四
上條グループ本社の会長室で、啓一郎は厳しい顔付きで5人の男を前にしていた。彼らは皆、啓一郎直轄のシークレットサービス達である。
その彼らには、啓一郎のいつに無く冷ややかな眼差しが注がれていた。
「それで、まだ、彩香の所在は知れないのか?」
まだ、のところに必要以上の力が込められたその台詞に、5人の並よりもでかい図体が微妙に縮まったように見えた。
校長先生に叱られる悪ガキども、といった風情か。
昨晩16時頃、メイド頭に「ちょっと出掛けてくるから」とだけ残したきり彩香が帰ってこないということを、21時過ぎに帰宅した啓一郎は、泣きそうになっている彼女から聞かされた。
すぐに捜索を命じて、すでに12時間が過ぎている。芳しい情報は、ついぞ届けられることが無かった。
「は、はい。全力を尽くしているのですが、まだ……」
「全力を尽くそうが、死力を尽くそうが、何の情報も得られていないのが君達の成果だ。余計な言葉は付けなくてもいい」
氷のようなその鋭さ。
5人のうち一番若い者でさえ、啓一郎よりも年上である。
だが、その誰一人として、彼のその言葉に反感を持つ者はいなかった。彼らと啓一郎では、格が違いすぎるのだ。
誰をも従わせる威厳というものを、啓一郎はその地位に就いたときにはすでに身に付けていた──あるいは、生まれ持ったものなのかもしれない。
啓一郎の冷たい眼差しに射抜かれながらも、彼らは何とか努力の甲斐を見てもらおうと、唯一の収穫を提示する。
「彩香様を最後に見た者を連れて参りましたが……」
「通せ」
「ですが、あまり役には立たないかと」
「それは、話を聞いてから私が決める」
お前達の判断など当てにはならんと言わんばかりだ。
男達は最敬礼をし、部屋を出る。
入れ違いに姿を見せたのは、身なりのだらしない三人の男達だった。そのうちの二人は頭から顎にかけて、包帯を巻いている。顔の下半分が変形しているのが見て取れた。
言うまでも無く、昨夜彩香を目的不純なドライブに連れ出そうとした三人組だが、啓一郎はその件を当然知る由も無い。
「昨夜、私の妹を見かけたそうだが?」
彼らは、恐らく一生目にすることは無いだろう立派な部屋と、そこの主を目の前にし、落ち着かなそうにしていた。そわそわと部屋の中を見回し、足を踏みかえる。
「まあ、見たって言うかぁ、あんまし自信ないっすけどぉ」
真ん中に立った唯一無傷な男が、隣の二人をちらちら見ながら言った。
彼らにも何か後ろめたい事があるようだ。
「この少女だろう? 君達が見たというのは」
差し出された写真を覗き込んで、彼らは目配せをする。
啓一郎はそれに気付いたが、素知らぬ振りをして続けた。
「何か知っていたら話してくれないか」
取り敢えず下手に出た啓一郎に、懲りもせず彼らの頭の中に再び善からぬ考えが立ち上がってくる。
「ああ、そう言えば、この子だよな、俺らが見たの」
あぁ、そうだった、この子だぜ、と大仰に頷き合う。
「知っているんだね?」
啓一郎が念を押すように言うのへ、ずる賢そうに真ん中の男が上目遣いに頷く。
「はぁ」
彼らの頭の中で算盤が、弾かれる。
「それなんすけどぉ、俺らのこの怪我、この娘にやられたんす」
「それで……?」
「解るでしょ?この二人なんて顎の骨砕かれちまって、えれぇ金かかったんすよ」
「その治療費が欲しい、と?」
啓一郎が心の中でせせら笑う。
彼には、三人の現状が彩香のしたことではないことは判っていた。せいぜい、真ん中の無傷な男ぐらいであろう。
彼女だったら、あとに残すような怪我はさせない。
となると、問題は、彼らが彩香にしたことである。
語るに落ちたとは、このことだ。
いざというとき邪魔になるので段は取らせていないが、彩香には上條家に入ったときから合気道と空手を習わせている。今では師範代が舌を巻くほどの腕前であるが、彼女が自らそれを用いることは滅多に無かった。彼らから先に仕掛けたのでなければ、彼女のほうから力に訴えることは決してしない。
だが、彼らが何かをしようとしたとしても、それが、彼女が上條の者だということを知ってのことだとは思えなかった。それほどの度胸が彼らにあるようには見えないのだ。
「ほう……金、ね」
「そうだな、百万ぐらいでいいよ」
「随分、はした金だな」
啓一郎の口調に含まれた彼らを蔑む響きに、三人は気付かない。
彼らにとってはかなりの大金だと思って提示した金額を「はした金」呼ばわりされ、三人は鼻白んだ。もっと吹っかけてもよかったのかと一瞬悔やんだが、後から上乗せするのも何やら格好が悪い。
はした金だと思っているならすんなり出してくれるだろうと、気を取り直して啓一郎を見た。
「払ってもらえるんでしょ?」
身の程をわきまえない台詞に、啓一郎は立ち上がる。ぐるりとデスクを回って、三人の前に立った。
無言で、彼らをねめ回す。
その先にいる者を凍り付かせるような目付きに、彼らは怯んだように後ずさりした。
「な……何だよ?」
恫喝の言葉が無いということがこれほどの圧力を持つとは、彼らには思いもよらないことだった。
簡単に金が入ると甘く見ていた三人は、ここに及んでようやく自分達がしくじった事を察し始めたのだ。
じわじわと窮地に追い込まれる。
「その傷は、妹がやったと言ったね?」
「あ、ああ……」
今や鉄の塊と化した唾を呑み込み、男は答える。
「では、君達は、あの娘に、何をしようとしたんだ?」
ゆっくりと、言葉を切りながら言う。
ヒクッと、男の喉が上下した。落ち着くかなそうに、忙しなく瞬きする。瞬きが多い者は、大概、心に疚しいことを抱いている場合が多い。
「何って……一人で公園にいたから、遊ばないかって……」
「その後、だよ」
「そ、それは……」
知らず、脂汗が額に滲む。
「別に、ナニもしようとなんか……」
しどろもどろに否定するその言葉を鵜呑みにするような啓一郎ではない。
そして彼は、こういう人間は言葉で言うことを聞かせるのは難しいものであるということも知っていた。
すい、と手を伸ばし、包帯を巻いた男の顎を掴む。
ビクリとして反射的に身を引こうとした途端だった。顎から発した激痛が強烈な自己主張と共に彼の脳を貫いたのだ。簡単に外れそうなその手が、その瞬間、万力のように締め付けたのである。
声すら出せないその痛みに、男の目から涙が溢れる。痛みによってもたらされる涙は、成長期が始まって以来、流した覚えが無かった。
「この顎は、誰がやった?」
「や、止めろよ! そいつ顎が砕けてるって言ったろ!?」
他の二人があたふたしながら啓一郎を止めようとするが、それには全く取り合わない。冷たい一瞥をくれただけである。
もう一度、同じ問いを繰り返した。静かな口調で。
「この顎は、誰が?」
「男だよ! 髪のすげぇ長い、黒尽くめの! 俺らには、全然、関係ない野郎だった!」
彼らの必死な様子に、嘘は無いようだった。そんな余裕はある筈もないだろう。
暫らく見つめてから、ようやくその手を離す。
その場に座り込み、涙を溢れさせながら顎を押さえた男の傍に「ひでぇ」と呟きながら、二人が跪く。
「他に、何か気付いたことは無いのか?」
啓一郎の言葉に、彼らは必死で首を振った。
「ない、何も。俺はあんたの妹にやられて、気ぃ失っていたから」
肩を竦めて啓一郎はデスクに戻ろうとしたが、続いた包帯を巻いている男の言葉に振り返る。
「でも、あんたの妹は知ってるようだった。そいつのこと」
予期せぬ台詞。
「何……?」
啓一郎は、男を見下ろした。その視線に射竦められ、しどろもどろに記憶を辿る。
「何となく、そんな感じだった。どこがって訳じゃないけど。やっぱり、とか言ってたかな」
「知り合い……?」
彼は、呆然と呟く。それは予想外の展開だった。
今まで彩香からの連絡が無かったことから、何者かに拉致されたと思っていたのだが。
彩香は、自分からその男に付いていったということなのだろうか?
そうなると、かなり話は変わってくる。
彼女が自ら姿を消したというのなら、考えられることは一つであった。これは、今回の連続殺人に絡んでの要素が強くなってくる。
彼が最も恐れていたことが現実となってしまった。
彩香の暴走。
それは、今回の件が啓一郎に深く係わっていることが判明してから彼が考えた事態のうち、最も実現して欲しくないものだった。
昨日彼女の見張りとして一人の男を選び出したばかりだったのだが、わずかな差で手遅れとなってしまったのだ。
今までとは違う不安が彼を襲う。
黙り込んでしまった啓一郎に、すっかりその存在を忘れられていた三人組が恐る恐る声を掛ける。
「あの、俺たち、もう行ってもいいっすか?」
彼らは一刻も早くその場を離れたかった。とんでもない目にあったものだ。
啓一郎は思い出したように彼らに目を向け、デスクに戻って小切手帳を取り出した。そこに金額を書き込み、包帯を巻いていない男に渡す。
三人はおずおずとそれを受け取り、次の瞬間、目を丸くする。先ほどの彼らの要求を遥かに上回る金額が、そこには書かれていた。
「こ、こんなに!?」
啓一郎を見て、声を上ずらせる。
彼は黙って頷いた。三人のもたらした情報は直接の回答となったわけではないが、道が誤っていることを知る程度には役に立った。
「行きたまえ」
それだけ言って、机上のインタホンに手を伸ばす。彼らの役目は、もう終わった。
いそいそと三人が部屋を後にするのを冷淡な眼差しで見送りながら、啓一郎はシークレットサービスの5人を呼び戻す。
三人組は単純に自分達がお役目御免になったことを喜んだようだが、啓一郎が真っ先に指示したことは、次のようなものだった。
すなわち、
「今出て行った三人は、どうやら彩香にろくでもないことをしようとしたようだ。それなりの罰を与えておけ」
多少は役に立つ話を聞かせてくれはしたが、それとこれとは、話が別だ。
彩香に不埒なまねをしようとしたことには、それ相応の報いが必要である。
君でいい、と、一人を指す。
残りの四人には若干の方向修正を施した上で、引き続き彩香の捜索をするように指示した。
彼らが一礼して出て行った後、啓一郎は両手で顔を覆って深い息を吐く。
今回のことは全て、叔父、雅嗣との確執が原因だった。ずっと、彼とは話を付けねばならないと思っていた。だが、雅嗣だけが唯一残されている肉親であるというその事実が、啓一郎に二の足を踏ませていたのだ。
彼がもっと早く決断を下していれば、今回の事態は生じなかっただろう。
自分は甘いのだろうか。
雅嗣は躊躇うことなく、今回の事態を招いたのであろうか。
そうでないことを祈りたかったが、恐らく叔父にはたやすいことだったのだろう──甥の命を狙うということは。
啓一郎は拳を固く握り締める。
彩香の身が、心配だった。
恐らく、いま、妹といるであろう男が、昨夜あの三人組から彼女を助けたということが、唯一の救いだった。その状況を見過ごしにしなかったということは、少なくとも、人の心を持っているということだろうから。
それが単なる彼の気紛れではなかったことを、啓一郎は祈りたかった。
*
同じ日、京極龍彦のもとに、彼にとっては非常に面白くない情報がもたらされていた。
「これは、本当か?」
静かではあるが、怒りのこもった声で質され、調べを付けてきた男は、黙って頭を下げる。
「クソったれ」
龍彦は呟き、調査結果の書かれた書類を握り潰した。
彼が目を掛けた男が今回の企業人殺しに係わっていることは知っていたが、こんな裏があったとは。
「俺の知らないところで、随分楽しいことをやってくれるじゃないか、あのオジサンは」
そうだろ? と目の前の男に同意を求めたが、求められた方は、そこに含められたものを感じているので易々と頷く気にはなれなかった。
「全く、あいつも熱くなりやがって。もうチョイ考えてからにしておけば良かったんだよな」
あの男が自ら考え、行動したのであったのなら、それはそれで構わない。だが、他人に乗せられてであるならば、それはなんと馬鹿げていることだろうか。
「このまま見過ごすのは、非常にムカッ腹が立つところだがな」
龍彦はギラリと目を光らせる。
事を仕組んだ者に、一泡吹かせてやりたかった。みすみすその男の思う通りに事態を進ませるのは、かなり癪に障る。
だが、下手に動いては、今や弟のようにも思っているあの男のことが明るみに出てしまうかもしれない。
それも、あまり龍彦の望むところではなかった。
ジレンマというものが、彼を動けなくしていた。それも、情絡みのものが。
「くそう。これだから、下手に誰かに気を掛けるのは嫌なんだ」
ぼやいた龍彦に、傍で黙って成り行きを見ていたもう一人の男が、口を開いた。田沼剛三──長年龍彦の親代わりとなってきた人物である。
「今は、暫らく様子を見ましょう。もう少し事が進めば、手が打てるようになるかもしれません。待つことも大事です」
龍彦は肩を竦めて、それに応える。
「悠長に待ち続けて、手遅れにならなきゃいいのだがな」
「私は、あなたが会ったという、上條の娘が気になるんです。そういう、予想を超えた行動をする人物が思いも寄らない結果をもたらすことは、多々あるものです」
この男らしくない台詞に、龍彦は軽く吹き出して手を振った。
「まあ、俺も意表を突かれたことは確かだが、まだ14歳のガキだぜ?」
彩香とあの男を会わせるように手配はしたが、彼女が何かできると思ってではない。
単に、あれほど無謀なことをする少女には、いくらあの鉄仮面男でも、多少はうろたえるであろうと期待したからだ。
そうなったら面白いだろう、と。
呆れたような龍彦に、田沼は笑っただけだった。
「14歳とは言え、女ですよ。女の行動と考えることは、私達男には計り知れません」
「まあ、確かにな」
にやりと笑って同意する。
「それが解るようになれば苦労しないだろうに、といつも思うよ。……それがまた醍醐味ともいうが」
龍彦はクルリと顔を変え、軽口を止める。
「馬鹿口はここまでにしておいて、本気で、あのお子様が何か仕出かしてくれることを願うしかないのかね。俺の手で、奴に吠え面かかせてやりたいもんだがな」
ただ待っているだけというのは、龍彦の性に合わないのだ。彼の座右の銘は、攻撃は最大の防御なり、である。これまでも、常にそれに従って生きてきた。
だが、龍彦を「次代竜神組組長」として育ててきた田沼にとって、龍彦がいつまでもそうだと困るのだ。組を継いだときに今のようだと、抗争ばかりになってしまう。
これは、龍彦にもいい経験になるかもしれない。
「28にもなって、子供のようなことを言うのは止めなさい。大体、あなたがあの時彼に銃など渡さなければ、こうはならなかったでしょう。それを面白がって……」
「解った。俺が悪かった。ちょっと、魔が差したんだよ」
「だったら、あなたはいつも魔が差していることになりますよ。その、面白そうだから、という理由で事を成すのを止めてください」
痛いところを突かれ、龍彦は言葉に詰まった。それを言われると、非常に困る。彼とて解っているのだが、やはり、自分が面白いと思うことを優先してしまうのだ。
「取り敢えず、今度のことだろう? 解った、待つ。いくらでも待ってみるさ。最善を尽くすのはお子様に任せて、俺は次善の策を練ることにするよ」
龍彦は両手を挙げ、おどけた様子で降参のポーズを取る。だが、彼の目からその鋭い光が消えることはなかった。