第二四話 『中華飯店品書き夜話』
前回までのあらすじ:
神奈川県藤沢市沿岸にて蛟を捕獲した衛介と千歳は、帰路の道中その日の仕事を振り返っていた。
なかでも衛介は、麻酔のかかった蛟を撮影したりして逃げた外国人の集団に対し立腹が収まらない。「捕鯨に見間違えられたのだ」とは専ら彼の弁だが、その真相は闇の中である。
一
つらつら惟るに、鯨を食わぬ西洋人がそれを食う倭人に難癖を浴びせるのはやはり非義である。
彼らの主張によれば、鯨は極めて知的な高等動物であり、それを銛で突き殺すなど非人道的この上ない狼藉とのことだ。
……この論は果たして道理に適うか?
蓋し、ちゃんちゃらおかしな話であろう。
逆に聡からざれば、食ってよいとでもいうのか。俺も頭に自信は無いが、それが妖怪どもにしばしば食われかける理由なのではない。
こうした我々の憤悶はいつしか片意地を育み、また奇説の温床ともなった。
例言するならば、
『反捕鯨の論陣に立つ勢力は相当数いる。そしてここで筆頭として挙がる米国・豪州・ニュージーランドなどの国々には、ある特徴が共通する。
そう、いずれも穀物輸出大国である点だ。
穀類は牛豚など家畜の主要飼料だが、鯨の成育には使いようもない。
だから、戦後食肉市場における牛・鯨の拮抗は初期の反捕鯨運動へ大いに油を注いだ。全て彼ら輸出国の利がために。……これを謀略と云わずして如何ぞ!』
――などと。
さて、教養ある諸兄には自明のことやも知れぬが、以上はいわゆる『陰謀論』である。すなわち信憑にはてんで値せぬ。
己の不眼力を潔しと為せなかった唐変木による立ち小便、といえばよかろうか。多くその論者には、声尻に「妄言多謝」と追申を添える可愛げだに無い。
しかし思えば我が父も、それらに大差無き暴論を以てつねづね我を張っていたのである。
ふと俺は、きまりが悪く思われてならなかった。
「俺の親父が若かった時ゃ、クジラ赤身の缶詰っつえば一つ云十円だったんだとよ」
「何それヤバ。家計の味方じゃん」
「旨めえかどうかは知らん。お高い『ベーコン』とは違うしな」
「ま……この餃子よりマシっしょ。しかも五個で八百円とか何事よ?」口を窄めて、千歳は云う。
仕事帰りの我々は、地元の中華料理屋を訪れていた。
ここはその暖簾を「遼東飯店」と号し、吾人幼少の頃より、父に連れられずいぶん通った店である。
が、行き付けという程の義理は果たせていない感があるため敢えては称さない。
とりわけ最近など私生活が突拍子なく、無沙汰となって久しいかと思う。
千歳の台詞はそんな御得意の店に対する悪口に他ならなかった。けれども腹はちっとも立たぬ。
何とも悔しきことに、彼女の下した評価は非の打てぬ正論であったからだ。
「そのー……謝らしてくれ、住吉。でもな、こんな味じゃアなかったんだよ前は」
うしろめたさに駆られながらも、女と共に後言つ。
閑散きわまる店内にては、我らの会話も筒抜けとなりかねず気を抜けぬ。
客は我らの他、カウンターの端で身を屈める初老の男が一人のみ。店主もその趣をいくぶん窶し、ぼうっとテレビを眺めている。
この際ざっくばらんに云ってしまおう。
当店はたいへん不味くなった。
かつては安い・旨いとそこそこはやり、店内が常連で満席となっていた筈である。しかるに悲しきかな、これが見る影も無いではないか。
値段に関しては増税その他大人の事情とてあろうが、一体全体この味はどうした?
こんな水っぽい餃子では進む飯も進まない。
「あたし二つもらったよ。あと一個食べれば?」
「や、遠慮すんな。お前食え」
「……ううん、お腹いっぱいだし」
「面白れえ。実は俺もなんだ」
「嘘ばっかり!」
と、残念ながらこんな具合である。
心なしか、店の雰囲気もどことなく妖しげであった。
清潔感はかつてより確実に上がっているのだが、厨房横の神棚にはおかしな顔の仏像が置かれ、なんだか煌びやかに飾られている。目玉の矢鱈とぎょろぎょろした、妙ちきりんな像である。
「とっとと帰ろう。やってられん」最後の餃子を口へ頬ると、俺は財布を確かめた。「都合いくらだ?」
高い・不味いに眉を寄せても、食った分は払わねば。――しかしここに一難迫る。
「…………炒飯入れて二九〇〇」
伝票を前に青くなる我々二人。「た……足らねえぞコレ」
「あはは。あたしら給料前だもんね、しゃーない。……しゃあ、ない」
果たしてこの敗因は何か。
あらん限り列挙すれば、以前どおり安いと高を括っていた短慮が一。そして霊札を買った経費を未だ事務所で落とせておらぬで二。
そして三は、父より送らるべき仕送りがこのところ一向に滞っていることである。
……ああ、紛れもない最大の所以はこれならん。恨めしや恨めしや。
さて、術の便もこれ有らず。山より高い父の咎をつべこべ語るは後にしよう。
「畜生、この空きっぷりじゃ食い逃げも出来ん」
「ばーか。何いってんの…………って、え?」
「その子の云う通りだ衛介。そんな野郎に育てた覚えは無えぞ」嘯く俺を諌める正論の群れ。
「解ってら、冗談だい。ツケといてもらえるか聞いてみらあ」
今どきそんな約束罷り通るか不安ながら、他に手もなき現状だ。
「ンなこと抜かさず座ってろ。親が飲み終えるのくらい待つもんだろう」
「あー、だが今の俺はそれどころじゃア――…………は?」
はてな。ただいま吾人と言葉を交わせしは誰ぞ。
こうも自然に会話となるのだ。然れば、よほど馴染んだ者にごさんなれ。
――否、否。
この声は問うまでもない。吾人が知らぬはずがない。
「鯛も一人は旨からず、だ」
カウンター席の端から、初老の男がこちらを見ている。その顎は麦酒の泡で真っ白となり、久々に見る彼の面をばことさら間抜けに見せていた。
二
遠い地に一人赴きその職に勤しむ親がいたらば、子はこれを心底敬わねばなるまい。そして時たま彼が戻れば、笑顔で慰労の限りを尽くす。
これぞ然るべき、孝道の理であろう。
ところが子とて色々思う。
父父たらずといえども、子は以て子たらざるべからず――と、云われてしまえばそれまでだけれども、我慢もならぬことはある。
今の状況が正にそれであった。
「…………帰って、きたのか」俺が歯ぎしりしながら云うに、千歳はその目を丸くした。「――親父よォ」
図られざる邂逅。なにゆえ前振りさえ無いのか。驚くことも無理からぬ。
改めて紹介致そう。
現れしこの男こそ我が愚父、“インチキ考古学者”の高砂史である。
「オウ衛介、見ればわかる。帰ったぞ」何食わぬ顔のまま、父は云った。
「……どうして帰る前何も云ってこんかった」
「俺が俺の家に戻るのに断る義理なんどあるか」
「こんにゃろッ。ああも梨の礫にしときながら、ぬけぬけとよくも!
おまけに電話も繋がりゃしねえ……いよいよくたばったかと踏んでたところよ」
「べらんめえっ、何だその言い草は!」
「何だもかんだも無えや! お蔭で火の車だ!」
再会早々、闘いの火蓋は切って落とされた。やはり瓜の蔓に茄子はならず、我ら親子は双方喧嘩っぱやい。
千歳はどうしてよいやら解らぬようで、厨房奥の店主に一揖し「すいません」とだけ云った。
「甘ったれんじゃないッ。若けえ時の苦労は買ってでもするもんだ!」石に漱ぎ流れに枕すとはこのことか。「大将ォ、中ジョッキ持ってきてくりゃア」
子の堪忍袋にも尾くらいあるのだ。さあ、いい加減それを教えてやらねばならぬ。
「どこにンな金があるって、えぇ?」
しかし父は鼻で笑って腹の太鼓ををポーンと打つと、事も無げに答えた。
「おめえらの足らん分も、俺が居なきゃあ払えんだろう」と。
一つ溜息吐いた千歳が、にやにやとしてこっちを見ている。俺をして反論すべからざらしめた現状を可笑しがっているようであった。……全くこれだから成っていない。
斯くして、当方は不服有りながらも場は丸く収まりつつあった。
父子の会話はなおも続く。
「久方ぶりに帰って来てんだ。馴染んだ店で旨めえモンをムシャムシャやって、プハアとやりたいわけよ。なァ、解れ息子よ」
旨そうに搾菜を喰らう阿父。ここの料理らしい料理は、まだ注文しておらぬとみえる。
「ちっ、こっちがどんだけ貧乏か知りもしねえでコレだもの」
「前回俺が出てくとき入ったコンビニはどうした」
「や……あれは、その……辞めてやった」
「がははは、馬鹿でェ」
俺はどうにも恥じ入って堪らなくなった。千歳が見ているというのに、やっと少しずつ積み上げつつあるやも知れぬ面目を潰されたくない。
咄嗟に内職を「辞めた」となど述べたが、実のところ解雇であったとはとても云えぬ。
そもそも遅刻癖で店長に睨まれていた上、日々の廃棄処分弁当を無断横領していたところ咎められ、納得ならぬと反抗奉った結果だ。
三度の飯を一挙に得られる土ぞと思いきや、そこの地頭はとんだ分からず屋であった。
「と……ところがどっこい。今は世のため人のため、別な仕事で身を粉にしてる」そして終始傍観の千歳を指し「こいつはその同僚。もとい居候」と補足した。
すると、おもむろに折っていた箸袋を放って直る千歳。よもや己に振ってこられるとは思わざりてか、サイド・テールがびくんと跳ねた。
「オウ、確か住吉ちゃんていったか。小便臭せえ倅がえらく世話になってるようだが、さぞかし面倒も有ろうになァ」
「えっ別に……アタシなんか、そんな」
「猪口才な真似してやがったら引っぱたいてやると良い」
「あー、あははっ、面白い! でもそういうのはしないんです、清楚なので!」
……何をこやつは戯けたことを。単語の意味を知らざるか。桧取沢さんの爪垢を煎じて飲ませてやりたい。
斯かるほどに、この“不味い”飯店は閑散としつつもその客は和やいでいた。客とはいえども三人のみだが、かえって我らに都合は良かった。
――ところが、である。
冷えた麦酒の呑みたさに、痺れを切らした我が父。厨房奥へ向かって一声。
「おうい、ビールまだかい」
しかし大将、答えて曰く
「すみませんねお客さん。さっきのでビール終わりです」と。
「あぇ? どうしたンだよ、一体全体」
「……いえ、お客もそんなに来ませんから。先週仕入れたっきりでして。また来週は入れときますよ」
痩せこけた頬をしょぼしょぼさせて、店主はそう云った。
「冗談だろうオイ、お宅はいっつも繁盛しとったじゃないか」
「今の僕はお客なんか来なくても、それで自分のお腹が減っても、“天巫”のご加護があるから精神的ハッピーを享受してますよ」
「アメノ……おめえ今、何つった?」
「えっ、“天巫”ですが。ああお客さん。もしお暇なら今度どうです、僕らの座談会に。初参加ならタダで――」
「大将ッ!!」遮るように父は立ち、卓に五千円を打ち付ける。「……おあいそだ」
どうしたものか。
その形相は、常といささか異なって見えた。
意図するところを解せもせずに、我ら二人は連れ出だされる。父の眉間は梅干しのごとく、しわくちゃであった。
暖簾をくぐると極めつけには唾を吐き、以下のとおり罵る。
「こんな店では二度と飲まねえ」と。
会計時に客が「おあいそ」と唱えるのは、失敬さを孕んだ誤用であるという。
然れどひょっとすると、父の口をついた“おあいそ”は、むしろ「愛想が尽きた」という腹の底を滲ませたものだったのかも知れない。
穿った見方をすればだが、俺には確かにそう見えた。
父は我らを置いてけぼりに、夜の街へと消えてゆく。
一体何のつもりか、これは問うだけ野暮やもと。そう思われた次第であった。




