第二五話 『八重葎』
前回までのあらすじ:
仕事帰りの夕飯に、衛介らは地元の中華料理屋へ。
この店は彼が父に連れられてよく来た思い出の店だというのだが、久方ぶりに来てみれば値段のつり上げと味の劣化に驚く。空腹から色々注文してしまっていたのも、後の祭。
しかし何と、そこで立往生する衛介を救ったのは、他でもない父・高砂史だったではないか。家庭を顧みず好き勝手にしている父に衛介は業を煮やすが、史は息子を容易くあしらう。
そんな父だが、ふとしたことで機嫌を損ねて夜の街に消えて行ってしまう。
一
父が家へと帰ってきたのは、深夜も一時を跨いでからのことであった。
べろんべろんの真っ赤っかにぞ、なって果てたる拙宅の長。間抜けもここに極まりながら、管を巻くにも千鳥足にもどこか達者なところがあった。
事の脈絡その悉皆をうっちゃらかした我が父は、淫語のたぐいをホニャララ垂れつつ狭い玄関につっかえている。その口をしてぶちまけられしが酒反吐なんぞでなかっただけでも、一応この場を評して云うには祝うことにも値しようか。
俺の蒲団に卒倒するや、さながら野山の猪も斯くやと鼾奏でるこの始末。
よっぽどの事ごさんめれ、と忖度するのも癪だった。
「やっぱ勘弁できん。親父なんぞ、とっとと島根に戻っちまうがいいや」
いよいよ俺も屈託し、云いたい放題文句を垂れた。とうに白河夜船の父は、どこ吹く風とぐうすか唸る。
ああ、やっていられない。
「反抗期の息子って、難しんだね」
風呂から出てきて千歳が云った。今以て乾き敢えぬ髪をすきながら、我ら親子を一瞥す。
「……違わい。知った風に抜かすな」
「あは、ウケる」
台所の薄明かりが仄白く照らす少女の佇まい。生唾の飲まれる思いがした。
いけない。
当方どうにも欲求不満である。
懲りもせぬ父がごろごろと買ってきた酒の袋を睨み、いい気なものだと舌打ち一つ。
「てか、さ。意外となんも云われないんだね……その、居候だなんだって滅茶苦茶な事情なのに」
「ンー? ……阿呆は大雑把だよ、良くも悪くも頓着しねえ」
「塾のセンセは、テキトーなわけ」
「まあそりゃ、どんなもんなんだかな」
それにつけても我が気がかりは、当の塾講師が何故こうも突然帰ってきたのかという疑問にあった。
六月頭など、時期として中途半端も良いところではないか。加えて本日、火曜である。休講たろう筈はない。
嫌な予感が胸をよぎった。
ここ一月に渡る仕送りの途絶え。上述のことと併せて一考。
「ぬーう。なあなあ住吉よ、何だかもう色々と嫌んなってきたぞ俺」
「どしたの、いきなり」
「親父の血ィ引いてると思うとな、PIROの仕事なんぞ今後上手くいかねんじゃねえかって」
「あらま。最近あんな調子いいのに」
「こんな時むしろ親父みたいな無神経さが欲しくなるが、そこは遺伝せんかったよ。幸か不幸か」
「無神経ってアンタね……よく云うよ」
諭すがごとく千歳は語る。その様はどことなく、ものの道理を子に説く母を思わせた。
今の俺には母など無いが、やんちゃ坊主なりし幼少の吾人は、脳裏の奥底へ懇ろに刻みこんだものが有ったのだろう。
「――そもそもお父さんだって、実際ずっと申し訳なく思ってたんじゃないの? 最初、店の隅っこで気づかないフリしてたでしょ」
「あんなの悪びれて見えたかい、お前」
「どう絡んでいいか、タイミングわかんなかったんだってば。あすこで会うなんて予定外だし」
なるほど負い目あるとて、我らの困ったあの状況ならさぞ取っ掛かり易かろう。
そこまで見計らうとなると海千山千、親父というのは変なところが利口で好かぬ。
「……死んでも下手にゃ出ねえ気だもんな」
「割とそーでしょ、父親とかって」蛍光灯のもと、千歳の微笑みはやけに柔和であった。「どっかでお詫びはしたいのかもね」
彼女の言葉を噛みしめながら、冷蔵庫に酒を移す。一つ一つ、入れてゆく。
そして一部が、我が目にとまった。発泡酒やワンカップ大関の中に、父なら凡そ好みそうもない酎ハイ・カクテル類がごろついているのだ。
やれやれとて呆れつつも、俺は思わず口元を緩めていた。
「……そうなのかも知れん」ごとん、と缶を二つ置く。
「あっそれ、ヒョーケツ…………――えへ、まじ?」
「なァに。たまには良かろ」
疲労困憊こんこんちきで、参りに参って一ヶ月。そこに、百薬の長を一杯かそこら。
お固いことは慎まれたし。
然りとても、野卑と評するが正義やも知れぬ。ならば吾人は、正義を知らじ。
浅き夢とて見ればよい。好きに酔いもすればよい。
「じゃ、改めて」
この手のものを開ける際の快音が、俺はたまらなく好きなのだ。どうにもこの、人の喜ばせ方をよく心得たがごとき趣、あるいは鼓膜へ諸に愛嬌を投げかける風味である。
素晴らしきかな炭酸。
一度ぷしゅっと鳴ったが最後、もはや堪えられはしない。
「――おつかれさん」
仄白い薄明りの中、アルミの缶がこれ二つ。それらは互いを、小さく打った。
二
母が早くに世を去って後、吾人高砂衛介はその祖父の傅くところとなった。
例によって父は家を空けがちであり、まだ俺も幼く、身の面倒を見る者がどうしても必要だったからである。
祖父の気骨は剛健につき、仕付けはいつもこっぴどかった。やたら走らしむる然り、無理に相撲を強いるも然り。
そんな彼とて歳と病魔に敵うものではなく、三年ほど前冥土へ発った。
だが在りし日の彼はむしろ、たいへん木偶坊であったとも聞く。
徳が高いというでもなければ造作が敏いこともない。大した才こそ無かったが、のんべんだらりと働きはした。
偏に誇るに足りうるは、身の健やけきと書で得た知。
孫の吾人は常日頃、彼の汗牛充棟をただ読み聞かされた体である。
ものは童の笑話から小難しい漢籍まで多岐であったが、そうした教育方針には彼なりに思うところがあったのやも知れない。
児も三つより古訓に馴染めば、百までこれを懐にすべし。
彼の息子は道理を解さぬ、当代きっての唐変木だ。ならば可愛い孫くらい、せめてそれには似ずもがな、と。
そう願ったのであろう。
さて、明くる日の暮れ方のことである。
俺が素面の父と顔を合わせた所は、我らがアパートの玄関先であった。これは実に、十九時間ぶりと云うことが出来る。
「お出掛けかよ、親父」学校帰りのくたびれ顔で、目も合わせずに俺は云う。
「うむ。きっとお前は興味も無かろう所へな」
「こんな時間から馬券をか」
「たわけを抜かすな」
「じゃあどこ行くんだ」
「フィールド・ワーク。興味深い史跡が近所で見つかったと聞いている」
史跡、というと、この界隈では候補は一つしかない。
先月巷を騒がせて、現在立ち入り禁止となりし、件の土墳である。確かに父なら如何にも関心を示しそうな物だ。
されど彼処は、明らかに危険であろう。
「たんま、きっとそいつは駄目さ。親父のような物好きがいじりに来るおかげで、柵がついちゃったぞ」
「馬鹿もん、頭を使いなさい。越えれば済む話だろう」
「ばっ……馬鹿はどっちだ」
「好きなだけ云うと良い。いずれにせよ俺は行く」
ああ、何をか云わんや。
我が父とくればいつもこれである。
昔から、人の言など聞きだにしない。あまつさえ、今度は規制も何のそのという気か。
事ここに至れば、既に手遅れなのやも分からぬ。説得せんとて骨を折っても、馬耳東風は目に見えている。
――ならば最善は、子として最低限見守るまで。
くるりと彼に向き直る。
「なら……散歩がてらにお供しよう」
聞くや、父は怪訝そうに「キビダンゴの手持ちは無いのだがな」とだけ述べた。
何せ人も死せる、曰く付きの凶所なのだ。
紅世景宗の所在を鞄に確かめ、恐れも知らぬ男に続いた。
こういう風の吹き回しである。
三
古の有力者はその権威を死後の大地にも轟かすべく、葬られ方へは拘ること並々ならなかったという。
ゆえに配下の人々は、土を掘ってはこれを運び、運んではこれを盛るという重労働に従事した。
その労苦の結晶こそが、世に云う古墳なるものである。
しかし現代においてこれらの多くは草木の繁茂するところとなり、上空から見ねばそれとは見分けられなかったりも屡ある。
そしてこのほど発見された当地の墳も例外ではない。
鈍重な身をゆすって柵を乗り越えた父と、それに連れられ来た吾人。
眼前の小丘は幾重にも茂った葎に覆い尽くされている。そんな、深緑の風景が広がっている。
楽しげな四十雀どもの歌声は、我らをしてその心を和ましめた。
「横浜にもまだこんなイイ所があったとは。結構、結構」父はしみじみしながら云うと、煙草を咥えて火をつける。
「ン……まァなるほど、ホトボリは冷めてるのかねぇ」
「テレビで見たが、ここらには怪異が出たそうじゃないか。近所のことだ、衛介は詳しく知ってるだろ」
ここを見初めた灘足学院大の研究者らは、調査も半ばに変死を遂げた。
PIRO当局の見解に誤謬が無ければ、“犯人”はこの一帯で暗躍していた野守蟲である。
胸糞悪さの極みだが、美男に化けて千歳を謀らんとなどせる個体だ。
――と、俺はここまで知悉している。
かといって、これをしたり顔で詳説するのは如何なものか。
ややもすると、息子が剣呑な内職に従事していると露呈してしまう。心配をかけてはいけない。
「……親父は信じるかい、その手のを」
自明ながら、これは言葉を濁すべく弄した苦し紛れである。
ところが父は意味深な一呼吸を置くと、紫煙を燻らせ滔々と語り始めた。
「世の中は変わりつつある。先月までの御伽話は、今や世界のトップニュースだ。
あいにくこの目で、本物を見たことは無い。だが長年、俺は信じてきたさ。世にも奇妙な伝説を、な」
「親父は向いてねえよ、塾の講師なんぞ。そんなメルヘンな輩に務まる仕事とは思えんもの」
「そうさな……だからというのも何だが、あれは辞めてきた。それに出雲で新しい発見は、今のところ無い」
もはや驚きはしなかった。やはり我が予感は正鵠を射ていた、と。
残念だが、彼はこういう男だ。正直に述べるだけ、まだ良かろう。
「衛介。お前にゃ迷惑をかけて済まない。だが全て擲っても、俺には解き明かさねばならん事があるのだ」父の眼差しは、俺を真正面に撃つようでさえあった。「――然らずば、あいつも浮かばれねえよ」
「考古学者、高砂史の復活って?」
「ああ、そして幸い俺には愛弟子がいる。研究を安心して託せる、若くて優秀なコだ」
「……そうか、もうわかった。それで以て博士よ、今日の調査はどうすんだい」
「陽が落ちちまう前に写真をちぼちぼ撮ったら、今日は引き上げる。下見が出来りゃ充分だ」
ならば本日は然したる厄もなく上がることが出来そうだ。これに優る結構は無し。
だがその一方で、頬を打つ風は妙によそよそしく感ぜられた。
草の香りに紛れこんだ、何か異なる「生」の気配。恐れるまでの強さは無くも、ごく微弱な妖気の感だ。
しかしこれしき、小動物でも宿しうる。もしくは人に化けたる
怪が、隠しきれずに出す程度。
しからば何ぞと気になって、思わず風上を見やった。
「ちょっとそこの方々、困りますね撮影は。即刻中止してください」
「……ん。オヤ、いつの間に」
気配の主が開口せるは、俺が振り向くのと殆ど同時であったと云える。
――居合わせたのは五〇代そこそこの男であった。
斯かる野に出て来ていながらも、しゃんとした背広を着こんで背筋正しく佇立している。風景と合わせて見ると、その様は如何ともしがたい不調和感を漂わせていた。
彼はこんな場で何をしている?
考えたくなどないけれども、人真似の怪であることは或る程度想定すべきだ。
密かに俺は身構えた。じわ、と身体を妖気が巡る。
「へェー、奇遇な。そちらもお散歩ですか」飄々と問うは考古学者。「その丘から良い夕焼けが見えそうです」
「とんでもない。ここは立ち入り禁止の陵ですよ。気安く踏み入れないで頂きたい」
「こりゃ失敬。ならば、そちらはさぞ気安からぬわけですな」
「当然です。視察は歴とした公務なのでね」
すると男はその懐から名刺を取り出し、父に渡した。
「ほお。『特定遺造物保護管理院』……知りませなんだが、きっとご立派であられる」
「つい先日、宮内庁の書陵部から分離独立した組織であります。まだ日も浅く、ご存じないのが普通でしょうな」
宮内庁とな。
思えば先月の報道では、この敷地がすっぽりとそこの管轄下に組み込まれたとのことだった。それを新設の役所が接収したという話であろうか。
今一つ、沙汰の骨子が見えてこない。
俺は小首を傾げたままで、沈黙寡言を貫いていた。
「何卒ご理解を。そこのフェンスが開閉できますので、ご案内致しましょう」
「出口とはありがたい。ワっハハ、帰りもよじ登るのは堪えますよ流石に」
父は挑発でもするつもりなのか、はたまた真の無神経か。いずれも大いに考えうるから嫌になる。
役人は苦虫を噛んだように、背を向けるや歩き出した。また曰く「――して、お隣は息子さんですか?」と。
すぐさま父が吾人の背中をポンと打つので、その勢いで頭を垂れた。
「ど、ども」
「やあ……初めまして」
斯くのごとく、男との間で交わされた言葉は当たり障り無きものであったと云えよう。
ここまでなら良かった。
ところが次に我が耳へ飛び込んだ台詞は、凡そ予想だにせぬ旨だったのである。
「仕込んだそれで君が何を斬るのか、私はとても気になるね」
――何を以てかこれを察せん?
擬神器の妖気を感知せるか?
咄嗟の我が舌に、まともな返答は陳ぜられなかった。動揺せり、とは云うまでもない。
しかしなるほど、流石にこうした凶所の管理者である。世にて奇異にぞ通ぜるは、PIROや呪術師のみにあらざるか。
否、然りて然るべし。
畢竟するに目を向くべきは、今や大変幅広い。誰からどんな情報を掴めるか、もはや分かったものでもない。
常世の者も跋扈して、とち狂ったる平成日本。ならば吾人の回答はこうだ。
「……残念ながら、時代は随分とおかしくなっちまいました」そして、やはり打ち明けよう。
斯くなる上で隠し通すはむしろ愚かで見苦しい。「――そこで、人類に仇為す輩をぶった斬るんです」
「PIROか……頼もしい息子さんをお持ちですな」
帰りの道中、父は言葉を失っていた。
今日のフィールド・ワークにおける父の最大の発見は、一人息子がかの危険な職場で日々粉骨砕身している、という事実となったのであった。
陰謀論者と怪異ハンター、一体どちらが如何わしい仕事か。
思えらく、一概には断じえぬ。




