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「それで、君の方から呼び出すなんて、いったい何の用だね?」

 雅嗣まさつぐは、彩香あやかの前に姿を見せるなりそう言った。呼び出される理由など、まるで思い当たらぬように。

 上條かみじょうの応接室で、二人は今、向き合っていた。

 荒木あらきは隣の部屋にいる。渋る彼を無理矢理説き伏せて、席を外してもらったのだ。

 きっと必死に耳を澄ませているだろうが、分厚い扉を通してでは、ほとんど話の内容は聞き取れないだろう。

「叔父様には、お判りになりませんの?」

 ソファから立ち上がり、彩香は逆に雅嗣に問い返す。

 その胸に手を当てて考えてみろ、と。

 だが、ひたと見据える彩香の視線を気に留める様子も無く、彼は涼しい顔をしたままであった。

「何のことかな」

 雅嗣はそう答え、彩香の横を通り抜けて、庭に面しているバルコニーに立った。

 花壇には、庭師によって几帳面に手入れされた色取り取りの秋の花が咲き乱れている。

 その季節によって、花壇の花は植え替えられていた。

「相変わらず、美しい庭だ。兄も……君の義父上も、こういう美しさを好んだものだよ」

 そこに、兄のことを懐かしむ響きは無い。単なる過去の事実だけを述べていた。

 彼自身が呼ばれた理由を知っていながら本題に入ろうとしない雅嗣に、彩香は苛立ちを覚える。

 語尾を強く、叔父に重ねて問い掛けた。

「ごまかさないでください。あなたは、ご自分のしようとしていることがどういうことなのか、解っていらっしゃるのですか?」

 雅嗣が、ゆっくりと振り返る。

 その目には、形容し難い陰があった。

「君は、本当に母親に似ている。言うことまで、同じだな」

 その独白は低すぎて、彩香の耳には届かなかった。ただ、その口が動いたのを見て、彼が何かを言ったことは察する。

「え?」

 尋ね返した彩香に、彼は同じ言葉を繰り返すことはしなかった。

 目の中の陰は拭い去り、穏やかに問う。

「君は、誰に何を吹き込まれたんだい?」

 雅嗣の口調は、本当に、何も知らないかのようだった。

 彩香は顔を伏せ、ホッと息を吐く。しかし、それは、安堵の溜め息ではなかった。彼が知らない筈が無いことを、彼女は、もう、知っているのだ。

「吹き込まれた? ……そうですわね。本当にあれがでまかせなのだとしたら、私も、どんなに良かったことだろうと思います」

 顔を上げ、叔父の顔を見据える。真直ぐに。

 ごまかしは、もう、沢山だ。

「今回の、新藤商事、桐原建設、尾形ホームの三人のお偉方を殺させたのは、あなたなのでしょう?」

 雅嗣の顔は、穏やかだった。いや、穏やかというよりも、表情が無い、とでも言うべきか。

「それも、啓一郎けいいちろう兄様を殺した時に、あなたが疑われることの無いように、という理由だけで」

 彩香の弾劾に、彼は、静かな笑みで返す。叔父と姪が和やかな世間話をしている、傍から見ていれば、まるきりそう見えたことだろう。

 実のところ、その会話はこの上なく剣呑なものであるのだが。

「だとしたら、どうする? その証拠は何一つ残していない。君が何を知っていようとも、何を言おうとも、私を追い詰めることなどできはしない」

「そうでしょうね。……阪倉武也さかくら たけやと連絡を取るのに使った人物がもう存在しないと言われても、あまり驚きませんもの」

 彩香が出した武也の名前にも、雅嗣はたいして驚きを見せなかった。肩を竦めて首を振る。

「よく調べたものだな。……もしかすると、行方を晦ましていた二日間、彼と一緒にいたのかな? だとしたら、君の母上が裕嗣兄を誑かしたのと同じように、君も彼をうまく篭絡できたのかい?」

「……! 母は!」

 母を愚弄するその言葉に、彩香は危うく己を失いそうになる。だが、そうなれば、雅嗣を喜ばせるだけだった。

 一度だけ大きく息を吸い、懸命に自分を抑えて冷静を保つ。

「母を悪く言うのは止めてください。話を逸らすのも。叔父様もお解かりでしょう。そうするのは時間の無駄遣いになるだけだということを」

 ひたと睨み、彩香は再び繰り返す。

「啓一郎兄様を狙うのを、止めてください。あなたがこれまでしてきたことは、はっきり言って、私には関係の無いことです」

 そう考えるまでにはかなりの葛藤があったが、それでも、彩香はそう思考を持っていくことにしたのだ。でなければ、武也の側に付くことができなかったから。

 万人を守ることなど、できない。武也を取るなら、彼が殺した人々のことは除外しなければならないのだ。

「ですが、兄のことは別です。そして、阪倉武也のことも。兄を狙うことも、これ以上彼を利用することも、もう止めてください」

 二人は互いの目を見詰め合う。

 彼女の優に三倍は生きている男を相手に、彩香はわずかもひけをとっていない。

 彼女には、決して負けるわけにはいかないという信念があった。

 いつまで続くかと思われたその睨み合いから、先に視線を外したのは、雅嗣の方だった。

 彼はフッと、庭に目を向ける。

 雅嗣の口から出たのは、それまでとは全く脈絡の無い、唐突な問いだった。

「君は、他人というものを、どういう存在だと思っているのかね?」

「は……い……?」

 質問の意味すら捉え損ね、戸惑った彩香が答えられずにいると、雅嗣は彼女には構わず、独白するように続けた。

「私に……私と、私の兄裕嗣ひろつぐにとっては、他人というのは私の行く道を邪魔する者とそうでない者の二つしかいなかった」

 この時、その場には彼の他には誰もいないかのようだった。

 ただ、彼一人。

 今、雅嗣の中に、彩香は存在していなかった。

 ──いや、どんな時にも、彼は独りきりだったのかもしれない。

 彩香が何も言えずにいるまま、雅嗣は続ける。

「邪魔する者は、単なる『邪魔者』に過ぎず、それは排除するべき存在でしかなかった。そして、私たちは、彼らを排除してきた。どんな時も」

「それは、あなただけの都合です。確かに、誰にも邪魔な人というのは存在するけれど……それを『排除』だなんて……! あなたに目的があるように、あなたが『邪魔者』だと思う人にも、それぞれの目的があるんです。それを……!」

 彩香の叫びは、雅嗣の心に届いているのだろうか。

 それは判らなかったが、彼は彩香に目を戻し、言葉を継いだ。

「私たち兄弟は、それでうまくいっていた。上條は面白いほど短時間のうちに成長した。私たちにとっては、全てがゲームのようなものだった。君もやったことがあるだろう? 都市を創っていくシミュレーションを。私と裕嗣もあれを一日中やっていたものだったよ、子供の頃は」

 雅嗣の口元に、微かに笑みが浮かんだ。どこか、現実離れした微笑だった。

 遥か彼方から、この地上を見下ろしているような。

 彩香は、ただ呆然と彼の言葉を耳に入れているだけだった。彼女の理解の域を超えているその話を。

「父が死んで、私たちは会社を受け継いだ。コンピューターの中ではない、現実の遊び場を手に入れたのだよ、我々は」

 不意に、その視線が彩香を捕らえる。そこには、それまで無かった感情があった。

 それは『憎しみ』が一番近いだろうか。

「全てがうまくいっていたというのに、突然、それが壊されたのだ。ある日、突然に」

 その眼差しに狂おしいまでの強さが込められた。身の危険すら感じられ、思わず彩香は後ずさる。

 彼女が動くのと同時に、それは消えた。跡形も無く。

「兄裕嗣と、君の母親である藤崎芳乃ふじさき よしのが出会ったのは、彼らが婚姻関係を結ぶ半年前のことだった。詳しいことは聞くことが無かったが、君の母上が勤めていた料亭で初めて顔を合わせたそうだな」

 彩香はこくりと頷く。

 彼女も母親から、その話は聞いた。

 あの晩、母は、帰ってくるなり開口一番「物凄く嫌な客がいたのよ」と叫んだのだ。ただいま、と言うのも忘れて。

 まさか、その『嫌な客』が自分の義父となるとは思いもしなかったのだが。

 雅嗣も、同じように思っていたようだった。その時の彩香と同じような感想を述べる。

「裕嗣は君の母上に顔を平手打ちされたと言っていたよ。非常に失礼な女だったと。私は彼を宥めたものだった。……そのわずか半年後に、彼女を妻として迎えると言い出したのだ。……死んだ啓一郎の母親とは典型的な政略結婚だったからな。正直驚いたものだよ」

 面白くもなさそうな風情で、雅嗣は笑いを漏らした。

「それからだったな、私たちがうまくいかなくなってきたのは。裕嗣は、私の言うことよりも、彼女の言うことに耳を貸すようになっていった」

 ふらっと、彼の視線がさ迷う。何かを探すような動きだった。

 焦点の定まらない眼差しが、マントルピースの上の写真立てで止まる。裕嗣と芳乃が並んで写っているものだった。

 時々、啓一郎がそれを手に取って、彩香と見比べながら、お前は芳乃さんによく似てきた、と感心するように言うのだ。

 その写真を、まるで見ていれば中の二人が動き出すとでも思っているかのように凝視して、雅嗣は話を続ける。

「ある時、私たちの決別は決定的になった。ある件に関して、私と裕嗣の意見が食い違ったのだよ。どんな違いかは、判るかな?」

 恐らく、彼らの『邪魔者』に関する意見。

 雅嗣はそれまでと同様の手段を用いようとし、義父はそれを拒否したのだろう。

「どうして今更躊躇うのかと、私は彼を問い詰めた。そうしたら、裕嗣は何と答えたと思う? 彼の返事はふざけたものだった。『あれは良くないことだった』と言ったんだよ」

 いかにも傑作だ、というふうに喉の奥で笑う叔父を目の当たりにし、彩香の背筋を冷たいものが走る。

 この人は……。

「その上、兄は、今までしてきたことを、全て公表すると言い出したのだ。……まあ確かに二十年も前に死刑は廃止されているし、極刑でも終身刑だろう。だが、私はそんな気は全く無かった。この玩具を捨てる気は、な」

 雅嗣は大きく息を吐く。

「長年私の相棒だった相手が、その時、『邪魔者』に変わったのだよ。私は悲しかったし、口惜しかった。それを捨てなければならないことが」

 彼は、いかにも残念だという有様で、首を振る。

 彩香は彼の発した『邪魔者』という言葉の裏に隠れている意味に気付き、一瞬目の前が暗くなった。

「まさか、叔父様……」

 彩香が口に出したくなかった事実を、彼は肩を竦めて肯定する。

「『邪魔者は排除する』そう言っただろう? 兄は邪魔者になったのだよ──君の母上に会った時にね。彼女さえいなくなれば全て元に戻るかと思った時もあったが、一度でも私と道を違えた裕嗣を、許すことができなかった」

 雅嗣は、平然と、そう言った。

「あなたは……」

「狂っている、と言いたいかね?」

 蒼白な彩香の台詞を、彼は事も無げに言い継ぐ。

「そうかもしれないね、君の尺度から見れば。だが、私の中では、これが普通なのだよ。私には、君たちの……君の母親の考えこそが、理解不能だった。──彼女とも、今と同じように話をしたことがあったが、やはり同じ事を言われたよ」

 じっと彩香を見つめて、呟く。

「君たち母娘は、呆れるほど、よく似ている。容姿も、考え方も、何もかもが」

 彩香には、口を開くことができなかった。ただひたすら、叔父を睨んで、彼の奥にあるものを見極めようとしていた。

 その彼女の視線を真っ向から受けて、雅嗣は、感情を押し殺した声で言った。

「啓一郎も、お前さえいなかったら、私の良い片腕になったに違いないのだよ」

 それを、今度はお前が邪魔したのだ。その存在自体で。

 そう言い切った叔父に、彩香は静かに首を振る。

「いいえ、私がいなくても、兄様はそうは成らない。決して」

「お前は、知らないのだよ。啓一郎がどういう人間なのか。彼の能力は非常に優れている。そういう人間は、いつか、他者を自分と同列とは思えなくなるのだよ。私たちと同じように」

 冷笑と共に、彼は断言する。そして、彩香に背を向けた。

「私が今した話を誰かにするのなら、今日中にしておくのだな。時間は、残っていないぞ──明日の晩には、全てに、片が付く」

「私は、誰にも言いません。でも、兄は護ってみせるわ。……武也も」

「……まあ、やってみたまえ」

 ちらりと、雅嗣は振り返り、そしてノブに手を掛けた。

「だが、私は、今まで失敗というものをしたことが無かったよ」

 彼が扉の向こうに消えると同時に、彩香の両目から涙が溢れ出した。それは、後から後から頬を伝う。母の死の真相を聞かされたからなのか、兄の本性を言われたからなのか、この涙の理由は、そのどれでも無いように思えた。

 もしかしたら、叔父を憐れんだのだろうか。あの、全てを自らから隔てて生きる叔父のことを。確かに、彼は望んでその状態を作っているのだが、それでも彩香にはそれが幸せなことだとは思えなかったのだ。

 あるいは、雅嗣の考えを理解できない自分が腹立たしかったのかもしれない。理解できないものを変えさせるなど、無理なことだから。

 泣かないことを誓った筈だったのに、どうしても止められなかった。

 雅嗣が帰ったことをメイドから聞き、彩香が応接室から出てこないのを訝しんだ荒木が、遠慮がちなノックの後に姿を現した。

 彩香が泣きじゃくるのを見て、彼は仰天して駆け寄り、何があったのかと言葉を繰り返して尋ねたが、彼女は応えることができなかった。

 彩香自身にすら理解できないその感情は、言葉にするには難しすぎた。


   *


 上條の屋敷を後にした雅嗣は、その足で本社の会長室に向かった。

 実を言うと、彩香からの呼び出しの前に、至急話があるので来て欲しい、という伝言を啓一郎から受けていたのだ。

「さて、君の話は何なのかな?」

 用向きは判っていたが、雅嗣は啓一郎を揶揄するようにそう言った。

「何か妙な言い方ですね」

 啓一郎は、叔父の言い方に引っ掛かるものを感じた。

 自分の前に、誰かと話をしてきたような。

 だとすれば、思い当たるのは一人しかいなかった。

 彩香が今朝早くに帰宅したことは気付いていた。出先で仕入れた情報を確認する為か、あるいは──彼女がかなり奥深いところまで知ったとしたら──雅嗣の考えを変えさせる為か、この叔父に直談判を申し込んだのであろう。

「彩香とお会いになりましたか」

「ああ。……君の妹君は、彼女の母親によく似ているな」

「……そうですね」

 雅嗣が父の妻となったひとに抱いていた感情を知っている啓一郎は、言葉少なく答える。

 彩香は、彼と何を話したのだろうか。

 彼女はどこまで知ったのだろうか。

 それは非常に気になることだったが、今出すべき話題はそれではない。

「ところで、例の話なのですが……」

 啓一郎は彼の話を切り出した。

 それは、一ヶ月ほど時を遡る。

 上條は電子機器部門の開発に向けて、あるレアメタルの輸入を行うことになった。だが、輸入元では、上條のそれまでの不穏な噂を耳にした彼らの中に、上條と手を組むことに反対する者が出てきたのだ。

 その情報を受けた啓一郎は、当然、相談役である雅嗣に伝え、その対策を伺った。

「反対しているのは二人だけなのですが、小さな国にありがちな旧式なお国柄で、いわゆる長老というのでしょうか、その二人がかなり大きな力を持っているそうなんです」

「手を焼きそうなのかね」

「ええ、まぁ……」

「だったら、何を迷うことがある。ごみは取り除けばいいのだよ。そうすれば、歯車は再び動き出す」

 叔父は穏やかにそう言った。

「それは……どういう意味でしょうか?」

「鈍いふりは止めなさい。君の父上がこういう時どういう判断を下したかは知っているだろう」

 雅嗣の示唆するもの。

 それは、啓一郎が常に忌避してきた手段だった。

 目を閉じ、心を落ち着かせながら、努めて穏やかに叔父に答えた。

「私は、父とは違います」

「そうかね。だが、よく似ているよ」

「あまり嬉しくは無いお言葉ですね」

 甥の言葉を、雅嗣は窓から下界を眺めながら受け取った。

「しかし、ここからの眺望を創ったのは、君の父上の力だよ。素晴らしいものではないか。……人の動く様も、車の流れも、機械仕掛けのミニチュアのようだ」

「あなたには、そう見えるのでしょうが、私には、別段、何の感慨もありません。どんなにちっぽけに見えようと、人は人ですしね。神の視点に立てたからといって、人が神になることはできないのですよ……私は、父と同じ道は進みません」

 こちらに向き直った雅嗣と、啓一郎は真正面から視線を結ぶ。

「私は、数万もの社員を投げ出すわけにはいかないから、今の地位に就いています。父のように、会社を育てること自体に喜びを感じている為ではありません」

 それは正しく彼の心の内を表したものではなかったが、啓一郎はそう言った。

 雅嗣は心持ち目を細めて甥を眺めやった。その真意を確かめるように、無言で彼を見つめる。年齢相応の皺が刻まれた口元にうっすらと笑いが浮かび、雅嗣は残念そうに、いかにも残念そうに、首を振った。

「主義の違いというやつか」

「むしろ、道徳観念の違いと言うべきです。そして、能力の。私は、そんな手段を用いなくても、この会社を育てられます」

「それはまた、大風呂敷に出たものだな」

「事実ですよ」

 しばし考え込むように、雅嗣は口を噤んだ。啓一郎は、次の言葉をじっと待つ。

 叔父はむしろ楽しげと言っていい口調で、条件を出した。

「よろしい。では、一ヶ月待とう。それまでは、私は何も言うまい」

 その時は、それで話は終わった。雅嗣は約束どおり、一言もこの件に口を出すことは無かった。

 そして、今日。

 その一ヵ月後が、この日である。

「それで、どうだったね。君のやり方でうまくいったかな?」

「残念ながら、今のところは。まあ、縁が無かったのかもしれませんね」

 芳しくない言葉の内容の割りに平静な啓一郎の様子を訝しく思いながらも、雅嗣は自分の優位を確信する。

 啓一郎の下に入り込ませている雅嗣の部下からも、この件に関する成功の情報は入ってきていない。甥は失敗したのだ。

「それでは、私のやり方に従うね?」

 当然、色好い返事を得られることを前提としたその口調に、しかし、響き返してきた声は、雅嗣の望んだものとは違っていた。

「お断りします。私は、あなたの考えに同調することはできません」

「どうしてもかね」

「はい」

「そうか……」

 雅嗣はそれだけ呟くと、右手で鼻から下を覆って、窓の外を見やる。

 啓一郎は、彼の口が再び開かれるのを待った。どんな言葉がそこから吐き出されるのだろうか。

「では、仕方ない。他の手立てを考えるしかないようだな」

 暫らく後に、叔父は振り向くと、にっこりと笑ってそう言った。

 あっさり下がった叔父が、今回裏でどんな糸を引いているのかは、すでに啓一郎の情報網に引っかかってきている。今更彼がその筋書きを変える気が無いのも、判っている。

 そして、甥がそれを知っているということを、雅嗣も承知の上だった。

 互いが知っていることを隠しあって、白を切りとおす。

 二人はそれぞれの目の前に立っている相手を見た。決して見通すことのできない心の底を見極めるように。動きの無い、無言の戦い。

 啓一郎にとって、それは叔父との戦いであるのと同時に、父裕嗣との対決でもあった。ずっと彼の心の中に巣食ってきた父の影を、もう一度見直す時が来ているのだ。

 彩香の『いつまでも逃げていてはいけない』という想いは、啓一郎の中にも常に渦巻いていた。彼が目を逸らし続けてきたのは、彼の中の父。誰からも認められる優秀さを身に付けることでそれから逃げてきたが、そろそろ、それと正面から向き合わなければならない頃だろう。

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