プロローグ
このお話は『大事なあなた』とちょこっとだけリンクしています。気付くかな……?
男は、ただ黙って、二十階建てのビルの屋上から地上を見下ろしていた。
アスファルトで固められた地面が、ビルの照明で遥か彼方にぼんやりと浮かび上がる。
このまま、ここから身を躍らせてしまえば、どうなるのだろう。
彼は、時折、そんな衝動に駆られた。
残るのは、元の姿も想像できないような肉片。
その瞬間、彼という人間は消え失せる。
死を望んでいるわけではないが、生に執着もできない。
それでは、いったい、何を欲しているというのか。
それは、彼自身にも判らなかった。
転落防止のフェンスの内側に止まったまま、時が流れる。
不意に、厚い雲の隙間から、わずかに十六夜が覗いた。
本来ならかなりの明るさがある筈のその月も、スモッグに覆われた空ではぼんやりとしか輝かない。
無意識のうちに、彼は十年前の夜空と比べていた。
冷たい水の中から見上げた、煙の向こうに見え隠れする、銀盤。
あの時の月も、こんなだったろうか。
あやふやな記憶を辿ろうとする彼を嘲笑うように風が雲を流し、再び月が隠される。
暫らく待ってみたが、雲は厚くなる一方だった。
男は一つ息を吐き、夜光塗料の施された時計に目を走らせる。
予め渡されていた情報によれば、標的は間も無くここを通過する筈だった。
男は、足元に置いたスーツケースを開き、中の物を組み立て始める。
五年間、繰り返してきた作業だ。さして意識しなくとも、手は勝手に動いてくれた。
膝を突き、出来上がった獲物を構えてじっと待つ。
彼の頭の中には、もう、解放への欲求は無かった。