54 別れの朝 (2)
「あの、それって、本当の話…なんですか?」
私が恐る恐る尋ねると、マスターが冷やかしを含んだ瞳で昴さんを見て、抵抗を封じていた手を解いた。
「本当だよ。何せ昴を診察した医者がそう言ってたんだからね。『これはただの睡眠不足ですね』って」
私は唖然とするしかない。
だって、本当に死んじゃうかと思ったのに。そう思ったらすごく怖かったのに。ただ単に、睡眠不足で眠くなってただけ?
げらげらと笑うマスターから昴さんに視線を移すと、自由になった腕で頭を抱えていた。
「あーもー。ほらー、大介兄チャンのせいで雪奈が呆れてるやんか。せやから言わんといてって言うたのに」
「俺のせい? お前のせいだろう?」
よほど楽しいのか、マスターはちくちくと昴さんを弄り始める。
よかった、いつもの二人だ。
私はなんだかホッとして、涙が出そうになった。
やだな。嬉しいのに涙が出てくるなんて。
「大介も昴君も……こんなところまで来て何やってるの」
ちょっと用があるからと遅れてこの病室にきた浩美さんが、そんな二人の様子を見て呆れたように言う。でも二人はそれが聞こえてないみたいに、まだ何か言い合っていた。
「十分元気ね、昴君」
「ええ」
「もうちょっとしたらお医者様が診察に来るんですって。で、特に異常がなければ帰っていいみたいよ」
「ホンマ?」
「お前みたいなヤツが入院してたら病院の方が迷惑だろ。ベッドの無駄だ」
「怪我人相手にそこまで言わんでもええやん。さすがにへこむわ」
「そりゃいい。ちょっとくらい大人しくなっとけ」
漫才みたいな会話を聞いているうちに、自然と笑みがこぼれる。
うん、賑やかだ。
マスターと浩美さんはペンションのお仕事があるから、先に戻ることになった。
見送りがてら、ご迷惑をおかけしてすみませんと謝ると、逆にマスターに謝られてしまった。
「アルバイトとはいえ他人のお嬢さんを預かってる以上、俺にも責任がある。昨夜、雪奈ちゃんのご両親様にご報告しようと思って電話したんだけど繋がらなくてね。ペンションに戻ったら改めて連絡してみるよ」
「あっ、あの、本当にいいです。私の両親、今、ヨーロッパ旅行に行ってていないので……」
「そういうわけには行かないよ。帰国されてからお詫びすることにしよう」
私は申し訳なく思いながらも、優しく微笑んだマスターの誠意をありがたく頂戴することにした。代わりに、私はお仕事をがんばろう。
その後、病室に戻って昴さんと二人お医者様の診断を受けた。
ゲレンデに出る場合は自分の体力の残り具合と天気には十分に気をつけるようにって釘を刺されてしまったけれど、昴さんの捻挫以外は二人とも至って健康とのことで、あっという間に診断は終わった。
ただ、昴さんは明日も診察することになったみたい。
退院手続きを取り、病院ロビーのベンチに並んで座ってタクシーが来るのを待つ。
しばらく、昴さんが病院で借りた松葉杖の話とか、昨日昴さんが雪の中で眠ってしまってからの話とか、他にもどうでもいいような話をしていたのだけど、病院の玄関前に車が来たのに気が付いて私はそちらを見た。
タクシーじゃない、か。白いミニバンだ。
車椅子に乗っていた患者さんが家族と思しき人に助けられてその車に乗り込む。
いいな、家族って。
お母さんとお父さん、今頃何してるんだろう?
私はなんとなく、その一部始終を眺めていた。
車が去ると、車回しの中央に立つ大きなクリスマスツリーが見えた。
建物の三階くらいまで優に届きそうな、大きくて綺麗な三角形の木だ。昨日雪が降っていたにもかかわらず、枝には雪が少ない。誰かが払ったのかな。ところどころ残っている雪が日の光を受けてきらきらと輝いていて眩しい。
ツリーには色とりどりの珠が飾られ、青い電飾も施され、てっぺんには大きな銀色の星が柔らかな光を湛えていた。
きっと毎年この時期になると、患者さんやお見舞いに来る人たちを楽しませてるんだろうな。
「雪奈? どないしたん?」
急に黙ってしまった私に、昴さんが声をかけてくれる。
「え? あ、いえ……。大きなツリーだなって」
「あぁ、ほんまや。でかいなぁ」
私が外のクリスマスツリーを指すと、昴さんは今初めてそれに気が付いたみたいな声で言った。
クリスマスツリーかぁ。明後日は私の誕生日だし、クリスマスイブだもんね。
昔は毎年、お母さんとお父さんと一緒に家で飾ってたな。なんか好きだったんだよね、クリスマスツリーが。キラキラしてて、見てるだけでわくわくした。そうだ、そういえば――
「――私ね」
「ん?」
「小さい頃から、クリスマスツリーのてっぺんにある、あの大きなお星様が大好きなんです。家にツリーを飾るときは、絶対に私があのお星様を最後に乗せるって決まってるんですよ」
「そうなん?」
意外そうな顔をする昴さんに、私は頷いて見せた。
「ええ。前に地元のショッピングセンターに行ったとき、とっても大きなツリーが飾ってあってね。それがてっぺんのお星様があまりに綺麗で、すごく欲しくなっちゃって、お母さんとお父さんに『欲しい』って駄々こねて困らせたことがあるくらいなんです」
「雪奈、案外子供やねんな」
昴さんの容赦ないツッコミに、私は顔が一気に赤くなったのがわかった。
「ちっ…違います! そのツリーのお星様を欲しがったのは、まだすごく小さい頃の話で……!」
「あーハイハイ」
「もうっ、信用してませんね?」
「そんなことないで? 雪奈は今も昔もカワエエねんなぁって思うとっただけや」
昴さんは私の弁解を受け流して、まるであやすみたいに私の頭をぽんぽんと撫でた。
完全に子供扱いされてる。
不貞腐れていたら、頬を人差し指でぷにってされた。
「そんな顔してたら、ますます子供みたいやな」
怒ってるんですから、という気持ちを籠めて軽く睨むと、昴さんは優しさをこめて苦笑した。その表情にどきりとする。
「そんな怒らんといてぇな。カワエエ顔が台無しやで? ほら、タクシー来たみたいやし、機嫌直して帰ろ、な?」
そう言うと昴さんは何事もなかったかのように器用に松葉杖を使って立ち上がった。
私だけ、心臓が、どきどきしてる。
まったく……どこまでが本気で、どこまでが冗談なのか、よくわからないですよ、昴さん。