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 彩香あやかは、腕時計にちらりと目を走らせた後、分厚いスモッグの為に星一つ見えない空を仰いで小さな溜め息を吐いた。

「やっぱり、駄目だったのかしら……」

 柵に両腕を預けて寄りかかり、彼女は呟く。

 龍彦たつひこから待つように言われた場所は、さほど広くない公園の、ちょっとした展望台になっている広場であった。眼下には、プラネタリウムさながらの夜景が広がっている。

 あの明かりの一つ一つに、各々の生活を営む家庭がある。彼らは今頃ごく平凡に、一家団欒を楽しんでいるのだろう。上條かみじょうの家に入るまでのそんな「普通の人々」の一人であった頃のことを思い、彩香は自分が今ここに立っている理由に笑い出したくなる。

 「明日の夜」というだけで時間の指定は無かったので、取り敢えず夕方の5時からずっとここで待っていた。

 しつこいナンパや胡散臭い宗教勧誘に耐えること5時間。彩香の心にも、そろそろ焦りが忍び込み始めていた。

 あと2時間待っても来なかったら、もう一度龍彦のところへ行ってみよう。

 そう彼女が決めたときだった。

「お嬢さん、もうずっと待ってんじゃん。彼氏にすっぽかされたんだろ?」

 なんとも軽薄そうな声。

 ──来て欲しい人は来てくれないのに、いらない人は良く来てくれること。

 うんざりしつつ振り向いた彩香の視界に入ったのは、その声にそぐった外見をした三人の男達の姿だった。さて、その頭の中身はどれ程の重さをしていることやら。

「なあ、そんな冷たい奴なんかほっといてさ、俺達と遊びに行こうぜ」

「そうそ、イイ店知ってんだよ」

 やはり、見た通りの中身の持ち主らしい。

 殆ど同じ台詞を、今日は何度聞かされたことか。皆、判で押したように似たような服装で似たような言葉を掛けてくる。まるで「ナンパの仕方」というマニュアルでもあるかのようだ。

 確かに、全てのベンチがカップルで埋まっているような場所、時間に、いかにも人待ち顔な少女が一人でいれば気にもなるだろう。しかし、それにしても、もう少し言動及びファッションにオリジナリティというものがあってもいいのではないかと、彩香は思うのだ。

 こういった輩に真面目に対応しても無駄なので、彼女は無視を決め込むことにした。

 だが、今までのナンパはそれで済んだが、この状況はちょっとまずいかもしれない。この広場に残っている人は殆どいない。そういう場合、普段は考えないようなことも割合平気でやってしまえるものなのだ。しかも相手は複数。

 反応を示さない彩香に、彼らがイラついてくる。

「何とか言えよ」

 一人が彩香の右腕を掴んだ。

 抵抗する間もなく、グイ、と明かりの下に引き出される。

「へ……え、上玉じゃん」

 ごくりと生唾を呑み、かすれた、下手くそな口笛を鳴らす。捕まえた相手が予想以上の収穫だったことに、三人は浮き足立った。かなり手当たり次第に女性に声を掛けている彼らだが、こんなことは滅多に無い。

 目配せで良からぬ相談をする。

 そろそろ危ないかしら。

 彩香は目だけで周囲を見回したが、不穏な空気を察してか、広場に残っていた数組のカップルもすでに姿を消していた。孤立無援である。

「な、お嬢さん、ドライブ行こうぜ。こいつBMW持ってんだよ」

 もう一人が、空いている方の彩香の腕に手を伸ばした。

 が、それは空を掴む。

 彩香が素早く、鮮やかなこなしで、身を沈ませたのだ。そして、同時に、左肘で腕を掴んでいた男の鳩尾を突く。その腕の動きが、彼らの目に止まることは無かった。

 鋭く強烈な一撃をもらった男は、声も無くその場に崩れ落ちる。彼は完全に意識を失っていた。

 一瞬のうちに、彩香の肘は見事に急所を捕らえていたのだ。

「!」

 少女の思わぬ反撃に、残る二人の間に緊張が走る。狩られるだけの筈だったウサギが、突然牙を剥いたのである。

 この瞬間、彼らの頭の中では彼女を諦めるか、それとも力尽くでもやりたいことを成し遂げるか、天秤に掛けられたに違いない。そしてそれは、後者に傾いた。

 ストリートファイトでケンカ慣れしていた上に、所詮相手は少女一人きりであることが、彼らの気を大きくしていたのだろう。

 掛け声も無く、絶妙なタイミングで同時に二人が飛び掛る。

 あまりに息の合った二人の突撃に、一瞬、彩香はどちらを相手にするか、迷った。そのわずかな迷いが、彼女にとって致命的な隙になる──場慣れしていない彼女には、その手で直接人を傷付けることに対しての躊躇もあった。

 二人同時にかかってこられると、手加減も難しくなる。

 避けられない!

 思わず目を閉じた彼女の耳に、直後、二回の鈍い打撃音と、それに続く男達の呻き声が入ってきた。

 開いた彩香の目に、別の男の背中が映る。黒尽くめのいでたちに、腰までの長髪。

「失せろ」

 地面に這いつくばる男達に向けて言い放つその声にも、聞き覚えがあった。

 三日前に、家の前で会った、あの男。

 この場に現れるとしたら彼だろうという予感は、していた。しかし、彼が来ているという確信は持てなかった。

 来てくれたことに、安堵する。

 一方、唐突に現れた第三者に瞬時にのされた男達には、この時はまだ、何が起きたのか理解できていなかった。

 少女を捕らえたと思った、その瞬間、顔面への強烈な痛みと共に地面に叩き付けられていたのだ。

 男の短い一言が耳に入っても、それを脳にまで届けるにはしばしの時を必要とした。

 勧告に従わない彼らに、その男が、ずいと一歩踏み出す。

「わ……!」

 訳も解らないまま、彼らは這いずりながら逃げ出す──それでも唯一感心だったのは、彩香にのされた男を置いていかなかったことだろうか。彼は、まだ、意識を取り戻していなかった。

「あなた、やっぱりあの時……。ありがとう」

 助けてくれたことと来てくれたこと、両方に対して、彩香は男を見上げて礼を言った。だが、彼は黙って少女を見下ろしているきりである。

 ――何か怒っているのかしら。

 何がどう、ということではないのだが、彩香にはそう感じられた。しかし、彼が何に対して怒っているのかは判らず、彼女は口籠ってしまう。

 彩香が二の句を継げずにいると男が先に口を開いた。

「あんな時に躊躇うな」

「え……?」

「躊躇うなと言ったんだ」

 そんなことを、怒っていたのだろうか。彩香は、何と答えたら良いのか、迷う。何となく、兄に叱られているような感じだった。

 俯き、黙った彼女の耳に、小さな溜め息が届いた。そして、少し穏やかな口調になった、問い掛けが続く。

「何の用だ」

 この前と同じ、抑揚の無い低い声。

 それで彩香はきっかけを掴む。顔を上げて男を見た。

 疎らに立つ街灯のわずかな光があるだけだというのに、青年は色の濃いサングラスを掛けたままである。

 「目は口ほどにモノを言う」という言葉があるが、サングラスを外してみても、そこから読み取れるものにそう大差があるとは思えない。

 それでも、彩香は、サングラスの奥から彼女に向けられている筈の瞳を見据え、男に訴える。

「兄を狙うのを、やめて」

 沈黙。

 その沈黙に、彼女は、全てが自分の勘違いだったのかという微かな期待を抱く。あるいは、そうであって欲しい、という希望。

 兄が狙われているということも、その誰かが目の前に立つ男だということも、全部彼女の思い過ごし。

 だが、続く男の返事で、それはもろくも崩れ去る。

「できない」

 簡潔にして明瞭な言葉。それは、同時に彼女の考えを裏付けるものであった。

「どうしても?」

 彩香の必死の眼差しを、男は無言で撥ね付ける。取り付く島も無い、とはこのことだ。

 今にも身を翻して行ってしまいそうな彼の様子に、彩香は焦って質問を重ねた。

「せめて、兄を狙う、その理由を教えて下さい」

 どんな些細な糸口でも、それが兄を護るための手段を講じるきっかけとなるかもしれないという希望からなされたその嘆願に、頭を下げることはしなかった。少しでも目を離して、その隙に彼に逃げられてしまうようなことがあってはならなかったので。

 しかし、この問いにすら、彼の口が開かれることはなかった。

 まったく動かない、その表情。

 もう少し何とか言ってくれたら、と思いながらも、待てども来ない返事は諦め、彩香は作戦其の二に入る。其の一は、もちろん、素直にお願いする、という正攻法であったが、相手がこうもすげない態度を取るなら、これ以上下手に出ても意味はない。

 腕を組み、男を軽く睨んだ。

「あなたがそうくるなら、私は最後の手段を採るわよ」

 あまり迫力の無い脅し文句に、当然、男はまるで相手にする様子はない。それどころか、話は済んだかと言わんばかりに背を向けた。

 そのまま歩き去ろうとした彼だったが、翻ったジャケットの裾が何かが引っかかり、その歩みを止められる。当然その理由は容易に察することができるものであった。

 いい加減にしろ、そう言って少女を振り払おうとして伸ばした自らのその手を、次の瞬間、彼は信じられないような思いで見つめることになった。

 夜闇を貫き、高らかに響き渡ったのは、金属音。

「な……!」

 男は、サングラスの下で大きく目を見開いた。そして、その目でまじまじと見つめる。彼の左手首にしっかりと掛けられた手錠を。

 カシャリ、と音をさせ、彩香が自分の右手首に同じもの──当然両者の間には鎖がある──をはめたのが視界の隅に映ったが、それを止めようとするだけの心の余裕は、その時の彼には無かった。

 呆然としている男に、彼女はいたって真面目に説明する。

「この鎖は特殊合金だから、簡単には切れないわ。長さは1メートルあるし、あなたは右利きでしょう?私は左利きだから、日常生活には支障が無いと思うの」

 そう言って、ニコッと笑う。この上なく無邪気に。

 レパートリーに富んだ友人の一人、鉄鋼会社の娘に頼み込んで作ってもらった特注品である。大急ぎで作ったものだが、性能は確かだ。

 男は手錠を見つめたまま一言も無い。それまでとは一味違う表情の無さに、彩香は──ほんの少しだけ──してやったりという気分を味わえた。

 彼にするりと腕を絡ませ、その顔を見上げる。

「あなたが考えを変えるまで、離れませんから。暫らくの間、よろしくね」

 あくまで無邪気に、可愛らしく。それは、天使の微笑と呼んでも良いだろう。

 笑顔を向けられ、男は、ようやく手錠からその先にぶら下がっている少女へと、呆然とした視線を移した。


   *


 何で、こんなことになってしまったんだ。

 彼──阪倉武也さかくら たけやの頭は、今、パニックに陥っていた。そうは見えないかもしれないが、そうだったのだ。

 状況把握が困難なほど混乱したのは、10年前のあの火事以来無かった。

 あの火事で、武也は、両親と、妹と、全ての拠り所を失った。決して事故では有り得ないと彼が確信している、あの火事で。

 建設業界でも一、二を争うシェアを誇っていた会社を率いていた武也の父親が死に、個人資産だけでも億の単位の遺産を受け継いだのは、彼が9歳の時だった。

 その後見の座に就くことでおこぼれをもらおうと、親戚どもは、まさに一週間は餌にありついていないハイエナさながらに群がってきた。今まで声も聞いたことの無いような者までが、その争奪戦に名乗りを挙げるという有様だった。

 保護者を必要とする年齢だった武也は、そのうちの一人の許に身を寄せることになったが、所詮その下心は見え透いたものである。

 彼らの誰一人として、失われた家族の代わりにはなれなかった。

 直に武也は全てを捨て去った。

 押し込められた全寮制の学校を飛び出し、街を彷徨うようになったのは、中学校を卒業してすぐの頃である。

 それを向ける真の相手を見つけられぬまま、彼の中の怒りは成長し続けた。そうして闇雲に、相手を選ばず喧嘩を繰り返していたとき、京極龍彦きょうごく たつひこと出会った。

「お前が最近派手にやらかしている坊主か」

 ストリートキッズの一人に連れて行かれたその先にいたその男は、開口一番、そう言った。

「何をやろうと、俺の勝手だろう」

 武也は、あの時そう答えた筈だ。

 関東一円を支配する竜神組の跡取りである男を目の前に、怖気づいた様子など毛ほども見せない子供に、龍彦は目を丸くし、次いで、ゲラゲラと笑い出した。

 ムカッとした武也は、迷わず龍彦に殴りかかったのだが、銜え煙草のままの龍彦に軽くいなされ、押さえ込まれてしまったのだ。

 それまで負け知らずの彼には、言葉では言い尽くせない屈辱だった。

 まるきり体を動かせない武也に、龍彦は笑いながら言った。

「確かに我流の割にゃ、いい動きをしてるがな、まだまだだよ、お坊ちゃん」

 髭も生えていないようなガキが粋がるのが面白いと、それ以降、龍彦は何かにつけて彼に目を掛けた。

 喧嘩の勝ち方や裏世界のことを教え、より大きな力を求めた武也に銃を与えたのが、龍彦だった。

「それがお前にとっての力となるか、罠となるかは、お前次第だ」

 龍彦は銃を渡す時、そう言った。武也はその言葉を等閑なおざりに聞き、深く心に留めることは無かった。

 敵を倒す為の、仇を取る為の、そして、二度と自分からの奪われないようにする為の、力となることを、彼は信じて疑わなかったのだ。

 武也は、龍彦の持つ射撃訓練場で、傍から見れば異常とも思えるほどの熱心さで、毎日のように練習した。銃の腕はめきめきと上達し、3年後には動く的にすら、ほぼ完璧に的中するようになっていた。

 そして、三週間ほど前。

「阪倉武也さんですね」

 突然声を掛けてきたのは、全く見覚えの無い男であった。彼のその名を知る者は、ごく限られている。彼の目が危険な色を孕んだが、男は眉一つ動かさなかった。

「あんた、誰だ?」

「ある方の遣いです」

 無表情な声と、その言葉の内容に、彼は不愉快さのみを感じた。そもそも、知らない人間が自分の名前を知っていること自体が、気に食わなかった。

「じゃあ、『ある方』に伝えてくれよ。用があるなら、手前で来い、とな」

 言い捨て、男の隣を通り抜ける。

 彼にとって、毛ほどの注意も傾ける価値の無い相手の筈だった。

 が。

「ご家族の仇を取りたいと、思いませんか」

 あれ以来一度も鋏を入れたことの無い髪に続いて彼の背を追った男の声が、遠ざかるばかりであった武也の足をピタリと止めた。

 こわばった彼の背中に視線を注いだまま、男は言を継ぐ。

「私の主人は、あなたの家に火を点けた……火を点けるように指示した人物を、知っています」

 それは、唯一、武也の心を動かすことのできる事柄だった。

「誰だ、それは」

 男の胸倉を掴み、問う。

 一も二も無く、餌に飛び付いていた。その下にぽっかりと開いた穴に気を止める余裕など、無かった。家族の命を奪ったものを捜し出し、その息の根を止めることが、ただ一人残された彼の存在理由だったのだ。

 そんなことをさせる為に父が命懸けで武也を炎の中から助けたのではないことは解っていたけれども、それでも、彼は止まれなかった。

 それは、彼が自らに科した呪縛だった。

 ギリギリと締め付けてくる手を外そうともせずに、男は続けた。

「こちらの頼みを聞いていただけるのなら、教えましょう」

 怒り、憎悪という暗闇の中で、理性という名の目は、全く使い物にならなかった。

 武也は条件を呑み、そして、引き返すことのできない一歩を踏み出し、そして、言われるままに、次々と三人の命を奪った。

 時折、ふっと、何かを訴えかけるような声が聞こえた気がしたが、彼は無意識のうちにそれを無視していた。

 三回目の殺人を成功させて一時間もしないうちに、初めて会った時に渡された携帯電話に、男からの連絡が入った。それが最後の接触だった。彼が求めていた名前だけを残し、電話は切れた。

 その名は、武也も知っていた。

 そして、その人物がすでにこの世にはいないということも。

 彼の家族は死に、そうさせた人物も、死んだ。

 彼には、あと、何が残されている?

 ツー、ツー、と、平坦な電子音のみを響かせる電話機を握る手に、力が篭る。ピシリ、という鋭い音と共に、外殻のプラスチックにひびが走った。

 今更、何ができるというのだ。

 三人も殺して、その挙句に手に入れた情報が、これか。

 渾身の力で、携帯電話をアスファルトに叩き付ける。それは、粉々に砕け散った。

 どう足掻いても、仇を取ることなど不可能なのだ、それを認めてしまえ。

 理性は、そう囁いていた。そうすれば、お前の目は開くのだ、と。

 だが、それはあまりに小さく、そして正論であった為、武也の心には届かない。感情は、彼の家族を人柱として成長したもの達が今も栄えていることは許せない、と声高に叫んでいた。

 それは、彼の心を守る為に、彼の脳が巧妙にすり替えた感情であったのだが。

 素直に理性に従うには、彼はそれまでを犠牲にし過ぎていたのだ。

 そして、その、潜在意識下での理性と感情のせめぎ合いは、無意識のうちに、武也の足を教えられた人物のいるところへと向けさせることになった。

 今は代替わりしている上條家へと。

 夜が明け、空が明るくなっていく中、ただぼんやりと佇んでいた。

 そんな時。

「当家に何か御用でしょうか」

 突然の、声。それは、朝の空気に凛と響き渡った。

 目を向けた先にいたのは、真直ぐな目をして笑みを浮かべている、一人の少女だった。

 彼女の微笑みは、それを向けられた99%の人間を魅了するだろう。だが、武也の心には何ももたらさなかった。

 それが誰なのかということさえ、彼は考えることは無かった。

 そんなことはどうでも良かったのだ。

 その少女にさっさと行ってしまって欲しくて、投げ遣りに「別に用は無い」とだけ言った。

 だが、その後に。

 続いた彼女のリアクションが、彼を動かした。

 直向ひたむきな、あの眼差し。

 具合が悪いのか、と顔を覗き込まれた時、その眼差しが、今はもう永遠に失われてしまった妹のものと重なった。強い光を秘めた彼女の瞳と、常に武也の後ろに隠れるようにしていた妹のそれとに、似通ったところなど全く無いというのに。

 少女は、上條啓一郎の妹だと名乗った。妹だ、と。

 彼女を見ているのが、そして彼女に見られているのが、辛くて、逃げるように立ち去った。

 そして、今夜。

 京極龍彦から何の説明も無く、ここに来るように言われた。強制ではなかったが、殆ど何も考えず、指示された場所に来ていた。無意識のうちに、あの男を多少なりとも信頼していたのかもしれない。

 着いたのは午後九時頃で、その場所には十人ほどの男女が夜景を楽しんでいたが、自分を待っている者がどの人物なのかは、すぐに判った。

 心の中は不安で一杯であろうに、それをおくびにも出さず、あの少女はひたすら待っていた。

 本当は、彼女の前には出ずにいようと思っていた。暗がりから様子を窺い、彼女が諦め、帰路についたら、自分も帰ろうと。

 だが、あの三人の不埒者の登場で、そうはいかなくなった。

 彼女に男達が飛び掛るのを見て、思わず跳び出した。

 あの三人組にも、跳び出した自分にも、そして、こんな時間まで待っていた彼女にも、腹が立った。

 彼女が安堵の眼差しで彼を見上げ、礼を言った時、小さな、鋭い痛みが、胸を刺した。あれは、何だったのだろう。

 今、左腕についている少女を、武也は見下ろした。彼女の笑みが、向けられている。

 手錠抜けなど、彼には簡単なことだった。今、この場で外してしまうことも、できる。

 だが……。

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