第八話 『陰陽師珍妙事録』
前回までのあらすじ:
夜分遅く、飛鳥の母親から一報が入った。「うちの子がまだ家に帰っていない」と。
千歳は一連の怪事件とのつながりを疑い焦るが、時を同じくして彼らの元に届いていた郵便物が転機を与える。それぞ先日彼らを救ったワゴンの主と、彼女の属する組織「PIRO」からのものであった。
悲嘆に暮れる千歳を励ました衛介は組織に協力を仰ぐべく、茨の道をゆく決意を固める。
一
千歳の唱えた悪しき予感は、アパートを発つが早いか、あろうことか確信へと変貌を遂げた。
他ならぬその根拠とは、暗かったせいもあり昨夜は獣糞とまがえた、悪臭の正体である。
事もあろうに目下それを不審がった当棟の住人達が、朝から表に雁首そろえ、みな鼻をつまんで騒いでいるではないか。
「ンまぁ酷いニオい! 何ですか、この生ゴミみたいなモノは」「掃除当番お仕事してらっしゃらないの?」「全く、最近のカラスはここまで散らすもんですかな、桜庭さん」
などと、やいのやいのに罵る一同。
そして各人一言二言ずつ感想を述べるや否や、住人らの視線は軒並み大家・桜庭婆さんへ向くところとなる。
然れど実際、これは大家の管理具合の杜撰なることを所以とする災いではない。
いわれもなく槍玉に上がった婆はどうして良いやら分からず煮え返り、犬糞持ち帰りとゴミ出しの指定日準拠の徹底を促す紙を張る、との旨を取りあえず声明した。
そもそも何故これを見て尚も糞に話が及ぶのかは解せぬが、今回ばかりは大家及び、濡衣着せられた烏らに同情を禁じ得ない。
「ちょっと高砂さんッ? 確か今週掃除当番はお宅だったわよねえ!」
「ええ、えーぇ。いかにも……すいません。が、ちとばかし今は急いどりまして」
あらずもがなの迸り。因みに俺が当番の週であるのを知ったのは、只今である。
我々には正に一目瞭然だが、その汚物の正体は一昨々日の化物が人から獣に転じた際に体から脱落した組織とほぼ違わぬもので、そして乱暴に破けた縦縞のビジネス・スーツがそれに紛れていたのである。
沈着して考えれば、ここまで派手な糞を出す犬など何所にいたものか。
昨日帰宅する時点でこれに気付けなかった己が、恨めしいこと至極である。加え察するに、夕べ屋根に乗っていた“猫”とは恐らく大蜥蜴がたぐいの化け物であったということなのだ。
何が猫なものか。あまりに体躯の違いが過ぎる。
俄然、ここに全てが繋がった。もはや微塵も疑い無い。我が油断の咎がこの結果かとも思えば、なおさら敵を討たねばならぬ。
「衛介、これ…………」
「あ、あん畜生め、こんなとこで堂々と化けの皮を脱ぎやがったってんだな」
「嘘って云ってよ飛鳥ぁ…………」
「ぬゥ…………もしも昨日のうちに何か手が打てたんなら、落ち度は俺にある。迂闊だったんだ」
我らの顔は、磯にあがった鯖よりも青くなった。先日以上に生きた心地はしなかった。
「あ、あれ? でもよく見てよ、コレ。どこ見ても飛鳥の血とか、誰かが殺された跡みたいなのが無いじゃん」
――なるほど然もありなん。
確かに飛鳥がここで屠られたとすれば、縁起の悪い話、この場で臭を放つべき物体は一つでない筈なのだ。
考えうるのは、彼女は無事に逃げ果せたか、あるいはどこか別所に転がっているかのいずれかである。
「おお、東海林は少なくとも有る程度走って逃げたっつうことか! ――流石に足が速えってだけのことはあったもんだ」
「だったら……大丈夫。たとえ捕まっててもまだ生きてる。人質…………ってことも考えれるなら」
「ンーム、確かに人質に取ってくれる分にはすぐ死にはせんだろう。だが根拠は、何とも」
希望的観測か。もう何かしら唱えていねばやってなどいられない。因って迷わず、後者に票を投じよう。
「……絶対に。うちらで絶対に助けるよ。そうでないと、明日からどんな顔して生きたら良いか分んなくなる!」
生存可能性、大いに有るべし。
彼女の死を約する証拠の無きのみぞ、我らが希望であった。早急に行動する他に何ぞあらん。往者諫むべからず、来者はなお追うべし。
「にしてもどの道俺達だけじゃァ埒も明かん。ピーアイ何たらの事務所へ急ぐ他あるめえな」
「あっ高砂さん!? おそうじ! こりゃ、お待ちよ!」
已む得ず婆を黙殺し、千歳を自転車の後ろに乗せて走り出す。
只、釣竿ケースに入れて背負った打太刀と、彼女の薙刀の重さが走行を著しく阻害した。
急ぎたきは山々なれども、これで着くまでに事故など起こしたのでは堪ったものでは尚更ない。とんだジレンマに立ちはだかられたものであった。
「ねえ、どうにかなんないの、コレ」
「どうしたい、二ケツは慣れねえか」
「違うっ、あんまり遅過ぎてじれったいっつってんの! てかアンタ原チャリとかは乗れないわけ?」
左様な事を宣われても困るのみ。腹立たしきこと限りない。
「るッせぇ。過去にお前がどんな男の背に乗っかったかなんぞ興味無えが、今に四の五の文句を垂れるんじゃないわ、あほめ。これが嫌ってんなら降りやがれっ」
「……………………」
「な、何だよう」
「アーもお……分かった、分かった。良いから早く漕いでよ、ね?」
「そら、しっかり掴まっとけッ」
びりびりとした焦りに我々は酷く苛立つ。一刻の早遅が飛鳥の活殺を分かつとあらば、それはそれは一層に。
唾をいっぱいに溜めて舌打ちを噛ますと、俺は打って変わって自転車を飛ばし出した。
二輪車ごときに斯ほど総力をそそぐなど、日頃は中々あるまいぞ。なにくそ、交通安全など何所吹く風とて。
一度電車に乗ってしまえば、時は同じ。ゆえに勝負は今に掛かっていると見て過言でない。急がねば。
二
息を乱して到着した住所先は隣町の駅から徒歩数分の裏通りに有る古びた小ビルであった。
口の広い車庫は鎧戸が閉まっているが、恐らく、かの装盾車両が格納されていると見て良いのであろう。
入口にはインターホンがあり、並びには確かに「超常諸件捜査対処局 南関東神奈川支部」とある。所に誤りは無いらしかった。
只、幾許かの問題が無きにしもあらず。
まずどうも斯くのごときお堅い建物には慣れぬもので、情けない話、我ら若人には入り辛い空気を遺憾なく滲ませていた。
考えてみれば向こうが先に呼び付けているのであるから、本来当方が遠慮する処は皆無なものなのだが。
しかしここまではまだよい。まだ、生易しい。
二人が大いに訝ったのは、その戸前に屹然と立つ、珍無類の者にであった。
「…………オン、アボキャ・ベイロシャノウ・マカボダラ・マニ・ハンドマ――」
今、俺は心から瞠目している。
うら若き艷女が朝っぱらから人目も憚らず、早口言葉ともとれぬ妙な言の羅列を、舌こそ噛まねど唾は飛ばして、ぴいちくぱあちく唱えているではないか。
これ云わずもがな、奇人である。
裏通りとはいえ斯様な真似を恥も無く晒せるなどというのは、歴とした変人である。
十指が複雑な格好に組まれては解かれ、またすぐに別の形に組まれた。彼女の口より出た変梃なる言語の調子に合わせて、だ。
「――ジンバラハラ・バリタヤ、ウン」
しかしながら我々が受けた最大の違和感は、その強烈なる“妖気”である。
何を以てかは己でも解らないけれども、兎に角ひしひし感ぜられた。背負った刀や先般の大蜥蜴に同じく、肌にも伝わるまでの怪々不穏な感覚が有ったのであった。
……つまるところ、こやつは敵か。何と俄かな。第二陣めを組むには心の準備が不全である。これ如何に。
何かを一挙に唱えあげた女妖は、これにて仕舞いとばかりに札のような物を戸に貼ると、瞼を閉じて一息ついた。
さて如何せん、斯かる待ち伏せを前にはすぐさま抜刀すべきか否か。千歳よ、お前の意を問いたい。
だが、然ればとて隣に目配せを試みるや、俺はその遅きを悔いることとなる。
「そこのあんたさぁ」
娘の目が鬼のそれなるを知れど、手遅れであった。「……こんぐらいの小っちゃくて可愛い女の子、知ってンでしょ」
「えっ。す、住吉!? ちょい待て、早まんな!」
すわこそ一大事。この女、そう冷静に分別などできた質にはあらざるか。
剣呑である。千歳はすでに競い顔となり、いつの間にやら長巻まで構え向けているのだ。
白昼堂々、その長刃が黒々とした妖気を放つ。それはあたかも娘の憤怒を空に溶いたかのごとくに。
「その霊気……曲者かえ、お主ら」
目は閉じられたまま、女妖が開口した。ただし今度は日本語だ。しめたるかな、これならば対話の余地があろう。
「あたしらが誰かだとか、どーでもイイから。はやく喋って。じゃなきゃソッコー喧嘩。……二対一で」
呆れが礼に来るようである。ああ、短気にして馬鹿垂れの極み。
ここは吾人が一肌脱いで、どうにか場を調停せねば。先方より敵意が伺えぬ以上、こちらから食って掛るようでは捗もゆくまい。
「ま! まァまァ、落ち着いておくんなさい! やーこいつは失敬、うちの従妹がとんだご無礼を――」
「寄るまいぞ、物ノ怪めッ」
変人は瞼をぎらと開け、射るがごとき眼光を見せた。
しかして豈図らんや、間に入った我が顔めがけて謎の粒子をぶつけたではあるまいか。不名誉この上ない讒謗を添えてである。
「なッ?!! ……がは、しょっかれェ」
「ちょっと、衛介っ!?」
これは白い粉、ざらついた粉末である。
顔に浴びて殊更よく判ったが、これは食塩である。するとこの女妖、折角対話を申し出でんとした者に、塩を浴びせかけるとは何たる侮辱。いよいよ以て堪忍ならぬ。
「ぬァッ。こンの、よくもやってくれましたな」目をこすりながら俺はがなった。
この売り言葉は買われて曰く、
「ほほう、やる気とはのォ。このところ人真似の怪異は見ておらんぞや……そうと決まれば、精々楽しませてくりゃれ!」と。
ここまできては望むところぞ。
怪しく輝く女妖の首飾り。――三日月のごとく吊り下がったその獣牙は、魔縁の気配をびきびき放ち、怖じよ怖じよと我らに凄む。
吾が両眼には塩つぶが染み、怒り滾って背の太刀に手を。千歳も再び顔を強らせ、中段の構えを取った。
当方腕に覚えは無い。しかし対話の決裂につき、我ら後へもなお退けぬ――いざ、させたまえ。
「祓え給い、清め給え……六根、清浄!」
敵の口から流れ出づるは、意味不明なる呪の詞。続き、またも壮烈な妖気、空間の歪まんばかりがその身より放たれる。
この期に及んで何ではあるが、確実に分が悪そうであった。根拠無くとも分からぬではない――この女、忌みじく強し、とて。
奮い立てた戦意が、恐怖心の手であっけなき大敗を喫する。
「あっら……これ勝てるんかい…………? ぶち殺されそうだぞ!?」
「でっ、でも飛鳥が! あたしらこんなとこで足止めされてちゃどうにも!」
これを滅せずんば、本懐を果たすには至らざるか。然りとて愚直に居座って、討ち死にするも間抜けである。
……いや、熟考の暇さえ最早あるのやら。
「さぁ、『常世』の土に還るがよいっ。
――オン、オリキリテイ・メイリテイ・メイワヤシャレイ、ソワカ……急々如律令、悪魂調伏ッ!」
女妖は勢いよく唱え、閃光がひた走る。眼前の空中には筆で書いたような星型が黄色く浮かび上がり、信じ難き妖気を出しているのである。
やはり我らは間抜けであった。
塩なぞ気にせず逃げていれば、明日はあったやも知れぬというに。ここであたら若き命を失せんとす。ああ無念、これ無念。
「住吉ィ……俺たちゃどうも、死ぬときゃ一緒なのな。よくしたもんだ」
「馬鹿ばっか云わないで! バカぁ!!」
――ところがそのときである。
目にも留まらぬ一陣の光がそのさま実に疾風のごとく、低空に煌めく黄星を射貫いたのだ。
そして青白きその光は、一本の矢である。
青い妖気が黄色い星を打ち消したかのように、対手の呪術もそこで中断された。
「にゃぬっ? これ、何てことをしよる!」
「乱暴はやめて下さい。……高砂君たちは、所長の大切なお客様ですから」
玉を転がすようなその声は、嫋やかにそう云った。
三
今日このごろ、弱冠十七の分際で己が生き死にを神妙に論ぜんとする青二才がいるとか、いないとか。
笑止、五十路回って出直すべし、と一蹴さるれば抗弁はせぬ。天命も知らずして、通じた風な頬桁を叩く者なぞ確かに碌でもあるまい。
然らば碌でもなき一夫として俺の述ぶるは、ごく最近三途の縁を駆けて得た心意気である。
もちろん、死するはおぞましい。何が何でも痛そうである。
我らが命の恩人は鱗虫の尖牙に散ったが、あんなものが皮を引き千切ると考えれば食い気を損ねるには充分だ。また吾人も蜥蜴の殴打に身を晒し、思い返せばたちまち泣べそを掻けるほど死に目を見たのであった。
斯くも立て続いて後、ここに女妖の戮するところとなりかけた俺は、さもあらばあれという諦念を薄覚えていたのである。
一に救われ、二には辛くも切り抜けたとて、三度目遂に仏も免ぜざり了んぬ、と。
然れどまたもやしぶとくも、我々は生き延びていた――本来そこにいるべくもない時の氏神が射し、救いの矢によって。
「なっ……何でったってオイ…………んな阿呆な……!」
本来これはひとえに随喜し恩に着たいところである。そうはいえども、少し待て。今度ばかりは事情が違う。
世間は狭し、と人はいう。然りとてこれは、如何なるか。
俺は一人今昔無類の衝撃に驚倒し、慄き上がる羽目となった。某かの見間違いたらん、と思い込むべく尽力していた。
ところがそれも幾秒と持たず、眼前に立つ存在を現として認めねばならぬと悟る。
「えと……凜さん、まだお伝えしてませんでしたっけ。その……近々新人さんがうちに、って」
「な、何ぞ? 初耳じゃ妾は」
「まあ…………正直私も驚かずには。彼とは同じクラスなんです、今年から」
俺を存知とのことである。これにて、見間違えは完全に見込み得なくなった訳だ。
さあ、もはや何をか渋らん。
事しもあれ、現れたるは知った顔――かの桧取沢歓奈さんだったではあるまいか。
大驚天大動地、吃驚ここに極まれり。点で訳が分らない。何を以て今ここで、高校の同級生が視界に居ねばならないのか。
理屈これ通るべからず。ことごとく、丁寧なる説明が要求されよう。
今に我々を葬らんとしていた女が、珍奇な口調で話し出す。
「なんと申せばよいか……今一つ心得ぬがその、つまり……済まなかった。急に誰か来よったと思えば妖力なんぞ垂れ流しておるがえ、てっきり妖怪変化の類かと、のう。許してたもれ」
つまり丁度我々が彼女を魔物と踏んだように、相手も当方を然ると見てのことであったらしい。
なるほど我らが刀も胡散の霊気を放っている廉である。云われてみれば怪しいはずで、誤解あるとて仕方無い。
ならば此度は、おあいことするが良かろうか。
……いや、尤も今はそれより大事があるのだ。
「寧ろ、こちとら早合点で吹っかけちまって…………い、いや。でもまァ、そりゃもう済んだことでございましてね」
桧取沢嬢がこちらを凝視している。挨拶文句を選りあぐね、如何に云わんという顔で。
だからといって、投げてくれるなそんな視線を。斯かる沈黙は得意でない。喋らねば、俺から何か喋らねば。
「高砂く――」
「ひ、桧取沢さん!」
二人の声は奇しくも重なる。しかし音の大小あって、我が呼びかけがこれを制す。彼女は一瞬びくりとすると、お先にどうぞと右手を出した。
「よもや君がこの、ピーアイエルオーとかいう団体の人だとは云うまい……な?」
これを愚問と云わば云え。構うことなど一切無い。椿事ここに骨頂へ至り、状況整理もままならぬ。然れば何とて、訊かずでか。
さて美君、どう答える? 然りか、はたまた否か? くれぐれも常識の範囲で、俺に納得を与えてくれたまえ。
「はい……ともかく一度、所長と話して貰います。ですので、中へ」
――ああ、そんな馬鹿な。
こうした中では呆気に取られ、借りてきた猫たるに終始する千歳であった。
三
陰陽師。古代律令制のもとで、中務省の陰陽寮なる部署に属した職の一。
大陸に始まる五行説やそれにもとづく陰陽道を用いて占卜や地相を見たり、果ては呪詛、妖術のような祭祠などをも司るようになった者達のことである。
設定としては面白く、俗な映画になったり漫画が出たりなどと一時期しばしばメディアでも見かけたものであったが、近年やや少なくなった……ような気もする。ともあれそうした元題材が、よもや現代にまで脈々と存続していようとは。
女妖あらため卜部凜氏は、その冗談めいた肩書きを名乗った。
自今のために記すらくは、彼女は正真正銘の人間でこそあれ、蜥蜴の化身などには断じてあらずということだ。
気風は古雅にして陳ねたるが、歳は俺ともそう変わるまい。年寄り染みた言葉遣いは、奇矯さゆえと判断しよう。
「しっかしまァ……何です、ぶったまげますぜ普通は。
人っ気もねえような通りで、よく解らん呪文みたいのをズラズラズラズラと」
「当たり前じゃ。一般人に見られても良いことが無いからのう、そのぶん裏通りのここはまじないにも気兼ねがいらぬ」
氏はその出で立ちをとっても、また珍妙であった。
美しい山吹色のそれは狩衣、というのか法衣、というのか。はたまた巫女服か。吾人その方面は明るからずして、この衣も名は知りかねた。
ふわりとした黒髪が項近くで束ねられ、自然なるままに垂れている。肩にかかった横髪も、中々どうして心地よい。
艶美である。
その様甚だ珍妙にして、アナクロニズムの権化な筈が、どこから見ても艶やかである。どうにも不思議な感覚といえた。
曰く氏は元よりこの組織の者ではなく、ここへは「避妖結界」を張り直しに招かれたそうな。寡聞にして知らぬ用語が見受けられたが、要するにこの建屋を怪しい輩の手から守るべくのことらしい。
また、日頃は隣町で小店を営んでいるのだとか。――店とは何ぞや?
否、率直な感想をいえば近寄りたくも思えない。隣町というとどの辺なのやら気掛かりなところであるが、一まず我が地元にはあらざれと願うのみだ。変人ではやはり困る。
桧取沢さんは先ほど事務所の応接間に我らを通すや、しばし待てとて出て行った。年季の入った雰囲気は宛ら往年の中小オフィスを思わせ、低卓に敷かれたテーブル掛けも、染みが随分目立つようである。
「で、そちの連れは何故むっつりしておる? ああも口達者だったではないか。十五分前までは、じゃがのう」
「……うっさい」
悪戯交じりで云われた千歳が、不機嫌に応ず。
「しかし擬神器が放った黒い水気、あれは乙う力強いものに思うたぞえ。先にも云うた通り、げに水魔が陸へ攻め出てきたかと疑わんばかりじゃ。……歓奈は新人呼ばわりしておったが、あれは真かや?」
「は……えっと、どゆ意味それ」
「意味じゃと? よ、よもや知らずにあれを出したとなどは云うまいぞ」
住吉千歳は愚物である。しかして俺も等しかれば、氏の言意は解せなかった。
その「水気」なるはこのほど連呼されてきた“妖気”に同じか、はたまた否か。悔しきかな我らは意味を解せずに驚いたが、相手は逆に我々の無知に驚いていたようである。
こちらのそれが強かったというと、これはそれなりに有益か?
「ちったあ機嫌直せよ住吉。悔しいのはわかんだがね、大事なのはこっからじゃアねえの。こうも訳解らんで強え人が敵でなくって、寧ろ喜んどかにゃ」
「コレ、わけわからんとは何じゃ。して……ここから、と云うたな。経緯は知らなんだが、以後はPIROで働くということか」
「いえ必ずしもそうでは。今日んとこはちょいとお助けを請いに参りまして。ともあれ、俺らは前途有望ですかい? 妖力とやらがデカイんでしたら」
「待て、いつお主まで褒めたことになっておる。妾は千歳の方しか触れとらぬぞえ」
「え、すると……何スかい。俺は然程でもねえ、と?」
「雑魚じゃ! 撒き塩で事足りると思うたわ」
「んなっ……」
――何たることか。悔しい、嘆かわしいなどという話ですらない。俺は、純粋に軽んぜられたのである。あまりに酷な。当方、途端に不安が募ってきたではないか。
ところが千歳はこれを見て、くすりと相好を崩した。怒って泣いてと夕べから穏やかでなかった娘が、漸く少し笑んだのである。精神衛生上この喜ばしきは云うまでもない。
緊張を解してか、彼女は改まって話し出す。
「何かゴメン…………なさい、あたしテンパりすぎてて。友達が危ないかも知れないんです。色々やばかったりして結構、その」
「なぬ? 只ならぬなら何故もっと早う云わなかったか。事と次第では妾も力添えが――」
「――その通りよ二人とも」そのとき俄かに戸が開き、いつにか聞きし声がした。
思えば、一番最初に挨拶奉るべきはこの女性にぞ他ならぬ。数日ぶりに見る恩人はその眼に威勢を感じさせ、どこか颯爽として見えた。




