一
「兄様、まただわ。また社長さんが殺されてる。今度は新藤商事ですって」
静かな早朝の空気に、澄んだ少女の声が響く。あまり明るい内容ではないのだが、彼女の声は涼しい。応対したのは、彼女の向かいに座ってコーヒーを口元へ運んでいる、若い男であった。
「そういうことは、もうちょっと神妙に言いなさい」
そう言う彼も、内容こそたしなめるものであったが、口調は少女のものと大差が無い。
「でも、言い方を変えても、記事の内容が変わるわけではないでしょう?」
「そういう、身も蓋もないことを」
「それが真理というものだわ」
違う?と、澄まして少女が言う。
事実が正論だとは限らない。確かに彼女の言うとおりだが、肯いてくれる者は少ないだろう。
西暦2023年。
二十世紀の末に下降傾向を見せた地価も再び上昇を見せ始めた昨今である。
一般庶民が一生働いても一坪分の土地を買うのがやっとだろう、という都心に建てられた、運動場を屋上に造らなければならない小学校が泣いて悔しがりそうな大邸宅の中の、これまた家族が四世帯は同居しているのではなかろうかというような食堂で、この家の持ち主である兄妹が朝食を摂っていた。
兄の方を上條啓一郎、妹を彩香という。
この兄妹の容姿に似通ったところは無い。というのも、二人の間に血の繋がりは無いからである。啓一郎は髪も瞳も色素が薄く、襟足に掛かるほどの長さの髪は、軽く癖がある。部下の前に立つときは冷徹な光を放つその眼も、たった一人の妹の前では穏やかだった。
整った容姿と卓越した経営手腕に魅せられる令嬢は数多いが、日本屈指の総合商社である上條グループ総帥の目に適う娘は、まだいない。最、弱冠26歳にして父親と同年代か、あるいはそれ以上である幹部たちを従えなければならない彼には、そんな暇はさらさら無かったが。
一方、彩香の方はといえば、絹糸のような真直ぐな髪をしており、その瞳とおなじように、長い年月を経て磨き上げられた黒檀にも似た輝きを放っている。日本人離れをした白磁のような肌は、滅多に日に焼けることは無かった。都内の有名私立女子学校中等部の三年生で、十日後に15歳の誕生日を迎えるが、その怜悧な美しさは、しばしば彼女を実際よりも年長に見せた。黒目勝ちのその目で見つめられると、大の大人でもどぎまぎする。
「それよりも、彩香。食事中に新聞を読むのはやめなさいと、いつも言っているだろう」
コーヒーを口元へ運びながら、啓一郎がぼやく。
妹の躾を受け持つ長男の義務としてのこの注意は、しかし、発した本人も効果を期待してはいない。いわば、毎朝の習慣のようなものだ。
出社まではまだかなりの時間がある筈だが、啓一郎の身支度はすっかり整っている。たとえ自宅の中だとしても、彼が気を抜いているところを見ることは滅多に無かった。
「ほら、ここ」
案の定、彩香は啓一郎の言葉などまったく気にも留めず、見て、とばかりに問題の記事を示してみせる。つい、釣られてそれに目を走らせ、彼は軽く眉根を寄せた。
「これは、確かに……」
一面に載せられているのは、貿易関係では上條にも劣らない新藤商事の社長が昨晩遅くに射殺されたというものだった。
「あそこの跡取りは、まだ十歳くらいの筈だが……」
啓一郎は呟いた。
経済界のトップが殺されるのは、これで三人目である。
二週間ほど前、一人目、尾形ホームの専務が殺された時は、三面に小さく載っただけだった。
銃の携帯を良しとしない世界の風潮に逆らって、2020年に日本での護身の為の一般人の銃所有が許可されてからというもの、その凶器による殺人は鰻登りで増加した。新聞も、その一つだとして、あまり大きく取り上げなかったのだ。
その時は。
だが、二人目。
一週間前に桐原建設の社長が殺された時、流石に警察も大々的に動き出した。これほど短期間のうちに同じような地位に就く者が複数殺されれば、もはや偶然とは言い難い。
先の事件も洗い直されたが、結局犯人は見つからなかった。
そして、三人目。今回の事件だ。
警察では躍起になって犯人を捜しているらしいが、判っているのは使われた銃の種類だけだという。もっとも、それすら、便乗犯が現れると捜査が混乱するという理由から公には伏せられていた為、どこまでが真実か判ったものではないが。
しかし、確かにこの犯人はすこぶる腕が良いが、手口には取り立てて優れたところは無かった。こうまで手掛かりが見つからないのは、何か、大きな権力にでも守られているからなのかもしれない。
被害者には企業の上層部の人間であるということ以外の共通点は無い為、殺された理由も明らかにされていなかった。
同じような地位に就いている者のうちには独自に護衛を付け始めた者もいる。
啓一郎にも、幹部からの強い勧めで、先日から傘下の上條セキュリティから数名が派遣されてきていた──彼らにしてみたら、啓一郎を、というよりは、「上條グループ総帥」の身を案じてという理由の方が大きいだろう。
「それにしても、動機すら判らないとは……な」
新聞を畳みながら、啓一郎の胸中を苦いものがよぎる。父のことを思い出したのだ。目的の為なら手段を選ばなかった、先代上條裕嗣のことを。
今回の事件において、その手口は父の行ったものよりも周到さに劣るが、犯人を挙げる難しさにおいては同等だろう。
父の場合は、動機ははっきりしており、手段も派手だったというのに、裕嗣の仕業だという証拠がまるで出てこなかったのである。
「手段」は、火事、交通事故などの他に、病気といった、偶発的要因による死も用意されていた。
業界きっての大手とはいえ、建設業しか営んでいなかった上條建設を、一代で上條グループという名の総合商社に育て上げた裕嗣の手腕は、確かに素晴らしいものなのかもしれない。
だが、競争相手を蹴落とす為に彼が用いた方法は、決して褒められたものではなかったのだ。
この巨大な企業を維持し、更に成長させていく為には、啓一郎も合法的とは言いかねることをすることがあるが、それは、経済的戦略の一環としてのものである。
そこに、父と同じ道は無かった。
彼の戦場は、あくまでも経済界なのだ。
「どこの誰だかは判らないけれど、能は無いのに、人脈だけはあったようね。腕の良いのを雇ったものだわ」
褒めているのか、貶しているのか、はたまた呆れているのか、判断し難い彩香の声で、啓一郎は我に返る。
「全くだ。こんな手を使わずとも、充分目的は達成できる」
言って、妹に新聞を渡す。
「そんなの、兄様だったら当然よ」
全幅の信頼を持って頷き、受け取った新聞をラックに放り込んで彩香はトーストを齧った。良家の子女にしては、大胆な食べ方だ。
お上品な食べ方もしようと思えばできるが、兄と二人だけなら気取る必要も無い。
優雅に、素早く、食事を口元に運ぶ。
いつもながら惚れ惚れする妹の食べっぷりに、啓一郎は見ているだけで自分も食べているような気になってくる。
朝食にコーヒーしか摂らない啓一郎に対して、彩香の食欲はなかなか旺盛だった。何といっても、今は縦に伸びる育ち盛りなのである。
「さて、と。私はそろそろ学校に行くわね」
テーブルの上のものを全て平らげた彼女は、そう言うと椅子を引いて立ち上がった。
鞄を取り、扉の前まで行くと、兄に向かって軽く手を上げて「行ってきます」の挨拶をする。
「行ってらっしゃい、気を付けてな。早く帰れよ」
「兄様も、お仕事頑張ってね」
いつもと同じやり取りをし、彩香はその場を後にする。
食堂の扉を後ろ手に閉めると、彩香の表情は一転した。
屈託の無かったその瞳が影を帯び、知らずの内に溜息が漏れた。啓一郎は笑って済ませてしまっているが、今回の事件は決して人事ではないのだ。
巨大な組織を背負って立つ啓一郎の胸の中に様々なことが秘められているのは、彩香にも解っている。そしてまた、それらの多くのことが、父に結びついているということも。だが、彼は、その重荷を妹と分かち合おうとはしない。彼にとって妹は、いつまでも、大切に真綿に包んでおくべき存在なのだ。
その彼女にできるのは、自分の不安を兄に気取らせないようにすることしかない。
カーペットの敷かれた廊下は、堅い革靴の靴音をも吸収する。彩香は、何となく、この廊下に足音を響かせたかった。
浮かぬ気分のまま、彩香は玄関前のホールで初老の男と行き会う。叔父、雅嗣だった。
こんな気分の時に、あんまり会いたくなかったな。
それが偽らざる彼女の本音である。
一見、非常に魅力的なロマンスグレイだが、啓一郎とは別の冷たさを持った瞳が、彩香は好きではなかった。
父とは一卵性の双子だということだが、雅嗣と啓一郎の顔立ちに、あまり似たところはない。啓一郎は母親似なのだろう。
上條グループでの相談役という地位に就いている雅嗣は、しばしばこの家を訪れる。だが、いつもは彼が来る時間はもっと遅いので、顔を合わせることは滅多に無かった。
「おはようございます。叔父様」
「おはよう。いい朝だね」
礼儀作法の教本通りの一礼をする彩香と、それに答える雅嗣。
理想的な朝の挨拶。
しかし、それは形だけのものだった。二人の間には、冷ややかな空気だけが流れている。
「学校かい。早いね」
「はい、週番ですので」
「ほう……大変だな。気を付けて行きなさい。……最近は何かと物騒だからな」
「叔父様こそ、お気を付けて」
「勉強を頑張りなさい。上條の娘が落第などということのないようにね」
湛えられた、満面の笑み。
徹頭徹尾それを貫いて、表面だけは互いの身を気遣った、その実、心のこもらぬ会話を早々に打ち切った。
彩香はもう一度だけ雅嗣に頭を下げ、玄関の扉に手を掛ける。
三年前、母と父が相次いで事故で亡くなった時、二十歳近くも年の離れた後妻の、しかも連れ子だった彩香を、周囲の者は、上條家に置いておくべきではないと主張した。その急先鋒が雅嗣であったのだ。
夫婦とはいえ、啓一郎の父裕嗣と、彩香の母芳乃が籍を共にしていた期間は一年にも満たない。しかも、出会ってから入籍するまでも、わずか半年間のみ。
たったそれだけの間柄に過ぎない者を「上條家」の一員と認めることはできないと、雅嗣を始めとする親族一同は声を揃えて言い放った。金銭的な面倒は見る。しかし、それだけ。充分な金はやるから今後一切上條家とは関わりを絶って生きていけと、要約すればそういうことだ──言外に、芳乃のことを否定する臭いを漂わせて。
そうやって、声を荒立てることなく、言葉は穏やかにじわじわと攻め立てる彼らに、まだ小学生だった彩香は反論する術を持たなかった。
芳乃が最期に残したのは「彩香のしたいように生きろ」という言葉だった。
したいように、とはどういうことなのか。
その頃の彩香には良く解らなかった。
実を言うと、今でも、よく解らない。
だが、単純に、ここを出て行きたければそうすればいい、と言われたのだと解釈することにした。
こんな扱いをされて、それでもこの場所に止まる理由など、無いと思った。
しかし、舌足らずな彩香の怒りは雅嗣に届く筈も無く、冷たく見下ろす大人たちに囲まれ、ただ、ぐっと唇を噛み締めて彼らを睨み返すだけだった。
こんなところ出ていく。
お金も要らない。
心の中で、そう叫んでいた。
子供がたった一人で生きていくことがどんなに大変なことか、まったく解っていなかったけれど、母を侮辱する者からは、何一つ受け取るつもりは無かった。
雅嗣の差し出す小切手を彼の目の前で破り捨てた、その時だった。急な呼び出しで本社に出ていた啓一郎が、怒りに眉を逆立てて扉を開け放ったのは。雅嗣に呼ばれた筈なのに当の本人は来ておらず、屋敷に帰ってきてみれば一族が勢揃い、ということで事態を察したのだ。
今でも、昨日のことのように覚えている。
啓一郎は彼独特のあの眼差しで皆を黙らせ、言った。
彩香は父裕嗣の娘であり、自分のただ一人の妹である、と。
あの時、啓一郎がはっきりと言い切ってくれなければ、今頃彩香はどんな生活をしていただろうか。子供が何の後見も無く無事に生きていける世の中ではない。整った容姿に物を言わせれば、金を稼ぐことなど容易だが、それだけに、堕ち始めれば、どこまでも堕ちる。
そうならなかったのは、全て、啓一郎がああ言ってくれたからだ。
啓一郎のその言葉を聴いたあの瞬間から、どこか近寄り難かった血の繋がらない兄が、彩香にとって誰よりも大事な家族となった。
それ以後も、雅嗣以外の親族達は何かと彩香に圧力を掛けてきたが、その都度、啓一郎は彼らの前に立ちはだかり、今まで護ってくれた。
いつでも、どんな時でも。
しかし、いつからだろう。
ただ護られるだけの存在でいることが、辛くなってきたのは。
大事な人だから、護られているだけでなく、同じように相手の力になりたいのに、啓一郎はそれを望まない。それが歯がゆく、もどかしい。
一方通行であることの悲しさを、彩香は溜め息と共に吐き出した。
家を一歩出ると、秋の気配を含み始めた早朝の空気が彩香を包む。
空には雲一つ無く、薄い青が一面に広がっていた。暑くなく寒くなく、この時期のこの時間が一番気持ちのいい頃だ。大きく息を吸い込むと、ひんやりとした空気が暗い物思いと入れ替わる。
爽やかな風が吹き抜け、彩香の髪がさらさらと音を立てた。どこからか、金木犀が仄かに香る。不安が徐々に隅へと追いやられ、自然と心が浮き立ってくるのを感じながら、彩香はいつもよりもゆっくりと足を運んだ。
玄関を出てから門に辿り着くまで、結構かかる。
門を出て最初の角を折れたところで、彩香は見慣れた光景に見慣れぬ者がいることに気が付いた。彼女は足を止めてその人物を見る。
長身と肩のしっかりした体格からして、男性であることは明らかだ。
その男は、道路を挟んだ向かいの家の塀に寄り掛かっていた。腰までもある漆黒の髪が、首の後ろで緩く結わえられている。
今時男の長髪は珍しくも無いが、ここまで長いと流石に目を引くものがある。その上、男は、全身黒一色で包まれていた──まるで、喪服のように。年は二十歳前後であろうか。
男は上條家を見つめたまま微動だにしないが、その様子に特別な感情の動きは見出せなかった。かといって、この家に興味を持っていないという訳でもないように見える。
明らかにある意思を持ってその家を見ているのに、その意図が推測できないのだ。
今までにも、敷地の広さに驚嘆する者、都心にそうは無い鬱蒼とした木々の茂みを物珍しそうに覗き込んでいく者、あるいは、その奥に何があるのかを確かめようとする者等、様々な人々が、それぞれの興味を持ってこの家を眺めていくことがあった。
そういった動作や表情を見て、その人物がどんなことを考えているのかを、彩香には、少なくても「当たらずとも遠からず」程度には察することができる。
元々の勘も鋭い方なのだが、正に生き馬の目を抜くこの世界で過ごしてきたお陰で、更に磨きがかかったのである。
うかうかしていると、狸に化かされてしまうのだ。
こんな朝早くに、黒尽くめの長髪で我が家を凝視している男。
怪しい。
決して敵の少なくない兄を持つ身である。しかも、巷では訳の解らない殺人事件が続いているときた。
彩香の胸の中で、再び不安がむくむくと首をもたげてくる。この男を見過ごすべきではないという小さな警報が鳴り響いた。
観察はそれまでに、切り上げる。
「失礼ですが、当家に何か御用でしょうか?門は、そこの角を曲がって少し行ったところです」
笑みを浮かべ、柔らかな口調で本心をコーティングして相手に挑む。
一見したところでは穏和この上ない笑顔だが、その視線はあくまで強い。真直ぐに相手を見据え、心の奥底まで見透かそうとする。やましいことを心に抱いている者ならば、つい、目を逸らしてしまう。
男は塀から身を起こして少女に向き直った。彩香の眼差しは、男の動きを追う。
彩香に移された彼の視線は、しかし、家を眺めていた先程までのものと、全く変わりが無かった。同じように、何の感情も、何の感懐も含んでおらず。モノもヒトも大差は無い、という様子である。
造作自体は整っているのだが、表情を欠いた男のその顔は、魅力に乏しかった。
ややつり上がり気味の切れ長の目は、何も映していない。
「いや、用というほどではないのだが……」
彩香の詰問に近い質問に、男は低い声で簿そりと返事をする。
その様子が、彩香の心の中の何かに引っかかった。
「……?」
男の顔を、「お客様用」の笑顔を外して、彩香は何かに気付いたように覗き込んだ。
二、三度瞬きをして、しげしげと見つめる。
何事かと眉を顰める男に、彼女は言った。
「どこか、お加減でも悪いですか?」
ただそれだけを問い掛けてくる、無垢な眼差し。
先程までは全く動じていなかったのが、今の彼女の視線を受け止めるのには、男は怯んでいるようだった。
彼女の問いに、戸惑った顔を返す。
「……?」
どうしてそんなことを思ったのか?
声に出さない男の疑問が彩香に伝わり、彼女は自分の言い方があまりに唐突過ぎたことを悟る。
視線をさ迷わせ、少しの間逡巡した後、男を見た印象で最も適切だと思えたものを選び出した。
「目に、力が無いから」
この表現が、一番しっくりくる。
実際、彩香の生命力溢れる瞳に比べ、男のそれには、あまりにも、何も無さ過ぎた。あるいは、そこにあるものを見つけ出すことができないほど、暗すぎる。
全てを呑み込み腐敗させる底なし沼のように、そこには何も浮いてこない。
大病を患い、余命幾許も無い者の方が、生に対する執着心がある分だけ、その目に生命を認めることができるであろう。
「目は心の窓」と言うならば、この男の心の中には、いったい何が存在しているというのだろう。
だが、彩香の言葉を聴いて、一瞬──もしかしたら錯覚であったのかも、と思わせるほど微かに──男は笑みを漏らした。何を言い出すのやら、といった風情の、苦笑。
その瞬間に閃いた感情の発露に、彩香は何となくほっとする。
作り物めいた男の雰囲気が、その間だけでも和らいだからだ。
その辺の石ころを見るような目を向けられるのは、あまり気持ちの良いものではない。
「ずいぶん見事な庭だったので。……この家の人ですか?」
変わらず暗い声だったが、それでも会話をしてくれる。
「ええ、当主の妹です」
「妹、さん」
返事を聞いた男の目が、一瞬揺らいだ。
目には見えない小さな棘。思い出さないようにしていたのに、思いがけなくかすってしまった。
そんな感じ。
「あ…の……?」
彩香は次の言葉を出しそびれた。
言葉も無く、互いに目を逸らさぬまま、しばしの時が流れる。
先に動いたのは、男の方であった。
黒いジャケットの胸ポケットからサングラスを取り出し、掛ける。それは、彩香の視線を避けたように見えた。
「学校に、遅れますよ」
言われて、彩香は反射的に時計へと目を走らせてしまう。
右頬に微かな風を感じて彼女が顔を上げた時には男はすでに通り過ぎており、数瞬遅れて彼の後を追った長い髪が彩香の視界をよぎるところであった。
「あ……」
その口は呼び止める形を崩すことなく、彩香は振り返る。
ポケットに手を突っ込んだままのその背中が声を掛けられることを拒んでいるようで、彩香は言葉もないまま、何となく見送ってしまう。
彼女の視線に気付いているのかどうか、男は振り返る素振りは全く見せずに、大股で歩み去っていった。
「変な人……」
他にもっと適切な形容があるように思えたが、見つからず、彩香はポツリと呟いた。
首を傾げながら、彼女は、先ほどはそこに目を落としただけで時間を確かめることの無かった腕時計に、再び視線を落とす。
「やだ。本当に遅刻しちゃうじゃない」
そんなにボケッとしていたのかしら。
バス通学の彼女にとって、数分の遅れはかなりの打撃になるのであった。そのバスは、あと五分ほどで大通りに到着する。
彩香はもう一度時間を確かめてから、今度こそ本当に走り出した。