする現場だった。衛介は千歳から元彼の人格的“異常”をひとくさり聞かされたりしつつも、格好をつけて「家まで送る」と約してしまう。
そしてこの道中、言い負かされた元彼が二人の背後に近付く。“異常”すなわち化けの皮を剥がした彼こそは、獰猛なるトカゲの化身であった。
一
吾人高砂衛介は無芸大食の阿呆であるが、逆の立場すなわち己が何者かに喰らわれる側となったことは、全く自明ながらこれまで終ぞなかった。
肉料理は大の好物である。
蓋しファミチキに各種漫画とエックス・ヴィデオズさえ在れば、我が生くるに何ぞ乏しからんやと。
他にも生姜焼や牛丼は云わずもがな、あわよく財布に余裕があるならビフテキやクジラベーコンも喜び勇んで食う。思えばその肉たちは、常に尊き命の犠牲の上に成り立ってきていたものである。
弱肉強食。
現代日本人は兎角忘れがちなることだが、これぞ久遠の昔より営まれし、この星における無二絶対の理とは云うまでもない。
これを踏まえて只今の状況を見るに、我々は真に以て然るべき果て方をせんとする、弱肉の窮地に立っているではあるまいか。
先方は今しがた「妖石」云々と述べたけれども、正直それは我が知るところにはなかった。ストラップとやらがどうであれ、さしづめ最後は食べ物なのだろう。何しろ相手は獣である。
遥か彼方に聞こえた救急車の号笛が、俄かに近づいているように感ぜられた。
ここで今から大怪我でもしようものなら、すぐにでも搬送を乞えるであろうか。はたまたそうするまでもなく、当のいかれぽんち“元カレ”君の長く鋭利なる鍵爪で八ツ裂きとなって終わるか。
警察に堂々とこの支離滅裂なる証言を聞かせてやるためには、後者だけは何としても避けねばなるまい。
「ど、どうやらお前さんの彼氏は、普通のくるくるぱぁッてな訳じゃあなかったっぽいぞ」
「え、え……な……何なの、こ、こいつ……」
「動物には詳しくねんだが……えと、南の島のコモドドラゴンだか何だったかの類、じゃ、ないかい」と、こう云えばお解かりかとは思うが、俺とてあまりの動揺から、気の利いた応答など浮かんではこなかったわけだ。「ま、まァ、例外なく肉食なんだろうな。うッへえ」
「はァ!? 今そんな情報要らないっ! てか立ってるし、二本足で立っちゃってるし!」
一刻も早く手を打って脱せねばならぬ訳であるが、それにつけても如何したものやら。
こういった類の獣は長年いくども洋画の銀幕に現れては、数人の肉をむさぼり食った後に筋骨隆々たる主演俳優の手と銃火器により見事やっつけられてきたのであった。
ところがこの状況はどうか。
まず第一に我々はまぎれもない一般市民である。しかして第二に、生憎ここは基本的に極めて安全な日本という邦なものだから、銃火器類も一切これ有らばこそ、それどころか刃物も無いのだ。
――戦うか。馬鹿な。それだけは有り得ない。
かとも思えど、逃走を考えるにはこの間合いが至近に過ぎるもまた事実。
すなわち今般の状況が意味せるを思うに、俺や千歳は映画序盤で呆気無く屠られる脇役に等しい存在とのことか。
極めて不服ながら、現実というものはどこまでも冷酷にてあった。
救急車の音はさらに近い。宛も我々の死が更に近い事を示すがごとく。
止め処なく溢れる不快な汗が、目に染みた。蛇に睨まれた蛙がどんな汗をかくかなど知らない。が、今の俺には及ぶまいぞ。
「アーァア、もう仕舞いってのか……。こんな若くして街中で動物に食われて死ぬなんざ、昨日までは微塵も思わなんだよ…………なァ?」
「何で妙に冷静なのアンタは……頭おかしーから」
「これが冷静に見えるたぁ、てめえもヤキが回ったなァ……! ああ、違わいっ。こちとら絶望しとるんだよッ! わかりやがれ!」
やたらめったら投げやりに、俺は思わず吠えていた。とうに当方破れ被れだ。
当然本来は、こちらとて殺されるなぞ冗談ではない。然れど元々有効な現状打開策など一つも持ちあわせぬ上に逃げるも叶わずというなら、完璧に進退窮まるとみなす他にないではあるまいか。
「嘘……嘘でしょこれ、ホントに死ぬの? まじじゃないよね……!?」
「こんな馬鹿な話があるかッ」
「ヤ……こんなん絶対イヤ……!!」
本当に何かの冗談にはあらざらんか。目の前に居るのは出来の良い着包み、との落ちは期待出来ぬものか。実際問題にして、こんな生き物が生息しようはずはない。
――などと、御都合主義的疑問が瞬時数多と沸き上がる。
但し見ゆるは、どっくんどっくんと禍々しく脈打つ喉笛。捩り捩りにうねる尾先。極め付けには、爬うがごとき前傾姿勢の何より伝える真性の“殺意”。
これら総出で火の手を挙げて、我らの淡い希望を脆くも薙ぎ払った。
しかしてそれに呼応するが如く、我が心拍も嘗て無き最高潮を迎える。これほどまでともなってしまうと、後にも先にもこれきりだろう。まさしく、それも以て文字通りに。
息を荒げた“元カレ”君はまさに我々に爪を振り下ろさんと脚を踏み込んだ。
祖先の本能が、ここに我らをして一瞬の死を悟らしむ。
――この距離詰まるに三歩……いや二歩? ――まばたきは何回できる?
我が意気が喰らわれるのは、肉体が食われるに先んじたようだった。ここを以て諦念と為す。
いずこへ行ったか勤めより戻らぬ阿呆親父よ、そして全ての友人達よ。先立つ我が不幸を御許し願わん。
そして何故か意味も無く俺は、千歳の手を潰さんばかりに握ってしまっていた。否、どうせ今際の刻なのだ。何の構うことかこれ有らん。
「――ぃっ!」
正にその瞬間であった。
けたたましい号笛を鳴らした車が、どこぞのカー・レース顔負けのドリフトを轟々と唸らせて我々の目の前に突如として現れたのは。
仰天、いや、そんな言葉では尽くし難い。
その姿は救急車とは似ても似付かぬ、ワンボックスの軽トラックに鉄板を打ち付けたような不恰好な車両で、雑な迷彩柄に彩られている。
車両が獣と我々の合間に滑り込むと、スライド扉が乱暴に開けられて中からは武装した大柄な男が颯爽と躍り出た。
事態があらぬ形で急展開を見せだした訳だ。どうやら我々が走馬灯を見るには未だ早かったようなのである。
救世主は、なるほどここに存在せるなり。
斯くして日本の閑静な住宅街の片隅は、またたく間にハリウッド映画の舞台へと様変わりを果たしたのであった。
二
想像できようか。少なくとも俺には無理であった。
謎の軽トラックより俄かに躍り出たる、これまた謎に包まれた人物は先ず両手で持った刺又に似た道具で獣に打ちかかった。組んず解れつ、凄まじい近接攻防が展開を見す。
言葉の出よう筈もない――見ている当の我々には。
人間が本当に驚き気が動転している時とっさに「ぎゃあ」などと悲鳴など上げる余裕はまず無く、ただいま腰を抜かしている俺も隣の女も、音の一つも上ぐことなく目を真丸くするばかりだ。
涙くらい出てもよさそうなものであるが、出てこぬものはやはり出ぬ。
刺又で電柱に押さえ付けられた鱗虫はその道具の先端から放たれているらしき、ぼやりと青白く光る陽炎のようなものを浴びて激しく悶え苦しんでいるのが判る。
んぎい、んぎいと鳴きを上げ、男の鼻先すれすれまで爪を振り抜く。
ひいては反撃も始まった。
謎の男の顔面に、獣は勢い良く唾を吐きつけ、それに怯んだ彼にむずと組み付いたのだ。両腕の鍵爪が、消防服に似た衣服に穴を開けて食い込んでいる。
それでなお、男は屈せず刺又による攻撃を続けた。敵の気勢は漸う弱まりつつあるらしく、先程より抵抗も衰えているようである。しかし人体の疲労衰弱はそれを上回る速度で進行しているように見えるのも確かだ。
「ど、何所の何方かだか判らんが、頑張ってもらわにゃ困んぞ」
女、応答だにせず。只々呆気に取られて立ち震えている。
こちらの期待とは裏腹で男は徐々に呻き声を上げるようになり、彼も必死になってか刺又の先に付いた棘を相手の尾の付け根にぐい、と突きたてた。
怪物からも悲痛の声が上がる。すると、あろうことかその尾は根元からプツリと千切れ、切れた尾のみがその場でのたうちだしたのだ。
「んぎ……ッ!! 糞が!!」
男が慌て怒鳴った。それを待たずして、尾に別れを告げて自由を得た本体は力を振り絞り、男の首根っこに喰らい付く。
鋭牙のそれを裂くや、人の赤茄子を齧じるに全く似たり。
ものの〇・五秒。
直後に彼の絶命を決定付けたであろう鈍い音が鳴る。耳を塞ぎたくならんばかりの音。水気あり、ねちっこく、圧倒的なまでに「嫌な音」。
そして最後には喉笛の辺りから鮮血が吹き零れる様が、まざまざ見えた。
「――お、い。人……し、死んじゃっ、たぞ……」
「嘘……嘘ウソうそ!!! ない! こんなのありえないからッ!!」
迸る紅。地に倒る益荒男。最期に見るものとするには、あんまりな光景であった。
ここに悟る。人間とは、斯くも呆気なく死んでしまうものと。
やんぬるかな、今度こそ我々も終わりか。助け来たれり助かったり、と糠喜びをした己を笑いたい。
儚く短き人生であった。吾は蜉蝣か何かか。そして死しては、二度にも渡ってそれを悟らせしこの爬虫を常しえに呪ってくれよう。
ああ、極楽とやらは一体どちらに御座るものか、何方かご案内あれ。若しくは地獄か、いずれにしてもさあ早く。
南無阿弥陀仏――
「目 ぇ 閉 じ ろオオオオォォォォォォッッ!!!」
「……?!」
――ハッ、と。俄かに聞こえしは、怒号である。これは我々二人が鬼籍への御門を叩かんとしている、正にその刹那であった。
我らを彼岸に迎え込む阿弥陀や閻魔が類の声やも知れぬ。然れど滅法必死なその声は、いわゆる梵音とは程遠い。
一体全体どうなっているのか。
それすら把握しないまま、言葉のとおり咄嗟に目を閉じる。次の瞬間で目蓋内の漆黒の視界が赤っぽく染るのを感じた。
はて、外界では猛烈な閃光でも瞬いているのか。耳に入るのはけたたましい怪音と、何かに、恐らく光に驚いた敵が発したであろう金切り声のみである。
強い光が間も無く収まったと思うとその閻魔、もとい怒号の主がせっかちに呼びたてる。
「乗って、早く!」
我々はその声の主に導かれ、云わるるがままに車両に飛び込んだのであった。何、知らない大人の車には乗ってはなりませぬ、とな。
我がごとき少年少女の知ったことか。気にしてなどおれぬ。
車は自動で戸が閉まると勢い良く走り出す。意外なほど内部は広く、車内には自分達と運転手以外誰も乗っていない。
今ここに、あわや大惨死の所で俺を引っ張り上げた神仙の声に聞こえたるはこの運転手のそれであったようだ。して、当の運転手様はどうやら女性であるらしい。
滅多必死に呼吸を整えると、俺がこれより聞かんと思っていた事柄を彼女にほぼ軒並み質問し始めたのは住吉千歳。
「い、い、今起こったのは何なんですか? 一体アレは何者なんですか? 闘ってた人は誰ですか? てかこの車はッ? それに、それに――」
このあたりは凡そ、早口で寿限無寿限無と唱える噺家に似る。何にしろ状況の整理が出来ていないのだから、一遍に質問が沸くとて蓋し必然というものであろう。
「悪いんだけど、今そんな質問に一々応対してる暇は無いから。後、運転中は無闇に話しかけないでっ」
女性自身も大層焦っているように見えた。現状は云うに及ばず非常事態であろうし、どだい無理もあるまい。
車はかなりの速度で宅地の中を駆け抜ける。その最中、未だ我々の質問に何一つ答えざるこの女性がこんな事を宣った。
「今は取り敢えず逃げる所までは逃げるけど、いずれ見つかるのは時間の問題かもしれないわ。
その時にはあなた達も闘う・死ぬの二択になるんだけど……勘弁してね」
「……は?」
これは二人が凡そ同時に出した声である。
ふざけておいでか、このご婦人は。
真面目な顔で冗談は云うべきでない。縦しんばそういった芸とのことなら、穏やかになった後テレビにでも出てお茶の間を賑わせてやれば良い。T・P・Oを弁えるのはとても大切なことである。
冗談は冗談と、これを直ちに認めさせねば。
「ごッ冗談を! 俺らが闘えだって? あのキチガイと! そりゃア討死にか犬死にかの二択ってンでさあ」
我ながら、かくも緊迫した状況で割かし上手いこと切り替えしたと踏む。
「ふ、結構元気みたいね。意外にいけちゃったりするんじゃない」
何と。御座なりで茶を濁す気なのか、この女は。もう堪忍ならぬ。
「馬鹿かアンタァ! つーこた端から俺たちを助けてくれた訳じゃねえってのかッ、ざけやがって」
「あたしらは捨て駒か何かだってゆーの!? いい加減にしてよ!」
しかし双方の不平を聞いた上にても、運転手は声色を強めぴしゃりと斯く云い放った。
「じゃーァ犬死にの一択でいいんだ!! ……勝手にそうすれば。少なくとも、さっきの彼は違ったわよ。命に代えても使命を全うする覚悟が彼にはあったの! 見たでしょう!?」
――確かに、一理無きにしもあらず。逃げることが叶わず、闘うのも御免とあらば、悔しいが降参してそのまま殺されるのを待つ他ない。
だがそう考えたとしても、我々の如き凡夫が猛獣と格闘して打ち負かす、だなどと足掻くことにせよファンタジイも良い所である。
加え、現につい先ほど一人屠られているのだ。武装までした者が。ああ安くんぞ能わんや。
「ちッ……イカれてんだなんてレベルじゃねえや」
「うだうだ喋る余裕があったら、後ろのトランクにあるハードケースを開けてみて頂戴。今丁度二つ余ってるから」
「ハードケース……スか?」
「有るでしょう、銀色の角ッとした箱二つ。ダイヤル暗証番号はそれぞれ6826、5551、どっちか!」
後ろの荷庫より硬い箱を引き上げる。見るにそれは枕ほどの大きさの箱であった。一見したより幾許も質量あるその二つは、それぞれ或る程度長さが異なっている。
運転手は云った。
「中身を見て考えを少しでも変えてくれると私も助かるんだけどね」
然れば拝んでくれようではないか、その中身とやらを。最早足掻くには遅過ぎた。どの道死すなら如何にでもなってしまうが良いのだ。
三
おのおのがハードケースを開くと、俺の開けた方に梱包されていたのはあろうことか日本刀の一種――太刀とおぼしき代物だった。
この箱から判断して、よもやこんな物が入っていようとは誰も思うまい。
無茶な話である。これは刀剣のくせに数箇所で折り畳まれる機構に作られているらしく、包丁大のそれを箱から出すと忽ち凡そ三尺九寸、即ち刀として然るべき規格へと伸びたのだ。
方や千歳のもう一つには薙刀というのか長巻というのか、何しろ長大な武器が、刃部と伸び縮みする柄が分割された状態にて収められている。
「ええ、な、何コレは……武器、みたいな?」
その上、真に驚くべきはまた次である。
果たしてこれは如何なる仕組みと説明するか。
試みに柄を握ってみれば、手と武器が接触している部分から先程の青白い陽炎がゆらりゆらりと滲み出てきている。
俺は心の底から目を疑った。それ程の怪奇現象が手元で起きているのだ。
更に更に喫驚すべきこととして、この光る陽炎が手から体内に流れ込む感覚と共に、多量の脳内麻薬が分泌されるが如き感覚さえも込み上げてくるのである。
「……なァるほど、その折はこれで彼奴を叩きのめせと仰るんですな」
「ご名答。理解が早くて大変結構よ」
運転手は少しばかりの笑みを浮かべて答えた。
「何か凄い、変な感じする……で、でも……ヤじゃないかも」
我らが精神状態も愈々尋常ではない。
「二人とも妖力との親和性もかなり良い感じみたい。やっぱ若いって得だわね」
その“妖力”なるものがこの青白い発光を指しているのか否かは定かでないが、兎にも角にも悪くはないらしい。
これが幸いしてあわよくば生還するも夢でないというのなら、人目を憚らず喜ぼうではないか。
「それで、あたし達はこれからどうすれば良いんですか? この道具の使い方もさっぱりだし」
千歳が問うた。しかるに、答えはこうだ。
「……えっとォ。まあ悪いけど、それは習うより慣れろ、としか云えません……ほんとに」
はて。
何を思ってここで此方の意を挫きにくるのか。申し訳無さげに物を云えば、何を吐いても許されるわけではない。
我々に武器など授けておいて当人が使い方を心得ていないとは、笑わせる。
「なら適当で良いんですな!? テキトーでッ。はぁそいつは楽でいいや!!」と、俺は投げやりに吠え付けた。
込めし嫌味は十二分。さあ変人、そちはどうでる。
「そう、それ。本当に適当にやればいいの。妖力との親和具合、その人特有の体質、色々違うから、型として決まった使用方法なんか存在しないのよ。嘘じゃないわ」
ああ腹立たしや。げに業が煮える。嫌味をそのまま正解とされてしまったではないか。
めでたく俺は、謎の敵対者に対して振るったこともない凶器を用い“適当に”立ち向かうことが確定してしまった。
「あなた達、武術に覚えとかは?」
「嫌だな、ンなもんあるわきゃ無いでしょう」
「あ、あたし……ほんのちょっとだけ親にナギナタやらされてた頃が。小学生の頃ですけど、一年くらい」
存外の話である。この女が胴着と袴に身を包んだ姿はあまり想像が付かない。然りとて、棒を振り回して大立ち回りをする姿に関しては容易に想像が付くのが不思議だ。
まあ近代武道としての「なぎなた」は大分趣を異にしていそうであるが。
「あら、えらくピンポイントだったじゃない。万々歳ってわけね。じゃあ貴女は、そっちの長いほう持って」
……とのことで、此方には刀が割り当てられることが決まった。
剣道、薙刀道、いずれも経験無き者として「長くて強そうだから俺もそっちが良い」とは我が本音であるけれども、今更云い出せなどすまい。
さて、かなり長いこと車は走ったであろうか。
「取り敢えず逃げるところまでは逃げてきた。後は奴が追ってこない事を祈るばかり。……でもね、祈ったって来るものは来るわ。覚悟だけはしてて」
「まっまたまた。随分な距離逃げてきたじゃありませんか。よもやここまで」
「いいこと? ああいうモノは正に“神出鬼没”なの」
「ほ、ほう……」
――この際、釈然は求め過ぎぬが吉か。
逃げ着いた所は古びた廃マンションの駐車場の一角であった。見る限り然程広いわけでもなかろう。
天井の照明機器は一つとして機能しておらず、車内を含め真っ暗闇に限りなく近い空間である。こうした所で襲われてしまえば、暗過ぎて闘えなどしないのではなかろうか。
争って打ち勝つ自信は、残念ながら毫も無い。にも関わらず我らが気分は妙に高揚しており、戦意だけが不自然なる自己主張を続けていた。
消極的理性と、異様に好戦的となった感情がぶつかり火花を散らす。
大脳をしても考え難く、この不可思議なる感覚。先ほど得体の知れぬ刀を握った瞬間からずっとそうだ。恰も、と云うより正に、妖に取り憑かれたかの如く。
但しその意を裏切るように一向に現る兆候を見せずにいるのは、他でもないこの女の“元カレ”君である。
斯かる程に、車内は長きに渡る緊張が支配していた。これが束の間の安息を辛うじてを享受するに、充分であったか否かは果たして以て窺い知れぬ。
不安、困憊、様々な意味を持った汗が、頭皮に湧いては額を伝い落つ。
それぞ現空間にて、我が心に生きた心地を与え得る唯一のことでもあった。
四
「――妖怪には相当な深手を負わせたものと判断できるかと。彼が戦果を遺してくてくれましたし、スタングレネードで一旦は追い払いまして推定一〇キロ圏外…………ええ。
きっと……彼なりに無駄ではなかった筈です。
……詳細は後ほど報告書の方で……………………は、はい勿論です。今回は私の責任とさせて頂いてます……」
運転手は、先ほどより無線機でどこかと連絡を取っているらしかった。
無論、それは我らの知るところではない。
或いは彼女の口振りからすれば、彼女の上司、のような相手やも知れない。能う推察など、精々この域を出ない。
「ええ、『擬神器』の方は民間人に已むなく二振り……申し訳ございま――あ、いえ……はい……全て当局の責任で。……後日相応の処置をさせていただきますので…………」
そればかりかその口からは、日常生活では凡そ使われること無き単語がごろごろと出てきている。
そのお陰か、俺は黙ったまま状況を整理すべくその語の解読にも努めたが、何ら得られず徒労に終わった。
――そもそも彼女は何者か。これすら掴めずして今に至るというのは、千歳ともども拙かろう。俺は俄かに、後部座席から訝しげな視線を送った。
隣の女の目もさぞかしそんな感情を含んで運転席へ向けられていようか、と思ったものである。
只、その筈がそうでもないらしかった。運転席より遥か先、前窓の向こうに広がる薄闇の駐車場に対し、千歳は目を細めていた。
「何か暗くてよく判んないけど。そこ、誰か人いるみたい…………よく……わかんないけど」
「――……! 状況急変しました!」と、矢庭、運転手の様子が急へ転じた。「すみません、報告は後ほど!」
車のフロントライトが灯され、暗かった車窓が一気に明るく見え始める。明るくなってはみたものの、確認されたのはただ単なるヒトの影。
危う危う、下手をすれば轢いてしまいかねない距離である。
当の運転手は通話を慌てて切ると、ひどく焦燥したようにハンドルを一つ叩いた。しかしながら車の前に立っている人物は、クラクションに動じることもせず、ゆったり、ゆったりと車へ歩み寄ってくる。
「や、危なっかしいのが居ますな」
「しまった、いつの間に……!! こんな早いとはね……」
「何がです?」
「突破します。しっかり掴まってて!」
「……人ですぜ。轢いちまいますよ、これじゃあ」
しかし、こんな場所に誰であろう。此処は廃ビルの駐車場の筈ではなかったのか。
アクセルが乱暴に踏まれて車が目の前まで近づいた途端、当の人影は軽く膝を曲げる。そして急変は次の刹那であった。
――跳んだ。
そう、何と跳び上がったのである。彼の姿が我々の視界から姿を晦ましたかと思うと、車の屋根から鈍い音が鳴り響いた。
「おい……どこ。今のどこ行った? 『ボコ』ッつったぞ……う、上か!?」
そして我が問いに応えるが如く、今度はボンネットの上に降ってきた者がある。
寒心が走り、天井に目の向いていた三人は再び前を一瞥した。
この動きは如何物か。否、尋常なら人間の動きではない。望まれぬことではあるが、当座の判断材料としては充分も過ぎよう。
「え……っ、えぇぇえ!?」
それ宛ら冗談が如し。
ここで視界に入ってきた“それ”は遠慮毛頭なく、当方をして肝の反り返らんばかりに思わしむ。フロントガラスにへばり付いた男は一糸纏わずして、血糊にべとりと濡れ、目は夜行性の獣然と光を放っている。
ああ――今更思うに、「誰であろう」とは愚問の至りか。
その見目形は何とも恐ろしげであり顔は酷く崩れ、美男子の面影など悉皆消滅してこそいるけれども、その正体は、云わずもがな先程の“彼”と瞭然に判った。
「まさかこれ……」
「ええ、そうよ!! 人間に擬態しそこねているの……! 明らかに傷の修復も不完全……さっきの奴がね!」
我々三人は再び恐怖のどん底へ落とされた次第だ。
何たる浅はかな糠喜びであったか。暗夜の礫を前にして、庶幾して已まぬ生還の夢に忽ち暗雲が起ち込める。
「何それさっき一〇キロ圏内には居ないって云ったよねえ!?」
「姿を可能な限り人に戻す事で体から妖気が漏れるのを防いでたとは、中々小癪な真似をするじゃない。くっ、道理でレーダーに映らないわけね」
「アーもう肝心な時に! 何となく、始めからこうなるのは決まってたのかもだけど!!」
「野っ郎、結局生き残りたきゃ闘れってんだな。ええい、出んぞ住吉! どうせ覚悟ならさっきとっくに決めとったんだッ」
「うん…………上等っ」
「健闘を祈るわ……討って! 彼の仇を!!」
運転手が叫ぶや車は急停止。同時に、敵は前方へ身を投げられる。狂ったような奇声が甲走った。
再び剣の柄を握れば、もう武者震は止まらない。奇妙な力が全身に漲った気になる。
何せ一度括った腹だ。
食物連鎖の上下を賭けて、今こそ決着を付けてくれる。最早討死にも犬死にも断固御免である。絶対に叩き伏せてやらいでか。
遂に我らは車外へと飛び出した。
蓋し、清水の舞台より跳ぶに同義と見つけたり。待つは生か、はたまた死か。…………否。狩るか、狩られるか。