『皐月晦頃』
丑三つ、天地いまだ日を見ず、陰陽滞るがごとき時。
草木も眠る濃墨の夜闇。きっと山には鵺が翔け、野は蟒蛇が滑りゆく。星も見えない曇りの空は、そこはかとなく安からぬまま明けの兆しを待っていた。
『――ふぅっ……やぁんっッ…………アッ、アッ、アッ、や……♡』
しかるに耳朶を撫でてくるのはただ淫らなる汁の音と、甘露にも似た嬌声をして奄々と鳴く娘あるのみ。
『ひぁっ!? ア、そ……そこダメ、んッん………あっ、やだやだ……イッちゃ……』
闇にあっても俺の視界は白く光るがごとくある。目から耳から艶めく蜜をどくどく注ぐふうにして、いざ極楽に至らんとしてこの手は事を繁くしていた。
この黴臭き六畳間にて、型落ちノートパソコン君は我が夜更かしの友である。日々の不満や欲求なんぞを吐いて捨てるに良き友である。
古い、いらんと父が云うのを貰っておいて正解だった。新型機など高くて買えぬ。助平な動画が佳境のところで止まらぬように肝も煎れるが、その心労があったとしても我が暮らしは快適である。
『んんぅッ!』
「……!」
――蓋し極楽。
液晶内では時が止まって恍惚とした面相のまま裸婦の体は固まっている。まったく明後日のほうへと、彼女の笑みは向けられていた。
動画がちょうどここまでなのか、あるいは読み込み損なったのか。今の俺には左様のことを判ずる用も、関心もない。
ふう、と吐息が口をつく。我が一投は正確無比に塵紙玉を屑籠へ。いかにも無為な時間が過ぎた。南無三。明日も、いな今日とても、大忙しの予定であるのに。
妖怪狩りの仕事人とは……難儀な身分もあったものだと俺は頭をぼりぼり掻いた。
湿々とした日の増えてくる、梅雨を目前にする季節か。
汗ばむわけだ。水が飲みたい。填めっぱなしのイヤホンを、耳から捥いでズボンを穿いた。
すると突然親しげに、音を立てしは携帯電話。
ぴりりぴりりと小うるさい。本来ならばこんな夜中に誰だと怒るところであるが、この愛すべきまでの無遠慮に、思い当たる者は一人である。
むしろあやつでなかった際は、人に仇為す妖なりと十中八九断ぜよう。我が仕事柄、不明の輩の怪電波とて貰いうるのだ。
わずかな逡巡を振り切り、俺は電話をむんずと取った。
一息のもと、以下に切り出す。
「――オウよもしもし、裕也かオイ。昨日借りたエーブイは見た。明日返すぜありがとよ」と。
『うぇい、衛介。起きてたか。つーか何だよ今の早口』
着信の主が鬼のたぐいでなかったことを確かめて、ほうっと胸を撫で下ろす。汗も思わず頬を伝った。
「あのな……何だか悪りいんだがよう。おめえがあんだけ推しまくってたコスプレ物っていうやつな、どうも俺には解せなんだのよ。むしろもう一枚のあれ、ジェーケーのやつ、えらい抜けるな」
『エーッ。あれさあ、人気なんだぞ。元ネタ、夜中にアニメやってる。異世界ニートの無双伝』
「おもしれえのか」
『知らね、見てない。でもその女優クッソ好きでさ、それ見せたくて貸したくらいで。若干ロリ顔なの良いべ』
「主人公てな、あんな豚かい?」
『男優興味ねーッつの』
蓼食う虫も好きずきかとは、云うに詮無きことである。
「この安っぽい姫様衣装、どうも女優に似合ってねえから何だか醒めちまうんだよ俺ァ。もっと……こうね、居そうなやつで、気分を高めていきてえんだよ」
『アハハァだから童貞は。オレはそゆーの、リアルで見飽きてエロ動画にはもう求めない』
「ちっ、てやんでえ。いきり野郎め。小便済まして寝ちまいやがれ」
文句ばっかり云うからだよ、と友は苦笑いをして吐いた。
『でもさあ、あんだけ可愛い従妹と同居してんだし衛介お前。実際ちょっと頑張っちゃえば困らねんじゃね、そっち方面。あ……今、寝てんの? チャンスじゃん』
その言葉を耳に入れるや、思わず俺は背の後ろ、押入れの方へ目をやった。
ノートパソコン君の光が、ぼやあと居間を照らしている。
視界の先の押し入れの戸は確りとして閉ざされて、また襖にはセロハンテープで藁半紙が張り付いている。
曰く「無断開放厳禁」……そこに女の丸文字で、そう記されて一月になる。厳の字だけは書けなかったか、何ぞくちゃくちゃ塗った小脇に「ゲン」と振り仮名が添えてあった。
とある退っぴきならぬ事情でこれは我が家の風景なのだが、目下、左様に至れる経緯は大した問題でもなかろう。
雄として、襖の奥にぐうすか眠る“いとこ”にちょっかいしてみよと――友の提案意図することろは、平たく云えばそういうことだ。
煩悩すなわ本能の、已むなく然らしむるところ。これ邪と云うなかれ。
――いや待て、己。然り、落ち着け。我いやしくも紳士たらんば、ゆめゆめ惑わしめらるまじ。
「イ、いやいやァ……その気になりゃあ、俺にゃ出来ねえこともねえ。しかしやっぱし冗談でもよ、やっていいこと、いかんことがある」
賢者の影も脳裡を去りつ、意馬猿心の不徳を以て再び鎌首もたげる愚息。ふんす、とこれを諌めつつ、危うい橋から降りた吾人は大いに褒められてよろしい。
洒落にもならぬ若気の至りをよく退けた俺はであるが、敢えて称せばこれはむしろ我が身を守るためとも云える。
件の“いとこ”も女といえど、実は全く只者でない。もっとも今や只ならざるは自分も人のことを云えぬが、強い弱いの程度をいえばさながら月と鼈である。
寝起きのこの女にかかっては、たちまち我が身も我が愚息をも三枚卸にされかねぬ。また大袈裟なと笑うべからず。
この同業の界隈は、そんな輩がうようよといる。
いかにも俺は命が惜しい。敵に食われるならばまだしも痴話喧嘩に散りたくはないのだ。
『チキってんのか、ウイウイウイ。いやまて、今は賢者なだけか』
蛮行をそそのかせし本人が、少々残念げに評す。『まーもう遅い。そろそろ寝よう。明日は仕事、入ってたっけ?』
「……入っちゃいるが、現場は藤沢。学校帰りに寄りゃあ済むだろ。この前よりは気が軽りいわな」
『マジか。とにかく怪我だけは気をつけてな。ゆーて、それも妖怪次第か』
「何か貰った資料によると、ここんとこ沿岸を蛟というのがうろついていやがるらしい。今回の案件は海保からのお達しだそうな」
『お、すげ。さりげヘビーなヤマじゃね?』
「まァねえ。ぼちぼちあすこら辺はウィンドサーファーなんぞも増える。人がぱくっと食われる前にとっちめねえと大変だい」
へまを演じて化物の胃に収まるようではやりきれぬ。挑むからにはいざ尋常に、全力で事に当たる所存だ。
やあ我こそは怪異ハンター。仕事は戦なのである。
『どーかよろしく頼んだぜ。一般人の死者が出ちゃってあのへん海水浴場閉鎖……とかになったら笑えねーだろ』
「あたぼうよ。俺ァ今年こそ、いい乳した姉ちゃんと素敵な思いがしてえんだぞ。そうと決まりゃ、明日は事務所で鼻糞ほじって吉報を待て」
『頼もしくってタイヘン結構! とりまオレから東海林ちゃんには、よろしく伝えておくからな。残念ながら衛介くんは、でっかいパイがお好みだって』
「コラ待て、誰がんなこと云ったッ。止せやいお前、意地悪なんぞ」
『プハハ、嘘だよ冗談冗談』
彼はおもしろげに笑う。『まイイや、近々メシ奢ってよ。やっとお前も給料日だべ。ほんじゃおやすみ、また明日!』
左様に云うや逃げるがごとく、ぷっつり電話を切るは友。
やれやれ何と、騒がしきかな。どっと眠気が襲い来る。俺は卓に肘を突き立て、うとうとしつつ目を閉じた。
給料日、か。月末か。はや一月が過ぎたるか。
貧しき高校生の吾人が、糊口を凌ぐにどうにかたえうる働き口を得たあの日。しかのみならず何の因果か、我が日常が虎口にめり込む羽目もなった日。
玉より蒼き葉桜の叢々と爽やぎし頃。
この一月は悲喜交々で、まったく目まぐるしき日々だった。
多難、多忙に絶体絶命。そして少しの美味しい思い。無理矢理にでも良く云うならば、面白かりし皐月であった、と。
我が青春は奇天烈である。ゆえに語って聞かすことなら枚挙に暇のないものである。一つ当時に立ち戻り、事の起こりとその顛末をよろず具に述懐しよう。
寝物語と思いつつ、どうか気楽に御覧ぜられたし。
※「蛟」の解釈には諸説ありますが、本作では水竜の一種として扱っています。
※海保……海上保安庁の略。