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「黙ってろ」

「この人ったら、まだ名前も教えてくれないんです。もう、きっかり丸二日間は一緒にいるのに」

 だから、彼のことは太郎って呼ぶことにしたの。日本人の代表的な氏名は、やっぱり山田太郎ですもの、と、彩香あやかは武也──彼女が呼ぶところの──太郎たろうの腕に自分のそれを絡ませたまま、龍彦たつひこに笑いかけた。

 蛇足ながら、その前の「黙っていろ」は、当然彩香に向けた、武也の台詞である。

「随分、仲が良さそうじゃないか」

 龍彦は、咥え煙草で人の悪そうな笑みを浮かべている。

 抱っこちゃん人形よろしく彩香を腕にしがみつかせたままアルカロイドに現れた武也を見て、龍彦は思わず口笛を吹きそうになってしまったが、不機嫌を絵に描いたような彼の顔に気付いて、すんでのところで思い止まったのだ。

 元々愛想の欠片も無い武也の顔が、更に仏頂面になっていた。サングラスをかけたままだが、憮然とした様子は、その口元からはっきり判る。

 しかし、よくこの男がおとなしく捕まったままでいるものだと感心しながらも、龍彦は彼らに次の動作を促した。

「いつまで立ったままでいるんだ? 座れよ。離れたくないのは解るがな」

 龍彦の、冗談混じりの冷やかし。

 武也はムッツリとしたまま、その表情からは思いがけない丁寧さで、彩香の腕を外す。少しだけ距離を置いた二人の間に、シャラリと軽い音を立てて鎖が垂れた。

 そこにあるものを認めた龍彦の目が一瞬丸くなり、そして、今度こそ彼は、咥えていた煙草と共に盛大に吹き出した。微塵も遠慮を見せずに、体を曲げ、苦しそうなほど大笑いする。

「おい……」

 地の底を這うような頭上からの声に、彩香は、横目で男の様子を窺った。

 ――うっわぁ、怒ってる。

 内心、彼女はそう呟いた。自分がその一因となっていることは、敢えて無視する。

 男の口元がどことなく引き攣っているように見えるのは、気のせいではないだろう。その右手は固く握られている。

 こめかみに浮かんだ怒りのバッテンは、彩香にはここ二日ですっかりお馴染みになったものだ。

「いや、すまん」

 脇腹を押さえながら何とか笑いを堪えようとする龍彦を、武也は唇を強く引き結んで見下ろしている。サングラスの奥の瞳は、さぞかし冷たいことであろう。

 武也が視界に入るとどうしても笑いが込み上げてくるので、龍彦は彩香に視線を移した。当然のことながら、彼女の腕にも同じものがある。

 何のことはない、仏頂面をしながらも男がおとなしく腕を組ませていたのは、そうした方がやたらと長い鎖が邪魔にならないからであったのだ。

「それにしても、なぁ」

 呟き、再び武也を見る。彩香に何やら話しかけられ、渋々ながらも頷いていた。

 はたから見ていると、兄妹のようだ。

 そう考えて、龍彦は内心苦笑する。兄の命を狙われている少女と、その兄を殺そうとしている男を見て、そんな風に思うとは。

 頭を振って、彩香に目をやる。化粧をしていない少女の顔は、それなりに年齢相応の顔をしていた。14歳の子供の顔を。

 ふっと、苦笑と共に、あの忌まわしい失態が脳裏に蘇える。

「まったく、あの時だって化粧なんぞしていなけりゃ、押し倒したりしなかったぜ」

 ボソリと、新しい煙草に火を点けながらの龍彦の言葉に、武也が反応する。その敏速さに彩香が口を挟む暇も無かった。

 彼は信じがたい言葉を、繰り返す。

「押し……倒した……?」

「そうなんだよ、ほら、例の部屋で……」

 へらへらと笑いながらの龍彦の台詞が終わらぬうちに、武也はクルリと彩香に向き直った。目線だけが下に向いているのだが、サングラスに隠れてそれは見えない。

「お前は、こんな男と二人きりで会おうとしたのか!?」

 まっすぐ伸ばされた人差し指の先には、龍彦がいる。

「こんな男とはご挨拶だな。俺だってお子様にゃ手は出さねぇよ。あの時は、どう見ても二十歳そこそこだったんだよな」

 肩を竦めた龍彦を冷ややかに見て、武也は言葉も無く深い溜め息を吐いた。

 この男は……。

 目を閉じ、心を落ち着かせようと努力する彼に、下から少女の声が届く。

「確かに最初はビックリしたけど、でも、14歳だって言ったら、何もしなかったのよ」

「当たり前だ」

 彩香の弁護を、一言で斬り捨てた。

 龍彦が14歳の少女に手を出すような外道だったら、とっくの昔に手を切っている。

 頭の回る割には、変なところが抜けている──奇しくも少女が兄に対して抱いたのと同じような感想を男が彼女に対して持ったということは、彩香には知る由も無かった。

 額に手を当て、武也は呻きそうになる。

 この少女と暮らした二日間。彼にとっては戸惑うことばかりだ。

 大抵の人間は、彼の徹底的な無視に耐え切れず、すぐに離れていく。しかし、無視しようが脅そうが、彩香は全く動じない。

 どんな脅し文句を言おうとも、一つの言葉に十返る。なまじ頭の回転が速いだけに、始末が悪かった。

「……?」

 ここまで、その当て所ない思考を巡らせたところで、武也は妙に隣が静かなことに気付いた。

 非常に気に障る龍彦の声と、うるさくは無いのだが、結構良く喋る少女の声が、途切れていたのだ。

 首を巡らせると、右に座っていた龍彦と、左に座っている筈の彩香が、いない。

 捜した彼は、どう考えても鎖が届く筈の無い距離に、二人の姿を見つける。

 更によくよく見ると、彼女の手首に手錠は無く、それは、カウンターの固定式の椅子の足に繋がれていた。彼女は鍵を持っていない筈なのだが

 椅子に腰掛けた彩香に、龍彦がカウンターに片手を突き、体を軽く屈めた姿勢で何やら囁いている。彼女の目は龍彦だけに向けられており、武也のことを気にしている様子は全く無かった。

 何となく、楽しくない。

 思いもかけず自らの内に湧いた、嫉妬とも取れそうな不可解なその感情に、彼は戸惑いを覚える。馬鹿げたその考えを吹き飛ばすように、彼は強く頭を振った。そして、再び二人に目を戻す。きっとまた、龍彦がふざけた事を言っているのに違いないのだ。

 男が睨んでいると、その視線に気付いたように、龍彦が、そこで待っていろというふうに片手を振ってみせた。マスターに何か言い、彩香の肩を軽く叩いてから、ようやく彼の元へやってくる。

 そして、第一声。

「よう、太郎ちゃん」

 武也はぐっと右手を左手で押さえ、勝手にその拳が龍彦を殴りそうになるのを堪える。

「あんたは、俺の名前を知っているだろう」

「そうだったっけか? 忘れちまったなぁ」

 そんな筈はないのだ。二日前に、武也はその名前で呼び出されたのだから。

「……嬉しそうだな」

 龍彦の上機嫌とは非常に対照的な武也の不機嫌ぶりは、常の鉄壁の無表情を崩しかけていた。いつもと変わらぬ龍彦のおちゃらけが、妙に気に障る。

 彼の不機嫌には彩香との渡りをつけた龍彦にも少なからぬ責任がある筈なのだが、そんなものはどこ吹く風だ。

 嫌味と恨みを含んだ武也の言葉に、龍彦はニヤニヤ笑いを浮かべて答える。

「嬉しそうって、そりゃぁ、当たり前だろう。お前がこんなに素直なのは初めて見るからなぁ。いや、一度はお前の面が変わるところを拝んでみたいと思っていたが、こんなところで実現するとは」

 果てしなく、人を喰った返事。

「自分が面白ければ、後はどうでもいいわけか」

「当たり前だろう」

 打てば響くように返った答えに、武也のこめかみが引き攣る。

「……そうだろうな。あんたはそういう奴だったよ」

 落ち着け、落ち着くんだ。今始まったことではないだろう。

 彼は自らにそう言い聞かせることで、心の平静を取り戻そうとする。

 その努力を知ってか知らずか、龍彦は鼻唄混じりにマスターからウイスキーを二つもらい、一つを武也に渡した。

 彼は黙ってそれを受け取り、やけ気味に、一気にそれを呷る。

「でもな、18歳未満に手を出すのは、犯罪だぞ?」

「……っ!」

 タイミングを計ったような──実際に計っていたのだが──龍彦の言葉に、今、まさに武也の喉を通り過ぎようとしていた酒が、本来通るべきではない場所に勢いよく吸い込まれた。

 盛大に、むせる。

「マスター、水やって、そいつに」

 龍彦は澄ました顔で言う。マスターが気の毒そうに水を差し出した。

「まったく、図星さされたからって、そんなに慌てなくても」

「誰が……! あんたは、いったい何を考えているんだ!」

 受け取った水を飲んで何とか呼吸を整えた武也は、サングラスを外して目元に滲んだ涙を拭う。

 惚けた龍彦を睨み付けるが、そんなものが効く彼ではなかった。

「あんたと一緒にするな」

「だがな、もう二晩も同じベッドの中、だろ? つい成り行きで、とかなぁ。思ったより、発育も良いようだし」

 妙にスケベ親父たらしい言い方に、武也は憮然として答える。彼にとっては、そんなに気楽なことを言っていられる状況ではないのだ。

「あいつは、その二晩を完徹している」

 ボソリ、と怒っているような声で。その目は、じっとグラスを睨み付けていた。

「そりゃご苦労さんな事で。だが、また、何で……って、当然か」

 折角着けた猫の首の鈴を、寝ている間に外されてしまっては、元も子もない。

 滅多に見られない男の弱り顔を肴に、龍彦は実に美味そうに酒を含む。普段澄ました顔をしている奴の途方にくれた様子ほど、見ていて楽しいものはない。

 この点に関しては、龍彦の思惑は大当たりだったようだ。

 充分に堪能した後、ようやく、解放してやる。

「まぁ、今頃はお嬢さんもぐっすりお休みだろうよ」

 ほれ、と肩越しに親指で彩香を示す。

 釣られて目をやった先にいる少女は、カウンターにもたれてピクリともしない。

「!」

 咄嗟に立ち上がってしまった武也の肩を、龍彦は宥めるように叩いた。

「ただの軽い睡眠薬だ」

 武也は、我にも無く慌ててしまったことを取り繕うようにドサリと椅子に体を落とし、ウイスキーを一息に呑み干す。これほど決まりの悪い思いをしたのは、ここ暫らく無かった。

「それで、本題は何だ? それともわざわざ俺の玩具になりに来てくれたのか?」

 武也をからかうのも充分に堪能したのか、龍彦がやっとまともな台詞を口にする。

 確かに武也とて、何も無様な姿を晒すためだけにこんなところへ来たわけではない。

 だが、すぐに返事はできなかった。訊くべき事は決まっているのだが。

 口籠る武也を、龍彦は促そうとはしなかった。頬杖を突いてグラスの中の氷を回しながら、彼が口を開くのを待つ。

「──上條啓一郎かみじょう けいいちろうの、今後の予定だ。部外者が入り込めるような催しは、ないか?」

 ようやく出たその台詞に、龍彦の顔が、すっと変わる。今までの軽さは吹き飛び、彼の肩書きにそぐった空気と取って代わる。

 ちらりと武也を見てから、言った。

「三日後、上條の屋敷で妹の誕生パーティーが開かれる」

「分かった」

 返事はそれだけだった。それ以上の言葉が、要らない。

 二人とも、各々の手の中のグラスだけを見つめている。

 暫らくしてから、龍彦が確かめるように武也に問い掛けた。

「……れるのか?」

るさ。その為に、あの三人の仕事を引き受けたんだ」

 カラン、と澄んだ音と共に氷が崩れる。

「やって、みせる」

 暗い、瞳。

 暫らく、二人は黙ってグラスを傾けていた。その間にも、店の客は二人、三人と消えていく。マスターがグラスを片付ける音だけが、BGMに重なった。

 最後の客が店のドアをくぐった時、武也がグラスを置いた。

「それじゃあ、彼女のことは頼んだ。上條啓一郎に連絡してくれ」

 立ち上がり、彼はそれだけ言って背を向けた。だが、翻ったジャケットの裾が、何かに引っかかる。

 見下ろした武也の目に映ったのは、龍彦の手だった。

「そうしてやりたいのは山々だが、それができないんだよな」

「……あ?」

 思ってもみなかった言葉に、武也は間の抜けた声で返してしまう。

「手錠を外す時、あの娘に、この店にいる間はお前を絶対に逃がさない、と約束しちまったんだよ。だから、お嬢さんも離れてくれたってわけ。俺達にとって「約束」てのが絶対であることは、お前も知っているだろう?」

 そもそも、美少女のお願いを蹴ることができる野郎なんぞいないよな、と、龍彦は冗談のようなことを真顔で言った。

 呆気に取られる武也を残して、つかつかと彩香の方へ近寄った。

 よいせっと、彼は手錠をはめ直した少女を抱き上げ、武也に差し出す。

「あんたは、いったい、どちらの側に立っている人間なんだ?」

 キレる一歩手前、必死にその一歩を踏み出すことを堪えている口調で、武也が問う。

「俺は中立だよ。どっちの味方でもない。要は、俺が面白ければ良いのさ。……ここを出た後なら、何をしても俺の知ったこっちゃない。「約束」は、この店にいる限り、ということだったからな。好きなようにしろよ。この娘が寝ている間なら、この程度の手錠なんざ、すぐに外せるだろう?」

 ここを出た後に、道端にでも捨てていけ、と言わんばかりだ。どこまでも身勝手な、その言いよう。武也にそんなことができないのは重々承知の上で、言っているのだ。

 武也は怒声を溜め息に変えて、腹の底から吐き出した。

 こいつは、こういう奴なのだ。五年前に出会った当初から、変わっていない。

 武也は諦めた様子で、よく眠っている少女を受け取った。ぐったりとした身体は予想以上に軽く、その寝顔は、出会ってから初めて見る、安らいだものだった。

 初めて見るということが、何故だか、ほんの少し切なかった。

 彩香を抱き上げた武也が渋々ながらもそのまま店を後にするのを見送りつつ、龍彦は、確かに、あの少女が彼に何らかの変化をもたらしているのを知った。

 彩香を受け取った時の武也の顔が、それを教えた。

 そして、彩香がどういう気持ちを武也に抱いているのかも、解った。

「お前も、そろそろ気付けよな」

 呟き、龍彦はカウンターへ戻る。

 自分が本当は何を欲しているのか、あの男はもう気付いても良い頃だった。

 椅子に戻った龍彦に、マスターが黙ってウイスキーを差し出した。

「どうも。マスターもどうだい?」

「……頂きましょう」

 そう言って、彼は自分のグラスを取る。

 一口含んでから、マスターは確認するような口調で龍彦に問い掛けた。

「彼は変わりましたね」

 マスターがいう人物が誰なのかは、確かめずとも、龍彦にも判った。

「ああ、そうだな。……正直、あの娘にあれほど効果があるとは思ってなかったよ」

「運命の片翼というものでしょうかね。今まで決して変わろうとしなかった彼を変えてみせたのは」

 詩人なマスターに、龍彦はグラスを持ち上げた。

「そうかもな。……ベターハーフに乾杯といこうか?」

「喜んで」

 二人はグラスを合わせた。

 カチンと、涼やかな音が響く。

「高飛びするなら、いつでも面倒見てやるからな」

 龍彦は、今はそこにいない相手に向けて、呟いた。

 そう、彼にはこれ以上事を進めないうちに、逃げ出して欲しかったのだ。

 今差し伸べられている救いの手に、気付いて欲しかった。

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