希望
いまはまだ絶望から遠いけど、いつか多分これから先の恐怖に飲まれる時がくる。だから未来の俺達に希望を届けよう。そうだな、十年くらいかな。十年経ったら、これを開けようぜ。
彼らは校庭のどこかにタイムカプセルを埋めた。
そして十年、現在の彼女の前にはおおよそ希望という物がなかった。昨年に大学を卒業したが就職活動に失敗していまだにコンビ二のアルバイトの身分はなかなか辛い物がある。夜にも別のバイトを掛け持ちしなければこの六畳一間の安アパートの家賃すら払えないのが現状だ。
目を覚ました彼女はこめかみを押さえた。天井が回っている。頭痛がする。四日ほど前から満足に寝付けずにいた彼女は半ば気絶するように意識を落とした。自宅のベッドの上でなければ救急車に運ばれていただろう。携帯電話で日付を確認する。続いて時刻。どちらも大丈夫だ。約束にはまだ間に合う。参加するか最後の確認のメールが届いていたので彼女は短く指先を動かして返信した。ベッドから上半身を起こそうとする。体はまだ睡眠を求めているのか、ひどくだるい。
なんとか這い出してシャワーを浴びる。熱い湯がだるさを吹き飛ばしてくれるのではないかと期待していたがそんなことはなかった。無理せずに眠るべきなのだ。突然視界が左右に揺れて彼女は咄嗟に壁にもたれかかる。倒れることだけは阻止。代わりに喉元を競りあがってくるものは堪えなかった。吐瀉物を排水口に流す。喉が苦い。口の中を洗い流して荒い呼吸を整える。自分の左腕を見て気分を落ち着ける。もうすぐだ、がんばれ。そう励ましてくれる。彼女にとってその左腕だけがこの十年間の支えだった。
風呂場を出て、服を着ると彼女は何か持っていくべきものはないか考えた。バッグを取る。安物の財布、安物のちょっとした化粧品、安物の手帳。昨日コンビ二で買ったお茶が薄緑の中身を揺らしている。彼女のバッグには値の張る物は一つも入っていない。生活すらギリギリで自身のためにお金を使う余裕がないからだ。
念のために刃物くらいは持って行ったほうがいいかもしれない。と彼女は思い台所で包丁を手に取った。鞘になるようなものが何かないかと探し、大学時代のプリントを何枚か巻きつけた。裏が白紙なのでメモ用紙代わりに使っているのだ。バッグに入れて、彼女は鏡を広げる。
焦点の定まらない目をしている女が一人、こちらに視線をさまよわせている。痩せている、というよりはやつれているという表現のほうが絶対に似合う。目の周りの隈を隠そうと努力してみたが、彼女の安物の化粧品では消えなかった。まあ今日は特に誰かによく見られる必要はない。そろそろここを出なければならない。化粧品を片付けて彼女は安物の靴を履き、玄関を開く。シャワーの熱が残っている体に寒さが痛い。一歩ごとに頭の奥がガンガンなる。風邪を引いているわけではない。心からくるものだ。不安なんだ。彼らにまた会うこと。あのタイムカプセルを開くこと。わかっているけど足を止める訳にはいかない。彼女は見なければならない。ヘルメットを被り停めてある安物の中古バイクに跨って町へ出る。
途中で警察を見てドキリとしたがまだ何もしていないことに気づく。警察が見えなくなってから速度を上げた。いつもは風や景色をほどほどに楽しもうと思えるのだが、今はどうでもいい。彼女が十年前に通っていた中学校は三十分ほどで着いた。校庭の隅にバイクを停めて鍵を抜く。また眩暈と吐き気が襲ってくる。バイクの陰で吐く。お茶で口を濯いだ。ここの水道は使う気になれなかった。校舎の中には入りたくない。
校庭の逆側の隅には数人が集まっている。彼女が近づくと一人に名前を訊かれた。彼女が答えるとまるで覚えていないように仲間を一瞬振り返った。そうだろうなと彼女は予想していた。吐き気と頭痛はここに来てから止まない。
後ろの軽トラックに大きなスコップなんかが用意されていて彼女は包丁なんか持ってくる必要はなかったなと思う。彼女のあとに何人かが来て「おし、これで全員だな」と誰かが言った。
タイムカプセルを埋めた場所はなかなか思い出せなかった。思いで話に浸りながらあちこちを歩き回る。春休みの学校はあたりまえだが人がいない。そういえば灯油をぶっかけられたのも春休みだったなと思い出す。寒気がして服の上から自分の左腕を掴んだ。
「ここじゃないか?」
誰かが言い、誰かが同調する。そういえばこんな感じの木が立っていた気がしなくもない。スコップを取ってくる。
「ねえ」
誰かが話し掛けてきた。多分彼女にメールを回した人物だ。彼女は吐き気を堪えるのに必死で返事をすることができなかった。
タイムカプセルを掘り出す作業を彼女が何歩か後ろで眺めていた。ジャ、ジャ。スコップが土に食い込む度に汗が吹き出る。頭痛から胃に痛む場所が移り変わっていた。小一時間ほどして、カツン、とスコップの先が何か固いものを打った。周りの男女が何か話しているが彼女にはそれが人の言葉に聞こえなかった。地面が揺れて立っているのが難しい。平衡感覚がおかしくなっている。彼女は自分が埋めたものがなんだったのかよく覚えていた。掘り出したそれの蓋は水や土の圧力っで固まっている。隙間にスコップを突っ込み梃子の原理で引き剥がす。
彼女が十年前に入れたのは接触反応性の爆弾だった。蓋を開けば爆発するように、十年経っても爆弾の効果が薄れないように幼い手つきながら精一杯調べた記憶がある。この十年間で何度か仕掛けを外そうと思ったことがある。殺人なんてしたくなかったし、恐ろしかった。だがその度に灯油をかけられて焼かれた記憶が蘇って、彼女の左腕から背中にかけての火傷を疼かせた。いまはもうこれ以外に自分の心が自由になる方法はないと思う。
十年越しの私の希望は届くだろうか。
彼女は少し下がってタイムカプセルの蓋が外されるのを見守った。
スコップの先端が蓋を持ち上げた。