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アサルト・オン・ヤオヨロズ  作者: 金精亭 交吉
第一章【黄金連休、我が身休まず】
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第一八話 『樹海に舞ふ』

前回までのあらすじ:

 恋人に縁起物のアクセサリを、と店を訪れた裕也。

 その一方、居合わせたメンツを見て虫の知らせを覚える衛介。彼は何も起こらない内に帰れと説くが、笑って相手にもされない。そこに飛鳥も来るわけなのだが、何と彼女は、街に出没した妖怪を追撃しながら現れたのだ。

 騒然たる商店街にて、事後処理をせねばと目を回す一同だったが、幸いにして榊が駆けつけ、彼の部下が処理を請け負うと言う。

 しかし彼は衛介たちに、指揮下に入って当座の作戦に参加するよう命じた。


 果たして何時(いつ)の何をか発端とせるやら、「青木ヶ原は自殺の名所」などと縁起でもない俗説が世に蔓延(はびこ)って幾久(いくひさ)しい。

 しかもその実、樹海で命を断つ輩が多くて順当に現れた噂なのか、生まれた話に感化を受けて捨身者が数を増したのかも定かでない。


 そして今や、遊歩道はいたる所に山仏を増やすまじく掲示を設けて働きかける時代だ。

 かの「もう一度静かに考えてみましょう」とか記された看板たちはあまりに有名である。


 我らが支部と本部指揮官どのは、騒動一連の元凶たる“養殖場”を討ち果たさんと再び富士の麓を訪れていた。

 尋常ならば、この時間帯から山歩きを始めるなどどうかしている。巷の分別ある人々からはそれこそ自殺行為に似たり、と悉く罵られるであろうし、仮にそうなった折には反論の自信も皆無といえる。

 全く、肩身の狭いNPOもあったものだ。


「あのさ……リアルにこんな山奥来るとかオレ聞いてないからな」

「だってまだ云ってねえかんな」


「ちょこっと転た寝してたらコレかよオイ! 今何時だと思ってこんな、もう日ぃ暮れてるし、何するって? 

 さっきから妖怪だとか何だとかって、肝試しか何かかよ?!」


「そりゃ、割かし良い線突いてんのかも知れん」

 この期に及んでようやく当座の異常性を悟り始めたらしき愚友。動転を隠しきれぬは瞭然である。

 すぐさま彼は遣り場無き怨色をあらわにして帰宅を望み騒ぎ出したが、そうは問屋がおろさない。一旦ここまで至っては、もはや裕也はせいぜい生存に尽力するほか如何とも不可能であろう。


 今回、榊より申し付けられた我が最大の職務は民間人すなわち梶原裕也の護衛である。

 

 私的に思うところから、先の道中も連れまわすより車内で待機さしめた方が余程安全ではと建白したのだが、車自体の安全性の不確実を由に指揮官は首を横に振った。かくて上記の任務を俺が引き受ける次第となった。


 指揮官殿は彼なりに、素人の我々よりかなり多くのことを考えているはずである。

 少しばかり賛同しかねる方針が目立たぬではないものの、俺の独断などで事を進めるよりは随分ましとみて疑いは無い。

 ともかく俺は裕也から離れず太刀を構えていれば良いのであれば、殊に難儀はひとまず無かろう。


「さ、到着だ。梶原くん、君はこれでも持って行くといい。一応ね」そう云って榊は鞄と懐中電灯を手渡す。


「そいえばサカキさん、今日のとこカンナちゃん呼ばないでだいじょぶだったんですかー?」

「いいや、呼んだ方が良かったのかも分からないけれど、何しろあまりに時間が無かったから。その……彼女はまたの機会に、かな」

「そーですかぁ。カンナちゃん妖怪とか超詳しいから話聞くだけで面白いのにー」


「んぇ……かんな……? どっかで聞いた名前だけどなそれ」裕也は受け取ったそれの入・切を無為にぱちぱちと繰り返し、折から飛鳥と榊の会話に出たる桧取沢さんの下の名を不審がっていた。

 しかし見る限り、級友としての彼女とは脳裏において未だ結びつかざるものと思われる。


 どうせならそのままでいてもらいたい所存だ。斯かる場合で人物関係が繋がり広がる度に、ややもすれば厄介具合も悪化する(きらい)がある、と解ってきた為である。

 遵って俺はこの話題に口を挟まず流すこととした。


 道中は、「樹海にて方位磁針は役立たず」との迷信を鵜呑みにする飛鳥とそれに教鞭を振るう梶原“蘊蓄先生”の談義でそれなりに賑わった。

 早くもこの男、漸次的にではあれど、場に慣れ始めているらしき趣がある。

 して、彼をそこまで女子と会話を盛り上ぐに()かしむるは何ぞや。嗚呼これ何とも、やっかまれるところの極み。


 加え、豈図らんや一方の榊もどうやら千歳を相手に喋々喃々と楽しげで、遺憾にも手持ち無沙汰は俺一人である。

 とほほ、仮に桧取沢嬢が場に居さえすればまた一味違ったやも、と思うに云いよう無く口惜しい心地のするところ――……否、待たれよ。


 流石にこの空気は如何なものか。

 我々は遠足をしに来たのでは断じてない筈だ。榊御大ともあろう者がそれを忘れた訳でもあるまいし、確かに前回述べていた通りとはあれど、彼の千歳への買い様もやけに大仰を失していよう。

 これではよもや見目形で評価を割り増ししてはいまいか、などの邪推すら湧いてくる。


 斯かる具合に、俺はいささか焼餅焼きに身を堕としかけていた。

 ……しかし餅は焼いても手は焼くな、である。実直真面目の高砂隊員はここに一層気を引き締めんとす。

 仕事がら遠からず殉職するやも知れぬことなどを考えれば、何のこれしき。



 二度目ゆえか、本隊が件の建物へ着くに時間は然してかからなかった。ざっと一時間と少しというところか。


 榊の事前調査は信じ難いまでの周到さを誇り、前回我々が通った山道とはまた別の脇道が彼によって指し示された。

 曰く、昼間(まみ)えた例の秘書が遣わした式神に色々と調べさせたそうである。


 彼女の名は鬼灯(ほおずき)(ささめ)。聞くところその秘書の地位にありつつ、かつ本部でも指折りの戦力にして独自に式神をも使役できるという実に多技多芸な女性であるらしい。

 榊はあまり多く事情を教えてくれこそしなかったものの、どうも卜部氏などとはまた異なった業種と見える。


 そして一見するには年齢不詳だが、彼と昔馴染みであると彼が云うからには我らと然程違わないのやも知れぬ。


 ――さて。鬱然たる原生林を潜り抜けて養殖場に達し、ふっと整える程度に一呼吸置くや、我々は早速進入を開始した。 


「またこんなとこ来るとはね……出切れば二度と来たくなかったけどね……」

「全くしかり。真っ暗なもんだしオンボロなもんだし、陰気臭せえったらありゃしないや」


「おお……てか、雰囲気だけはバッチリだなココ。パニホラ系映画とか良い感じで舞台にできそうだ。ゾンビ出せるよゾンビ」

 云い得て妙な。その手の映像作品に於いて、斯かる生物科学関係の施設を描くのは常套と云ってよい。

 妖怪変化の同胞が地下にまだ「飼われている」とは野守蟲の談であるが、その数や種類によっては映画よりおぞましい。


「あーっ、ここ。うちがずっと押し込められてたヤバそうな部屋だよ」

 相変わらず悪臭の立ち込めた廊下を暫し進み、漸く以て前回到達した地点に戻ってきた形となる。

 飛鳥はさぞ忌まわしかろうその部屋を前に眉を(ひそ)めると、乱暴に戸を引っ張った。


「思い出したけど、衛介がこの扉で吹っ飛ばされてたの超っ絶ダサかったよね。飛ばされてバタバタ転がって歓奈ちゃんに引っ張られてんのとかチョーうけるから」

「るせぇ、隊の先頭ってのは時にあんなもんだい」

 裕也を護るためもあって今回は意識的に殿(しんがり)をとりつつ、口では苦しまぎれを弄した。

 所は薄暗いうえに縦列陣形ゆえ千歳の顔は見えぬけれども、呵々大笑の様相だけはその声から嫌というほど伺える。

 何とも、我ながら情けない。

 ふとして物故せぬうちに、せめて名誉くらい挽回しておかねば。


「東海林ちゃんがここで監禁されてたのか……って、どゆこと? まさかの警察沙汰?」

「んっとね何かね、妖怪のでっかいトカゲちゃんがガバぁーッて出てきてパパッと捕まっちゃって、気付けば縄でぐるんぐるん巻きになってたの。オマワリさんとかはよくわかんないけど」


「ご、ゴメン。衛介なり住吉ちゃんなり、今の翻訳よろしく」

「ほぇ? これじゃ伝わんない?!」

 どうにも、もはや言語体系の違いを垣間見たような気のしないでもないが。蓋し日本語は多様である。


「あ……まだ奥にも部屋が続いてたんだ。戦ってると案外気付かないもんね、細かい所とかって」

「さしづめ、連中はこの奥を守らんとしてたってな解釈で良さそうだ。施設自体さしてデカい訳でねえ以上、前回登った二階にまで何か在るとも思えん」

 飛鳥と裕也の話はさて置き、大雑把にだが、先日当時に野守蟲が陣取っていた尋問室内に目を通すこととしたい。


 薄暗い部屋の奥には人間用と思しき椅子ならびに机が設けられ、卓上は何やら書類でだらしなく散かっている。

 これは、飛鳥の身柄はここで主人側に引き渡される流れであったということか、はたまた件の蜥蜴が吐かせた内容を書きとるつもりであったか?

 ――いや、爬虫が筆を握るとは考え難い。

 奴の述べた“会員”なる直接取次ぎ人がここを任っていたのであろう。


 ふと俺は山積した紙群から一番上を手に取った。ところが不幸にも、ここで事態の核心に迫らんとて見た手掛かりにより、話は更なる濃霧に沈溺してゆく羽目となる。


「んん? 『企画書【5774年度】制空兵力拡充案概要』って…………何だい、こりゃ」

 ――参ったり、参ったり。


 思うに、これは理解せよというほうが(ひが)であろう。

 然らずんば我が言語解読力が救いようもなく下愚であると云わざるをえない訳であって、それではどうにも遣り切れぬ。


「……は? ごせん……何年て? とーとー数字も読めなくなったの、あんた」

「ば、馬鹿云え馬鹿。俺ゃ悪くないぜ。どう見たってそうとしか読めんだろが、おらよ」

 千歳はそれを見るや呆気と間の悪さが交錯したような顔を以て白旗と為し、むつりと閉口した。


 至極当然。こうまで妄誕な物ともなれば、どう理解なぞし得ようものぞ。

 三五〇〇年後の予定企画書、と。笑止千万、意味不明。この雄略がたとえ何を意味しても、噴飯物たる事実だけは覆るまい。


「でもよ、見出しも然ることながら本文もさっぱりなのな………………ぷっへへ……あははァ、聞いとけお前ら、こいつは冒頭から酷っでえぞ」

「どんなよそれ」


「えーとな、『前略我ラノ神聖無双ニシテ天ニ(ましま)ス主々、(ならびに)彼ラニ(つか)(まつ)ル忠実無比ナル天――」

「ほら高砂君もう行くぞ! 時間が無いから急ぐとさっき云っただろう!!」


「――』ぅえ……ちょ、ちょいと何です!?」

 有ろうことか折角俺が資料を朗読せんとしたところで榊隊長は紙束を引っ手繰り、二つ折りするとそのまま放り捨ててしまったではないか。


「……いかがなすったか。自今、敵を洗い出すヒントになるやも知れんのですぜ?」

「帰りにでも好きなだけ見てくれ。今は一刻も早く奥へ進まなくては駄目だ。細からも君に教えたと思うが、目下優先すべきことは何かをよく考えて行動しよう。いいね?」

 榊は苛立った剣幕でそう忠告すると、つかつかと歩み出した。


 然らば反抗すれど甲斐無しか、と感じて当座は歯軋りをするに収めおく。仲間らも、何故そうまで急くかと不思議がって首を傾げた。

 とかく世の上下関係とは、時に斯かる理不尽とてあろう。さまらばれ。


 彼の指揮下で我々一行が次の部屋へと歩を進めると、ほどなくして奇妙な分かれ道が眼前に現れる。

 一つには暗澹たる地下室への階段。二つには、如何にも危なげなる趣を放つ奥部屋に続いた扉。


 そしてそれは、この捜査に重大な転換点をもたらす命運の分かれ道でもあった。また我々は、左様なことなど夢にも思わずにいたものであった。



「ッたく……どんな都合があったら、ああも齷齪(あくせく)なさらにゃならねえのかね。こちとら理解に苦しむっつうもんだい」


「いや普通にもう時間遅いからっしょ。肝試しとかいうのも程々にして帰んねとアレだべ」

「ま、まぁまぁエースケ君てば……怒られたってもそんな気にしないで平気だよきっと」

 先程より部隊は二手に分かれていた。方や一階の奥部屋を調べる千歳と榊、そして地下階へと進んだのは裕也、飛鳥、および吾人である。


 なるほど裕也が受け取った懐中電灯は、陰々とした地下の捜索には打って付けであろう。

 したがって俺はその護衛ゆえ自然に地下班へ。また飛鳥も、バランスの為として此方に配置。

 そして必然的に残る有能な二人で、どうも不吉な奥の部屋を捜査するとの算段――。

 と、以上が榊御大の為した編成であった。


 向こう側は経験豊富な男に玄人裸足の転婆娘が組んでいるので安定していようが、当方はいささか不安も募る。

 二人掛かりでこの足手纏いを守りつつ、怪物と出くわす際には如何に立ち回ったものであろう?


 よもや榊も、我々に多くを期待し過ぎてはいまいか。勾玉から長らく妖気を得ていた千歳とは、事情が異なるのである。


「にしても、さっきのモノホンぽい着ぐるみとか全然出て来なくね。実際暗いだけだと飽きんだけど」

「それに越したことなんか無いんだよユーヤ君」

「アレもしかして東海林ちゃんって割りとビビっちゃうタイプ? ハハ、怖がりも女子力の内ってヤーツな」

「ち、違うよっ、ほんとに出てきたらほんとに危ないもん! だよねえエースケ君!!」


「お前さん方早くも仲良しこよしは結構なこったがな、くれぐれも足元とか気い付けろ。たまにタイルがヌルっとしてんぞ」ここにて述べしは、先程より我らのゆく床に覚えてきた違和感に関してだ。


「わかる。きっと色々踏んだりしてるんだろうけど、わざわざライト当てて見たりはしたくないな……て感じ。あと、臭せえわ。流石にコレはちょっとな」

 彼の云うとおり地下層の臭気は一階の比でない。何事ならんと心底問いたきところだが、それを知るべき妖怪どもの動く姿もとんと見当たらぬ。

 

 生肉をうんと傷ませてみれば、きっとこんな香りがするのではなかろうか。尤も、腐肉を真面に嗅いだ例しなぞありはしないが。


 あれの証言に嘘が無ければここには彼らの同胞が数多飼われている筈。だのにそれらが見えずして、更にこの腐乱臭ときた――したらば、考えの一つも浮かぶところである。


 既に妖怪らが殲滅されている、と。


 すなわち同士討ち? あるいは餓死? はたまた知らぬ間に東海支部が仕事をした?

 ……いやいや、御都合主義も度が過ぎるか。勝手に閃いておいて、我ながらこれは愚案と云わざるをえない。

 然れば、諸兄は忘れ給えぞかし。


「もうかなり歩いてると思うんだけど。なーんも居ないじゃんね! なんか今更感だけど、昼間の妖怪ここから来たってホントなんだよね?」

「……ここ以外候補が無えってだけだ」

「そーいうの、あばうてぃー過ぎないかなって。」飛鳥にしては慎重なことを云う。俺とて概ね同意ができよう。


 

「オレが思うのはさ、昼間の謎いヤツが着包みじゃないと云い張るならだけど、あれ鳥じゃなくてプテラノドンだからなって話」

「なんだいお前、そんなにモ○ハンが好きか。まァ確かにこの期に及んじゃ、何が実在したって不思議でもなんでもねえたぁ思うよ」

「割とガチだぞ、オレは。ああいうの昔から嫌いじゃないし」


 現代若年男子の「竜」嗜好には目を見張るものがある。漫画やら札遊びやらに登場する者として何々竜だの、ちょめちょめドラゴンだのと有象無象の強者らが出演し尽しているのだ。


 ここで、続いてはやや専門的な話題である。

 当の薀蓄先生曰く、陰魔羅鬼の羽の構造は鳥のそれではなく、大昔の有翼爬虫類のものと酷似するとのことであった。


 なるほど見る限りあれに羽毛は無く、薄皮のようなものが(わき)の下に張られていたと記憶している。

 一般に「翼竜類」なる動物群は前肢に四本の指骨を持ち、うち薬指のみが長々と伸びているらしい。この先端から後肢の付け根にかけ、いわゆる翼膜が張られているというわけだ。


 しかし化石研究の今に伝える情報がここへ繋がりうるとは、一体何を示唆するのか?


 異界の動物が偶々こちらの古生物に似た、と考えれば、とてもではないが妄誕くさい話になってくる。

 やはり“異世界”などと安直に設定付けること自体、心得違いなのではなかろうか――卜部氏には問うてやりたい。


「うーぅ、話ムズすぎて、うちにはワカランチンですよー。また頭痛くなりそ」飛鳥はぐりぐりと蟀谷(こめかみ)を指圧し、(うん)じ顔で訴えた。


「ホントはもうちょい色々あるが、まぁ今でなくていいっしょ。アレは鳥じゃない、それだけ知れりゃ。妖怪だ何だってのは個人的に信じないけどな?」

「構わんよ。つっても今に分かるだろうがな」

 百聞は一見に如かず。()いた理解は強要すまい。事が起れば解るものである。

 一度ここへ踏み入れたというのは、そういうことだ――


「ち、ちょっと……何か聞こえた、かも」

「む? いよいよお出でか」

 何と南無三、これは足音――硬い靴、ないし蹄のような物が、つかつかと床に音立てているのだ。

 迂闊であったか。敵が神出鬼没とは既に心得たというに、俺としたことが。それにつけても後方からとは、手口これ汚し。


「また云ったそばからだァ……糞、うしろの部屋からか?」

「わァん、うちら気付くの遅かった?! さっきは隠れてたってこと? ずるい!」

「や、音だけじゃないぞ。何となくだが、妖気とやらがビビっときた感じだぜ……こりゃ」

 気は進まねども已むを得ぬ。我ら有らん限りの力をして打開せしめん。


「たたかう、にげる……よくある二択!」

「ここはどうしたって袋小路、と忘れちゃならん……そうと決まれば問わずもがなッ。そら、武器を取れい!」

 俄かなる危機を前に各々の擬神器を展開する。景宗と辛鋪槌、火・金の二振りから漏れ出る妖気が面白いまでに戦意を煽った。

 今回は我ながら、迅速に臨戦態勢を立てられたものである。


「ユーヤ君は下がってて! ソッコー遣っ付けちゃうから!」

「も、勿論そのつもりさ。意味わかんねえ物には関与したくないぜ」


「良いか東海林、裕也(こいつ)の安全最優先だ。努々、爪一本(かす)らすな」

「いぇっさーッ」

 蒙古高句麗(むくりこくり)め、来らば来たれ。

 瞬きいくつと、もう待たすまじ。当方いまかと手を招き、ここに確と身構えたるぞ。敢えて首なぞ洗う猶予を、くれてやった覚えは無い。


「やい畜類っ、隠れてねえで出てこいや。相手ンなってやら」

 その矢先。


「あ、あのー、皆さん……失礼します…………」鈴を転がすように澄み切って、なおかつ控え目な声の響きに続き、向こう側の何者は扉を開いた。


 心なしか戸の開く様さえ奥ゆかしく、(たお)やかである。並びに俺はというと開いた口が塞がらない。

 何を大袈裟な、とは云ってくれるな。


 また間抜けならずや。きっと河童にすら、その笑うところとなろう。この時、さぞ俺は傍目にそんなつらを晒していたことであろう。



 本日各方面に一番陳謝したきことを語らんとするなれば、何はなくともまず裕也をここへ連れて来ざるを得なくなってしまったことを挙げられよう。

 しかしながら生憎ここに超爆弾級の二つ目が、降って湧いた。


 俺は図らずも、真に以て不本意極まりなきことながらも、麗しの桧取沢歓奈嬢をおぞましい妖怪ごときと取り違えるなどという空前の大失態を犯したのである。

 果たして、如何に詫びきれなどしようものぞ。

 頓首をすれば折り合い付くなぞ、甘きに失す。


 今後の我が身には断然たる反省が必須と見る。さて、それでも当座は如何に謝り悔やんだものか。


「……高砂君、どうしてそんなに謝られるのですか? えと、ほんとに、全然気にしないで下さいって。もしもし?」

「おぉう、おう、御免よう。御免よう桧取沢さん。いっやァ……悪気って悪気は八幡無いんだよ」俺は正直に、泣いてしまいたく思っていた。


「い、いえ、ですからまず頭を上げて下さい。あの、梶原君。高砂君は一体どうしちゃったのでしょうか? 何かご存知では」

「知んね…………そんなことよりザワさん、オレから凄っげー初歩的質問いいか。状況把握のために」

「ええ、私に分かる範囲でしたら」

「へぇー。そいじゃあ遠慮無く訊かしてもらうわ……」

 云うまでもなく裕也が驚き抱いた疑問とは、そのもの自体確かに至極当然な旨であった。

 ――何すれぞ君はここに現わる、と。


 それに尽きよう。ばかに急な話ではあるまいか。何気なく飛鳥が榊に彼女のことを問うたりしてから、未だ二時間と経ってはいない。


「凛さんに、心配だからって急ぎの連絡頂いたんです。式神のおかげで思いのほか速く追いつけました。あと、同行したお友達というのが梶原君だったなんて、そこは少し意外ですね」

 彼女は霊札をひらひらさせて語った。なるほど、卜部氏に与えられたということか。


「ってあの占い師的な人か? そこらへん何で知り合い同士なんだ??」

「それは色々ありますけど、今話すべきということは大方ないでしょう」

 裕也はオイオイと云うような顔を見せたが諦めてか、彼の追及はそこにて停止した。替り飛鳥が問う。


「チィちゃんとサカキさんには会ったー? 結構離れた一階の部屋調べてるみたいだけど」

「そ……そうでした! 榊……さんは、あの方は何をすると仰ってここに皆を?」

「んー? 事件の元を断つって云ってたかな多分」

「……私には理解しかねますね。何故ここまで焦燥した作戦に踏み切られたのでしょうか」

 薄闇の中、桧取沢さんの声色はいささか渋げであった。しかしこの感想には満腔の同感を表しうる。


 何を以て彼は落ちつきを無くし、この計画性乏しき作戦を断行しているのやら。

 少なくとも斯く考えるのが俺だけでなかったということは収穫だ。


「それがな桧取沢さん、俺らにもさっぱり解せんのだよ。たまたま居合わした裕也ってったって、卜部さん所で保護すりゃ苦しゅうなかった筈じゃねえの、なァ?」

「何であれ、私もここから協力します。今は早く用事を済ませて帰りませんと。今回の理由は、後で私のほうから鬼灯さんにでも伺っておきますから」

「ひとまず先を急ごうぜ、と? ま、そんなら俺もさっきみたくに叱られずには済むかね」

 いざ次の間へと、我々は足を踏み入れんとす。今度はもはや安心だ。誰より頼れる桧取沢姫が加勢しに来給うたのだから、卜部氏にはつくづく礼をせねば。


 まあ、俺はここまで少し物怖じし過ぎていた気もしてきた。思えば刀を抜き慨然と意気込んだ時ほど、杞憂と空回りに終っているではあるまいか。

 もっと冷静たるを心掛るが良かろう。これぞ経験と学習。若人は成長して然るべし。


 殿には再び俺が就き、飛鳥を隊の(さきがけ)とすると我々は恐る恐る前進を始めた。


 はて如何したものか――先の視界が覚束ない。

 当の空間は、先程までの部屋とは全く異なる様相を見せている。地下層に入ってから周囲の暗さの闇のごときは相変わらずだが、廊下や各室は何れも然したる広さがなく、壁までに何があるかは目を凝らせばほぼ確認しえた。

 

 ところがここは、一体どこまで続いているやら見当だに付かぬ。

 そもそも天井の高さが他所の比にあらず、この中なら鳥なり蝙蝠なり飛び回れるのではという位であった。最奥には重厚な壁があるようだが、それすらはっきりとしない。


 然る中、我らが任務は急展開を見る。凶事の兆しとは、とかく怒涛のごとくなるものなのだ。


「ひぁぐっ…………んぁ……くうッ」

「ちょっと、だいじょぶか東海林ちゃん。しんどいのか?」

「ご、ゴメンね……うち、ここ最近頭痛持ちっぽくて。たまに、なるんだ」

 ならばこの肩を貸さん、と手を伸ばす伊達男。先程までが嘘のように、ぐたりと彼にもたれた飛鳥は恥ずかしげに唇を歪める。

 はてな、出し抜けにどうしたか。頭痛というと、確か我が家に来た際も聞いた気がするが、果たして如何に。


「うっあ! ()っつァ……あ! これ――やばッ、素でやば!」

「いったん座って、しっかり!」

 して、いよいよ解せぬは次である。

 彼女の呻きが絶頂に達し、遂に涙ぐんだ時。事の奇しきも頂に至る。


「うぐゥ……が…『エイディン、ナ・ズー……メンデン、クヌック……ウスール!』


「え? ――えっ??」さあ驚くなかれ。


 巨壁の一面に突如として、光る網目状の模様が浮かび上がったのである。これは小娘が、前触れなき偏頭痛の極まりに悲痛の音をあげし直後の出来事であった。

 続けて唱えた“うわ言”は生憎わからない。


「はぇエ、聞き取れんかったが、東海林めが何かゴニョゴニョ云いおったぞ? でもってこの五目並ベみてえな紋は」

「こ、これは……いわゆる『九字紋』……きっとここでは嘗て術師が! 飛鳥さん、いま何を!?」

 確かにこれは目を見張らざるをえぬが、何事だというのか、彼女らしからず焦っている。

 ――然れど我自身には命ず、ゆめゆめ冷静欠くべからずと。


 早合点の行動はひとえに不恰好なる上、得てして危険も呼びかねない。むしろここは人を諌めてやるくらいで丁度良かろう。好し好し、早速教訓が活きているではないか。


「あっはァ、びっくらこく気持ちは解るが焦っちゃならんよ。ちっと落ち着いて見てみようでねえの」

「この手の刻印は危険です! この過剰な妖気だと、中から何が出てくるか分かりませんッ!」

「えぇ。出るって何がさ」

「皆さん、一度撤退しましょう! 高砂君、飛鳥さんをお願いしますっ」

 我が老婆心をよそに嬢は半ば無理矢理我らを具すと、一目散に戸口へ駈け戻った。

 室内は奥壁に光る巨大な紋様の眩しさに、明るさを得ている。

 なおも何が彼女を焦らしめているやらは判らない。しかしその目は本気である。飛鳥を背負い、俺も続いた。


「あ、開かない……となるとオートロック……! なぜ急に、こんな状況では時間が!」

「えーと……ザワさん? うしろ、壁の様子が明らか変なんだけど」

 振り返れば、気のせいか光の模様が次第に変化しているように見えた。

 

 碁盤の目を構成する線、それら一本一本が鋸歯(のこば)の様になり始め、やがてはそれが――

「ありゃ、ヒビか?」


 最後に俺が平静を保った時、空間を照らしていた光がおりしも消燈する。

 壮烈なる瓦解音が発せらるると共に。そして壁の向こうに封印されし災厄のかわりに。

 部屋が再び闇中に落つ。あまつさえ、唐突に起った振動と猛烈な妖気に我々は恐慌を来し、心拍数が(のみ)のごとく跳ね上がった。


「……うぉい、一体どうなってやがんだっ。さっきから云っとったのはコレだってかい!?」

「間に、合いませんでした……ドアは諦めます…………! 下がっててください!」

 現状把握能わずして、的確な行動なぞ望むべくもない。今は唯一、彼女を信ずる他なしか。嬢はすぐさま擬神器・魑魅梓を展開した。


 奇音が耳朶を叩いている。どの母音で標記すべきやら迷われるところだが、ラ行いずれかの一字を連続させれば雰囲気程度は伝わりそうなこの音は、ひたすら不穏である。

 それはどこか唸り声を思わせど、余りに暗く、定かな物が皆目無い。


 暗澹とした空間で脂汗に塗れ、本能のただ純然たる警告に戦慄いた。

 想像せよがし、視えざる恐怖。

 当方とてこれほどまでとは露思わず、狂乱(パニック)に陥ったとは論をまたぬ。


「糞……どっちへ走れと? せめて前が視えりゃあ」

「ライトお願いします、壁の方へ!」

 ――何ぞ。裕也が懐中電灯を先程の壁に向けると、ほんの一瞬“鳥の(くちばし)”のような物が見えた気がした。


「アー、なんもオレは見なかった。オレは、何も!! テンパってんだ!」

 延いて瞬刻と置かず勃発せるは、事態の更なる急変。

 暗晦な奥間からは、世の誰が予想などしようか、火柱のごとき閃光が横薙ぎに放たれたのである。


 不可解にして危機不可避。煌々たる灼光は明後日の方向に叩きつけられると爆裂し、室内を再び明るみの元に引き摺り戻した。

 我らが鼓膜は、シュボァ、という聞いたこともない大音の責めるところとなる。


「……ふぁ! ふぁっいぁぁあ?! 火ぃ、今の火だよッ!」

「だァもう、耳元で叫ぶな喧しいッ。つうかお前元気んなったのな!」

「カンナちゃァんっ、どーすんのこんなの?! バイやーだよバイやー!!」

 とっくのとうに臨戦態勢へ移行した嬢は、蛇のごとき目つきで場を()め回し“嘴”に弓を向け曰く

「これが八咫鴉(やたがらす)…………!? やはり実在……」と。


 何を以てそう述べたかはいざ知らず、これは卜部氏の妖怪図鑑に載っていた「旧き神」の名であった。


 只、目下これ以上気にすべきにあらず。遅疑一瞬にて死を招く、とは云うまでもなし。さて如何せん――然々(しかじか)、ものの二秒で我が意は固まった。

 何ぞ恥じんや、逃げるが勝ちである。


 裕也がいるだけに先制攻撃を躊躇う嬢と、奥部の薄闇で蠢く“嘴”に釘付けの以下二人。これらを他所に活路を見んとて背後を見やった。

 して、幸運にも或ることに気が付く。


 これはしめたり、対側の壁に風穴(かざあな)が穿たれているではないか。

 今しがた噴かれし謎の光線と熱波に因ったものと見える。これで部屋にも日光がという由であろう。時はぼちぼち夜明けなのだ。


「やぁ見てみろ、道理で明りい訳だ。こうなりゃ三十六計……」

「――逃げるに如かず、ですか……賢明でしょう。脱出します! 総員、壁の破損部へ!!」

「だははっ! よォよォ息が合ってきたな、ざァさんよ!」

 すたこらさっさ、敵前逃亡これを辞さず。


 一行は全速力で朝日を目指した。風穴付近が燃え盛る所為か足元は熱く、多少の火傷も負われよう。


(うあ)ッちぁ! ……げっ。ミスッた、榊さんの荷物が!!」

「ンなもん放っとけ、命が惜しいっ」

 裕也が(つまず)き様に鞄を取り落としたらしい。榊から荷物持ちとして預かりし代物といえど、背に腹は代えられぬ。


 斯くも身が危うくなってみれば、弱冠十七歳風情でも痛感する。万事、まず命あってこそだと。



 時刻は大体午前四時過ぎ、といったところであろうか。

 地下一階の最奥部「翼竜の間」の壁は正体不明な火炎に爆破され、結果として外への脱出口が現れたという僥倖に我々は(あずか)った。


 話としてはどうやら密林中のとある断崖部分の内部が、丸ごと地下室に刳り貫かれていたようなのである。


 木々が一直線上に薙ぎ倒されている。多湿ゆえ燃え広がりこそしていないが、壁を突き破ってなおも飽き足らぬものと、燻り昇る灰煙が熱線の威力を如実に物語っていた。


「ハァ……ハァ、ハ、馬鹿かよ……ざッけんな。肝試しってこんなトンデモなくねーだろ普通……」

「梶原君、すみません。現実は遥かにシビアかと」

 朝ぼらけの樹海に射す暁。暗く繁った森が部分的に吹き飛ばされ、そこだけが東雲(しののめ)を見る。

 眼前には異様なる光景のみがあって、しかのみならず、騒ぎは未だ止む兆しだに無い。


 激震に地は轟き、崩岩の穴が火を噴く。見て吃驚、それは二度目の爆発に他ならなかった。


「わァん、まただよ!」

「待ってください、千歳さん達はどちらに? 今ので一階まで爆風がいった可能性が……」

 何と、何たることか。捨て置くべくもあらばこそ、そうとあっては千歳と榊の身が危うい。血の気が引く思いに駆られ、一まず飛鳥を降ろした。


「ァ…………住吉は中だ。こうしちゃおれんッ、無線かけても出なきゃ俺は戻んぞ」

「それはそれで危険過ぎます……中が落ち着くまで茂みに隠れるなりしない限り、あの『化け物』は」

「んな、嫌なこった! とめてくれるな、俺は彼奴に死なれたくねえのだ!」

「こ、これは上官命令です! そもそも高砂君一人で“あれ”には勝てません!」

 ならば捨てよと命ずるか。あまりと云えばあんまりである。

 確かに、私情は当座に挟むまじきと解せぬではないが、然りとてこれを譲る由には。

 可笑しく思われんばかり、懸念されては已みもせぬ。


 もちろん“あれ”が何者かなぞ我が知るところでこそないが、命惜くば、無理して戦うことはない。

 往路を一気に駈け戻り、辿り着ければ万歳と。命懸けだがするほかない。……危険は承知、それでも情の()き動かすところ。然らば、いざや。


「――見て、あれ、上! チぃちゃん!」そこに曰くは飛鳥、何事か。

 聞いて見やれば逆光に、得体不詳の人の影。


「ぁ~~~衛介っ。そこ、そこ退いてぇっ~~!」

 折りしもあれ、聴いた気のした天の声。いやいや、実にこれは声――千歳のそれではあるまいか。

 それも空とな。あるいは既に化け出たか。何たることぞ。南無阿弥陀、ああ南無阿弥陀。


「どいてってばァ!」

「――へ? …………ちょぉァッ!?」

 隕石地に降る咄嗟の刹那、俺はこの身を横へ投ぐ。脊髄反射というがよい。

 驚き入ったはこの彗星、何と住吉千歳その者である。あわれ天晴れ、生きているのだ。


 焼け開けた森に着地すると、娘の足が慣性に従いザアと擦り滑り、不出来な「二」の字に地を抉る。

 しかし胸を撫で下ろすような安堵も然ることながら、千歳の視界に現れる過程を俺は解しかね、心ならずも目を丸くした。


「……おまァ危ねえな、お空から降って来やがったってのか。とんでもねえ奴だ」

「へへん、コレよコレ。凛さんがくれた霊札『引力自在』術式のやつ! 飛べんの、すごくない?」

 場の切迫も知らざるにてか、欣々然と云う千歳。

 生身が宙を舞うとはなるほど大したものである。それを(はや)す余裕のあるに越したことはなかったろうが、目下は場合があまりにまずい。


「――…………おうい、君たち! 一体どうして」現場にすっかり参っていると、榊も追って現れた。


「やァこりゃ榊さん。ご無事で何より……ですが、状況はちとばかしオッカねえ事にっ」

「説明してくれ、なにを仕出かしてこうなったのかを! で……そこの君は確か桧取沢くん……? どういうことだ。何故ここに君がいる? 聞いていないぞ」予定外ゆえか榊は訝しんでおいでだ。


「そう、ですね。枯れ木も山の賑わいと申します」

「……鹿ヶ谷の指示ということか」

「どうでしょう」何時になく毅然たる態度で以て、彼女は応じた。


 元々この二人が間柄など知らぬが、仰せのままにと(おもね)る余裕は最早ないのだろう。――否、思い返すと先日の応接間で引っ掛かった部分が、あったような、無かったような?


「はは、残念だ。独断行動となると罰則も視野だね」

「始末書でしたら幾らでも。そんなことよりこの音を!」

 然り。とてもかくても細かな所見を気にしたくば、それは後でよい。


 何よりもまず、狂癲の極まりきった現下で如何に動いたものか、これに全霊を注がねば――などと考えた最中、彼女の警醒した“音”の主は突如その息をして粉々に岩を焼き飛ばし、風穴がいよいよ巨大になった。

 四散した礫が順繰りに落地するをだに待たず、内から這い出す者には恐怖のほか感じ得ない。


 大怪獣、富士の樹海に現る。

 凡そ今を語るには、この言葉で過不足無かろう。


 牛驚くばかり、夜空を思わす色であった。

 岩壁を砕き現れた謎の生き物は、麒麟の然るがごとくに首を(もた)ぐや、(ようよ)う昇りゆく陽光に両翼をうち広げて見せる。


 畳何条あるのやら、伸びに延びるは皮膜の影。して、それに張り巡らされた無数の毛細血管が日を浴びるのである。


 「からす」が鳥とは云わずもがな。

 但し、例外ここに在り。

 この八咫鴉とやら、そもそも翼に羽毛が無い。有るは指より腋へ渡りし皮膜のみ。蝙蝠とでも考えたかったが、いかんせん嘴が。および、刀にも似た鶏冠が。

 信じ難きかな、この禿(はげ)は確かに“翼竜”である。


 俄に、鴉は天を見やる。そして羽ばたきに木葉を巻き上げ、その身を以て舞い上がる。

 石火の光というべき間に、鴉は遥か北の朝曇りへと消えていった。


 言語(ごんご)に絶する沙汰を前に、あんぐりと口を開け天を仰ぐ一行。


 畢竟するに吾人は……否、我々は誰一人として、弥増す凶事の早急な収拾をつけるには能わなかったのであった。

※「九字紋」とは、指で九字を切ったさいにできる網目のような模様を図案化したもののことです。

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