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 頭が、重い。

 彩香あやかのぼんやりとした頭にまず浮かんだのは、それだった。

 知らない飲まされた薬の影響か、彼女の頭は目覚めた後もなかなか動き出そうとしなかった。今の今まで自分が眠ってしまっていたのだという認識すら、ない。

「ここは……?」

 視界に入った天井が自室のものとは違うことに気付き、彼女は呟く。

「起きた、か」

 聞き覚えのある、その声。一瞬にして頭の中の霧は晴れ、彩香は跳ね起きた。目は真っ直ぐに声の主へ向く。

 男はドアに身を預け、腕を組んで立っていた。

 その腕にあるべき鎖が、無い。本人は気付いていなかったが、彩香の手首からもその手錠は消えている。

 彼は、彩香が目覚めるのを待っていたかのようだった。

「来るな」

 慌てて彼の元へ駆け寄ろうとした彩香を、男の鋭い一声が制する。張り上げたものではない、冷たい、その声。

 そこに込められた心からの拒絶の響きは、氷の鎖となって、彼女を縛る。

 二人の距離はわずか数メートルだというのに、そこには決して越えられない深い峡谷が横たわっているかのようだった。

「茶番は、終わりだ」

 言って、男は背を向ける。

 行ってしまう。

 そう思った彩香の胸に浮かんだのは、唯一つの問いだった。

「何で……どうしてなの!?」

 押し殺した、囁きの様な、悲鳴の様な、声。

 それが何に対しての疑問なのか、彩香にも解らなかった。咄嗟に口を突いて出てしまった、言葉。

 彼は、それを、彩香の兄を狙う理由を問うものだと解した。ギリ、と音がするほど、歯を噛み締める。

 何かを堪えるように小刻みに揺れた男の肩を見て、彩香は、彼が泣いているのかと思った。

 そんな筈がないことは、判っていたけれども。

 彩香は、再び足を踏み出した。

 一歩、また一歩。

 手を伸ばせば、届く距離。

「ねえ……?」

 彼に呼びかける本当の名前を、今ほど知りたいと思ったことはなかった。

 おずおずと伸ばしたその指先が、男の背に触れる。その瞬間、彼の身体が、目に見えるほど、ビクリと揺れた。

 それを見た彩香は、理由の解らない衝動に駆られ、咄嗟に両腕を男の身体に回してしまう。怯える子供を宥めるように、抱き締めたその腕に力を込めた。

 頭に浮かんだ言葉が、そのまま口からこぼれる。

「お願いだから、たった一人で苦しまないで……」

 何の根拠も無かった彼女のその一言が、引き金となった。

 凍った時が、溶ける。

 男は、渾身の力を振り絞って、彩香の腕を振り払う。

 バッと振り返り、何かを叫ぼうとして、止めた。何かを言おうとして口が動き、最終的に紡がれたのは。

「お前の父親に……訊くがいい」

 血を吐くような、声。そして続いた、囁き。

「もう、遅すぎる」

 彩香に問い返す暇を与えぬまま、彼は扉に身体を叩き付けるようにして、部屋を飛び出していく。そのまま、逃げるように廊下を走った。全てから、逃げ出すように。

 途中、武也たけやは黒尽くめの一団と擦れ違った。彩香が目覚める少し前、彼は、啓一郎けいいちろうに妹がここにいることを教えた。

 それを受けて啓一郎が派遣した者達であった。

 ホテルの狭い廊下を全力疾走する武也に、黒服達が不審をありありとその目に浮かべて振り向いたが、それが彼の足を鈍らせることはなかった。

 その胸に巣食う訳の解らぬ想いに任せ、武也は走る。

 走って、走って、行き着いた先は、非常階段であった。

 手摺に額を押し付け、そのままそこに座り込む。

 喉の奥から嗚咽が込み上げる。苦しかった。家族を失ってから、十年。今、初めて、目の前に壁が現れた。

 いや、本当は、いつでも彼に付いて回っていたのかもしれない。彼が見ようとしなかったから、気付かずにいただけで。

 だが、それに気付きさえしなければ、いるか断崖から飛び出すことになるその日まで、彼は、脇目も振らずにひたすら走り続ければよかったのだ。

 その先に訪れる破滅のみを、武也はその未来に見ていた。

 それなのに……。

 炎に包まれる家族の姿と、自分に笑いかけてくる彩香の瞳。それが交互に武也の脳裏に蘇える。

「お前なんかと、会わなければ……」

 ──あるいは、あと少し、早く会えていれば──

 ぐっと、唇を噛む。ジワリと生暖かい鉄の味が口中に広がった。

『お前の父親に訊くがいい』

 自分は、何故、あんなことを言ってしまったのか。過去を知れば、彼女が苦しむことは判りきっているのに。

 全てが、後悔のみを生んだ。

 武也は、自分の両手を、ジッと見つめる。

 そこには、塗りたくられた、真っ赤な血が見えた。洗っても、決して落ちない、血が。

 自分の存在を意識する度に、それを思い出すだろう。

 生きていく限り、ずっと。


   *


 彩香を迎えに来た一団は、啓一郎から彼女をそのまま上條グループの本社へ連れてくるようにとの指示を受けていた。

 だが、本社に向かう車の中では誰も口を開く者はおらず、彩香はどこに向かっているのかを知らされぬままである。彼女はそれを尋ねることなく、やはり無言で、シートに身を任せていた。

 その中で、彩香は『彼』のことに思いを馳せる。

 彼を救いたかった。

 啓一郎の敵である男を救うということは、兄を見殺しにすることになるのだろうか。

 そうは思えない……そうではない。

 兄を死なせることができないように、彼をこれ以上追い詰めることもできない。

 彼が人を殺してしまったのは、揺るぎのない事実だ。どんな理由も、殺人という行為を正当化することはできない。

 だが。

 二日間を共に過ごして、あの三人の命を奪ったことがどれほど彼の心を苛んでいるかが解っていた──彼がそれを口に出したことはなかったが。

 彼の心という名の風船には、静かに、罪悪感と後悔とが刻一刻と注ぎ込まれていた。そして、今にもそれははちきれそうになっているのだ。

 人を殺した人間が良心の咎めに責め苛まれるのは当然の罰であり、自業自得というものである筈だが、彩香には、彼が苦しむ様を黙って見ていることはできなかった。

 何故なのだろう。

 今まで、彩香にとって一番大切な存在は兄だけで、彼を脅かすものは決して赦すべきではなかった筈なのに

 何故あの男を放っておけないのだろう。

 それに対する答えは見つけられないまま、車が目的地に到着する。

 彩香を迎えに来た連中のうちの一人が、受付嬢に彼らが到着した旨を啓一郎に伝えるように言伝る。

 四方を大柄な男達に囲まれ、最上階にある会長室に向かうエレベーターの中で、彩香は考える。

 どうしたら二人共を護れるのかを。

 そうしたいと思う理由は取り敢えず保留にしておくべきなのだろう。

 70階を昇りきり、啓一郎の待つ部屋がもうすぐそことなる。

 マネキンのように取り澄ました美貌の秘書が、会長室の手前の部屋で彼らを迎えた。

 彩香を認めると、彼女はその心の内を全く窺わせない口調で啓一郎に取り次ぐ。

「彩香様だけお入りください」

 秘書に軽く頷いて、彼女は両開きの扉のノブに手を掛けた。


   *


 二日と半日振りの兄と妹の対面は、あまり和やかとは言えないものだった。

 啓一郎は暫らく無言で彩香の顔を見つめた後、おもむろに口を開いた。

「この三日間、学校を無断欠席しただろう。担任から連絡があった。取り敢えず、風邪だと言っておいたがな」

 デスクに肘を突き、組んだ両手で鼻から下を隠すようにして、啓一郎が言う。そうするのはあまり機嫌が良くない時の彼の癖だった。

 身なりは一分の隙も無く整っているものの、そこには憔悴の色が濃く、彩香の姿が消えてからの64時間、彼がどれほど心配していたかがありありと判る。

 実のところ、食事もままならないほどだった。

 感情を表に出せない啓一郎だったからその心痛は誰にも悟られることはなかったが、彩香が二度と彼の元に戻ることがなかったら、ということを、啓一郎は考えることすらできないほど恐れていたのだ。

 そしてあまりに大きなその不安は、彩香が無事に戻ってきた今、そっくり怒りへと変換されていた。彩香が部屋に入ってきた時に手の届くところにいたら、彼女の頬を張るぐらいのことはしていたかもしれない。

 今回の彩香の行動は、あまりにも軽率過ぎたのだ。

 そして、兄のやつれ振りを目の当たりにした彩香もまた、今更ながらそれを痛感していた。

 自分が黙って姿を消した時、真っ先に啓一郎の頭に浮かんだのは、上條グループ総帥の妹として連れ去られた、という可能性だったに違いない。

 こうして無事な姿を見せるまでは気も狂わんばかりであっただろう啓一郎のことを思うと、彼女の心も斬られるように痛むが、それを敢えて押さえつける。

 唇を噛んで俯いた彩香の様子から、弁解あるいは謝罪の言葉を彼女が発する気が無いことを啓一郎は悟った。

 母親譲りの強情さは、初めて会った頃からのものだ。啓一郎は小さく溜め息を吐く。

「お前が何をしようとしていたかは、想像が付く。それが私の為だったということも。だが、私は、そんなことをして欲しくは、無かった」

 お前が無事だったから良かったものの、そうでなければ、私は……。

 囁きよりも微かな声でそう言うと、額を強く押さえながら、啓一郎は大きく息を吐く。

 彩香は、ごめんなさい、という言葉を口にしそうになる。兄がその言葉だけを望んでいることは、解っていた。だが、それを口にしてしまえばいつもと同じになることもまた、彼女には解っていた。

 何も無かったことになり、彩香は何も知らぬまま、日々を過ごすことになることを。

 息を吸い、呑み込む。

 謝罪を喉の奥に戻し、言わなければならないことを、言う。

 それが、第一歩だった。

「お父様は、何をしたの?」

「っ!」

 啓一郎が息を呑んだ。ハッと顔を上げ、妹を凝視する。

 長い間、二人の間では禁忌となっていたことが、その言葉によって破られたのだ。

「兄様の命を狙っている人から、言われたわ。兄様を何故狙うのかは、お父様に訊けって。……その前からも、ずっと、訊こうと思ってた。でも、お父様の話が出る度に兄様が辛そうな顔をするから、訊けなかった」

 顎を上げ、真っ直ぐに、兄を見た。

「けど、いつまでもそれじゃ、駄目なの。ねえ、話して。これは、兄様の口から聞かなければならないことだと思うの。私だって、兄様の支えになりたいの。全部を一人で背負い込まないで。お父様の犯した罪なら、私も半分負うべきだわ」

 彩香は、必死だった。その瞳でしっかりと啓一郎を捕らえて放さない。

 彼女の母親によく似た、強い瞳。そのひとは、父を止めた、唯一の存在だった。

 今やたった一つだけとなった愛しいものを、何ものからも護ってやりたいと思うことは、自分のエゴに過ぎないのだろうか。

 啓一郎は、彩香の視線を避けるように、目を伏せる。

「だが、お前とあの父親とは、血が繋がっていないんだ。お前が背負うべきことは、何も無い」

 淡々と──少なくとも表面上はそう装って──啓一郎は言う。

 拒絶とも取れそうなその言葉に、彩香は泣きたい気持ちになる。

 どうして解ってくれないのか。

 欲しいのは、保護されるだけの自分ではない。

 もどかしくて、彩香は強く頭を振って、叫ぶ。

「違うのよ! そうじゃないの! 確かに、私は、あの人の娘じゃない。けれど、兄様の妹ではあるの! 兄様が私を護ってくれるなら、私は兄様の支えになりたいの!」

 彩香の、想い。

 何よりも強いそれが、啓一郎の口を動かしてしまった。ポロリと、言葉がこぼれる。

「知って、どうする。あんな、人殺しのことなど……」

「人、殺し……?」

 彩香の、鸚鵡返し。それが啓一郎に届き、彼は咄嗟に口を押さえたが、出てしまった言葉は、もう戻らない。啓一郎は堤防が崩れ始めたことを知った。

「誰を……誰を、殺したの?」

 顔は色を失ったが、彩香のその瞳は逃げていない。

「それ、は……」

 ここで彩香が、一言『聞きたくない』と言えば、啓一郎はすぐにでも口を噤んだであろう。だが、彼女はそうしなかった。

 ここまで真剣になっている彩香をごまかすことなど、できそうも無かった。

 言い繕うことを諦め、啓一郎は話し始める。常の自信に満ちた彼とは別人のように、今の啓一郎は弱かった。

「多くの、人を。その家族を入れたら、両手の指でも足りない」

「彼も……彼の家族も、その被害者なのね」

 彩香がポツリと漏らした『彼』が誰を指しているのか、啓一郎にも判った。今朝、妹を取りに来い、と電話を掛けてきた男は、阪倉と名乗った──その名字には覚えがあった。

「彼、は阪倉武也という名だよ、彩香。彼の父親は阪倉建設の社長だった。その頃は、上條も建設業だけを手懸けていた」

 啓一郎は言葉を切って彩香を見る。彼女は、食い入るように彼を見つめていた。

 彩香には、この話がどういうふうに進むのか、予想がついた。だが、兄の為にも、彼女には啓一郎の口から全てを聞くことが必要なのだ。

「ある時、上條建設と阪倉建設、他五社で、大きな仕事の受注を争うことになった。国も関与している仕事で、それを受けることができれば、政界との繋がりを持つ足掛かりとなることは周知の事実だったから、どの企業も必死だった。最も有力視されていたのが阪倉建設、次が上條だった。だが、どこに任せるかの審査が始まって数日のうちに、阪倉の家が火事になり、夫妻とその娘が焼死した」

 啓一郎は深く息を吐いた。

 彩香は彼の一挙手一投足を、吸い付くように見つめている。

 真実を妹に知らせることは辛いことではあったが、同時に、秘密を打ち明けたことで、心が軽くなっていることも否めなかった。

「夫妻の息子は──武也は、庭のプールの中にいるところを、駆け付けた消防士に救助されたのだそうだ。父親に窓から放り出されたそうだ。母親は娘の部屋で、父親は息子と娘の部屋の間で、見つかった。わずかな煙でも作動する筈だった消火設備は働かず、火の回りは異常に早かった。明らかに事故では有り得なかったが、放火であるという証拠も、何一つ見つけることができなかった」

 啓一郎は肩を竦める。いくら見え透いていても、証拠が無ければ話にならないのが、法治国家だ。

 だが、それでも、あの頃は真実を知ろうとする者がいた。新聞記者が嗅ぎ回り、刑事が何度も事情聴取に来た。

 それが、いつの間に消えたのだろう。

「最有力候補が消え、その仕事は上條に回ってきた。それをきっかけとして業界最大手としての地位が揺ぎ無いものとなった上條は他

の分野にも手を伸ばし始め、買収や乗っ取り、株式操作、政治家への裏献金、様々な不法な手段を用いて、5年のうちに不動産、情報、流通、精密機器などの分野を傘下に入れ、上條グループを作り上げた。その間、一家心中は5件、不審な事故は3件あった……証拠が無い為に事故として処理せざるを得なかったが、私はその3件が事故ではないことを……父がやらせたのだということを、確信している」

 啓一郎が口を閉じた。穏やかな眼差しを彩香に注ぎ、静かに彼女を見守る。

 彩香も、何を言うべきか、判らなかった。

 静寂のみがその場を支配する。

 その膠着状態を、不意に鳴ったインタホンのベルが破った。

「何だ──分かった。暫らく待たせておいてくれ」

 兄が受話器を置くのを待って、血の気を失った彩香が問う。

 啓一郎という強力な庇護者によって護られていた安寧の夢から、彼女は今醒めたのだ。

「でも、証拠が無いのなら、何で、お父様のやったことだと判るの?」

 最も信頼している兄から直接聞かされた話だったが、にわかには受け入れ難い。裕嗣のことはたった二年しか父と呼んでいない。しかし、あの母が選んだ人がそんな男だとは思いたくなかった。

 いつも真っ直ぐで、ドラマの中でも理不尽なことは許せない人だった。そんな母が、人を殺しても平気でいるような人を好きになったのか?

 信じられない──信じたくない思いの強い彩香の問いに、啓一郎は静かに答える。

「私は知っているんだよ、彩香。父のしていたことは、何もかも知っているんだ。私の背負っている罪は、あの父と血の繋がりがあるということではない。父のしていたことを知っていながら止められなかったということなんだ」

 彼は大きく目を見開いている彩香を見つめた。

「だから、お前に負わせることはできないのだよ」

 啓一郎は、決して他人には見せることのない微笑を浮かべる。

 彼とて安穏と見ていた訳ではない。何か事が起きようとする度、啓一郎は必死で父を止めようとした。止めようと努力はしたが、それが報われることはついぞ無かった。

 結果を伴わない過程は、啓一郎には何の意味もないのだ。

 そして、それが解っている彩香には、何も言えなかった。そうじゃない、と叫びたかったけれど、兄が首を振るのが目に見えていたから。

 服を握り締めて唇を噛む彼女を、啓一郎は愛しげに見つめる。

 彩香は唯一父を変えることのできたひとの忘れ形見であり、今、啓一郎が裕嗣と同じ道に足を踏み入れるのを押し止めている錨でもあった。

 会社を育てることの面白さは、啓一郎も充分分かっている。たとえ不当な手段を用いようとも、成長していく上條グループを見ているのは、確かに楽しかったのだ。

 だからこそ、啓一郎には彩香が必要だった。どうしても越えてはならない一線を常に意識していく為に。

 彼自身が望む、失い難い足枷。

 それ故、彩香を失うことになってはならない。

 啓一郎は机上のインタホンの内線で、部屋の外で待つ人物を中に入れるように言った。

 直に入ってきたのは、彩香の知らない人物であった。

 中肉中背、あるいはそれよりはもう少し体格がいいだろうか。年は30歳前後。ごく普通の男だが、その身のこなしには無駄が無かった。

 不思議そうに啓一郎を見た彩香に、彼は言った。

「暫らくの間、この男がお前の行動を見張る。今回のような暴挙をしでかさないようにな。任務遂行の為には、多少手荒なことをしても構わないと言ってある。心しておくんだな」

 そう言った啓一郎の顔は、すでに上條グループ総帥のものとなっていた。彼の決めたことに、一切の異論は許されない。彩香をその男の方へ押し出し、後は頼む、とだけ言って、デスクに戻っていく。

 もう、彼女を見ることは無かった。

「兄様!」

 兄は応えない。

 男に腕を取られて部屋から出ようとする時、彩香は啓一郎を振り返った。その眼差しには、万感の想いがこもっている。

 しかし、啓一郎は、突き刺さる視線にも顔を上げなかった。

 男に促され、後ろ髪を引かれながらも彩香は会長室を後にする。

 二人の姿がドアの向こうに消え、部屋には啓一郎のみが残された。

 あの男は、一人にしておけば必ずまた無謀な行動を取るであろう妹の、せめて重石となってくれることを祈ってつけた。ブレーキとは言わない。今の彼女を止めるのは、不可能に等しい。

 突進を鈍らせる為の重りとなってくれさえすれば、良かった。

 だが、厳選したあの男も、いったいどれほどの役に立ってくれるだろうか。

 啓一郎には、自分の命よりも、妹の方が心配だった。

 あの一途な少女の心を護る為にも、自分は命を失う訳にはいかない。

 彼が死んでも会社の頭はいくらでも代わりがいる。だが、彩香の兄は自分しかいないのだ。

 そして、上條啓一郎の命を狙う、あの男。彼もまた、救わねばならない。

 何故なら、彼は、父の犯した罪の結果だから。

 何故なら、妹は、彼に特別な想いを寄せているから──彼女自身は気付いていないが、啓一郎はそれを確信していた。

 自分の命も、あの男の命も、どちらも失うことはできない。

 それがこの上なく難しいことであるのは、彼にも解っていた。だが、それをやらなければならないのだ。

 啓一郎は溜め息と共に、窓の外に眼をやった。

 そこには、真っ青な空が、広がっている。


   *


 どうしよう。

 見張りの男が運転する車の助手席で、彩香は泣きたい想いを堪えていた。

 武也との繋がりが切られてしまった上、こんなお荷物まで背負わされてしまった。一刻も早く龍彦たつひこと連絡を取りたいのだが、それもままならない。

 泣きたかったが、ただ泣くだけというのは彼女の信条から著しく外れた行為であり、今はそれが許される状況ではなかったのだ。

 泣くのは、全てが彼女の納得のいくように終わった時だ。

 彩香は、そう心に決めていた。

 赤信号で車が止まったが、彩香は黙って外を見ている。

 その彼女に、運転席から声が掛けられた。

「あの……」

 遠慮がちな男の声。

 彼とて、自分が彩香に望まれてこの場にいるのではないということは、重々承知しているのだ。

 その声で我に返ったように、彩香は男を振り返る。

 チラッと彼を見て、瞬時に自分の身の振り方を決めた。彼を騙すことにはなるだろうが、この際仕方が無い。これからやろうとしていることは、そもそも良心の呵責を気にしていられる余地は無いのだ。彼女は殺人者を庇おうともしているのだから。

 彼女はきょとんとした顔で瞬きを一つして、すっかり忘れていました、という風情で口元に手を当てて答える。

「あ、すみません。ご挨拶がまだでしたのね。私の名前はご存知でしょうけど、上條彩香と申します」

 よろしくお願いします、と、座席の上で優雅な一礼をする彩香に、男は戸惑ったように返す。彼としては、てっきり、無視されるか嫌味を言われるかのどちらかだと思っていたのだ。

「あ、いえ、こちらこそ。わたしは荒木司郎あらき しろうといいます。こんなのがくっついていてはうっとうしいとは思いますが、二日間……あなたの誕生日が終わるまで、ということですので、辛抱してください」

 にっこりと笑った彼の顔は、最初に彩香が想像した年よりも、少なくとも五歳は若く見えた。年齢不詳という言葉が良く当てはまる。

 だが、そんなことよりも、彼の言ったことが、彼女に少なからぬ衝撃を与えた。

「二日……?」

「ええ、明後日の晩まで、ということです」

 信号が変わり、車を発進させた荒木には、その時の彩香の顔は見えていなかった。もし見えていたら、何事かと思っただろう。

 彩香は、思ったよりも時間が無いことを知って、蒼褪める。

 急がないと。手段を選んでいる暇はなさそうだった。

 窓の外に目を凝らし、ボックス型の公衆電話を探す。電話機がむき出しになっている型ではなく、ガラスケースに入っている方のだ。

 携帯電話も持っているが、兄がチェックを入れている可能性が大きい。自宅の電話もまた然り、だ。

 携帯電話の普及率がほぼ100パーセントとなった現代では、公衆電話はなかなか見つからない。それでも、人の波の中に紛れたそれをなんとか見つける。

 あ、あった。

 そう思った瞬間、彼女は咄嗟に強い口調で指示してしまっていた。

「すみません! ちょっと、止めてください」

「えっ? はい!」

 唐突な停車に、後続車が追い抜きざまに睨み付けていったが、助手席に顔を向けていた荒木はそれには気付かなかった。

「……ごめんなさい」

 何事かと目を丸くして彼女を見ている荒木に、彩香は、ちょっとまずかったかしら、と、愛想笑いでごまかす。

「えっと、あの……電話を、掛けたいのですけど……」

 目の前で巨大なティラノザウルスがのし歩いているのを見たと言われても信じてしまいそうなほど切迫した先ほどの声とは打って変わって、なんとも平凡な用件。

 荒木は一瞬間の抜けた顔をしてしまったが、気を取り直して、車を最寄の公衆電話へと近づけた。お金持ちというものは、時折彼ら庶民には計り知れないことをするものなのだ。

 車を降りた彩香に、荒木も続く。

 受話器を取って、彩香は扉を塞ぐような形で外に立つ荒木をそっと窺った。電話を掛ける振りをして逃げ出すとでも、思ったのだろうか。

 任務に忠実な男である。

 クスリと笑みを漏らして、店でもらった紙マッチを見ながら彩香は慎重に番号を押す。呼び出し音三回で相手が出た。

「はい、アルカロイドです」

 この時間では出ないかもしれないと思っていた彩香は、その声にほっと息を吐く。

「上條彩香と申しますが、京極龍彦さんと連絡を取りたいのですが」

 やくざの跡取りと連絡を付ける為の台詞には相応しくないものだとは解っているのだけれど、他に言いようも見つからなかった。

 数秒の間が、流れる。

「あの……」

 やはり、もう少し付け加えなければ駄目だろうか、そう思った時。

「……伺っております。あなたから連絡があった時は、午前二時に当店へいらっしゃるように、との言伝を承っております」

 随分と用意のいいことだ。

 龍彦の方にも用があるのかと首を傾げながらも、彩香はマスターに承諾を返した。

「そうですか……。分かりました。必ず伺います」

「お待ちしております」

 電話を切る。取り敢えず、龍彦と会えるめどが立った。それは、暗闇の中の唯一の光明だった。

 安堵の溜め息をこぼした後、もう一度受話器を取り上げ、今度はタクシー会社に掛ける。午前一時に屋敷の前に迎えに来ているように手配した。

 受話器を置いて、彩香は息を吐く。

 ここからが正念場だった。躊躇は、一切、してはならない。

 人を殺した武也。彼を庇うことに迷いを覚えないと言っては嘘になる。

 だが、それでも。

 兄と武也。

 彼らを両方護ってみせる。彩香には、もう、どちらかを選ぶことなどできなかった。

 武也と過ごした二日間。その二晩とも、彼はうなされていた。

 誰に向けたものかは判らないけれども、赦してくれ、自分を止めてくれ、と、途切れ途切れに呟いていた。

 そして、初めて会った時に彼の目の中にあったもの。あれは絶望であったのだ。それが、ようやく解った。

 彼は、悔いている。

 あやふやだったそのことが、過去を知った今なら確信を持って断言できた。

 武也が心の底では止まることを望んでいるのだとしたら、何としても、それを叶えてやりたかった。彩香の全身全霊をかけて。

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