第三三話 『羽州湯煙旅情』
前回までのあらすじ:
野望を遂げるべく史と共に秋田へやってきた衛介、凜、およびその式神たる早楽。
大湯環状列石を見学した一行は、翌日の作戦の舞台となる聖地「黒又山」を拝す。史による歴史談義を聞いたりなどもしつつ、ただならぬ秋田旅行が静かに幕を開けていた。
一
刀を振るうは我が稼業にして、そこで奮うは紅世景宗――火行の力を宿せし擬神器である。
吾人のごとくしょっちゅうこれを振っていると、大胸筋やら上腕ナンタラやらが痛くなって敵わない。
ここ一月は筋肉痛ずくめなのであった。
仕事中は幸にも、五体に巡る濃厚な妖気が然せる感を鈍らしめている。これは疲労のみならず、外傷による痛覚をも忘れさせてくれるので大義といえた。
しかしひとたび武器を置いたが最後、ここからは奈落である。
妖力を以てした痛楚の鈍麻。この効の苟なるは自明であった。
ただし人間、慣れるもの。当初をいえばこそ悶絶躄地なりしも、慣れてしまえば大苦は無い。
そんな風に思い込んでいた吾人である。
……これやこの、大湯の名湯に体を浸たしてみるまでは。
「こいつは良い湯だ。どぉれ、ちっとばかし痛風に効いてくれると嬉しいがな」
父はボフゥ、と息をついて云った。
「くひゃア、人間の有り難がるオンセンっちゅうのは、こういう代物なのけ……!」
「おうよ河童小僧、知らなんだかァ。熱ッチッチだろう、ガハハハ!」
化け身の術とは見上げたもので、服を脱げども皮が剥がれることはない。
腮張った顔立ちではあるものの、早楽の見かけは変哲なき幼児そのものである。
「……ほんと、ほんとにまァ熱ちくてたまんネェや。こりゃアレだろ、“ノボセル”ってんダロ、この感じ」
真っ赤になった早楽はその目をくらつかせていた。
「何だい河童、まだ幾許も経たんじゃないか。そら、肩まで浸かって十数えてごらん」
「よ……よしキタ、合点でい。
ヒィ、フーゥ、ミーィ、ヨォ、イツ、ム――……ム…………ムリダァ」
四本指を折り返すや、ずるずると沈みゆく童子。
ぶくぶくいう泡沫を以て断末魔に代え、湯面の下へ見えなくなった。
「うぉい、しっかりしろ……ゲッ」
慌てた父の引っ張り上げしは、気絶して馬脚をあらわした河童。父は恐る恐るで早楽を抱え、夕涼ここちよき岩肌のもとに寝かす。
ここは露天風呂である。
「いけねえよ親父、変温動物にそんな真似させちゃ」
俺はしばらくぶりに開口した。
「……南無三。やはりそういうもんだったのか、妖怪も」
「そりゃね、生きてんだもの」
石の縁にぐでんと凭れた吾人。我が顔は自ずと天を仰ぐ。
月が出た出た、月が出た。嗚呼よいよい――と。
呑気な調が脳裡に流る。俗にはこれを以て脳内再生というそうな。
「大人しいな、衛介」父の体を以て、がさつな水音が立つ。「よくよく屈託してるようだ」
我が身に絶えぬ生傷を、改めて見ての感想なのかも知れない。
彼の面持ちは意外なほどに、否、かつてなく“父親くさい”ものであった。
事実我が口数はとんと減っていたであろう。
今ここで名湯に浸かり、浄土にも喩うべき癒えを感悦している。そして同時に、自らの如何に傷めるかを知った気がした。
「客は俺らだけかね」
「どうだったか。流石に、あと二・三組かは居たろう」
「……そか、そか」
男湯の間は我々のほか、早楽が伸びているのみである。心安らぐ静けさであった。
時は六月、加え何のあるでもなき土日だ。これを鑑みれば、この閑散たるも頷けよう。
――とすると、薄板一枚隔てた先には一糸まとわぬ卜部氏一人。
俺は反ったまま体を伸ばし、板の下が覗けまいかと目論んだが徒労に終わった。
「ちッ……痛」
すると何をば察してか、
「息子よ。お前も阿呆なら、たまには猥談とでも洒落混まんかね」といってふざける父。
知らぬ人が見れば極めて気持ちの悪い、品の欠片もなき顔である。
「ま、また訳の解らんことを」
「もう済ませたかい、あの住吉ちゃんとは」
「やかましいよ。あれにそんな事せがんでみろ、きっと切り落とされちまうンだからな」
「ワハ、そうも弱気とは情けねえ奴だ」
何ゆえであろうか。
物見遊山の旅ならまだしも。今この男は、もっと緊張感を持って備うべき時であるのに。
腹の底はいったいどうなっているのだ。
あるいは俺の怯えが過ぎるのか?
口惜しくも、彼の鷹揚たる態度が俄然立派に見えてしまう。ならばと思い、俺は無理してこう云った。
「卜部さんは着痩せしてるが、お乳は存外あると見た! 拝むんなら、まず良いものから拝んどきたいッ」
父は応えず、引きつって笑う。――斯かる場合の勘の良さたるや、亀の甲より年の功か。
「つ……つ、筒抜けじゃぞ衛介ぇ……! 許すまじ、この色ぼけがッ」
敷居ごしに癇声が飛んでくる。その主をいえば卜部氏の他ではなかった。
これはいけない。
「やァその、お許し下さいってば。あ……そうです、この俺がいつ悪口を申しましたか」
「……知らぬ! 早楽、そやつを引っぱたけ!」
式神は一瞬ぴくんとしたが、この命令はそこにて果てる。
これには父も大笑し、
「すまんね、河童くんは湯で参っちまったようだよ」とて手を叩いた。
「おんどれ!」
怒髪が天を衝かんばかり、この声色には身もすくむ。しかし飽くまで、卜部氏だ。
ここから顔は見えこそせぬが、その気色の桃が如かるはさぞかしである。
二
旅行業界では年のうちでも客足疎な閑散期をシーズン・オフと呼ぶが、一般にこの時は宿泊代など諸々の値が引き下げられて営業される。
この口で敢えて慢言する意義も、実際なかろう。けれども、嬉ばしいので遠慮はしない。
温泉街にとって、シーズン・オフは当季であった。
我らは季節の山菜や川魚といった美味に舌鼓を打つと、各々移動の疲れを癒す。今回は移動の長さもあって、風呂に引き続き、くつろぎの喜びはこの上ない。
「――いやはや、一時は本当にどうしよっかと。鱗のある生き物を湯船に入れただなんて、何かと怒られそうじゃありませんか」
明朝に備えてと父が早寝し、幾分も経て後のことである。
卜部氏と俺は、部屋で碁に興じつつ繰っ喋っていた。
「それしきのことでこの腹が立つものか」
「旅館の人にでさ」
「ぐぬぬ……」
パチンいってと黒石を打ち、彼女は頬を膨らます。
「嫌だなァ、そっちにゃ未だお怒りか」
「当り前じゃ、ど助平め…………――ぅむ? なるほど、そう来よるか」
「俺なんぞまだまだです。ほら、何かもう負けそう」
氏の機嫌を直すに涯分するのも然ることながら、何だかんだで今を面白がっていた吾人である。
この娘は二つほど先輩に当るのだけれども、蓋し我らののりは良く良く合うのだ。
上記のとおり俺は劣勢に終始した。そもそも彼女は遣り手であったし、当方も勝利に拘るではなく、会話の片手間というつもりで打っていた。
その塩梅でも、俺は至って愉快であった。
「これが済んだら売店を見て参る。土産物が見たい」
「勝ち逃げだなんて」
「えい、黙らぬか。一つ頼まれておるのじゃ……まぁ折角の旅ならばのう」
どうにも事しもあり顔で、愁然と呟く卜部氏。白魚のごときその指が、なよなよとして遅れ毛を弄っている。
浴衣の袖もゆらゆらり。
「お供しますよ。侘びしいに違いない」
「す……好きにせぇ」
程無くして我々は宿一階の小さな売店へと向かった。
氏の付き添いなどとは戯れに云ったが、さなきだに、俺はぼちぼち保冷箱の氷を補充したかったのだ。
明くる昼はバーベキウである。
焼いて楽しく喰って美味しい、原始的ながらも素敵な食餐形態といえよう。
発掘は大掛かりになろうし、そんな余裕が有るかは知れぬ。然るをあまりにきつく念押しさるれば、已むに已まれず持参した。
七輪その他はちゃちだけれども、ご愛嬌と云われたし。
夜辺の旅館は楽しげだ。道中団体客ともすれ違うなど、踏んでいたより賑わっている。
――彼らは全く以て、湯に浸からなかったようであるが。
買い物を終えた我々のもとに、幼児が一人駆けてきた。「大変だてえへんだ」とて、早楽である。
危うく茹だりかけるも、漸く元気になったらしい。
「すっかり顔色良くなったではないか。ほれ、胡瓜の田舎漬じゃ。買うてみたぞ」
「うんにゃ、それどころじゃネんだ!
おっ、オイラとタゴサク先生が寝てる間に、可笑しなのが集まっとるぜ」
童子は幾度も噛みつつ語る。
「な……何を慌てておる?」
「トにもカクにも、変ちくりんだ。オイラは窓から回って来たが、お部屋の前が大盛況サぁ」
人は盗人、火は焼亡。肝に銘じて世は渡るべし。
警句の覚えは数あれど、未だ必ずしも功為さず。恥ずかしながら我が尻の青さ、この然らしむるところか。
三
旅の恥は掻き捨てという。
仮にいささか粗相を来たし、赤っ恥を掻くとする。然りとてその場を見る人は、大方それぎり会うことも無い。
そう考えると気軽なるかな。
だからといって好き放題、などと思えば大間違いだ。
斯かる言葉を曲解し、傍若無人になってはならぬ。観光客にそれなりの、行儀と節度が求まれる。
むろん明朝遂げられんとする、父の狼藉を棚上げするのではない。
しかし何だか行儀良からぬ人々が、我が部屋の前に群れていた。
ひょっとすると中小企業の慰安旅行のように見えもするが、様子はずいぶん奇妙である。
「――ちょいと、勘弁して下さいっ。こうも門前市を成されちゃ、入ろったって入れやしない」
群れなす団体様を掻き分けながら、俺は五月蝿くがなって云った。「こちとら小便がしたいんですから!」
「はてな、何事じゃ? いずれ我が店も斯くのごとく繁盛すると良いのう」
「ヤァ……こんなのに来られちゃ、きっとオイラは嫌だね」
式神をしてそう云わしむるこの一団は、揃って朗らかそうである。
その先頭たる一人の男が、俺に向かって以下に問う。
「あ、もしかして息子さんかな? こんにちは。この部屋、高砂史さんがご宿泊でしょ」
父は妙な所で著名人だが、サインなど乞われては堪るまい。――と、云うより俺が恥ずかしい。
我々は、疾っとと中に入りたかった。
「急いでんです、漏れそうだ」と云って正に鍵を回したその刹那。
突如怒号が、ぎゃんと響いた。
「――――開けるな衛介ッ!」と。
ところが軍配は手の勢いに上がる。
「お、親父?」俺は間抜けに戸を開けたまま、奥に座った父を見ていた。
外の彼らと対照的に、苦虫を噛んだ顰めっ面。地蔵のごとく動かない。
珍客の男、我が背後にて曰く
「あなた方も、名誉ある贄の最期をご覧になるのですね」と。
「……はい?」
男のにこやかなる様は、返って不協和にすら見えた。
しかして吾人は、ここでいよいよ過ちを知る。
「本当にハッピーなことと思います。
新たな天巫を呼び覚まし、更にその贄としての務めを買って出る方が現れたのですから」
ああ、やんぬるかな。
甘かった。そう、我らは斯くも無用心であった。
偶然の邂逅か、計画的な追っ手の衆か。
否、事既にしてここに至りき。そんな事はどうでもよい。
「あめの……かむなき…………あんたらァまさか」
「はい。日々ハッピーを目指して、『かむなび』で頑張っている者です!
ね、高砂史さん。今回は皆旅行がてら、またとない復活の儀を見届けに参りましたよ!」
狼狽、動悸を圧し殺すように、脂に汚れた歯を食い縛る。方今最も恐れる者に、己の名前を呼ばれたのだから。
「ちきしょう……お宅の気持ちはよく解るけどもな、来るなら明後日以降が望ましかったッ」
缶珈琲をがぶ飲みにして、勢いよく低卓を打つ。
空き缶がコンッと快鳴するや、彼はすっくと立ち上がった。「――仕舞いぐらい存分に楽しみたかったのだ、俺は」
「とっても面白いコメントですねー! 悪いようには絶対しませんのに!」
「本当、善意というのが一番大事です。
そうだ、そろそろ“御先”をお呼びして、便宜を図っておきましょうよ。ね?」
「いいですね!」
一団は口々に、「ね」と云って懇ろに頷き合っている。
これでも大変な気持ち悪さを誇りたおしているが、これしきほんの序ノ口だった。
やがて彼らが一斉に奇声を上げ出す、その時である。
部屋の外から妖しの気が近付いてくる。それは一つの点ならず、うようよ居るよう感ぜられた。
「ちょッ、何おっ始めようってんですか!」彼らを押し退け部屋を出て、辺りを睨めた吾人の見た物――――。
眼を覆うべき光景だ。
凡百の娘子ならば、たちまち卒倒したであろう。
客室前の廊下には夥しくも滑らかな鱗が黒光りして、所狭しと蠢いている。その空隙は妖気の波にゆらゆら歪み、禍々しさを隠しだにせぬ。
驚くなかれその正体、牛の寝たほど寄集まった蛇の大群ではあるまいか。
夕闇のごとき不吉な色と、鼻の先には鋭利な角。
しかしてその名をこの拝み屋の称して曰く、
「夜刀神……!」と。
彼女の声さえ、戦慄いていた。
「なっ……何なんだこりゃあよおッ」中でもことさら慣れも無く、滅多矢鱈と取り乱す父。
我が心にも寒心は、稲妻さながらにぞ走る。
――死ぬ。殺される。
父はこの場で消されてしまう。
息子の為すべきは何ぞや。
その本懐を果たさしむべく、伴なわれたのではなかったか。
墓石に布団は着せられぬ。
たとい世の理に悖ろうと、父に最期の花を持たす。それが志ではなかったか。
正に神祇に狼藉を働かんとする男。これを止めんとする信徒。一体いずれを以て正義か、そんな話は云わずもがな。
さあ何とでも罵りたまえ。「――……もう我慢がならんッ」
親も親なり、子も子なり。
「お行きよ親父、ここは引き受けた!」俺は高らかにがなった。
その懐より霊札を抜くや、屹度直って構えた卜部氏。これに目配せ、氏の点頭を確認す。
空に描くは灼熱の弧、その出どころぞ我が袂。
擦れる鋼は鏘然と鳴き、赫々たる太刀がここに顕現した。
「早楽、高砂先生を護衛仕れ」
「ッしゃあ、合点承知ィ。タゴサク先生、背中は任せナ!」
すまんと云って父は窓辺を跳びだし、石槍帯びた早楽も揃って軒づたいに逐電す。
土俵の支度は整った。すなわち暴れる用意のことだ。
「どうも、ご迷惑かけます……!」
すると言下に彼女は応じ、にやりと笑んでこう云った。
「男もすなる戦闘というものをッ――」
勇気凛々、その娥眉にみなぎる。「女もしてみんとて、するなり!」
咄々怪事はあるものだから、これ討ってこそ稼業といおう。
這いずり寄る歪の者ども、ただ首を狙いその牙を剥くのみ。対し、妖力を以て正にこれを迎撃せんとす。
斯くして、大いなる事変の火蓋は切って落とされたのであった。
一行の命運や、如何に。




