第一九話 『灼熱光線』
前回までのあらすじ:
一連の事件に関わってきた妖の根城を完全に叩くべく、榊は掃討作戦を立てた。かくして再び樹海に足を踏み入れた一行であったが、今度は全く敵を見ぬまま、地下に隠された巨大な部屋に行きつく。
そこで突如その“持病”である“頭痛”に襲われる飛鳥。衛介らは慌てて介抱するが、時を同じくして辺りに怪しげな光が燈る。しかして何の因果か、恐るべき大怪獣が復活してしまう。
目覚めしは八咫鴉。
天を覆うがごとき漆黒の翼が、富士の森から飛び立った――。
一
迅雷耳を覆うに暇有らず。
「ありゃあ一体何だっ、いーや、何だったら何なんだッ!?」
総員、半狂乱である。
朝ぼらけの樹海より、矢庭に舞い上がった梟猛なる大怪獣。これを追うべく車に飛び帰った一行は、現状の把握も碌にままならず、ただ大騒ぎを呈するばかりであった。
「知んない! 全然よくわかんないけど、そこらのセスナとかより大っきかったかもよ? あと、脚が三本あったかも!」
「脚ぃ……!? 俺にはどうも尾っぽに見えたぜッ、先っちょに爪の付いた尾だ! いや、棘かも知れん!」
「……私にもそう見えました」
「でもよ、なっ何で……どうしてあんだけドデカイやつが空を飛べんのさ? 信じられねえっ、嘘だろどうなってるんだよ!?」
「そりゃ裕也お前、羽が生えてりゃ誰だって飛ぶだろがよ……つまり驚くべきはそこじゃねえと思うぞ」
何とか気を取り直して、桧取沢嬢の持つ妖気探知レーダーを頼りに八咫鴉の追跡を開始するのだが、車へ戻るまでの間に随分距離をつけられてしまっているようだ。
加え、ここらはくねくねと曲がった下山道を通らねばならぬから、ここから更に離されてしまうであろう。
「てかさぁ、そもそもあれはどこに向かう気なわけ? 歓奈ちゃん、レーダーって追えてる?」
「聞いてあまり宜しくないかも知れませんが……この方角は恐らく人口密集地区へ」
「えぇっ……そ、それヤバいでしょ、絶対ヤバいよねぇ!?」
見る限りあの大鴉の嘴はその形状が蜊蛄の腕先に酷似して、鋭利な剃刀歯をずらりと並べていた。
そこから推し測るに得られる答えは一つ――彼が生きる上で肉を喰う者だということである。
巨大な変温動物は我々を前に朝日で体温を存分に高めたところ、その巨躯を養うに足る餌とするには少な過ぎると悟ったのであろうか、より多くの糧、すなわち人間が群れる地へと移動を開始したと見られる。
如何にして獲物の場所を突き止めたのやらは判らねど、あれが人里に飛来した時点で以てもはや大惨事と為すは必至。
弱肉強食の理を忘れた我々現生人類は捕食者に狙われた際、如何に逃げ延ぶべきかとの心得が無きに等しいのだ。
このままゆけば山梨県民の命が危ういではないか。
「ああーでもさ、ちょっと訊いていいか」そんな中で裕也が恐る恐る問うた。
「どうしたい」
「お前らあの馬鹿デカイやつ追っかけてどーすんの? ま、まさか戦うだなんて云わねーよな? だよな、流石に刀で勝てるわけねーもんな。自衛隊呼ぼうぜ、ウン、間違いないわ。それがいいに決まってる」問いつつも答える前に自己完結を図る友。
……気持ちは実によく解る。解るのではあるのだが。
「いっ、いやいやまァしかし……仕事がら放っとく訳にもいかなそうなもんだが……せめて陸自が来るまででも暴れねえよう見張るとかせにゃ」
「まず自衛隊って一一〇番かなんか来てくれるんだったっけ」
「ンーム、どうだったかなァ。ちょっとわからんぞ……」
ああした部隊が果敢にも怪獣へ立ち向かってゆく特撮番組を、思えば俺は幼少のころ好んで見ていた。
番組内では各回その都度一頻り彼らが奮戦した暁に、光の国より銀の巨人が現れるなり、車輪のごとく宙を舞う大亀が飛んでくるなりすることで本那は幾度となく難を逃れてきたのである。
現に天駆ける怪獣が実在し市民を恐怖の底に陥れんとしているのだ。この後上記の者達やそれに順ずる何かが出てきてくれる可能性は捨てきれぬ。
それ程までに、世界は意外な者どもが実在しているとこの一週で判ってきた。云わずもがな、既に様々な奇想天外を目の当たりにしてきているのであるから。
「いきなり軍隊なんて出すよりまずオマワリさんとか呼んだほうがよくない?」
「って、それこそ勝ち目無いんじゃないの」
「だってさっき云ってた一一〇で来んの警察じゃんよ!」
するとどうしたことか、興奮した飛鳥の声に更なる大声で一喝叩き込むものが現れる。
「五月蝿い! 考えが纏まらないから、少し静かにしててくれッ!!」
「ひっ……」まさに水を打ったようであった。先刻から運転に専念するあまり聞きに徹していた指揮官、榊が突如怒鳴り上げたのだ。
沈着冷静な彼が声を荒らげるのを見たのは初めてで、我々はそこに驚きを隠せない。全く無理も無きことながら、他ならぬこの男も現状に大層動揺しているのであろう。
「前提として、まず僕らが何のために官庁から認可を受けたNPOだか解っているのか?」
一同を睥睨した彼は昂然と問うた。
然せる上で、誰も答を弁ずる前に云い放つ。
「怪しげな情報を狭い範囲に留めるのは勿論だけれど、人知れずに頻発するこうした諸問題にわざわざ警視庁や防衛省の手を煩わせない為でもあるんだぞ」と。
「そうは仰いますがな、今度のは『人知れず』ってわけにもゆきますめえ!」
「ああ勿論……悪いけど、今回は完全に例外クラスのものだ。僕も正直、要領を心得かねているよ」
指揮官殿がそれでは一体我々なんぞどうするのか、とは恐らく総員によぎったところであろう。なかんずく裕也はそんな顔をしていた。
暫くに渡って無為な沈黙が続いたところ、榊が再び口を開く。
「よく聞いて欲しい。まず君たちには梶原君を除き、既に現場に向かったであろう東海支部当局と合流して八咫鴉討伐を遂行してもらう。
犠牲者・被害ともに最小限に抑えつつ可能な限り迅速に駆除したい。多人数連携をする以上、勝手な行動は慎んでくれよ?」
「やっぱしマジで戦う気なのかよアンタら………冗談だろ」
「梶原君。きみはこの車に載ってる通信機器をフル活用して僕らをサポートしてくれ」
「えっ、俺なんてあんまり……そんな」
「気が進まないのか?」
「あ、いえ。機械弄りは嫌いじゃないっすけど、流石にこんなん上手く繰れるかどうか」
「つべこべ云うな、今は人を選ぶ暇なんて無い。……頼むから、協力するんだ。多くの人命が懸かっている」
「ぐっ……。でもあんたらは、刀に弓に棍棒にって――何故そんな原始的なやつばっかりで空飛ぶモンスターに挑まなきゃいけないんですか。
た、確かに俺は戦いに出ないかもしれない。それはいいとして、友達のことがあまりに心配だ」
言葉尻には声色を落とし、彼は榊に訴えかけた。己の無力を弁えながらも我々を気に掛ける親友の姿が、よくよく殊勝さを感じさせる。
「おお裕也よ、お前って奴ぁ」
「……大丈夫だよきっと。うちのクラスの男子とか、みんなでこーいう感じのゲームやってたもん。ね、チィちゃん」
「え? う、うんうん。まぁ気分的にはそっかも…ね? 裕也くん、あほの衛介のことが心配なのは、あたしも解るよ。
でもさ、この人は過去二回も何だかんだでちゃあんと生きて戻ってるんだから、さりげ運も強いって思うの」
二人の少女は無根を語った。が、そうは知りつつ俺は云う。
「そ、そうとも。この阿呆、お前の思うほど易々くたばる予定は無え。阿呆はしぶといのだ」
ざっくばらんに答えることがもし許されたのならば、打ち勝つ自信など毛頭無しと云いたきものであった。
然りとて女子供が左様に纏まりかけている中に水をさすなど、男にどうして出来ようか。
「ちっくしょ。ンだよお前ら……カッけえよ」
「…………」
「梶原君、もう一度聞く。協力してくれるね?」
友は諦意を示しつつ、妥念に満ちた笑みを浮かべる。漸く決心が固まったらしい。通信員として力を添える、剛き決心が。
司令塔の言葉に、裕也はふかぶか首を縦に振った。
「榊さん、次のインター・チェンジで降りて下さい。レーダーからして恐らく鴉はあちらの市街地に」
「了解。皆、心の準備を宜しく頼む。あれは決して弱い相手じゃない」
高速道路を降り街へ入ると程無くして、脇の歩道に何やら大勢の人が波のごとく押し寄せてくるのが目に入る。
ここに空前の危機が迫っていたとまでは、論をまたぬことであった。
二
今思えば我々はあまりにも遅過ぎた。何が遅かったかと問われれば、それは自動車や交通状況の話ではない。
漆黒の翼竜、八咫鴉と樹海で合間見えた段階で、まずそこから発たすまじと即座に食い止めねばならなかったのだ。
飛行する生き物を一度空へと放ってしまえば陸を走る者がそれを追うのは難儀を極める。猫が捕らえうるのは飽くまで地に居る鳥に限るのである。冷静に考えたならば、云わずとも自明の理やも知れぬ。
口をあんぐりと開け飛び出さんばかりに目を見開いた我々の姿は鴉の瞳にさぞかし無様に映ったことであろう。
しかし弁解が許されるならば、これは無理もなかったと云わせて欲しい。
……むしろ暗闇から何とか逃げ出したと思えば背後が爆発する上、中から這い出た魔物が樹海の木を焼くところをなど見て驚かぬ者の方が余程どうかしているのだ。
しこうして結局この期まで光の巨人も、亀の大怪獣も我らを助けにやってくることは終ぞ無かったのであった。
人に仇為す物ノ怪ばかり実在しながらそれを抑える者が不在とは、この世の何と不条理なることよ。善魔の均衡が丸きり成っていないではないか。
「思ったより状況が悪そうです。反応はまだ数百メートル先みたいですが、向こうの住民はどうしているのでしょう? しかもここの支部の方々と連絡がつながりません。あれだけの妖気を見れば、とっくに出撃して来ている筈ですけど……」
我らがやってきたのは同県甲府市の中心部付近。すぐ側には甲府駅が見える。
「げっ。とっくに大混乱じゃねえかよコレ」
状況は逼迫を極めていた。どうやら町行く人々が既にパニック状態に陥っているらしく、まさしく妖気反応の発信源とは真逆の方角へと群集が流れてゆく。歩道は凄まじい人だかりに氾濫を起こしており、ふとした将棋倒しによる事故も懸念されよう。
……とは云え、喰われてしまっては元も子もあるまいから、まず逃げるという判断自体は至極賢明である。
以下に思う。
もし今般が戦中であったらば、鴉を米軍の艦載機か何かと勘違いすることで空襲警報が鳴らされ、住民らはかえって迅速な避難が叶ったのではあるまいかと。皮肉なものである。
俺を含む現代日本人はこの上なき平和慣れに因って生命的危機感を奪いとられ、まさかの有事に備えるといった心得が凡そ無い。
当時とて無謀にも竹槍で挑みかかる者が居たか否かはいざ知らず、備えと常日頃にわたる警戒の有無は差として見るに雲泥だ。
我らが車はレーダーを頼ってひたすら進む。
「ビルとか所々煙が昇ってる……ほら、見てよ! あっちなんかめッちゃ燃えてるし!」
「……うおわァ。こっりゃあ陸自がどうにかせんでも住民逃げたくなるわな」
然もそうず、飛鳥の指摘通りであった。駅周辺ですら此処彼処の建屋から煙が上がっていたり、あるいは完全に破壊されて瓦礫に帰したものもあるらしい。
車窓からの景色は目標に近づくにつれ、いよいよ凄惨なものとなっていった。
八咫鴉、太陽の鳥。
それが撒き散らかされたる灼熱の怪光線が、甲州きっての名都市をたちまち爆炎の海へと投じたのである。それゆえか一帯の気温も茹だるようだ。
神代の昔に倭の民が見たものがこれと本当に同じであったかは定かでないものの、赴く所に光と熱をことごとくもたらすその姿が、天照らす日輪と関連付けられたということだけは確かであろう。
たといその正体が鳥ではなく、太古の爬虫が類であったとしても。
「鴉倒さない限り、おちおち消防車も来れないってことじゃん。ちょっと怪獣映画が本格的過ぎなんですけど…………何なのコレッ」
「目標、あと五〇メートルほどです」
「さて、この辺りで降りるとしよう。後は静かに近づいたほうが良い」
「お、俺はここで待機ですか? あとこの無線機、接続出来るっスよね?」
「大丈夫。機材は万全さ」
「……じゃあご武運を」
やはりいささか不安げな裕也が気になるところではあれ、心を鬼にして彼を残す。狂乱の渦と化した甲府の地に、我々は遂に足を着けた。
「ねぇ見て!」千歳の指差す遠く視界の先、ビルの間に巨大な黒い妖怪が四足を躍らし動き回り、吹き荒れる焔と巻き上がる粉塵の中を人々が逃げ惑う様子が見える。
翼竜は鳥類と異なり羽となった前肢に三本の指を残しているため、地上の機動も自在であった。相手取るには、厄介なことこの上無きものに違いない。
しかしながら、そもそもああまで好き放題に荒ぶり回るを許すなんど、東海支部とやらは一体何をしているのか。
女・子供が悲鳴を上げて、果ては大の男さえも恐怖に泣き叫ぶ。
「あすこに居るようだな……って、あァっ?」するとどうか。
間違っても俺は望まなかったことだが、目を覆いたくなる光景が目に入ってきてしまったのである。
「う、うっそ…でしょ……何やってんのあれ!?」
「人がっ、人がぁ!」
「おもクソ食われてんでねぇかッ」
――阿鼻叫喚の沙汰と云わずして何とか云わんや。
混乱に慄き逃げ遅れた哀れな住民らが、当人でも訳の解らぬうちに鴉の嘴に摘み上げられては、肢を振り回されて千切れ飛ぶ。梅雨に先駆け、皐月の晴れ空に朱雨が降った。
死んでいる。
人間が眼前で殺められている。新鮮な生肉となってことごとく飛竜の胃腑へと収められてゆく。
幾人も、幾人も。
この期に及ぶと最早、景色の内では火災の赤きか血飛沫の赤きかすら朧なものとなっていた。
斯くのごとく、今に吐き気を催さんばかりの惨たらしい地獄絵図が展開されていたのである。
人の体が乱雑に引き裂かれて果てる光景。
そして何所より漂ってくるのやら、肉の焼け焦げる匂いが鼻につく。こうも不味そうに焼けるにおいは、未だ嘗て嗅いだことが無い。
紛れも無くこの光景は我が人生の深刻なるトラウマとなることであろう。先程まで勇んでいた飛鳥ですら周章しきり、既に泣き出しそうな顔で目を伏せんとしていた。
トラウマは長い時をかけ、良き思い出で上塗らねばなるまい。遵って当方も、努々ここで捕食を受け入れる訳にはゆかぬ。
「ッ……対象の駆除より市民の避難を優先すべきでは? どうしましても、このまま犠牲者を増やす訳には!」
「だろうね、桧取沢くん。だがそのためにも、まずは民間人から奴の意識を逸らさせるんだっ。背後へ回って攻撃せよ!!」
「…………!」
「う、うスッ」
それにつけても三〇メートルほどの距離まで近付いて見ると、やはり怪物は箆棒にでかい。
如何にして首尾良く懐へ潜り、太刀を浴びせたものであろうか。――あいにくこの時の俺には算段が無かった。
緊張という名の魔は悪意を以て我が身を鈍らしめている。
柄にも無く足が竦む感覚。それ程に恐ろしかったのだ。
「みんな続け……先陣は僕が切る」しかして我らが旗頭・榊隼斗は初にその擬神器をお披露目する。「さあ『八式撃妖剣-羽辰刈』、獣の血潮はご無沙汰だったな」
男の右手に、四尺もあろうかという唐大刀が姿を現した。
寸刻置かずにまた声上がる。「総員、作戦行動を開始せよ!」と。
我々の戦は彼が目にも留まらぬ所作で、その様さながら燕、蹶然たる先制攻撃に踏み切った瞬間を以て、遂にその幕を開けたのであった。
三
勇猛果敢なる榊御大は引力自在の術による鮮やかな飛空芸で鴉に接近し、小手調べとばかりに斬りかかる。これがこの狩りの事始となった。
黄色に光りながら妖気を放つ彼の唐大刀は幻想的ですらあり、我々とは圧倒的に線を画す力を如実なまでに物語っていた。蓋し千軍万馬の尖兵と云う他にない。
「さぁ……僕に見せてみろッ、お前の力がどんなものか!」
ただし八咫鴉も伊達に怪獣ではない。
迫ってきた彼に気付くや否や玄翼を翻し、その巨躯を軽々と宙に舞わす。寸でで狙いを外された榊は体制を崩しかけるも、空中で器用体を捻って着地した。
「は、早く、あたしらも援護しないと」
「待てよ住吉、早まっちゃならん! 彼奴もあんな格好のわりに馬鹿じゃなさそうだぜ、正面から突っ込んだらガブリとやられかねんぞ」
「チッ……こっちはあんたと違って飛べんのよっ! お先に失礼!!」
「おぉ、オイ、待てっての」
千歳は我が静止を意にも介さず飛び立った。流石に、長らく吸精の勾玉から力を得ていただけのことはあってか動きには目を見張るものがある。
が、あの冷静ならざる様相では如何。焦って攻めれば勝てるという相手でもなかろうから、心配なのだ。
「やー、チィちゃんいっちゃったよ……!」
「あんにゃろ、運も無え癖に無鉄砲な女だ」
「私はここから援護射撃をします。飛鳥さん、高砂君、お二人はあれの注意を近辺に引いておいて頂けますか?」
「むう。お安い御用とはいかねえが、引き受けた」
「じゃあ両側からかかろうよ。そしたらどっちかは叩けるよ? た、多分だけども」
「良かろ。しかし東海林、俺らの目的は仮にも囮、ようは危なくなってまで深追いするこたないから忘れんな」
「……了解だよっ」
「ではお二人ともお願いします!」
「応ッ」
為すべきことは把握した。上記の通り我が目的は囮である。一太刀加えるのは余裕があればで良いのだ。確かと解れば、いざ参らん。
「エースケ君、そっち右からだかんね!」
「承知ィ」
先ほど舞い上がった鴉は翼をはためかせ、そこから吹き荒ぶ烈風で千歳の勢いを削ぎ避けると、僅かの間低空飛行して後再び着陸した。
しかし時を同じくして着地する千歳も樹から降りる猫より隙が無い。とまれかくまれ、こちらが出るには頃合と見たり。いざ、時なるかな。
我々はほぼ同時に走り出すもやはりそこは俊足たる飛鳥、俺よりも幾らか先に対象へ接近した。間合いにして一〇メートル強あるが、鴉の体がその倍近くもあるので限りなく目の前という形になる。
ここで怖じて足を止めでもすれば、それこそ一貫の終わりであろう。ここへ及んだからにはともかく動く他に手など無い。
我々も、千歳よろしく冷静さを欠きつつあった。
「よしゃ今だッ」
魔物の左後へ回り込み、全力疾走で迫ると韋駄天は跳び上がった。それと同時に背負った金尖棒を担ぎ上げる。
敵はあちらに顔を向けていない。これはいったと、こなたも確信した。
「てっえええぇイ」――ところがである。
この飛竜、どうにも一筋縄では仕留められぬものであった。無論この世はそう甘くはない。
「痛ァ!? ……ァ……………あぁーぁれぇえぇ」
「東海林ッ」
飛鳥は太く骨々しい尾で嘲笑うように胴を払われると、その身まるで護謨鞠たるかのごとく弾き飛ばされた。間抜けな悲鳴を上げた少女の体が、ビル谷の空に美しき弧を描く。
八咫鴉の尾は神話伝説中で「第三の脚」と解釈が為されるだけのことはあり、その先端部に鍵爪とよく似た突起を備えている。
今回はたまたま当らなかったようであるが、飛鳥は運が良かっただけと考える他はあるまい。あの鋭爪では殴られただけで腸を抉るも容易と見て間違い無かろう。
畢竟、後方とて全くは死角たりえざる訳である。徹底的なまでに油断がならぬ。
ああ……飛鳥よお前の仇はきっと討ち獲ろう。
俺が駆けつつ吐き捨てたるは、「糞禽めが、よくもいたいけな小娘を殴りおったな!」と敵には通じようもなき癇声。
砕かんばかりにコンクリイトの大地を蹴った。痛いほど歯を食い縛って走駆する。
敵は飛鳥が舞い描いた放物線にじ、と目をやってこちらを向いていない。紛れもなき隙だ。この刹那僅か一・五秒、今を逃してどうするか。
無二の好機と見ん。
予定変更、もはや囮などしている場合にはない。その首、獲らいでか。
懐へ突っ込み、勢い据え置きその首下から真上に向かって跳ね揚がる。巨体の下、この日陰にたち込めた粉塵が顔を叩いた。
抜刀、紅世景宗。さあとくと見よ、怒れる刃は天をも断つのである。
「貰ォらったあッ!」
おばけめ、断頭の刑に処してくれる。討伐の極太刀この一閃にあり。――この時はそう考えていた、否、そう感じていた。
……しかるに俺はここで跳んだ瞬間、早々に旨の撤回を余儀なくされることとなる。
「ぬ゛っ……?! オワっ……遠ォ!」
如何程の反応速度なものやら鴉が素早く鎌首を擡げると、我が景宗が快音を立てて虚空を裂破する。刀身から滲み出た妖気は気勢余って行き場を失い、厳冬の吐息のように宙をわずか濁した。
要するのこと、しくじったのだ。
如何にせんや、滞空中で身は避わせぬ。着地後いずれの向きへ飛び退くと考えてもその数瞬の内、このままでは確実に弾みを喰らうだろう。あわや万事休すか。
想像も及ぶまい。
洗濯鋏と見紛う大顎。これを目一杯に開き、その口腔奥でめくるめく火球を煌かせている有様なぞ。
おぞましきことにあれは熱波放射の前兆と見える。養殖場の壁や樹海の木々を容易く吹っ飛ばしたばかりか、この町を焦熱奈落へと叩き落した、極めて陳腐に表現すれば「破壊光線」。
掠るだけでも十二分にステーキとなり果つることが出来よう。いっそのこと、あらかじめ醤油と葡萄酒の風呂にでも入っておくべきであったのか。
我が滞空時間はものの三秒だったけれども、時は可笑しなほどにもっさり流れたように思われた。
着地。然りとて打つ手無し。鴉は無表情に此方を睨み、いよいよ我が身をこんがり焼かんと歯牙に火花を散らしている。
やんぬるかな。
己でも驚かしいが、我が心地は何とも潔きものであった。「寧ろ良くぞこんなところまで生き延びてこられたものよ」と、そうした念が然らしめていたに違いない。
「……この距離じゃ避けらりゃせんか」――だがその時である。
「高砂君ッ!! 伏せて下さいッッ!」
迫った焼死を待ち呆けるに、気つけのごとく叫ぶは桧取沢嬢。
ひょっとすると、俺がここで大きく息を吸っていたのは逃げるためではなく、本来は断末魔を上げんがための用意だったのやも知れぬ。
もはや考えるをだに棄て、俺は、彼女に命ぜらるるがまま倒れ伏すこととした。




