第二九話 『雨降りて地固まる』
前回までのあらすじ:
衛介から唐突にうけた信仰そのものを問う言葉に、飛鳥は激しく憤る。
だがむしろ怒りの理由は、彼女が世話する捕虜――野守蟲が、教団に散々教え込まれたという忌まわしき教義にあった。邪教から己を改心させてくれたとして、野守蟲は彼女を恩人と仰ぐ。
そんな捕虜から得た情報を、遂に語ろうとする飛鳥。しかし折しも、ここに再び「頭痛」が娘を襲う。豈図らんや、そのまま倒れてしまおうとは……。
一
「――大変だったさ。あいつ、今度ばかりは全然よくならんのだもの」
「ああ、オレとしても何つうか……寿命縮んだ気したわ」
東海林飛鳥がその持病とする頭痛に倒れた翌日のことである。我らは桧取沢さんを招じて、臨時会議にのぞんでいた。
本日も空模様、これを見るに愉快は無い。
鉛色の叢雲が八州を呑み、露を撒いてはしとしといわす。
湿々すれは蒸し暑くって、人も獣も汗垂らす。
ここを以て梅雨と為す。
蛍光灯の無機的な明るみが、仄暗い部室に満ちていた。多目的教室あらため、麻雀同好会部室である。
「慌てて病院だよ。したらば親御さんもすっ飛んでらしてな」
我が指に回されていた硬筆が、ことんと滑り落つ。「――……検査入院、との事った」
ここまで、桧取沢嬢は大人しく報告を聞いてくれていた。
しかし生憎この後は然らず。
「なるそどそうでしたか。……他に、教団関連で判ったことは?」
「や、何も。それどころじゃアなかった」
「なら、どうしてそうも簡単に教団の話を出したんですっ。飛鳥さんが本当のことを云う保証なんてどこにも無いのですよ?」
仕事モードの嬢は泣く子も黙る糞真面目であり、いささか怖くさえある。
思わぬ糾弾を被った俺は、納得ゆかぬとすかさず弁を弄した。「こっ、この期に及んでまだ疑うんかい」
「……こんな云い方したくはありませんが、浅はか過ぎます! 梶原君もどうして止めて下さらなかったのですか?」
「最初オレも思った。このバカ何してんだ、って。ほら、衛介ヘンな所でせっかちじゃん」
やはりあの時、裕也はこちらに忿恚の目を向けていたか。
さもあらばあれ。この吾人とて、反省これ無きにしも非ず。
ところが彼はこうも云う。「けど悪くなかったかもな、何気に。お陰で東海林ちゃんはシロだと信じれたし」
「梶原君までそんなことを……」
「そもそもカルトの信者って、信仰隠したりなんか絶対しねーよ。普通オレらに布教してくるぞ、“神”とか話題にしようもんなら」
「でしたらどう説明しますか、八咫鴉覚醒の件を」
「それはさ……まだ謎と云うより仕方無んじゃね」
何とも執念き彼女の問いに、裕也は極めて正直な返事をした。見ての通り、論議は堂々巡りなのだ。
果たして、どうしたものか。
水を打ったように、この小さな論壇は静まり返ってしまった。
やりきれず窓の外を見やる吾人。
雨天のほどは相変わらず。校庭がつまらなそうに水浸っている。より向こうには海が見えて、鈍く、冴えずに波立っている。
湘南海岸目の前、という景観で我が校は名高い。
「もういいです。……今日は解散で」
柳眉を逆立てし少女の一声を以て、幕を下ろした本日の会議。
聞くや否や裕也は立ち、不満げに帰って行った。「智美待たせてるから行くワー」などと、云って退いた。
まあ、彼の気が察せぬではない。
よって部室の中は二人となった。ところがこの片割れすら、我も退かんと荷物をまとめている。
他でもなく、桧取沢さんである。
ああ、悲しきかな。
何だかどうにも、寂しくはないか。下校時にまで後味をひきずるのは主義でない。
然らば、どうして黙っていられよう。
「ま、まァお待ちよ桧取沢さん」
黒髪垂らしたその背中に、俺は呼びかけた。「――どうせ電車は一緒じゃねえの」と。
二
吾人のような男子にとって、下校道中を異性と共にするのはそれ自体たいへん意義深きことである。
様々に恵まれた者にはそれしき容易くて、茶飯事なりとて一笑さるれば敵わぬ。だが今度ばかりは同日の論ではなかろう。
お相手は桧取沢さん。
一部でかなりの嬌名を馳せる、花も恥らう傾城の美少女なのだ。
しかるに、あろうことか一寸も楽しくない。面白くも、可笑しくもない。
何ゆえか?
……空気も天気も、重いのだ。
車軸のごとき暮雨のなか、我らは道を下っていた。
校門より江ノ電の駅まではほんのすぐだけれども、間に横たわる坂は中々の急勾配である。
彼女は草臥れたように肩を落としつつ、いやにゆっくりと歩む。
差したる蝙蝠傘は水色であった。この淡さが、儚げな心象を以て脳裏に滲む気がした。
思うに、野郎の端くれとして、当方で気を使わずには罷りならない。
会議が終わってからこちら、嬢は大人しくなった。
否、普段の気質に戻ったというほうが正確やも知れぬ。仕事時の蛇のような眼光はなりを潜め、純情可憐な女の趣が戻るのである。
然りとて今日は、あまりにも悄気ていた。
しこうして、隣を歩く吾人はいよいよ居ても立ってもいられなくなる。無理からぬことではあろう。
「桧取沢さんや」俺は無計画に話し出した。「萎えちまうよなァ、こんな天気だもんだから」
歩みつつ十秒あまり。
水の音のほか聞こえない。灰空より降れるが一つと、浜に波打つ二つである。
嬢のぽうっとした有り様を前に、我が蟀谷を冷汗が伝った。
「――と、ところがどっこい、喜んだら良い。明日の体育は君の嫌いな持久走だったぜ」
ここにて彼女は漸く応えて曰く、
「えっと……あの。私、持久走が嫌いだなんて云ったことありましたっけ」と。
尤も至極であった。
「わからん。や……でも凡そ、あんな駆けずり回るばかりを喜ぶ奴も珍しかろ?」
「それも、そうですね」
「あたぼうよ。こちとら東海林じゃあるめえし」ふとして俺は左に目をやった。
見えしは、あえかな首筋である。
いささか目が合う予感もすれど、その間はあまりに玉響であった。
桧取沢さんの艶やかな黒髪が、淅瀝として揺れ動く。彼女自身は黙ったままに。
常、醸す情緒は大人びたものだ。
それでいて、化粧っ気なき眉尻は意外なほど稚い。これを玉肌というのであろう。
「……ま、そっぽを向かんでおくれよ。気持ちは解るぞ。
こんなの一通りのこっちゃない。全国規模の団体に喧嘩売ろうってんだから」
「す、すみません。気を使わせてしまって」
嫋やかな微笑みが、俺に愛想をよこした。「でも、何よりです。そう云って頂けると」
「東海林に関する見解は、無理に一致させんでも良いんでねぇかな。それぞれ調べて、また意見交換してけば」
双方向的な諜報が功を為すことも、これあるべし。
我ながら目下の妥協案としては無難だろう。
「飛鳥さんはいい人だと、本当は私も思っています。ですが宗教とは、得てして善人をも狂わせる物……」
桧取沢さんは、うつむき加減で語った。
「使命を全うするためには、やはり心を鬼にしなくてはなりません」お構い無しにさんざめく雨声。「――私だって、つらい」
終いの台詞は、傘の打たれる音で掻き消えんがばかりに華奢であった。
そして頷くことしか出来ぬ吾人がいた。
斯かるほどに我々は駅へ着く。
ここは小さくちゃちな駅である。我が校の生徒のほか、利用者はほぼ居ない。
歩廊に並び立つ我々と、眼前の海原。これらの間に、江ノ電が滑り込んだのは間も無くのことであった。
「時に、このところ君はどうやって調べ物をしてんだい」
傘で車内の床をトントンいわせながら、俺は云う。
何となく、話を仕切りなおしたかったからだ。
「……このあいだ買った新書ですが、興味深い記述がありました。天巫に関して客観的に触れている貴重な書籍です」
嬢も調子を戻しつつ、応じてくれた。
「教団関係者が出した本じゃなくてか」
「いえ、考古学者です。独特の切り口で先史時代を論じて、一部では有名な方だそうで」
「考古……へェ。面白いかもな、そりゃ」
どうりで詳しいわけである。
思わぬところに手がかりが有るやも、というわけか。なるほど一読の価値はありそうだ。
「あ、ならお貸しします。今持っているので」
鞄を開け、紙袋に包まれた当の書を取り出す嬢。
「おッと、濡らすといけねえ。包んだままで頼むよ」
しかして俺はこれを受け取り、そのまま背嚢に詰め込んだ。
彼女はフフと笑み、少しだけしっとりとした長髪を梳いている。
やはりこの娘は艶美である。
梅雨というこの時季が、桧取沢歓奈さんの纏う芳しい佇まいとやけに合うようなのだ。
見ているだけでも飽きぬものだが、喋って睦ぶに如くは無し。
――と、心底思った次第であった。
三
気の滅入る雨がざあざあと降り続いている。
走り梅雨らしきこの天候に風流を覚えるも、ものの束の間。
先ほど桧取沢嬢に「じゃあまた」と手を振ったが最後、もはやどうでもよくなった。華を見失った我が視界はただ蕭々たるのみだったのである。
斯くも降られては碌に自転車もこげぬ。
浸み始めた靴を悪しく感じつつ、家を目指してひたすら歩く。雨足に合わせるがごとく、往来の人も脚を急がす。
ぴっちゃんぱっちゃん、喧しいといったら有りはしない。
そんな中、輪をかけて忙しき跫音が後方より接近中。
速い、あんまりにも速い。振り返る頃には懐へ潜ってこられそうな程ではないか。
さあ、危うきか。逃ぐべきか。それとも――
「ひっやー……! 超ジャストタイミン! 何でもっと早く出くわせなかったかな、もーォ」
「ンぅ?」
ぶつからんばかりの勢いで我が傘に転がり込んできた客。
なんと、それは千歳であった。
しかし一目で然りと判ずるには、骨の折れるものがある。
何故ならその姿は間抜けなまでにずぶ濡れで、陸に上がった水魔のごとき見てくれであったからだ。
「なっ、何だ何だ。びじょびじょになっちまってまァ」
「やーん……ほんとサイアク。傘無いんだもん、昨日まで家にあったのにさ」
しとど濡れた体を、その手で詮無く拭う女。
我が傘は大ならず小ならず、中途半端である。
これゆえか、妙に距離が近くて弱ってしまう。雫がびちびち跳ねるのは嫌だが、当方いかんせん鼻の下が伸びるのもいけない。
「へ……へーぇ? 頓馬め、家で傘なんぞ無くす奴があるか」紛らわすべく、俺は努めて意地悪を云った。
「うっざ。これとおんなじ感じの透明ビニールのやつッ。
フツー無くなんなくない? ……神隠しにでも遭ったんじゃないかなアもう」
「あんまり阿呆ばかり云うもんじゃないぜ。そもそもな、ビニ傘ってのは世の回り物だ」
これはあくまで我が持論である。「とかく学校とかじゃ、ンなのは盗み盗まれを繰り返すんだよ。かくいう俺のも、拝借してきた品さ」
「何それクズ過ぎー。てか……あれ? あんたも朝持ってかなかったってこと?」
「いや、一本だけ有ったのを持ってった。が、例によって盗られたらしい」
「えっ。それってさ……」
「まあ良いってことよ。きっと誰かが大切にしとるだろう」
「――こンのバカっ!!」
斯くのごとくいつもながら、キイキイと苦情を立てる千歳なのであった。
さて。
やっとの思いで帰着すると、女は脇目も振らずに風呂場へ駆け込んだ。いっぽう吾人は、鞄を下ろして茶をば煎れんと湯を沸かす。
父に関してはよく知れないが、出掛けている様子であった。
しかしこんな雨の中、一体全体どこへ?
現在、恥ずかしながら彼の肩書は「無職」の二文字である。なら家に居ればよいものを。
まあ、馬券売場も五時には閉まる。とすると、帰宅はそろそろやも知れぬ。
そう思った俺は一応、湯呑みを三つ並べておいた。
ああ和ましや。
安物の急須がもわもわと湯気だつのを眺めつつ、嬢から借りた本の包みを解いた。
するとそのとき――
「ちきしょう、俺としたことが!
ええい、いよいよだ……こうしちゃおれんッ」と、騒々の体を以てこの和みを乱す者があらわる。
我が父・史に他ならぬ。
彼は周章した顔で息を荒げながら、どすどす帰ってきた。
「やアおかえり親父。どうしたね、そんなにまごついて」
「“神隠し”だ……出版社の社長と役員数人がやられた! あまっさえ社屋も放火とは!」
「すげえや。何云ってんだか微塵も解らん」
「俺の本を綴じてる出版社がよォ……糞ッ、今に見ていろ『かむなび』め。俺は腹を括ったぞァ!」
俺は耳を疑った。
よもや父の口から、その名が出るなど想像だにせざるがゆえ。
……しかも“本”とな?
「お、親父…………今『かむなび』っ云ったかい」
「ああ云ったとも…………むっ?」父は我が手を指さし、目を丸くした。「衛介、お前いつの間に俺の本を買っとったのか。阿呆、読みたきゃ云えよ。タダでくれてやったのに」
何だかわからぬ怪しの沙汰に狼狽する一方、にわかにその口角を上げる父。
ここへきて俺は、漸く手元の新書に目を落とす。
『八百万の母をたずねて~土塊に眠る神話の淵源~』
――――高砂史 著
さながら三流漫画のごとく、俺は奇声を上げていた。




