十
武也は、十年間で初めて、父と母、そして妹の沙弥が眠る墓地へと訪れていた。
墓に刻まれた妹の名を口の中で呟いて、彼女の名前と彩香の名前がどことなく似ていたことに、今更ながら気が付く。
「こんなことに気が付かないほど、俺は目が眩んでいたんだな」
真っ白な百合の花束を手向け、彼はそう囁いた。
彼岸が過ぎたばかりのこの時期では、彼の他に墓参り訪れている者はいなかった。
静寂の中に、鳥の声だけが響く。
武也はここに来る前に、十年前、彼の後見人として名乗りをあげた親戚の元に寄ってきた。
五年前に行方を晦ましたまま全く音沙汰無く、すでに死んだものとばかり思っていた正式な後継者の突然の帰還に、彼らは驚愕し、慌てふためいた。
彼らが『預かった』だけである筈の阪倉の遺産は殆ど消えており、業界で一、二を争った筈の阪倉建設も、今は一介の建設会社に過ぎなかった。
武也はその状況での然るべき額の遺産の継承を要求し、断る正当な理由を持たなかった彼らはそれに応じた──その額は、本来彼が継ぐ筈の、一パーセントにも満たなかったが。
彼はその金を全額菩提寺に寄付し、永代供養を依頼した。
「俺は、もう戻ってこないかもしれない」
武也は墓に向かって、そう言った。
じっと両親と妹の名を見つめて、そこに佇む。
目を閉じ、息を吐いた。
胸ポケットからナイフを取り出す。
その刃の輝きを見据え、彼の背を覆う長い髪を掴んだ。その根元に刃を当て、一息に断ち切る。
数本が地面にパラパラと落ちたが、その殆どが、彼の手の中に残った。
武也はライターを点け、その上に切った髪をかざす。音を立ててそれは燃え、独特の異臭と共に、見る見るうちに灰になっていった。
長い髪は、過去を引き摺る為の鎖でもあった。それを切り取った今、十年間止まったままであった武也の時間は、この時から動き出すのだ。
髪の燃え行く様を見つめていた武也に、背後から声が掛けられる。気配にはとうに気付いていたが、敢えて無視していた。
「その髪、俺が切ってやりたかったんだが」
相も変わらずおどけた調子で、その主は言うまでもなく、龍彦だった。
「嫌だね。あんたにやらせたら、どうなるか判ったもんじゃない」
今までだったらムスッと顔を背けるだけだった武也の返した反応に、龍彦はにやりと笑い返す。
そして一切の前置き無しで、彼は病室で闘う少女のことを口にした。
「あの娘は、昨日意識を取り戻したぞ」
「そうか」
武也の眼差しは墓に向けられたままであったが、心底からの安堵が、その短い一言の中には込められていた。
「そんなに心配だったら、何で見舞いに行ってやらないんだ」
当然の龍彦の台詞に、武也は顔を伏せる。
彼とて、行きたいのは山々だった。だが、彼の心の中で、まだ整理が付いていないのだ。まだ、彩香の前に姿を見せる勇気が持てなかった。
黙り込んだ武也の胸中が解るだけに、龍彦も何と言うべきか迷う。
「まあ、お前の気持ちもある程度は解るが、あの娘は、多分、いつまでも待つぞ、お前のことを。蛇の生殺しってもんじゃないか、それは?」
その言葉は、武也の胸に突き刺さった。
「せめて、はっきりさせてやれよ」
そう言って、龍彦は背を向ける。
彼は、彩香が意識を取り戻したということだけを伝えに来たのだ、本当は。余計なことは言うつもりがなかったのだが、あまりに煮え切らない武也の態度に、つい口が出てしまった。過去だけを見ることを止めたとは言え、けしかけなければ動けないだろう事が龍彦には判っていた。そして、実際その通りだったのだ。
去って行く龍彦の背中を見送りながら、武也は自問した。
自分は、いったい、どうするべきなのだろうか。
どうすれば最善となるのだろうか。
唇を噛み、目を墓前に戻した。彼らは、何も語ってはくれない。全ては、自分で決めなくてはならないのだ。
*
あれから三ヶ月が過ぎた。
彩香の容態は出血の多さから、一時はその命が危ぶまれるほどのものに陥った。
回復の兆しを見せてもまた衰弱し、再び回復する。それを繰り返し、ようやく退院の許可が出たのは、一昨日のことである。明日、家に帰れることになっていた。
とは言っても、暫らくは通院しなければならないのだが。
「私ね、あの人を初めて見た時、何だか今にも死んでしまいそうな人って、思ったの」
面会謝絶の札が外されて何とか会話ができるようになった時、秋が深まりつつある窓の外へ目を向けながら、彩香は言った。
それが、初めて兄に語った、武也のことであった。
啓一郎も『あの人』が誰の事かを尋ねることなく、黙って聞いていた。
毎日朝昼晩と、暇を見つけては見舞いに訪れる啓一郎に、彩香はポツリポツリと武也のことを語った。
武也は、あれから一度も彼女の元を訪れてはいない。三ヶ月の間、一度も。
「もう明日には退院しちゃうのに、冷たいわよね。荒木さんも、京極さんも、田沼さんだってお見舞いに来てくれたのに……。もう、あんな人、知らないんだから」
冗談めかした妹の言葉だったが、彼女が心の底から彼に会いたがっていることは啓一郎にも判っていた。
「きっと、会いに来るさ。彼の気が済んだらね。今はまだ、その時ではないんだろう」
啓一郎の慰めに微笑んで見せたが、彩香にはそうだとは思えなかった。
武也とは、もう二度と会えないのではないか。その不安が、いつも彼女の胸の中にあった。
「前にも言ったことがあるわよね。兄様はいつも私を守ってくれる。だけど、私はそれだけじゃ嫌なんだって。兄様の支えにもなりたいって」
啓一郎は無言で頷いた。あの日のことは、はっきりと頭の中にある。
「武也と二晩一緒にいて、あの人こそ、誰かを必要としていると思ったの。その誰かに、私がなりたいって」
「お前のそういうところは、多分、芳乃さんにそっくりだよ。あのひともそう思ったから、父の元に来てくれたのだと思う」
啓一郎の口からこういう形で父と母のことが出るのは、最初で最後だろう。彩香は兄をじっと見つめて先を待った。
「今思えば、父も叔父も気の毒な人だったのだろう。叔父の死に方を見て、そう思った。それまでは、ただ忌むべき人たちだとだけ思っていたけれど」
叔父雅嗣は、結局、企業の上層部の人間が相次いで殺されたことからの、神経衰弱の為の自殺として片付けられた。彩香は、その流れ弾に当たったということになっている。
多少無理はあったが、後は圧力をかけてねじ伏せた。
「あの人たちは、芳乃さんというイレギュラーが介入するまでは、お互いしか見ていなかったんだ。そこには他の人間が存在せず、他人が各々生きているということも知らなかった」
心持ち俯き加減に、啓一郎は言う。
「でも、本当にそうだったのかしら。そんなことが有り得る?」
「現に、彼らはそうだった。そして、たまたま、父と芳乃さんが出会った。芳乃さんは、今のお前と同じような気持ちで、父に惹かれていったのだろう。多分な」
啓一郎は、少し遠くを見るような目をして、中空に視線を留めた。
「芳乃さんは、父が発する何かを聞き取ったんだろう」
武也の心の奥の助けを求める声を、彩香が聞きつけたように。
父の心も、気付かぬうちに、疲弊していたのかもしれない。
そう思うと、まるで違うところに立っていた裕嗣が、少し近づいたような気がした。
ほっと、啓一郎は息を吐く。
ちょっと考えた後、彼は打ち明け話をするように、彩香の耳に口を寄せた。
「実を言うとね、私は芳乃さんに、憧れていたんだよ」
「えっ!?」
彩香が目を丸くし、それを見た彼は、その様子が可愛くてクスクスと笑う。
「まあ、私が二十歳前、芳乃さんはもう三十を過ぎていたから、恋、というわけではなかったけれど」
啓一郎はピタリと笑いを収め、彼が言いたかったことを、そして、言わなければならないことを、口に出した。武也が現れた時から──彩香が彼に想いを寄せていることに気付いてから──ずっと心にはあったが、覚悟を決めるまで、今までを費やした。
「私は、もう、お前がいなくても大丈夫だよ。私は、もう充分にその手を貸してもらった。後は、彩香、お前が望むようにしなさい」
「兄様……?」
「お前の手を必要とする者が、他にいるだろう? 彩香が行きたいのなら、その手を迷わず選びなさい。お前がそれを望むのなら、私は……」
淀んだ言葉は先を失い、啓一郎は目を伏せる。声にはならなくても、互いの耳にはその続きが聞こえていた。
彩香は膝の上に置かれた兄の手を取り、そっと頬に押し当てた。
「兄様、私、兄様のことが大好きよ」
「解っている。そんなことは、今更聞くまでもない」
明るく笑って、妹の手を、そっと放す。そのままその手を彼女の頭に乗せ、クシャリとかき回した。
「じゃあ、明日は家で待っているから。今夜はよく寝て置けよ。明日また熱でも出したら、退院が延びてしまうぞ」
椅子から立ち上がったところで、丁度、面会時間の終わりを知らせる放送が入る。
「上條さん、そろそろ面会は……」
看護婦がひょっこり顔を出す、が、啓一郎が帰り支度をしているのを見て、あら、と口元に手を当てた。いつもは時間ぎりぎりまで粘るので、彼女もついその気で口を出してしまったのだ。
「すいません、お帰りでしたのね」
「いえ、いつもぐずぐずしてしまって、すみません。明日退院だということですから、今日のところは妹を早く休ませようかと……」
「良い心掛けですわ。その調子で、お家でもあまり無理をさせないようにしてくださいね」
にっこり笑って、看護婦は扉を開けたまま次の部屋へ移る。
上條の頭領も、妹がお世話になっている看護婦が相手では形無しだった。
「じゃあ、早く寝るんだぞ」
少々照れ臭そうに、啓一郎は病室を後にする。
面会時間が過ぎたこともあって、人の動きは一方向、病院から出る向きのみだった。
薄暗くなっていく車窓の景色を眺めていた啓一郎は、唯一その流れにそぐわない者の存在に気付く。その人影は病院の正門に佇み、微動だにしない。
長い髪こそ無いが、あれは……。
「停めてくれ」
啓一郎の唐突な命令に、運転手は慌てることなく従った。
停められた車から降り、啓一郎はその人物に近付く。
「ようやく見舞いに来たのかね。それとも、妹を攫いに来たのかい?」
背後から突然に掛けられたその声にビクリと肩を震わせ、彼は──武也は、やや伏せ気味だった顔を上げ、啓一郎を振り返った。
「上條……啓一郎」
口籠るその様子に、啓一郎は合点のいかないものを感じる。
そもそも、何故彼はこんなところに突っ立っていたのだろう。
「どうかしたのか? 彩香に会いに来たのだろう? ……君は、まさか、まだ、けりが付けられていないのか」
呆れたような啓一郎の言葉に、武也は返す言葉も無い。その通りなのだ。
「俺は、彼女には……」
やっと啓一郎が覚悟を決めたのに、妹を任せる本人がこの調子では先が思いやられる。彩香が選んだのでなければ、こんな優柔不断な奴に彼女を委ねたりはしないのだが。
娘を嫁にやる心境で、啓一郎は片手を振って強い口調で言い放った。
「君が会えなくても、彩香は会いたがっているんだ。この際、君の感情は私には関係ない。彩香と会ってきなさい」
一方、本人の意思を無視した言葉をいとも無造作に投げつけられた武也の方は内心呆れていた。
啓一郎もある点で龍彦と似ているのかもしれない。上に立つ人間というのは、こんなものなのだろうか。
ということは、自分も真っ当に長じていれば同属になっていた可能性もある。
武也はそう考えて心中複雑になった。
だが、彼のその複雑な心境にはお構いなしに、啓一郎は続ける。
「彩香は決して無条件に強いわけではないのだよ。ましてや、こんな不安定な状態ではどんな人間でも強さを保ち続けることは難しい。彩香の心の中に種を蒔いたのは、君だよ。君には、あの娘に対する責任というものがあるのではないのかね?」
妹のことしか念頭に置いていない、無茶苦茶な理論であった。
だが、無茶な理論で、明確な形を取りつつあった武也の意志は固まる。最後の躊躇いが取り除かれた。
頭を一つ下げて、武也は身を翻す。そして、真直ぐに、彩香の病室を目指した。
その背を見送りながら、啓一郎は一抹の寂しさと共に呟く。
「彩香を不幸にしたら、上條の全力を尽くして、君をそれ以上に不幸にするからな」
彩香にとっての幸せというものがいったいどういう形を取っているのかは啓一郎にもはっきりとは見えていなかったが、それでも、あの男が妹を不幸にすることがあろうとは、欠片も思ってはいなかった。
たとえどんな結末が待っていようとも、彩香はそれを受け入れるだろう。
啓一郎にはその確信があった。
*
一人残された彩香は、ぼんやりと窓の外を眺めながら、暗くなっていく様子を無意識に楽しんでいた。
空は赤から菫色へ、紫から群青へと変わり、やがて紺色になった空に銀の剣が浮かぶ。
ふわり、と。
不意に、微かな風が、彼女の頬を撫でた。
ナースセンターでの完全制御によって環境を一定に保たれたその部屋は、外気から完璧に隔離されている。だから、その室内に動くものが無い限りは、風など起きる筈が無かった。
風の主を認め、彩香は、顔を上げて微笑む。
「薄情な人ね。、みんな、一度はお見舞いに来てくれたのよ」
ちょっと睨み付けるように、ほんの少し恨めしそうに、彼女は言った。
相変わらずの黒尽くめ。恐らく彼は、一生、その色しか身に纏わないのであろう。彼の家族と、彼が殺した人々の為。
「すまない」
彼は彩香を見下ろし、ボソリと言った。
「明日、もう退院するの。……まだ通院しなきゃだけど」
「ああ」
回復の具合は、逐一龍彦に聞いて知っていた。明日、退院だということも。だからこそ、今日、来たのだ。
彼女は言葉少なく応える男に向かって、手を伸ばす。
「ねえ、お願い……」
わずかな逡巡の後、武也は自分に出されたその手を取った。
傷を労わりながらも、少女の身体をしっかりと抱き締める。彼女の温もりが消えることなく、そこにあることを確かめるように。
彩香は、彼の胸に頬を摺り寄せた。
「髪の毛を切ったのね」
「ああ、……もう必要無いんだ」
あれは、過去を引き摺る為のものだった。過去を忘れない為の。
今は、もう、そんなものが無くても、過去と未来を見据えていける。
「短いのも似合ってるわ。何だか、前よりも若く見える」
「俺はまだ19だぞ。……すぐに20になるけど」
どことなく拗ねたような口調に、彩香はクスリと笑った。
「よかった、十歳以上離れていたらどうしようかと思ってたの。……そういえば、私、あなたの年も知らなかったのね」
「……そんなに年を食ってるように見えたか……? 俺は」
「ええ、もう。目だけ見たら、おじいちゃんだったわよ?」
そう言われ、武也は初めてこの少女と会った時を思い出した。
絶望の底にいた彼を覗き込んだ、彼女の瞳。
それが、全ての始まりだった。あの時から、彼は彩香に取り込まれていたのだ。
「あなたがどんなに苦しもうとも、世界がどんなにあなたを否しても、どんな時でも私はあなたと共に在るわ」
不意に、武也の身体に回した腕に力を込めて、彩香はそう言った。
「あなたに天国の扉が開かれることがないのなら、私が門番を叩きのめしてでもこじ開けてみせる」
「お前らしいよ」
彼は、ハッと、喉の奥から思わず漏らしてしまったように笑う。
初めて見せた、笑顔だった。
今まで見ることのできなかった、穏やかなその表情をしっかりと見つめ、彩香は小さな息を吐く。少し諦めを含んだ、息を。
「……連れて行っては、もらえないのよね」
それは、確認だった。
そして、武也は、無言という形でそれに応える。その意味するところは、彩香にもよく判っていた。
先ほどよりも少し大きめの、溜め息。
「じゃあね、一つだけ、お願い……」
「何だ?」
彩香は少し身を引いて、武也の目を見つめる。
「絶対、生きて」
「え……?」
「絶対、私より先には死なないでね。確かめることはできないだろうけれども、私は、あなたに生きていて欲しいの」
本当は、傍で見ていたい。
だが、武也の心は、彼の目を見た時から解ってしまった。彩香にはそれを覆すことができないことも。
恐らくは、もう、二度と会うことはできないだろう。それでも、『約束』があれば、それを信じていられる。
だが、武也にとって、答えまでには暫しの時間が必要だった。迷いがあるのではない──確信が無いのだ。
「武也……?」
見上げる彩香の眼差しは、捨てられかけている仔犬のようだった。身を離し、武也はそれを受け止める。
「……わかった」
「本当に?」
「ああ……約束する」
言って、もう一度身を寄せた。その温もりを、そして、彼女が生きているということを、決して忘れることの無いように。
この時が永遠に続いてくれれば、という願いは、二人が共に抱いたものだった。しかし、それは決して叶うことのないものである。
優しい沈黙に先に別れを告げたのは、彩香の方だった。
「さよなら、武也……」
腕を解き、俯きがちにそう呟く。
「……さようなら」
武也の囁きに、彩香には、顔を上げることはできなかった。今その姿を目にしておかなければ、もう二度と武也を見ることは無いだろうということは解っていたけれど──それでも、できなかった。
「さようなら、彩香」
その言葉と共に、扉の閉まる音が響く。
弾かれたように顔を上げた彩香の視界には、誰もいない部屋だけが映る。
「……武也……」
呼び掛けに応えてくれる人はいない。
彩香はシーツを握り締め、強く顔に押し当てる。溢れてくる涙をこぼさぬように。
「彼は生きる……絶対に」
言葉だけの約束が、その確信を繋ぎ止める鎖だった。
彼が生きていてくれれば、それでいい。
それも疑うことの無い本心である。しかし……
「一緒に、いきたかった……」
聞かせる相手もおらず囁いた言葉もまた、偽ることのできない想いであった。




