九
彩香の誕生パーティー当日。
啓一郎は開催の挨拶の後、仕事を片付けなければならないからと、書斎に引きこもった。
彩香本人が望まないこともあって、普段はあまり派手にはしないのだが、今回は啓一郎の一存で、かなり大掛かりなものが催されている。
政界、財界、芸能界など、各界の15歳以上25歳未満の御曹司には、全て招待状を送った。
上條彩香を見事射止めることができれば、後は輝く未来が待っている。次から次へと寄ってくるおべっか使いに、彼女はさぞかし閉口していることだろう。
その様子が目に浮かぶようで、啓一郎はかすかに笑いを浮かべる。
彼ら招待客が、多少なりとも彩香の足止めになることを期待しての彼の選択だったが、果たしてどれほどの効果があるかは、啓一郎にも自信が無かった。
虫の声が微かに漂う中、彼は深く椅子に身を沈め、目を閉じたまま、身動ぎ一つしない。
部屋の中はすでに暗くなりかけていたが、明かりを点けようともしなかった。
誰かがこの様子を目にしたら、呼吸の有無を確かめようとすらしただろう。だが、その場にはそうする者はいない。
階下で催されているパーティーの賑わいも、ここまでは届かなかった。
その静寂の中で、啓一郎は待っていたのだ。彼の命を狙っている二人を。
そうして、どれほどの時間が経った頃だろう。
不意に、彫像のようだった啓一郎が動いた。
ふっと顔を上げ、バルコニーの方へと目を向ける。
「ようこそ」
そこには、音も無く一つの人影が現れていた。黒一色の、青年。
外の警備が騒いだような気配は無い。
「ご登場だな、……阪倉武也君」
自分を殺しに来た男に向ける啓一郎の声は、親しげと言っても良いものだった。
「俺のことは、全て調べたのか」
ホテルから電話した時、フルネームは教えていない。それを調べたのは、啓一郎自身だったのだろう。
「ああ、過去も、現在も、全て。……判らないのは、未来だけだな」
机上のスタンドを点けながら、啓一郎は答える。セピア色の柔らかな明かりが室内を照らした。
「それで、どうする?」
静かに、啓一郎が武也に問う。
目的語のまるで無いその質問に、武也は軽く肩を竦めただけだった。
一見したところ、彼に凶器を身に着けている様子は無い。黒の上下に、腰までの長髪。初めて見る彼の容姿は、記録に残っているものとは全く違っていた。
何よりも、その目が。
十年前の写真では屈託の無い明るい光を宿している彼の瞳は、その面影すら残っていなかった。
「他に、道は無かったのか?」
穏やかに問い掛けた啓一郎の言葉は、武也の心を深く抉る。
誰でもない彼自身が、この数日間、最もそれを痛感してきたのだ。
唇を噛み締め、武也はウェストの背中に挟んでいた銃を、取り出した。
「お前に、それを言われる筋合いは、無い」
疲れたように、彼は呟く。
その手の中の銃口は、床を向いたままだった。だらりと垂れた手に、力がこもる気配は無い。
「その通り、私には無いな。だが、彩香にはある」
「彼女のことは言うな。……彼女は関係ないだろう」
武也は苦しそうに、それ以上聞くことを拒んだ。
だが、啓一郎はそれに従うわけには行かないのだ。
彩香の為に、そして目の前の男の為に、それだけは言っておかなくてはならなかった。
「あの子は、君の事を好いているよ。彼女に自覚は無いがね」
啓一郎が静かに放ったその台詞は、武也を、どんな武器よりも強烈に、打ちのめす。
血にまみれた自分は、彼女に疎まれこそすれ、好かれるなどということはあってはならない筈だった。
「嘘だ。ま、さか……そんな、バカな」
「最後のセリフは、確かに、だな。だが、事実だ」
ふらりと、武也がよろける。壁に寄り掛かることで、ようやく彼は自分を支えた。
「何で、俺なんかを……」
低いその独白を、啓一郎が聞き逃すことは無かった。
「彼女の母親も、そういうひとだったよ。人の痛みに敏感な、そういうひとだった」
「人の、痛み……?」
「君は、自分で気付いていなかったのか? ……今まで君がしてきたことで、君は楽になれたのか? そうではないだろう?」
啓一郎は立ち上がり、武也に一歩近づく。
「君の痛みを、彩香は無意識に感じ取った。だから、あんな行動を取ったのだよ。いくら無茶な娘でも、いつもならあそこまではしない」
啓一郎は穏やかにそう言い切った。
ただ首を振り続ける武也を見つめ、彼は、再び問う。
「それで、君は、どうしたいんだ?」
武也の目は、揺らいでいた。
彼の希望と絶望が、その中でせめぎ合う。
口は、今にも彼が切実に望んでいるその一言を吐き出しそうだった。
啓一郎は、辛抱強くその言葉を待つ。
「俺は……」
ぎゅっと目を閉じる。大きく息を吸った。
「俺は、解放されたい。もう、止まりたいんだ」
やっと、出たその言葉。
それが虫のよすぎる望みであることは、叶えられる筈も無い夢物語であることは、武也自身が充分に承知していた。
だが、それでも、口に出さずにはいられなかった。
心の奥に押し込んでいた想いを吐き出したことで半ば放心状態になっていた武也に、啓一郎は黙って頷いた。彼の腕を取り、立たせる。
「その言葉を、私は待っていたよ」
啓一郎の安堵を含んだ言葉に、しかし、別の言葉が重なった。啓一郎が待っていた、もう一人の人物。彼は気配を発することなく、唐突にその場に現れた。
「私は、そうじゃないな。啓一郎」
「叔父上」
ゆっくり振り返り、視界の真ん中にその男を捕らえる。
彼の手の中の銃口は、ピタリと二人に狙いが定められていた。
「いらっしゃると思っていました。……こういう形で」
啓一郎は極力武也を庇えるように、そして、彼が雅嗣に飛びかかろうとするのを抑えるために、一歩前に出た。武也が驚き、彼を見る。
「私は、あの件をものにしましたよ」
雅嗣は一瞬何のことだか解らず、眉を顰めた。が、すぐにその指すところに思い当たる。啓一郎が『あの件』と言うものはこの場合一つしかない。レアメタルの件だ。
「それはいつのことだね?」
「先週、二人の同意を取り付けたという連絡がありました」
「私は見事に騙されたというわけか」
「あなたの息が掛かっている者が私のところに送り込まれているのは、だいぶ前から知っていました。今回は、それをちょっと利用させていただいたのです」
「それに気が付かないとは、私が老いた証拠かね」
肩を竦めて雅嗣は昨日のことを思い返す。
道理で悔しがる素振りも、残念がる様子も見せなかったわけだ。あの時にはすでに甥の勝利で片が付いていたのだから。
本来ならば、地団駄踏むのは雅嗣の方であったのだ。
「君のやり方が勝った、ということか」
「ええ、私の完勝です。……でも、あなたは止める気は毛頭無いのでしょうね」
「その通り。裕嗣とは違うというお前を、私は、この先認めることができそうも無いのでね」
「何故そんなに父に拘るのです?」
双子だったとはいえ、あくまでも父に執着する雅嗣が、啓一郎には理解できなかった。
「さて、何故かね。自分でもよく判らないがな。ただ単に、私たちがこれまでやってきたことを否定されるのが、我慢ならないだけかもしれない」
「それだけの理由で殺されるのでは、堪ったものではありませんよ」
「人を殺す理由など、そんなものだろう。そちらの君の方が、その辺りは良く解るのではないかな?」
雅嗣が武也に向けて発した問いは、容赦なく彼の胸を貫いた。苦しげに、顔が歪む。
それを見届けてから、雅嗣は止めを刺す事実を口にする。
「私が上條裕嗣のことを教えた人間だと知ったら、君はどう思うのかな」
一瞬、武也は、全てが抜け落ちたような顔をした。
「な……に……?」
「あの二人を殺すように指示した人間は、私だったんだよ。……上條の者である私に、君は良いように使われていたというわけだ」
その時、武也の頭の中からは、理性というものは消し飛んでいた。状況を忘れ、声にならない叫びを上げ、雅嗣に跳びかかる──跳びかかろうとする。
「……!」
「落ち着け! ……今は、落ち着くんだ」
啓一郎が必死に抑えるが、その手負いの獣じみた度の失いように、柔道と合気道の両方で師範代並みの腕を持つ彼が、ややもすれば押し切られそうだった。
「見なさい、啓一郎。彼は今の状況を知っていながら、自分で自分の感情すら抑えられないのだ。未熟だろう?」
雅嗣の言い草に、武也を捕らえながらも、啓一郎は叔父を振り返る。
啓一郎自身、彼の中に込み上げてくる怒りを堪えることが難しかった。
「彼の感情を抑えられないほどに駆り立てたのは、あなたでしょう。人を殺すように唆したのも」
「唆したとは、人聞きの悪い言い方だな。私は条件を提示しただけだ」
「人殺しのですか。あなたが彼にそんなことを呼びかけなければ、ここまで泥沼にならなかった」
彼を非難する甥に、雅嗣は首を振る。
「いいや、啓一郎。それでも、私の申し出を受け入れたのは、彼なんだよ。承知したのは、彼自身だ。確かに、私は馬を水場に連れて行ったかもしれないが、水を飲むのは、馬自身にしかできない」
「そんなのは詭弁にしか過ぎません。完璧な聖者か、あるいは感情の無いものでなければ、強い感情に付け込まれれば、それに克つことはできない。……ごく普通の人間には」
「お前のように優れた人間がそういうことを言うのは、非常に残念だよ。お前はそうしようと思えば、自分の感情など簡単に抑えることができるだろう」
雅嗣は溜め息を吐きながら、かぶりを振った。
「それができないと思い込んでいるのならば、それはあの娘のせいだな……だから、あの時、あの娘を傍に置くなと言ったんだ」
「私は彩香を手放さずにいて、正解だったと思いますよ。お陰で、あなたと同じにならなくて済んだ」
それは、啓一郎にとって、何よりも貴重なことだった。
どう足掻いても平行線を辿るばかりの二人の考え方に、雅嗣の眼差しに冷ややかなものが強まる。
「……どうやら、我々が歩み寄ることは、もう無いようだね」
「私には、叔父上の側に行くことは一歩たりともできません」
「そうか……」
ふう、と雅嗣は軽く溜め息を吐く。残念だが仕方があるまい、と言うように。
「では、どうやら諦めるしかないようだな」
会話も終わりが近付いてきたことを悟り、啓一郎は雅嗣に跳び付くタイミングを計る。たった一発発砲させれば、その銃声を聞き付けて警備の者が駆け込んでくるだろう。その一発が致命傷とならなければ啓一郎の勝ちだ。
「私もそうですが、あなたも、天国へはいけそうもないですね」
「天国とは、お前らしくもない言葉だな。だが、仮に死んだ後の世界があるのだとしたら、ぬるま湯のような平穏の中で己を忘れる天国よりも、煮えたぎる油のような地獄の方が、まだましだね。……さあ、そろそろ時間稼ぎは良いだろう? これ以上待っても、誰も来はしない。私がそう指示しておいたからね」
雅嗣は手の中の銃を構え直した。その撃鉄はすでに上げられている。
叔父と甥の間の距離は、わずか3メートルほど。
啓一郎の全身に緊張が走り、引き金に掛けられた雅嗣の人差し指がピクリと動いた。
「できれば、お前を殺したくは無かったのだがな」
そして、銃は火を噴いた。
*
口々に祝いの言葉を投げかけてくる人の波に、彩香はしっかりとその顔に貼り付けた笑顔で応えていた。
見事なその微笑に、内心の焦りは露ほども表れていない。
彼らは、なかなか彩香に席を外す隙を与えてくれなかった。
何故こんな時にこんな事を、と思っていたが、今更ながら啓一郎の真意を知った。
兄の慧眼に恐れ入りつつ、必死に客を掻き分ける。
雅嗣の姿が会場から消えたことに気付いたのは、つい先頃のことであった。常に彼を視界の片隅に止めるようにしていたのだが、客の一人に声を掛けられ、ほんの一瞬目を離した隙に見失ってしまったのだ。
一刻も早く兄のところへ行きたかったが、招待客が何よりも邪魔になる。
「もうっ、おめでたいのは解ったから、いい加減放っておいてよ」
流石にこれは心の叫びであるが、今にも声に出してしまいそうなほど、彼女の忍耐は尽きかけていた。
徐々に徐々に、扉の方へと近付く彼女を、再び客の一人が呼び止める。
「彩香さん! お誕生日おめでとうございます。今日は一段とお美しい! ささ、こんな隅にいないで。主役は真ん中にいなければ」
そっくり同じ台詞を、これまでに三度聞いていた。多少のバリエーションを加えれば、両手の指の数でも足りない。そして、その度に、部屋の中央へ戻されたのだ。
顔が引き攣っていませんように、と祈りながら、それを発した主の方へ彩香は振り返った。
いかにも甘やかされています、という風情の、20歳前後のにやけた青年。
彩香の記憶が正しければ、
「石川建設の……」
「やあ、感激です。覚えていてくださったんですね! ささ、こちらへ」
せっかく捕まえることができた彩香を離すまいと、馴れ馴れしく彼女の背中に手を添えて、さあさあさあ、とばかりにホールの中央へと戻そうとする。
だが、彩香には流石にこれ以上、このバカ騒ぎに付き合うつもりはなかった。
「あ、いえ、ちょっとお化粧直しに……」
殴りたくなる左手を抑え、恥じらいを見せながら言う。
「あっ、これは失礼。では、お戻りになられたら声を掛けてください」
「ええ、是非」
「きっとですよ」
確かな予約を取ろうと必死な彼を、何とか振り切る。
再び扉に近付いた。
ちらりと目を走らせ、さり気なく素早く、ホールの外に出る。
脱出の第一段階に成功した彩香は、ホッと安堵の息を吐く。
廊下に誰もいないことを確かめ、長ったらしいドレスの裾──これを見立てたのも啓一郎である──を持ち上げた。
さあ、急がなくっちゃ。
そこで、脱出の障壁第二段階から声が掛った。
「どちらへいらっしゃるのですか?」
声の主は言わずもがな、である。
「あら、荒木さん」
エヘ、と取り敢えず愛想笑いをしてみるが、効果がある筈がないのは解っていた。
「どちらへ?」
重ねて訊かれ、彩香は苦し紛れの言い訳をする。
「ちょっと……お化粧室へ」
「嘘でしょう」
間髪置かずの彼の反撃には容赦が無かった。
荒木にも、今夜が山場だということは判っているのだ。啓一郎からも、彩香の行動はどんなことでも疑ってかかれと、きつく言われている。
どだい彼を言い包めるのは無理なことなのだと悟ると、彩香は本音で勝負を試みた。
「お願い、兄のところへ行かせて。これが最後のお願いだから」
「こっちも、これがあなたとの最後の仕事です」
「……じゃあ、一生のお願いだから!」
両手を合わせて必死に訴える。
だが、彩香が必死になればなるほど、荒木の彼女を行かせまいとする意志は固まるのだ。
「今回のことが終わったら、私などがあなたと会うことなんて、ありませんよ。そういう相手に一生のお願いという言葉は効きません。……何と言おうと、どう頼まれようと、駄目です」
彩香の『一生のお願い』を一蹴して、ホールへ連れ戻そうと、荒木は彼女の腕を掴む。
彩香は咄嗟に振りほどこうとしたが、つぼを押さえたその手は、流石にびくともしない。
「お兄さんの警備は、私の同僚に任せておきなさい」
その同僚が当てにできないのだとは言えず、彩香は俯いた。
いっそ、全てを話してしまおうか。
その沈黙をどう取ったのか、荒木は彩香を安心させるつもりで、その実最も彼女が恐れていたことを口にする。
「大丈夫。雅嗣様がお兄さんの様子を見に行ったから。何かあれば、警備の者にすぐ連絡が行きます」
彩香の全身からスッと血の気が引いた。
時間が無い。
荒木は、少女の身体から力が抜けたのを感じ、彼女が納得してくれたのかと、一瞬安堵する。
その直後であった。
彼は、自分の身体が宙を舞い、そして床に叩き付けられたのを、知った。
何だ? 今のは。
身体に与えられた衝撃が脳に達するまでに、数秒を要したかのように感じられた。
続いて、みぞおちに一発。
その投げから突きまでの一連の動作は流れるように美しく、無駄が無かった。
遠退こうとする意識を必死に捕まえ、荒木は呼吸を整えようと大きく喘ぐ。
「ごめんなさい」
苦しそうに壁に寄り掛かった彼を申し訳なさそうに見つめ、彩香はそれだけを口にした。
くるりと身を翻し、今度こそ走り出す。
邪魔になるハイヒールは、さっさと放り出していた。足に絡まるドレスの裾も、引き裂いて。
ホールは一階、書斎は三階だった。一般家庭なら、30秒とかからずに行けるだろうに。
バカみたいに広いこの屋敷がこれほど憎らしかったことは無い。
走りながら彼女は、どうか間に合いますように、と、それだけを祈っていた。
階段を駆け上がり、廊下を走る。
書斎の二つ手前の部屋に駆け込んだ。真っ直ぐに、ベランダへ向かう。
手摺りに上り、1メートルほど離れた隣の部屋のベランダへと飛び移った。そこを走りぬけ、もう一度繰り返す。
そこが、書斎だった。
荒くなった呼吸を懸命に堪える。
開け放たれた窓から、兄と、そして雅嗣の声とが、聞こえていた。
「お前を殺したくは無かったが」
これは、叔父の声。
その瞬間。
彩香は、何の躊躇いも無く、部屋の中へと、叔父の構える銃口の前へと、飛び出していた。
*
そこに倒れるのがその少女だとは、ほんの5秒前までは、誰も想像していなかった。
銃を構えている雅嗣も、その銃口に狙われていた啓一郎も、啓一郎の腕に押さえつけられている武也も、誰一人として、夢にも思っていなかった。
だが、呆然としている彼らの前で、純白の少女のドレスが見る見るうちに真紅に染まっていくのが、唯一の現実だった。
「嘘、だろう?」
武也が力なく跪き、手を伸ばす。
それがきっかけとなり、啓一郎が妹に駆け寄った。抱き起こそうとした武也を制し、シャツを引き裂いて傷口にあてがう。
銃弾は、彩香の肩を貫通していた。
「彩香……彩香!」
震える声で、兄が呼ぶ。
応えは無い。
「……あやか」
武也が、出会って以来初めて、少女の名を呼んだ。
血の気を失った彼女の顔は、不思議なほど、穏やかだった。
その胸は、確かに上下しているのだろうか。
十年間忘れていた恐怖という感情が、今、武也を支配しようとしていた。
どうしようもなく、思考が形を取らない。
「……彩香」
我知らず、声が震える。
頼む……もう一度、俺を見てくれ。その口で本当の名前を呼ばれたことすらないというのに。
祈るように、心の中で、そう呟く。
頬にまで跳んだ血を、そっと指で拭った。
彩香の瞼が、わずかに震える。
「彩香……?」
啓一郎が電話へと走った。救急車の手配を急ぐ。
「今……私の名前を、呼んだ? ……初めてだわ」
その身を苛む苦痛は相当のものであるだろうに、彼女は微笑んで、そう言った。
「こんな時に、何を……」
緊迫していただけに、男二人は脱力を禁じ得なかった。苦笑の他に、彼らの心の内を正確に物語る表情は無い。
彩香が意識を取り戻した時、苦しい息のまま、やっとその場に荒木が追い付いた。廊下で銃声を聞いた彼はノックもせずにドアを蹴破り、室内の惨状を認めて、恐れていたことが現実となってしまったことを知る。愕然としてよろめき、背中が壁に突き当たった、が、続いて耳に届いた少女の声で、まだ、最悪の結果となったわけではないことに心底安堵する。
駆け寄り、荒木は止血を試みるが、場所が悪すぎた。
彩香の鼓動は刻一刻と弱くなり、呼吸は反比例して荒くなっていく。
「しっかりしてください」
何の気休めにもならない言葉だと知っているが、荒木は言わずにいられなかった。
肩から脳に向けて絶え間なく送られている激痛は、大の大人でも泣き喚くほどのものである筈だが、彩香は微笑みで荒木に応える。
一度、苦痛を堪えるように大きく息を吐いてから、彼女は視線をさ迷わせた。
ただ一人を探して。
「叔父様……? いらっしゃるのでしょう?」
彼女以外の誰もが、その存在を忘れていた。
その手にまだ微かに硝煙を上げている凶器があることも。
啓一郎と武也がハッと振り返るが、その人は穏やかに両手を下げたまま立っていた。
そして荒木は、ここに至ってようやく事の真相を理解した。彩香の敵は、雅嗣だったのだ。このことこそが、彼女を不安にしていた根源。
男三人が息を呑む中、彩香は途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
彩香は雅嗣を、雅嗣は彩香を、見ていた。
「叔父様、ご覧になって……? 私は、二人を護ったわ」
「いや、まだ判らんさ。君が死ねば、二人を護ったことにはならんだろう」
「だったら、大丈夫です……私は、死なない……絶対に」
苦しい息の下、彩香の声は自信に満ちていた。彼女の中では根拠のある、自信に溢れて。
「どちらにしても、私にはもう関係の無いことだ」
震えてはいるが強さを失わない彩香の声に微笑んで、雅嗣は静かにそう言い、そして、銃を持ち上げた。
自らのこめかみへと。
「叔父上!?」
「!?」
「叔父様……っ! 何故!」
一同に驚愕が走った。
雅嗣の表情は冷静で、そこに銃を奪えるだけの隙は無かった。
「何故、ね。元々、この銃には二発しか弾は入っていないのだよ。私は、賭けをしたのだ。啓一郎なり阪倉なりを一発で仕留めることができれば私の勝ち。そうでなければ君の勝ち、というふうにね。そして、君が勝った」
彩香の掠れた悲鳴が、それを否定する。
「私は、そんな賭け、していません……!」
「これは、私の中での賭けだ」
「そんな……!」
彩香は身体を起こそうとするが、あまりの激痛に、思わずくず折れる。
「止めてください! 叔父様……!」
だが、雅嗣は、その指で撃鉄を引き起こす。笑みすら浮かべて。
「私は、常に心のどこかでこうすることを望んでいた。確かに、私は、狂っていたのかもしれないよ。裕嗣をこの手で切り離したその時に、同時に正気を失ったのかもしれない。だが、その他に関しては、やはり、私は自分の考えを変えることはできない。そして、後悔もしていない」
雅嗣は、その目を武也に移して再び口を開く。
「今回、あの三人を殺すように指示したのが私だということは、もう言ったな。……もう一つある。十年前に君の家に火を点けるように言ったのも、やはり、私なのだ。言い出したのはな」
武也が目を見開いた。
口の中で、そんな……と、小さく呟く。
「せいぜい私を恨むのだな。……彩香。私はお前の母親を憎んでいた。それは確かだ。……だが、同時に、羨んでいたのかもしれん。あるいは、な」
私に無いものを持っていたからこそ、憎く、私には感じられないことを感じることができた彼女だからこそ、羨ましかった。
そっと、心の中でだけ、呟く。
同じ存在を前にして、一方は愛情を覚え、もう一方は、憎悪を抱いた。二つの感情は、遠いようでいて、近い。
彩香を視界におさめ、一瞬だけ、雅嗣が口元をほころばせる。
「……叔父様……!」
銃声が轟く。
荒木が跳び出したのは、一瞬遅かった。
雅嗣の身体は少し横に飛ばされ、そして、その場に崩れた。人形遣いに見放された、マリオネットのように。
荒木がその傍に跪き、首を振った。
即死であることは、見ただけで判った。
「最期まで、一人でいることを、望むのですね……」
小さく呟き、彩香は、傷の痛みに呻いた。もう、辛うじて繋いでいた意識はそう持たない。
再び気を失う前に、どうしても言っておかなければならないことがあった。
兄の手に触れ、数回呼吸を整えてから、その目を見つめた。
「お願い、兄様……」
「彩香、喋るな」
苦しげな息の下からの妹の言葉を、啓一郎は止めようとしたが、彼女はそれに構わず続ける。
「お願い、彼を……武也を、助けて」
それだけが、精一杯だった。
意識が朦朧としてきた彼女に、啓一郎は目を見張った武也をちらりと見てから、しっかりと頷いた。彩香の言葉が無くとも、最初からそうするつもりだったのだ。
兄の確かな約束にホッと笑って、彩香が意識を手放す。啓一郎が約束を違えたことは、ついぞ無かったのだ。彼が頷いたのなら、それは必ず実行される。
昏睡状態に陥った彩香の脈を取る啓一郎の顔に緊張が走る。かなり危険な状態だった。
救急車のサイレンが屋敷の前に止まる。
一刻も早くこの部屋に救急隊員を導く為に、荒木が飛び出していった。
間に合うのだろうか。
男たちの胸中をそんな不安が吹き荒れ、すぐにそれを打ち消した。
「もうすぐだ、もうすぐ……」
誰ともなしに、祈るように囁く。
廊下が騒がしくなり、荒木の先導で、担架を担いだ救急隊が駆け込んでくる。
彼らは雅嗣の死体をまず最初に視界に入れぎょっとするが、すぐに、もう一人、それこそ彼らを必要としている存在がいることに気が付いた。
そちらに駆け寄り、傷の状態を一瞥し、手際よく少女を乗せ、運び去っていく。
啓一郎は付き添いとして出て行き際に、荒木に「後を頼む」とだけ言い残した。彼はそれに力強く頷き返す。
彩香が護りたいというもう一人の人物が誰なのか、先ほどの彼女の言葉で知らされた。そして、彩香を守りきれなかった以上、彼女が望むことを叶えることこそが、荒木の急務だった。
彩香の望むこと、それは……。
床に膝を突いたまま、彩香を見送った武也の腕を取って立ち上がらせる。
「彼女の言葉を聞いただろう? 行くんだ。私の同僚──他の護衛たちには、この場には来ないように言っておいたが、救急隊員に雅嗣氏の遺体を見られた以上、警察がすぐに乗り込んでくる。そうなったら、彼女の努力は水の泡だ」
しかし、雅嗣の死に際の言葉が与えた更なる衝撃に、武也の心は完全に麻痺していた。彩香が連れて行かれた今、武也は何の行動も起こそうとはしない。
放心したような目で、床に残された彩香の血を、ただ、見つめている。
まるで、未だに彼女がそこに横たわっているかのように。
荒木は、そんな武也の胸倉を掴み、正気づかせる程度に強く、引っ叩く。
「おい、いい加減にしろよ。彼女はお前に逃げろと言ったんだぞ!? あの状態で! 弾傷がどんなもんか、お前は知らねぇだろうが、その痛みをおして、彼女が言い残したんだ」
もう一度、今度は逆の頬を張る。
「彼女が身体を張って、お前を助けたんだろう? だったら、せめて一目会ってから、ムショに行くなり何なりしろ!」
叩いたのが効いたのか、あるいは言葉が効いたのか、それでも何とか、武也の目が焦点を結び始める。
手を離し、ベランダの方へと押し出すと、そのままそちらへ向かって歩き出した。
手摺りのところまで行くと、もう一度室内を振り返り、そして、姿を消した。
荒木は部屋を見回し、不審なものが無いか、確認する。
ベランダの近くに、銃が一つ落ちていた。弾は入っていなかったが、取り敢えず警察の目に付かないことに越したことは無い。一応指紋を奇麗に拭いてから、ベルトに挟んだ。
そして、雅嗣の死体に、目を移す。
あまりに雲の上の存在過ぎて、会社の上役といっても、全く面識は無い相手だった。
だが、死に際のあの台詞だけでも、この男がそれほど幸せな一生を送ってきたとは思えなかった。あるいは、自分だけには見える青い鳥を、その肩にとまらせていたのかもしれないが。
ジャケットを脱ぎ、それに掛ける。
「あなたがどんなことをしたかはよく知らないが、自分の頭に鉛玉をぶち込まなきゃならないような人生だったんですか?」
答えがある筈は無かったが、そう囁かずにはいられなかった。
荒木は黙って彼を見つめ、目を閉じ、部屋を出る。
扉を閉め、そこで直に警察がやってくるのを、待った。




