42 ~閑話~ 昴の事情 (3)
昴の元カノジョは、同じ大学の女性だった。同じ学科というわけではなくサークルの後輩だったのだが、春の終わりに告白されて付き合い始めた。
夏の間は上手くいっていた。二人でデートもしたし、グループで遊びに行ったりもした。しかし今から思えば、ボードのシーズンに入る頃にはもう既にぎくしゃくし始めていたように思う。
冬にしかできないスポーツを楽しみたかった昴と、雪山に魅力を感じない彼女。毎週末ボードに出かけていた昴が何度か一緒に行こうと誘っても、彼女がそれに応じることは一度もなかった。ボードはやったことがなくて足を引っ張るから、と彼女は言っていたが、自分が教えるからと言っても彼女は頑なに首を縦に振らなかった。
何度かそれを続けていた昴は彼女とボードに行くことを諦め、ボード仲間の友人たちと楽しい時間を過ごすことにした。
そして冬休みにペンションに長期滞在すると告げたときに、彼女に言われたのだ。
「私とスノーボード、どっちが大切なの?」
あまりに次元の違うものを並べられ、昴は驚きのあまり絶句した。
何も言わない昴に向かって彼女は続けた。連絡するのはいつも自分からだったから、昴の方から連絡をくれるのをずっと待っていたのだと。
そういえば。ボードのシーズンに入ってから、自分は何度彼女と会っただろうか。何度電話をしただろうか。何度メールを送っただろうか。
思い出せないくらい、彼女に対して何もしていなかったということなのだろうか。
自分自身に衝撃を受ける昴に彼女は泣きながら先ほどの言葉をいい、そして去って行ったのだった。
不思議なくらい失恋したという思いはなかった。その点では彼女の言うとおりだったのだろう。
しかし、恋愛することや『カノジョ』という存在を持つことへの躊躇いを昴に植えつけるには十分な出来事だった。
敷き終わった布団に雪奈を移し、昴は立ち上がった。
扉に手をかけ、名残惜しそうにもう一度雪奈を見つめると、昴は音をたてないようにそっと部屋から出た。
自分の布団に入っても、眠気はなかなか訪れてくれなかった。
自分の腕に残る雪奈の柔らかい感触、そしてつい先ほどまで雪奈が寝ていた温もりが残る布団、枕に残るシャンプーの香り、瞼の裏に残る雪奈の安らかな寝顔――そのいずれもが昴を悩ませた。
昴は何度も寝返りを打っていたが、やがて頭から布団を被った。
「ホンマにアホや、オレ……。雪奈に『惚れさせたる』とか言うておいて、オレが惚れ切ってるやん」
真っ暗な闇の中、昴は一人溜め息をついた。
ゲレンデにてできるだけ雪奈の後ろを滑っていたのは、まだボードに慣れていない雪奈に何かあったときにすぐに助けに行けるからだ。雪奈にジャンプしているところが見たいと請われてジャンプ台の列に並んでいるときも、昴は離れた位置からずっと雪奈のことを見守っていた。
ジャンプ台の下でちょこんと座る雪奈をじっと見つめる目に映ったのは、雪奈に話しかけようとしている見知らぬ二人組みの男の姿だった。男の一人が雪奈に手を伸ばそうとして、嫌がったらしい雪奈が身を引いているのが見えた。
なんや、アイツら!?
頭にカッと血が昇り慌てて列から抜けて雪奈の元へ滑り降りようとしたとき、もう一人男が加わった。急激に頭が冷える。
――あれは……晴人か?
既に馴染みとなっている晴人とは何度か一緒にボードをしたことがあるから、滑り方の癖やウェア、背格好ですぐにわかった。
晴人が側にいるなら、あの二人組みの男が雪奈に何かすることはないだろう。
だが。
雪奈が他の男と一緒にいるというだけで快く思わない自分に呆れてしまう。これが嫉妬というものだろうか。前のカノジョに対しては誰といようと一切そんなこと思いもしなかったのに。
晴人、やっぱり雪奈に惚れたんやろか……。雪奈はどないに思ってんやろ?
やっぱりすぐに雪奈のところへ行こう、そう思い列を外れようとしたとき、ジャンプ台の自分の番が回って来た。
それやったら……!
『惚れさせる』んは本気混じりの冗談にしても、晴人に牽制したるわ!
昴は勢いよくジャンプ台に向けて斜面を下り始めた――。
その後の態度から見て、晴人は昴の雪奈に対する恋心に気が付いただろう。晴人がその程度で諦めるようなタイプではないにしても、自己主張しておくことでライバルに対する牽制にはなる。
でも、たとえ周りを追い払っても、肝心の雪奈が自分をどう思うかは別の話なのだ。
自分に向けてくれる表情や仕草から、少なからず好意は持ってもらえてると思うのだけど。
それに以前と同じ失敗をまた繰り返してしまうとも限らない。
かといって、スノーボードは今や昴という人間の一部のようなもので、ボードを辞めるという選択肢はあり得なかった。
昴にとってスノーボードはとても大切な趣味で、恋愛とはまったく別の次元にある。
もし雪奈が自分を選んでくれたなら、そしてボードの季節になったら、そのとき雪奈にも前のカノジョと同じことを言われてしまうのではないか。もしそうなったら、立ち直れなくなりそうだった。
あぁ、あかん。悪い方向にしか考えが行かへん。ちゅうか、早よ寝な。また雪奈に起こされたらかなん。
昴はまた寝返りを打ち、身体を丸くした。
今朝目覚めて、雪奈の気遣いながらの笑顔がすぐ近くにあったとき、まだ夢を見ているのだと思った。そう思い込んでいた割りに、変なことを口走ったりメチャクチャな行動を取らなかった自分を拍手喝采で褒めてあげたいと自分でも思う。
布団を剥ぎ取られそうになったときはさすがに慌てたが。
雪奈は恐らく、男の朝の事情など知らないだろう。否、それに象徴される男のこんな後ろめたい感情など知って欲しくない。
雪奈に向ける自分の笑顔の下にこんな強い独占欲や嫉妬心を隠していることも、できれば知られたくない。名前の通り雪のように真っ白な心のまま、あの笑顔を自分に向けて欲しい。
「あかん、ホンマ、重症や……」
閑話『昴の事情』は今回で終了です。
次回より、再び雪奈視点へと戻ります。