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 その夜。

 部屋の明かりを消したままベッドに腰掛け、彩香あやかは闇の中で目を凝らしていた。暗さに慣れ、窓から射し込むほのかな月明かりだけでも、何とか周囲の様子は見て取れた。

 枕元の時計では、そろそろ午前一時になろうとしている。家の者も、皆、寝静まった頃だ。

「そろそろかしらね」

 彩香は静かに立ち上がり、、カーテンの陰から外を窺った。

 庭には、見回りの男たちの持つ懐中電灯が、ちらちらと動いている。

 外の警備は、毎日、午前一時に交代する。その時を狙えば、彼らは何とかかわせるだろう。

 第一、外からの侵入者は警戒していても、中からの脱走者がいるとは思っていまい。

 問題は彼女自身に付けられた見張り──荒木司郎あらき しろうだが、こちらも昼間完璧に『深窓の令嬢』という猫を被り通したお陰で、よもや彼女が二階のベランダから抜け出そうとは夢にも思っていないに違いない。

 いつもなら、非常時の為の避難梯子がベランダに取り付けられているのだが、この件が片付くまでは脱走防止に、と、啓一郎けいいちろうが取り上げてしまった。

 が、そんなことは問題ではない。

 彩香はクローゼットの奥を探り、こんな場合の為にと先日から用意してあったロープを取り出した。

 念の為に、ベッドを人の形に膨らませる。たいして役には立つまいが、ちょっと覗かれたぐらいならごまかせるかもしれない。

 身を沈めてベランダに出た。タイミングを計ってロープを階下に放り、器用にそれを伝って下りる。

 残していくロープが気になるが、仕方が無い。

 身体を低くして庭木の間に走り込み、その陰に紛れる。黒いTシャツに黒いジーンズのその姿は、よほど注意して見なければ目に留まることは無い。

 庭には、セキュリティシステムがあるが為に人間の警備を必要としない──かえって邪魔になる──場所があった。そこを選んでセキュリティに引っかからないように進めば、何とか門まで行けるだろう。

 何しろ、5年来親しんできた庭である。セキュリティの張られ方も良く知っていた。

 庭木を揺らさないように細心の注意を払いながら、精一杯足を速める。夜露が足を濡らすのも気にせず、正門へと急いだ。

 ほんのりと柔らかな光を放つ門灯が見えてくる。暗闇に慣れた彩香の目には、その明かりは眩しかった。

 バスが余裕を持って通過できるほどの両開きの門を、彼女がやっと通れる程度だけ押し開け、スルリと抜け出す。この門は監視カメラでチェックされている筈だが、ここまで来れば見つかったとしてもたいした問題ではない。

 来ている筈のタクシーを探して、左右に目を配る。門から少し離れたところに、それは停車していた。

 助手席の窓を軽くノックすると、後部座席のドアが開かれた。

「赤坂の、アルカロイドというお店へお願いします」

 彩香は行き先だけを告げて、後は口を噤む。

 こんな深夜に乗り込んできた客がどう見ても義務教育の真っ只中にある少女であることは気にも留めなかった運転手が、店の名を聞いて驚いたように振り返った。

 彼は何か言おうとして、結局、黙って車を発進させる。

 その中を沈黙で満たしたまま、車は目的地へと向かった。

 流石にこの時間だと、道は空いている。時折、擦れ違う対向車のライトが車内を照らしていった。その数が増えるに従って、通りの様子が、徐々に閑静な住宅街からネオンの輝く繁華街のものへと変わっていく。

 彩香は、窓の外から膝の上の両手に目を移す。小さな、両の手。

 この手でできることは何だろう。どんなことでもいい。

 それに全力を尽くさなければならない。

「お客さん、着きましたよ」

 運転手の声で、彩香は外を見る。

 眩いネオンが溢れる街並みの中で、目立った看板の無いその店は、どことなく部外者を拒んでいるようにも見えた。

「ありがとうございました」

 彩香は代金を払い、降りる。背を向けたところへ、運転手から声がかかった。

「お客さんさ、ホントにその店に用があるんすか?」

「ええ」

 返ってきたのは穏やかな肯定。

 質素な服装に身を包んでいても、彼女からは育ちの良さが滲み出ている。

 そんな少女が、あまり芳しくない方向で有名なこの店に、本当に入ろうというのだろうか。

 彼は少々躊躇ったが、意を決して続ける。

「あんまし良い噂聞かないんだよね、その店。なんか、やくざと繋がりがあるとか」

 彩香はきょとんと彼を見た。

 わざわざ、そんなことを言ってくれるとは。

 人の良さそうな男の、声を潜めての忠告に、彼女は真面目くさった顔で秘密を打ち明けるようにこっそりと告げる。

「そのやくざに、用があるんです」

 一瞬空いた間を逃さぬうちに、彩香は身を翻し、店の中へと消える。お人好しの運転手に、心の中で礼を言って。

 20人ほどが入れる店内には、二組のカップルがいるだけだった。どちらも、男はスーツを完璧に着こなした青年実業家風である。

 彼らもやくざなのだとしたら、やくざの幹部は身なりに気を使うというのは本当なのかもしれない。

 入り口で店の中を眺めていた彩香に、マスターが声を掛けてきた。

 いつ来ても彼しかいないところを見ると、この店は彼一人でやっているのだろう。

 マスターは軽く腰を折って言った。

「お連れ様がお待ちです」

 BGMに穏やかなクラシックが流れる店内を横切って、例の個室へと案内される。

 他の客は、明らかに未成年の彼女がこの店にいるのにも、全く気にも留めていないようだった。

 マスターがノックすると、すぐに内側からドアが開く。

 その向こうからは、厳つい身体つきをした50歳前後の男が彩香を見下ろしていた。色の浅黒い、荒削りな顔。

 そこからの視線が、彼女に注がれている。知らない人間が注視していることに戸惑いを覚えながらも彩香はそれを内心に封じ込め、真っ直ぐに相手を見返した。

 いつまで続くかと危ぶまれた二人の睨み合いを止めたのは、彼女も良く知っている男の茶化しだった。

田沼たぬま、睨むなよ。いたいけな少女が怯えちまうだろ」

「そんなタマには見えませんがね」

 彩香が入れるように身を引きながら、田沼は室内からの声──龍彦たつひこに返した。

 たったあれだけの観察で、なかなか鋭い眼力である。

 そりゃそうだ、と笑って、龍彦は姿を見せた彩香にグラスを持ち上げて挨拶する。

「よお、来たな。取り敢えず、座れや」

 彩香がソファに腰を落ち着かせると、龍彦は未成年者である彼女の為にオレンジジュースを頼んでからマスターを下がらせた。アルコールでないのが彼らしい、と言うべきか。

 飲み物が来るのを待って、話を始める。

「こんばんは。……この方は?」

 マスターが下がった後もドアを開けた男が残っているのを見て、彩香は軽く首を傾げて龍彦を見つめる。

田沼剛三たぬま ごうぞう。俺の目付け役で、まあ、何かと顔の広い奴だ。今回の裏も色々調べてもらった」

 何だか要領を得ない中途半端な紹介だ。

 男は合点のいかない顔をしている彩香に身体ごと向け、ピシッと上体だけを倒した礼をする。

「お初にお目に掛かります」

 腹の底から響くような声でそれだけを口にした。あまり饒舌な性質ではないようである。

「裏って……?」

 訝しげに彩香が尋ねる。

 昔、義父に家族を殺された男がその仇を取ろうとしている。それだけの話ではないのか。

「何で、あいつが三人も殺したと思ってるんだ?」

武也たけやの家族が殺された頃のことを私も調べました。……彼らの会社は皆、丁度あの頃から急成長を始めたんでしょう?」

「で、今更になって、怪しい奴らを手当たり次第に皆殺しする気になったって? 十年もしてから? しかも俺たちのような人種ならいざ知らず、ごく普通の人間が三人も殺すには、ちと弱い理由じゃねぇの?」

「確かに、根拠としては弱すぎるけれど、強いて共通点を挙げるなら、それぐらいしか見つからなかったから……」

「遠くを見すぎると、近くは見えなくなるもんさ」

「……?どういうこと、ですか?」

 龍彦は肩を竦めた。田沼に目をやり、彩香に向かって顎をしゃくる。

「田沼、このお嬢さんに話してやれよ」

 田沼は少女に目を向け、そして龍彦を見た。

「いいんですか……?」

 それが部外者に聞かせることを躊躇っての台詞なのか、それとも、年端もいかぬ少女に聞かせることに気が咎めてなのかは、判らなかった。

 数瞬口籠った後、それでも田沼は二代目の言葉に従う。

「一ヶ月ほど前、阪倉武也にある男が接触しました。この男が、今回の殺しを阪倉に依頼したと思われます。三人が死んで直接の利益を得るものはいません。ですから、動機の面からこの件の黒幕を探すのはかなり難航しました」

 なかなか本題に入ろうとしない。

「前置きはもういい。その黒幕を言ってやれよ」

 話を知っている龍彦が痺れを切らした。せかす彼を、田沼はじろりと睨む。

「何事にも筋道ってもんがあるでしょう。坊ちゃんも少しは学んでください。そんなじゃ組を継げませんぜ」

「坊ちゃん呼ばわりは止せよ」

 顔をしかめて抗議する。

 だが、おしめをしている頃から面倒を見てもらっている奴が相手では、いくら口の達者な龍彦でもいささか分が悪かった。

 藪を突ついて蛇を出した龍彦は、首を竦めて、もう何も言いません、というジェスチャーをする。

 それでも我ながら回りくどいことには気付いていたので、田沼は咳払いを一つして、本題に入った。引き伸ばしてはみても、結局言わなければ事は終わらない。

「彼がこの殺しを引き受けたのは、引き換えに、本当の仇……あなたの父上の名を知る為だったと思われます」

「その為だけに、三人も殺したの……? まさか、そんな……」

「いいえ、事実です。あなたには信じ難いことだとは思いますが」

「事実……」

 この言葉がこれほどに重さを持つということを、彼女は今まで忘れていた。

 彩香は唇を噛み締め、きつく目を閉じる。そうでもしないと、涙がこぼれてしまいそうだった。

 そんなにも、武也の憎しみは深かったのか。父の名を知る為だけに、三人の命を奪えるほどに……? そして、裕嗣ひろつぐが死んでいるならば、啓一郎の命を狙おうと考える程に?

 涙を必死に堪えている彼女を、田沼は痛ましそうに見る。話はこれで終わりではないのだ。更に続きがある。だが、この少女にこれ以上何かを告げるのは、酷だった。

 田沼は、もう止しましょう、と、龍彦を見る。だが、二代目は、首を振った。

 彼は冷静な目で少女を見つめ、静かに口を開いた。

「お嬢さん、ここで終わりにしたいかい?」

 五秒ほどおいて、彩香は顔を上げた。そこに涙は無い。

「いいえ。全部、分かっていることがあるのなら、最後まで聞きます」

 そう言って、彩香は田沼を見た。逃げることも、躊躇うことも決してするまい、と決めたのだ。

 田沼はその眼差しを真っ向から受ける。彼女の気持ちは、痛いほど伝わった。

 この少女があと十歳、いや、五歳年が上だったら、龍彦の伴侶として最高の相手となっただろうに。田沼は真剣にそう思った。

 彼女の強さは、本物だった。

 彼女は、どんなことでも受け止める覚悟をしている。田沼も、下手な同情はするべきではなかった。

「では、これからが本題です」

 息を吸って。

「まず、殺された三人。これは、完璧にカムフラージュです。この件の黒幕には、別に、本当に殺したい相手がいますが、その相手を殺す理由はあまりに直截過ぎるので、先にあの三人を殺したのでしょう」

「そんなことができるの? そんな理由で人を殺すことが……?」

「状況によって、人を殺すことに対する禁忌は無くなり得るものです」

 確かにそれは真理に違いない。

 だが、彩香は、それを認めたくは無かった。どんな人間もそれぞれの理由と目的の為に生きているのであり、本人以外にそれを止めさせることなどできないと、ずっと、そう信じてきたのだ。

 納得のいかない顔をしている彩香に、田沼はこっそりと笑みを漏らす。こういった『現実』を何の抵抗も無く受け入れられるようになったら、彼女の瞳からは、この輝きは失われることになるだろう。

「そして、その、黒幕なのですが……」

 再び田沼が言い淀む。

「何……? 誰なの……? 私の知っている人なのね?」

 言葉を選ぶ田沼の様子に、彩香は、一人の名が浮かぶ。彼女と啓一郎とに共通する人物はそう多くない。

「まさか、叔父様……? 雅嗣まさつぐ叔父様が、兄を殺したがっているの?」

 龍彦と田沼の、無言の肯定。

 自ら出したその名だったが、彼女自身、それを信じたくは無かった。

「でも、何故。二人とも、お互いに、たった一人の肉親でしょう?」

 この世に同じ血を継ぐ者を持たない彩香には、血の繋がりというものは何よりも憧れるものである。

「まあ、血が繋がっているからこそ色々あるということもあるしなぁ」

 龍彦がぼやく。彼にも二人異母兄弟がいるが、あまり仲が良いとは言えない間柄だ。

「今度、上條グループは大きな仕事をすることになっているのですが、どうもその関係で啓一郎氏と雅嗣氏との間に軋轢が生じたようです」

「軋轢って……?」

「仕事に関して、以前のような手段を採るかどうか、だと思います。……流石にその辺の事情の詳しいところは分かりませんが」

「叔父は、また……?」

「恐らく。啓一郎氏はそれに反対しているのでしょう」

「それが邪魔で、兄を……」

「はい。阪倉武也が啓一郎氏を殺すか殺さないかは、あまり意味のあることではありません。彼が殺してくれればそれで良し。殺さなければ別の人間にやらせ、その罪を阪倉に押し付けるつもりだったのでしょう」

「十年前の事件を理由にして」

 彩香は呟く。

 人を、何だと思っているのか。

 他人を道具と見ているとしか思えない雅嗣に対して、彩香は言いようの無い憤りを抱く。

 口惜しくて、理不尽で、彩香は八つ当たりだと解っていても、龍彦を責めるような台詞を彼にぶつけてしまう。

「分かっていて、どうして武也を止めなかったの!?」

 彼女の非難に、田沼が龍彦を庇うように返す。

「阪倉のしていることだと知った時には、三人目が殺されていました」

「第一、俺が止めろと言って、素直に聞くと思うか?」

 逆に龍彦に問い返され、彩香は返事に詰まる。確かに、誰が何と言おうと、武也を止めることはできなかっただろう。

「ごめんなさい……」

 顔を伏せて、彩香は細い声で言う。

「俺にとっても、こんな結末はあんまり面白いもんじゃないさ」

 意識せずしてこぼれた言葉は、龍彦の本心だった。こんなふうに終わらせるつもりは、彼にも無かったのだ。目を逸らした龍彦には、その時の彩香の眼を見ることはなかった。

「まだ、結末までは行っていないわ。まだ、終わっていない……」

 彩香は、呟く。このまま終わらせるつもりは、彼女にはさらさら無かった。

 彩香のその言葉を最後に、その場の三人はそれぞれの思いに耽る。口を開く者はいなかった。部屋の中には沈黙が訪れる。

 田沼は彩香を見つめ、龍彦は手の中のグラスに視線を落とし、彩香は空を睨んでいた。

 突然。

 ダン、ダン、ダン!

 誰の言葉も無いまま流れる時を、ノックと呼ぶには荒々しすぎる音が止めた。

「誰だ?」

 扉を細く開け、田沼が問う。

 だが、相手の返事はそれに応えるものではなかった。

「ここに、上條彩香という人がいるだろう」

「荒木さん!?」

 思わず立ち上がってしまった彩香に、田沼が、お知り合いですか、という目を向ける。

「私の……見張りをしている人です」

 龍彦が吹き出したのは気にせず、田沼は軽く眉を持ち上げると荒木が入れるように扉を開いた。半ば押し込むように、彼が飛び込んでくる。

 田沼は、猪のようなこの男を止められなかったことに扉の外で申し訳なさそうにしているマスターに、気にするな、というふうに首を振った。

 この勢いで押しかけられては、並よりも少々小柄な範疇に入るマスター一人には止められまい。

 一方、荒木の方はと言えば、驚いた瞳で自分を見ている少女が何ら危害を加えられていないのを認めて、安堵のあまり、がっくりと肩を落としていた。

「こんな時間に、こんな店へ。とんだお嬢様だ」

 大きく息を吐いた荒木へ、止せばいいのに、龍彦が茶化しを入れる。

「このお嬢さんの見張りとは、随分ご苦労さんな役をもらったな。幾らもらえるんだよ? なまじじゃ割りに合わねぇだろ」

 荒木は、余計な世話だ、と言わんばかりに彼をじろりと睨み付ける。つかつかと彩香に近寄り、その腕を取った。

「ここはあなたの来るようなところではありません。帰りましょう」

 動作は決して乱暴なものではないのだが、有無を言わせない。

 聞くべきことも聞いたことだし、荒木がここに来てしまった以上抵抗しても仕方ないので、彩香はおとなしく彼に従った。

 子供が父親に嫌々幼稚園に連れて行かれるような構図で部屋を出て行く彼らを、龍彦の声が追った。

「頑張れよ」

 へらへら笑いながらの龍彦の台詞は、見張りに向けたのか、それとも少女に向けたのか、定かではなかったが、彩香には、その軽薄そうな笑いの奥に真剣な光があるのが見えた。

 二人は、店内の人々の注目を浴びながら店を出る。

 店の入り口の真ん前に、見覚えのある車が停められていた。昼間、本社ビルから自宅に帰るのに使われたものと同じ車だ。

「乗ってください」

 荒木は助手席のドアを開け、言葉少なく彩香を促す。

 車が動き出した後も、荒木は口を閉ざしたままだった。

 眉間に深い皺を刻んだ彼の顔を横目で見ながら、彩香はそれを、彼女の行動を怒っているからだと思っていたが、実のところ、田沼は自分自身に腹を立てていたのだ。

 この任務を命じられた時、今まで請け負ったことの無い内容に正直戸惑ったものだが、要人の身辺警護などで腕を鳴らした彼は会長直々のお達しの割りに、なんと簡単な仕事だろうと正直、拍子抜けしたものだった。

 決して甘く見ることの無いように、との啓一郎の念押しに、荒木は所詮14歳の少女の見張りだと、高を括っていたのだ。様々なテロリストや暗殺者たちを相手にしてきた自分が、そんな子供に足元を掬われることなど有り得ない、と。

 その侮りが、彼から常の有能さを失わせた。

 有り得ない事が起き、鼻先で笑い飛ばしていた14歳の子供に、彼は見事にしてやられたのだ。

 社でも有能で通っている彼が仕出かしたこの失敗は、同僚に知られればいい笑い種になるだろう。いや、それよりも、自分自身の中で、これはいい戒めになった。どんな相手でも気を抜くな、という。

 荒木は、ホッと息を吐く。

 そして、その微かな彼の態度の軟化を感じ取ったかのように、助手席から小さな声が発せられた。

「どうして、あそこだと分かったの?」

 ちらりと横を見る。彩香は荒木を見つめて答えを待っていた。

「私は、一応、あなたの監視ということになっていますからね。ちゃんと部屋にいるかどうかを確かめに行ったんです。そうしたら、中に人がいる気配が無かったので……失礼ですが、あなたの部屋を無断で覗かせてもらいました。……私たちはあんなものにはごまかされませんよ。人が寝ているのか、枕が寝ているのかくらい、一目で判ります。ベランダのロープは引き上げさせてもらいましたので、帰りは玄関から入ってください」

 肩を竦めて。

「いらっしゃらないことが分かってすぐ、タクシー会社に電話したんです。上條の屋敷から夜中の十二時過ぎにタクシーに乗った人物がどこに行ったのか、調べてもらいました」

「そんなに簡単に教えてしまうものなの?」

「まあ、うちの会社はそれなりに顔が広いですし、探偵部門もありますから、そういう繋がりも持っているんです」

「……そういうもの、なの」

 納得したようなしていないような、曖昧な顔をして彩香はその一言で黙ってしまう。

 死神が住み着いたような沈黙が何となく気まずくて、今度は荒木の方から口を開く。

「しかし、何だってあんな奴と……。彼がどんな人物か、ご存知だったのですか?」

 少女からの返事は無い。

 だが、質問の形式は取っていたが、彼女が知っていて、それでもあの男と会っていたのは、荒木にも何となく判っていた。

 解らないのは、その理由だった。

 自分が彼女の見張りに駆り出されたことと、何か関係があるのだろうか。

 元々今回の社長連続殺害を警戒して啓一郎に付けられた護衛チームの主任であったのだが、彩香が消えたという連絡が入る少し前に、啓一郎直々に彩香の見張りに回るようにと言ってきたのだ。

 妹に見張りを付けることの理由に、啓一郎氏は、「私が狙われているのを知れば、彼女は下手な好奇心を出して調べようとするだろうから」と言っていた。

 だが、単なる好奇心だけで、これだけのことをするだろうか。

 シートに深く身を沈めた少女を横目で窺い、荒木は肩を竦める。

 昼間とは打って変わって、彼女からは静かな強さが感じられた。

 この強さを、どうやって隠していたのだろうか。

 今の彩香を最初から見ていれば、彼は決して今回のような失態を見せなかっただろう。だが、今更言ってみても、彼女に騙された時点から、荒木のしくじりは始まっていたのだ。

 そう、彼は騙されたのだ。昼間の彩香の見事な猫被りに。

 確かにそれは悔しいし、腹立たしくもある。

 しかし、荒木は、自分の中で彩香に対する好感が増していることも、認めざるを得なかった。仕事対象としてはやりにくいことこの上ないが、個人的には、こういう強かさを持った人間が好きなのである。

 荒木は、彩香を励ますように言った。

「お兄さんの警備は我々に任せてください。わが社には有能な人材が揃っているのですから」

 彩香を安心させようとしてくれている荒木の台詞に、彼女は微笑んでみせる。

 だが、今回の龍彦たちの話を聞いて、彩香には啓一郎の警備に傘下の会社を選んだのはあまり良いこととは思えなくなっていた。

 上條グループの下にあるということは、雅嗣の息が掛かった者が潜り込み易いということでもあるのだ。啓一郎の唯一の血縁者であり、彼の命を狙っている張本人である雅嗣の息がかかっている者が。

 あるいは、そんなことをしなくても、暗殺者が忍び込み易くなるような指示も、雅嗣がしたならば、護衛たちは何の疑問も無く従ってしまうに違いないのだ。

 ぎゅっと目をつぶり、悪い予感を振り払う。だが、どんなに否定しても、事実は変わらないのだ。

 叔父が甥を殺そうとしているという、その事実は。

 龍彦と田沼の話が、彩香の胸に、硬いしこりを作っていた。

 現実的な利益に負けてしまった、血の絆。

 彩香と彼女の母親の間では決してなかったことだ。そして、啓一郎との間でも。

 彩香はぎゅっと目を閉じる。確かに、それは少なくないことなのかもしれない。しかし、彼女はそれを認めたくは無かった。

「あなたの、ご家族は?」

 彩香の唐突な質問に、荒木は一瞬まごつく。

「え?」

「お母様とか、ご兄弟とか、血の繋がったご家族が、いらっしゃるのでしょう?」

「ああ、いえ、天涯孤独ってやつですよ。兄弟はもともといませんし、親も私が二十歳の時に事故で亡くしました」

 しばしの沈黙。

「……結婚はなさらないの?」

 重ねられた質問は、これだった。身上調査じみてきた会話に、少々荒木は戸惑う。

 今まで任務対象──主にそれは被護衛者だったが──とこんな話をしたことは無かった。彼らは身を守らせる為に荒木を雇うのであって、話をすることは滅多に無い。

「私には家族を持つことは向いていません。誰か一人を懐に入れておいて、その上仕事で他人を守るなどという器用なことはできないんです」

 自分の家族を持つ時は、引退する時ですね。

 笑いながら荒木はそう言った。

 彼の明るい口調に、彩香は目を伏せる。彼が強いのか、それとも自分が弱いのか。彼女には、家族を持たない自分など、想像もできなかった。彩香には、誰かが必要だった。

「独りでいることは、辛くない?」

 ひっそりと、彩香の声は荒木に届く。そこにある、彼女自身の寂しさに、彼は気付く。

 何が、彼女にそう感じさせるのか。

 上條グループ総帥のたった一人の妹として、何不自由なく暮している筈だ。そして、啓一郎の妹に対する愛情は紛れもないものだし、彩香の兄に対する愛情もまた、同様だ。

 それとも。

 荒木も、啓一郎と彩香の間に血の繋がりの無いことは知っていた。

 それが原因なのだろうか。

 荒木は車を路肩に停めた。運転しながらでは、彩香の顔を見ながら話をすることができない。

「彩香さんは、寂しいですか? お兄さんしかいないことが?」

 荒木が車を停めたことに不思議そうな顔をしていた彩香は、彼の問いに驚き、激しく首を振る。

「いいえ! 私は……!」

 そっと首を振り、続ける。

「兄が、好きよ。とても大事。血が繋がっていないことなんて、問題にならないくらい」

 荒木は穏やかな目をして、彩香を見る。その目に励まされるように、彼女は言葉を重ねていた。

「……血の繋がりって、どんな意味があるのかしら。私にとっては大事な兄のことを、叔父は……あまり良く思っていないみたいだわ。二人は血が繋がっているのでしょう? それなのに……」

 彼女の言いたいことは別にあるような感じがしたが、荒木はそれには気付かない振りをする。

「私の経験から言えば、血の繋がりなんて、あまり意味がありませんよ。かえって、血縁者の争いの方がドロドロしたものがあるような感じがしますね。……同族嫌悪ってやつでしょうか」

「京極さんも──さっきのやくざの人も、同じことを言っていたわ。そういうものなのかしら?」

 やくざと同じ事を言ったと言われ、荒木は内心複雑な気分だったが、取り敢えず肯定の答えを返す。

「……まあ、普通の家庭はそういうことは少ないですが、金持ちの家などで相続争いなんかが生じると、かなり凄まじいものがありますね」

 とにかく、と言って、少々ずれてしまった話の筋を戻す。

「血の繋がりよりも、気持ちの繋がりじゃぁないですか? あなたたちのようにね」

 にっこり笑って、彩香を見る。彼女が笑い返すのを見て、何となくホッとした。

 そして、同時に、まずいな、とも思う。

 今まで、護衛対象にこれほど深く立ち入ることは無かった。今回は、必要以上に感情移入しすぎていた。相手が子供だから、というだけではない気がする。

 自律しなければ失敗するかもしれない。

 この職業に就いてから初めて、そう予感した。この少女を護りきる為には、腰を据えてかからねばならない。

 啓一郎が何を考えて自分を彩香に付けたのかが、解ったような気がした。

 今までの、どこかお気楽だった気分を入れ替える。

「では、帰りましょうか。そろそろ夜が明けてしまいますよ。明るくなってから帰ったのでは、啓一郎氏が心配するでしょう?」

 努めて明るい口調で、荒木は言った。

 停車中に点けていたハザードランプを消して、車を発進させる。

 暫らく、車内には沈黙が訪れていた。彩香は黙って通り過ぎていく窓の外を見ている。電気自動車の静かなエンジン音だけが二人の間にあった。

「私、兄を護るわ」

 上條の屋敷が目と鼻の先となった時、彩香が荒木にではなく、自分自身に言い聞かせるかのような口調で、そう言った。

「私は、兄を護る。絶対に。……誰も、死なせたりしない」

 繰り返したその言葉を否定することは、誰にもできないだろう。

「大丈夫です。警備は万全ですよ」

 彩香が安心できるような声が出せていることを祈りつつ、荒木は、月並みだからこそ最も適切である台詞を口にする。

 そちらを見た訳ではなかったが、気配で彼女が微笑んだのが判った。

 玄関前に付けた車から降りる時、彩香はただ一言、ありがとう、とだけ言った。

 彼女が扉の向こうに消えるのを見届けた後、荒木は車庫に向かう。その間も、彼の頭の中は彩香のことから離れなかった。

 何故、こうも彼女のことが気になるのか。彼は自問する。

 彩香と、今まで荒木の任務の対象となってきた人々との違いは、その姿勢にある。

 あの十四歳の少女は、守られるだけではなく、彼女自身、誰かを護ろうともしているのだ──彩香には兄の他に誰か護りたい者がいることが、彼女の口調から、何となく判った。その人物も、彼女には大切な人なのだろう。

 彼女の想いは、強い。

 しかし、その強さのそこにあるのは、自身を顧みない危険性を含んだひたむきさだ。そのことが、荒木を不安にさせる。

 彼には残りの40時間ほどが、とてつもなく長く感じられた。

 これまで、様々な人物の護衛をこなしてきたが、これほど難しい仕事は無かった。何しろ、守られる本人におとなしく守られている気が無いのだ。

 その前途の多難さに、彼は深々と息を吐く。

 いつの間にか、東の空は白んでいた。

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